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 けれども、せめて汚れた身体はどうにかしたい。シャワーだけでも浴びようかと、布団のへりを持ちあげて腹のあたりを覗いてみれば、汚れはどこにも見あたらなかった。どうやらまた寝ている間に、篠山に後始末をされていたようだ。
「よっし、じゃあ、寝るぞ」
 たばこをもみ消して灰皿をチェストに移動させると、篠山が布団に潜りこんできた。ばさりと起こった僅かな風で、彼から風呂上がりのソープのいい香りした。
「ひゃっ⁉」
 すり寄ってきた篠山が神野の身体を引き寄せた。
(うそっ)

 正面から抱きしめられてどきどきする。篠山は慣れたふうに、神野の頭と自分の腕のあいだに枕を挟むと、乱れた前髪を指で梳いてくれる。そのやさしい指にまた泣きそうになってしまった。
「ちょっとふっくらしてきたな」
 頬を抓まれ、引っ張られる。
「でも、もう少し太れよ。いまのままじゃ、抱くと骨があたって痛い」
「痛いです」
 まるで次があるような篠山のセリフに、期待させないでくれと苛ついた神野は、彼の指を抓むと自分の頬から離した。

 今夜みたいな夢のようなセックスが自分の人生の中で、これからさきそうそうあるとは思えない。だから本音としては、今夜だって一回きりじゃなくて、もうちょっとつづけていたかったのだ。それなのに途中で気を失ってしまうとは、まったく惜しいことをした。
 だいたいにして時期が悪かった。仕事で睡眠不足だと聞いている彼に、そうなんども求めるだなんてできるわけがない。

 たった一度きりで終わってしまったが、甘く蕩けそうなセックスだった。たとえ近藤の身代わりだったとしても、たくさんキスしてもらい触れてもらえたのなら本望だ。それが恋愛には届かない、友愛であってもそれ以下であっても自分にはもう充分だ。そう思わないと。

「どうして、私が篠山さんのために太らないといけないんですか。そんなのは自分で好みのかたを見つけて、どうにかしてください」
 もちろん、彼にとってのその好みってのは、近藤なのだろう。近藤は身長が百八十センチちょっとある篠山と並んでいても見劣りしないほど、背は高かった。それに自分と違って体格もがっしりしている。

 探してくださいと云っておきながら、すぐ近くに彼とよく似た体型をしている春臣の存在があることに気づいて、神野はしまったと唇を咬んだ。春臣は嫌だ。やめて。
(……春臣くんを抱くのなら、俺で妥協してほしい)
「そんなツレないこと、云うなよ」
 今度は鼻の頭を擦られる。なんなんだ、彼がさっきから仕掛けてくる、この幼稚なスキンシップは。

 神野はまた彼の指を掴むと「やめてください」と、その手を布団の中に潜りこませた。話の筋だっていまいちピンとこない。篠山はいったいなにを云いたいのだ?
「なぁ、尻、自分で洗ったのな?」
「あ、あなたがっ、いつなんどきって……」

 彼がよく自分を揶揄って云っていたセリフを真似しようとしたが、ここに来るまえのアパートの浴室でのことを思いだすと、それ以上は言葉にできなくなる。神野は顎を引いて火照る顔を彼から隠すと、いつのまにやら尻を撫で摩っていた彼の落ち着きのない手を、ひっぺがした。

「もう、触らないでくださいっ、さっきからいったいなんなんですかっ」
「嘘だろ? お尻触られるの好きだろ? 癖になってんじゃない?」
「ひゃぁっ」
 耳もとで囁かれて首を竦めた神野は、つづけざまに与えられた恋しかったそこへの口づけに、感極まってぽろっと涙を零す。
「おれたち、つきあうか?」
 彼に見られないうちにと、慌ててシーツにそれを吸いませていた神野は、耳を疑うその言葉で、そのまま身体を固くした。


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