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第一章

婚約者の義務

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「は?」


 ヴィクトリアは言われたことが分からず、珍しくそう訊き返した。


「もう一度言って、リアム。殿下はなんと?」

「今日のお茶会には、忙しいため行けない、とのことです……」


 リアムの顔は険しい。しかしその理由が怒りによるものだということは見れば分かった。

 学園の休日、定期的に行っているギルバートとのお茶会に行く用意をしていたところ、王宮から使者がやってきたのだ。悪い予感はしたが、まさか本当にお茶会をすっぽかされるとは。

 ヴィクトリアの方からは婚約解消を画策しているが、ギルバートは婚約を続けるつもりだったはずだ。それなのに、婚約者との約束を破るとは。


「……わたくしへの義務を、果たすつもりもない、と?」


 それも、当日の朝に知らせてくるなど、ヴィクトリアのことを侮辱しているとしか思えない。


「どうなさいますか」


 リアムの瞳にぐらぐらと怒りが煮立っている。「やれ」と言えば、ギルバートを暗殺しに行きそうだ。

 ヴィクトリアはため息をついて、リアムに両手を伸ばした。差し出された頭を撫で回して、自分の気持ちを落ち着かせる。


「そう、ね。使者に手紙を持たせましょう。殿下の真意を問うわ。今、わたくしの方に非を作る訳にはいかない。あちらが婚約者としての義務を放棄するのなら、その証拠を残しておかなければ」

「かしこまりました」


 手を離すと、リアムはすぐに便箋を用意してくれた。作法に則った丁寧な文面で、今日の予定を変更した理由を問う。

 王宮に届けられる手紙は、すべて検閲がかけられる。例えギルバートが読まずとも、万が一手紙を処分された場合でも、必ず誰かが目を通すのだ。今日のお茶会がなくなったことが、ヴィクトリアの本意でなかったという証拠になる。

 ギルバートの方に問題があるとして、婚約解消する時の手助けになるかもしれない。

 無論、これだけではまだ弱い。もっと決定的な一手が欲しい。


「予定の時間までは待ちましょう。その後は……、どうしましょうか」


 返事が返ってくるとは思っていない。だが、体裁を重んじる貴族の中では、そういうポーズも必要なのだ。


「でしたら、お嬢様。お出かけしてはいかがでしょうか。領地にある植物園を、王都にも作りたいとおっしゃっていましたよね」


 いつもの陰鬱な表情を取り戻したリアムが、そう提案してくる。ヴィクトリアは少し考えて、頷いた。


「悪くないわね。植物園の場所も探したかったし、そうしましょう」


 結局ギルバートからの返事は来ず、昼を過ぎてからヴィクトリアたちは屋敷を出た。





 アイラ公爵領の領都には、ヴィクトリアが作らせた植物園がある。学園に入学する前はよく通っていたが、学園に入学してからは長期休みの時にしか領地に帰れず、あまり行けていない。

 これからも社交シーズンは王都に来るのだから、どうせなら王都にも植物園を作ってしまおうと、思い立ったのが最終学年に上がった直後。卒業するまでには着手したいと思っていたが、ギルバートやポーラのことがあって後回しになっていた。

 久しぶりにワクワクした気持ちで馬車に乗り込む。窓から見える王都の様子は随分と賑わっていて、このタディリス王国がいかに栄えているかよく分かる。

 だが、繁栄の光に隠れた影があるのも、また事実。

 御者に王都の外れも回るように指示して、ヴィクトリアはじっと窓の外を眺めた。


「お嬢様、スラムを見るならば、もっと護衛が多い方が……」


 リアムがおずおずとそう言うが、ヴィクトリアはふふ、と笑う。


「リアム、あなた、わたくしを守り切る自信がないというの?」

「そうではありませんが……」

「そのような軟弱な従者をもった覚えはないわよ? けれど、そこまで言うなら護衛を変えても……」

「それだけは嫌ですっ!」


 リアムの顔がさあっと青褪めた。揺れる馬車の中でも構わず、ヴィクトリアの足元に縋りつく。


「何があっても、私がお嬢様をお守りしますっ。この命に代えても!」

「それは困るわね」

「ですが、私の命などよりも、お嬢様の方が大切なのです。だから……、だから」


 血が滲むほど唇を噛み締めているのを見て、ヴィクトリアは苦笑した。


「護衛を変えたりしないわ。リアムはわたくしの、かわいい従者ですもの。けれど、あなたを愛でられなくなるのはわたくしも嫌よ。だから、唇を噛むのをやめなさい。その傷はわたくしが望んだものではないわ」

「……はい」

「スラムも、少し離れた所から見るだけにするわ。馬車からも出ない。これで良いかしら?」

「はい。申し訳ありません、お嬢様」


 こうして取り乱すリアムを見るのはとても楽しい。彼を初めて拾った時から、彼の表情が歪むところが好きだった。


「いいのよ。わたくしはあなたに傷をつけたいわけではないのだもの」


 よしよしと頭を撫でてあげて、リアムを元の通りに座らせる。

 約束通り、御者にはスラムの中まで入らないように言いつける。貴族街を抜け、市場の横を通り過ぎ、平民たちが住む小さな家が立ち並ぶ区画に入る。

 貴族の馬車がこの辺りを通ることはまずない。家々の中からこちらを伺う視線を感じながらも、ヴィクトリアは外を眺めるのをやめなかった。

 そして、馬車の向かう先にスラム街が見えてくる。


「……醜いわね」


 今にも崩れそうなボロ家。舗装もされていない狭い道。そこここに座り込む、貧相な身なりの人々。

 ヴィクトリアは眉をひそめて、その様を眺めた。


「お嬢様、これ以上は」

「分かっているわ」


 スラム街は治安が悪い。貴族だと分かる姿で近づくと、最悪物取りに狙われる可能性もあるだろう。

 リアムに急かされ、ヴィクトリアは馬車を引き返させた。


「相変わらず醜いこと。見ていられないわ」

「植物園を作るならば、あそこでしょうか」

「そうしたいけれど、屋敷から遠いのが欠点ね。お父様にも相談しなければ」


 元来た道を戻っていく馬車。ヴィクトリアは行きと同じように外を眺めていたが、不意に身を乗り出した。


「リアム。ペンとロール」

「はい。……どうされましたか?」


 すぐさま差し出されたペンをとり、血を吸わせながら、ヴィクトリアは顎で外を示した。


「見てみなさい」


 馬車は市場の中でも、屋台の集まる通りを横切ろうとしていた。市場に出入りする荷馬車で前がつかえており、少し前から同じ場所で止まっている。

 リアムは言われたとおりに外を見て、「なるほど」と顔をしかめた。


「第三王子とあの令嬢ですか。お忍びのつもりでしょうが、第三王子は目立っていますね」

「周囲に護衛もいるわね。まったく、わたくしを放置して愛人と逢瀬とは。学園の中だけに済ませておけばいいものを」


 ロールに刻むのは、術者が見た物をそのまま記録する魔法術式だ。日付と署名を加えておけば、公的にも使える証拠になる。

 二人が一緒にいるところを見るたびにこうして記録している。念のために、とやっていることだが、今回の件は手紙と合わせてそれなりに強い証拠になりそうだ。

 ギルバートに愛はない。それなりに育てていた情も、今となってはどこにもない。

 ただ、婚約者としての義務を放棄され、侮辱された怒りがあるだけだ。


「……あれほど醜いものもないわね」


 さっきのスラム街よりも、よほど。

 屋台の、あれは串焼きか何かだろうか。二人で分け合って食べ、微笑み合う姿。ヴィクトリアは映像記録のスクロールを撫でて、口元を歪めた。
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