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二
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「という話が伝わっているんですけどね、さ、どうぞ」女将が言った。
直径二十センチ程の有田焼の皿に薄く引かれたフグ刺しが乗っている。鄙びた漁師町の小料理屋で、天然物だというトラフグを注文した。
タレは橙とこの地方の醤油を合わせたものだという。そのタレに細葱と紅葉おろしをいれ刺身を一枚すくってひたす。口に入れ、ゆっくりと噛んだ。
なんだ、これは!
フグを初めて食べたのは、取引先の接待でだった。灰色の身が口の中でぐちゃりと崩れ、甘口のポン酢と紅葉おろしの味ばかりして、こんな物をありがたがるなんて気が知れないと思ったものだった。案の定、取引先の部長が苦笑いをしながら、「東京で出るフグはこんなものか」とつぶやいた。先輩が「あの、フグがお好きときいたのですが」というと「ああ、好きだよ。だから、養殖か天然物かは見ただけでわかるんだよ」といって席を立った。
今食べているフグは、あの時のフグとは大違いだ。まるで別の魚だ。
天然のフグとはこんなにもうまい物なのか!
「お客さん、どうかしましたか?」
「あ、いや、あんまり美味しいから。こんなに美味しい物、食べたことない」
女将が目を細める。薄紅色の唇がふっと横に広がった。
日本海沿いを南下していて吹雪にあった。白い闇の中にぼうっと光るふぐ提灯に誘われてこの小料理屋に入った。車だから酒が飲めないというと、民宿もやっているからぜひ泊まって行って下さい、この吹雪で客が来なくて困ってるんですと、鄙びた田舎には珍しい美人女将に請われ今夜の宿を借りる事にした。
「さ、ひれ酒ですよ。どうぞ」
熱燗に軽く焼いたフグのヒレが入っている。ふぅっと息をかけ冷まして飲んだ。酒の香り、焦げたヒレの香りが鼻腔をくすぐる。
再び刺身を一枚すくいあげ、タレにつけ食べる。ヒレ酒との相性もぴったりだ。
「羽蛇様というのが、実は性悪な受領で税を搾り取っていたから村人に殺されたという話が、いつのまにか変化したのではないかというのですよ」
「まあ、そうだろうな。怪物なんているわけがないからな」
「このお話には後日談がありましてね、羽蛇様の腹の中から出て来た卵から美しい娘が生まれたのだそうですよ。そして、羽蛇様を殺した男の妻になったのだそうです」
「つまり男は受領の娘と結婚してこの地方を治めたのだな」
「お察しの通り」
僕はフグの皮に箸を伸ばした。一目でゼラチン質とわかる細く切られた皮。食べてみた。
コリコリとした歯ごたえがたまらない。
これも美味しいですよと言って一人前の鍋が出て来た。フグのアラを使った鍋だ。
「お客さんは運がいいですよ。今日は白子が手に入りましてね。どうぞ、召し上がって下さい」
「ほう、それはうまそうだ」
僕は白子をれんげですくってタレの入ったとんすいにそっといれた。タレをからませ、ふーふーと息を吹きかけて冷ます。ねっとりとした感触、フグのダシ、白子独特の甘味が口に広がる。
僕は目を閉じた。視覚が遮断され味覚嗅覚が研ぎすまされる。
うまい。なんてうまいんだ。
「ああ、うまい」思わず声が出た。
「まあ、お客さんったら!」
女将が破顔する。笑った顔もきれいだ。
「ところで、さっきの話だけれど、羽蛇様を倒した男には妻がいなかったか?」
「ええ、いましたよ。子供もね」
「それなのに、卵から生まれた娘と結婚したのか? 妻と子供はどうなった?」
「怪物が死んだ翌年の夏、大嵐があって村は全滅したのだそうですよ。男と卵から生まれた娘は助かったそうです。男の妻と子供もその時死んだのでしょう」
「ああ、なるほど。しかし、一体何故二人だけ助かったんだろうね?」
「なんでも、鉄砲水が村を襲った時、娘の背中から突然羽が生えて男を抱き上げ空高く舞い上がったらしいですよ」
「いやいや、その娘は怪物ではなく人だろう? だったら羽が生える筈がない。きっと二人共小高い場所にいたのだろう。第一、自分の親を殺した男を助ける筈がない」
「村人が娘を殺そうとしたのではないでしょうかね。性悪な受領の娘ですから随分恨まれていたでしょうし。でも男は村人達を説得して娘を殺させなかったのではないでしょうか?」
「つまり娘は助けられた恩義を感じて男を助けたというわけか。男は娘を好きになっていたのかもしれないな。だから娘を殺させたくなかった。男と娘が夫婦になったのも自然な流れだな」
「ですからね」と女将が続けた。
「私らこの集落の者は皆、男と娘の子孫なんですよ」
「へえ、そうなんだ。じゃあ、背中に羽が生えてるとか?」
「まっ、お客さんったら! ほほほ」
最後に女将は雑炊を作ってくれた。残った出汁にご飯をいれ最後に卵を溶きかける。蓋をして卵がいい塩梅に蒸れた所で茶碗に装った。細葱をちらし、わずかにタレをかけて食べる。フグの旨味、飯の旨味、半熟の卵の旨味、薬味とタレの旨味が一体となって胃の腑へと落ちて行く。冷えていたつま先が熱くなる。
腹がくちくなり眠たくなった。女将に案内されて部屋に行き布団の上に転がった後は覚えていない。気が付いたら朝だった。女将が着替えさせてくれたのだろう、浴衣を着ていた。飲み過ぎたのかかすかに頭痛がする。脇腹に痛みを感じて鏡で見てみた。赤くなっている。どこかにぶつけたのだろうか? きっと変な寝方をしたせいだろう。
僕は女将に着替えさせてくれた礼をいい、別れをつげて宿を出た。吹雪は収まっていた。
数ヶ月後、毎年恒例の健康診断で医者が言った。
「最近、肝臓の手術をしましたか?」
「は? 手術? いいえ」
「え? いや、しかし」
医者が肝臓の三次元画像を見ながら訝しむ。
「僕の肝臓がどうかしたんですか?」
「三分の一ほどなくなってるんですよ。ほらここ」
モニター画面にはいびつな形の肝臓が映し出されていた。
蛇の頭そっくりの空洞。
直径二十センチ程の有田焼の皿に薄く引かれたフグ刺しが乗っている。鄙びた漁師町の小料理屋で、天然物だというトラフグを注文した。
タレは橙とこの地方の醤油を合わせたものだという。そのタレに細葱と紅葉おろしをいれ刺身を一枚すくってひたす。口に入れ、ゆっくりと噛んだ。
なんだ、これは!
フグを初めて食べたのは、取引先の接待でだった。灰色の身が口の中でぐちゃりと崩れ、甘口のポン酢と紅葉おろしの味ばかりして、こんな物をありがたがるなんて気が知れないと思ったものだった。案の定、取引先の部長が苦笑いをしながら、「東京で出るフグはこんなものか」とつぶやいた。先輩が「あの、フグがお好きときいたのですが」というと「ああ、好きだよ。だから、養殖か天然物かは見ただけでわかるんだよ」といって席を立った。
今食べているフグは、あの時のフグとは大違いだ。まるで別の魚だ。
天然のフグとはこんなにもうまい物なのか!
「お客さん、どうかしましたか?」
「あ、いや、あんまり美味しいから。こんなに美味しい物、食べたことない」
女将が目を細める。薄紅色の唇がふっと横に広がった。
日本海沿いを南下していて吹雪にあった。白い闇の中にぼうっと光るふぐ提灯に誘われてこの小料理屋に入った。車だから酒が飲めないというと、民宿もやっているからぜひ泊まって行って下さい、この吹雪で客が来なくて困ってるんですと、鄙びた田舎には珍しい美人女将に請われ今夜の宿を借りる事にした。
「さ、ひれ酒ですよ。どうぞ」
熱燗に軽く焼いたフグのヒレが入っている。ふぅっと息をかけ冷まして飲んだ。酒の香り、焦げたヒレの香りが鼻腔をくすぐる。
再び刺身を一枚すくいあげ、タレにつけ食べる。ヒレ酒との相性もぴったりだ。
「羽蛇様というのが、実は性悪な受領で税を搾り取っていたから村人に殺されたという話が、いつのまにか変化したのではないかというのですよ」
「まあ、そうだろうな。怪物なんているわけがないからな」
「このお話には後日談がありましてね、羽蛇様の腹の中から出て来た卵から美しい娘が生まれたのだそうですよ。そして、羽蛇様を殺した男の妻になったのだそうです」
「つまり男は受領の娘と結婚してこの地方を治めたのだな」
「お察しの通り」
僕はフグの皮に箸を伸ばした。一目でゼラチン質とわかる細く切られた皮。食べてみた。
コリコリとした歯ごたえがたまらない。
これも美味しいですよと言って一人前の鍋が出て来た。フグのアラを使った鍋だ。
「お客さんは運がいいですよ。今日は白子が手に入りましてね。どうぞ、召し上がって下さい」
「ほう、それはうまそうだ」
僕は白子をれんげですくってタレの入ったとんすいにそっといれた。タレをからませ、ふーふーと息を吹きかけて冷ます。ねっとりとした感触、フグのダシ、白子独特の甘味が口に広がる。
僕は目を閉じた。視覚が遮断され味覚嗅覚が研ぎすまされる。
うまい。なんてうまいんだ。
「ああ、うまい」思わず声が出た。
「まあ、お客さんったら!」
女将が破顔する。笑った顔もきれいだ。
「ところで、さっきの話だけれど、羽蛇様を倒した男には妻がいなかったか?」
「ええ、いましたよ。子供もね」
「それなのに、卵から生まれた娘と結婚したのか? 妻と子供はどうなった?」
「怪物が死んだ翌年の夏、大嵐があって村は全滅したのだそうですよ。男と卵から生まれた娘は助かったそうです。男の妻と子供もその時死んだのでしょう」
「ああ、なるほど。しかし、一体何故二人だけ助かったんだろうね?」
「なんでも、鉄砲水が村を襲った時、娘の背中から突然羽が生えて男を抱き上げ空高く舞い上がったらしいですよ」
「いやいや、その娘は怪物ではなく人だろう? だったら羽が生える筈がない。きっと二人共小高い場所にいたのだろう。第一、自分の親を殺した男を助ける筈がない」
「村人が娘を殺そうとしたのではないでしょうかね。性悪な受領の娘ですから随分恨まれていたでしょうし。でも男は村人達を説得して娘を殺させなかったのではないでしょうか?」
「つまり娘は助けられた恩義を感じて男を助けたというわけか。男は娘を好きになっていたのかもしれないな。だから娘を殺させたくなかった。男と娘が夫婦になったのも自然な流れだな」
「ですからね」と女将が続けた。
「私らこの集落の者は皆、男と娘の子孫なんですよ」
「へえ、そうなんだ。じゃあ、背中に羽が生えてるとか?」
「まっ、お客さんったら! ほほほ」
最後に女将は雑炊を作ってくれた。残った出汁にご飯をいれ最後に卵を溶きかける。蓋をして卵がいい塩梅に蒸れた所で茶碗に装った。細葱をちらし、わずかにタレをかけて食べる。フグの旨味、飯の旨味、半熟の卵の旨味、薬味とタレの旨味が一体となって胃の腑へと落ちて行く。冷えていたつま先が熱くなる。
腹がくちくなり眠たくなった。女将に案内されて部屋に行き布団の上に転がった後は覚えていない。気が付いたら朝だった。女将が着替えさせてくれたのだろう、浴衣を着ていた。飲み過ぎたのかかすかに頭痛がする。脇腹に痛みを感じて鏡で見てみた。赤くなっている。どこかにぶつけたのだろうか? きっと変な寝方をしたせいだろう。
僕は女将に着替えさせてくれた礼をいい、別れをつげて宿を出た。吹雪は収まっていた。
数ヶ月後、毎年恒例の健康診断で医者が言った。
「最近、肝臓の手術をしましたか?」
「は? 手術? いいえ」
「え? いや、しかし」
医者が肝臓の三次元画像を見ながら訝しむ。
「僕の肝臓がどうかしたんですか?」
「三分の一ほどなくなってるんですよ。ほらここ」
モニター画面にはいびつな形の肝臓が映し出されていた。
蛇の頭そっくりの空洞。
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