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ビルの合間の空
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夕日が空を薄紅色に染めるある日の夕方、根岸加奈子は勤め先の休憩スペースで、缶コーヒーを飲んでいた。缶から唇を話して一息つくと、釈然としない思いが胸にこみ上げた。
つい先ほど定例会議では、今日も部長の山田遼が自分を含めた部下たちを大声で叱責した。
しかし、それはいつものことで、もう慣れきっている。引っかかったのは、報告を聞いているときの様子だった。
普段なら、腕を組みながらしかめ面で報告者を真っ直ぐに見つめているはずだ。
しかし、今日は腕組みこそしているが、ときおりどこか虚ろな表情で窓の外に視線を移すことがあった。
加奈子以外の者は、いつもできる限り山田のしかめ面を見ないように目を反らしているから、変化には気づいていないだろう。
「空、か」
窓の外に視線を向けると、相変わらず夕日が空を染めていた。
しばらく眺めていたが、巨大な鯨が泳ぎだすということもない。
――ガコン。
不意に聞こえた物音に振り返ると、自動販売機の前で山田が腰を屈めていた。加奈子は慌てて姿勢を正し、深々と頭を下げた。
「お疲れさまです」
「うん? ああ、お疲れ。根岸も来ていたのか」
「はい。少し、気分転換に」
「そうか」
気のない返事と共に、缶コーヒーを開ける音が休憩スペースに響いた。それから、いつもよりも険しさのない目が、窓の外に向けられる。まるで、何かを探すように。
「……あの、山田部長」
「なんだ?」
視線は窓の外に向いたまま、どこか気のない声が返ってくる。
「この辺りに、公園があるのご存じですか?」
公園という言葉に、山田の眉がピクリと動いた。
「……ひょっとして、中央に噴水のある所か?」
やはり、この人もあの公園を知っている。加奈子はゆっくりと頷いた。
「はい。先日、そこで不思議な格好をした、ご高齢の男性に会ったのですが……」
「そうか、根岸もだったのか」
「はい。では、部長も?」
「ああ」
「そうでしたか」
二人はそろって、窓の外に目を向けた。
「……一体、なんだったんでしょうね、あれ」
「さあな。それで、根岸は一体、なにを見たんだ?」
「えーと、鯨が空を泳いでましたね」
「鯨か。なんだか、子供の空想みたいだな」
「ひょっとして、バカにしてますか?」
「してない、してない」
「本当ですかね……。それで、部長はなにを見たんですか?」
「俺か? 俺は、山茶花が空一面に、咲いては散っていくところだったな」
「へー。意外と可憐なものをご覧になったんですね」
「……根岸の方こそ、バカにしてるだろ?」
「いえいえ、そんな滅相もございません」
ひとしきり言葉を交わすと、二人はどちらからともなく、苦笑を浮かべた。
「なんだか、山田部長とはじめて自然に会話ができた気がします」
「ああ、そうだな。他のヤツらとも、こんなふうに付き合えれば、毎週毎週しかめ面で怒鳴らなくてもいいんだろう
けどな……」
「ご自覚は、あったんですね」
「当たり前だ。ただ、そうでもしないと、この部署は変わらなかっただろ」
「たしかに、そうでしょうね。ただ、正直なところ、不満も相当出てますよ」
「……俺を共通の敵にして、部がまとまって何か成果がでるなら、それで構わないさ」
「……そうですか」
二人は再び窓の外に目を向けた。空はいつの間にか、薄紅色から深い紫色に変わっていた。
――ガコン。
再び聞こえた物音に振り返ると、営業部の若手社員、松山洋一が自動販売機の前で腰を屈めていた。
松山は二人に気がつくと、慌てて深々と頭を下げた。
「山田部長、根岸さん、お疲れさまです!」
「お疲れさま」
「お疲れ。定例会議は欠席だったが、商談は上手くいったのか?」
山田の問いかけに、松山は頭を上げて姿勢を正した。
「はい! 皆さんのご指導のおかげで、なんとかまとまりました!」
歯切れのいい返事だが、どこか目が泳いでいる。その視線が窓の外を気にしていることに、二人はすぐ気がついた。
「松山、お前戻ってくる前に、近くの公園に寄らなかったか?」
「え? あ、は、はい。社に戻る前に商談の内容をまとめておこうと、少しだけ……」
「そこで、不思議な格好をしたおじいさんに会わなかった?」
「え……、なんでご存じなんですか?」
目を丸くしながら問い返され、二人は再び苦笑を浮かべた。
「やっぱりか」
「松山君も、会ったのね」
「やっぱり? 松山君も? ……ということはお二人も、ペガサスの大群を見たんですね!?」
興奮気味の声に、二人は同時に吹き出した。
「あはははは! 松山君のが一番メルヘンチックね!」
「はっはっはっは! これはなかなか、可愛らしいものを見たじゃないか!」
「ああ! 笑わないでくださいよ! そう言う、お二人はなにを見たんですか!?」
休憩スペースには、三人の楽しげな声が響いた。
窓の外では、濃紺色に変わった空に細い月が浮かんでいた。
つい先ほど定例会議では、今日も部長の山田遼が自分を含めた部下たちを大声で叱責した。
しかし、それはいつものことで、もう慣れきっている。引っかかったのは、報告を聞いているときの様子だった。
普段なら、腕を組みながらしかめ面で報告者を真っ直ぐに見つめているはずだ。
しかし、今日は腕組みこそしているが、ときおりどこか虚ろな表情で窓の外に視線を移すことがあった。
加奈子以外の者は、いつもできる限り山田のしかめ面を見ないように目を反らしているから、変化には気づいていないだろう。
「空、か」
窓の外に視線を向けると、相変わらず夕日が空を染めていた。
しばらく眺めていたが、巨大な鯨が泳ぎだすということもない。
――ガコン。
不意に聞こえた物音に振り返ると、自動販売機の前で山田が腰を屈めていた。加奈子は慌てて姿勢を正し、深々と頭を下げた。
「お疲れさまです」
「うん? ああ、お疲れ。根岸も来ていたのか」
「はい。少し、気分転換に」
「そうか」
気のない返事と共に、缶コーヒーを開ける音が休憩スペースに響いた。それから、いつもよりも険しさのない目が、窓の外に向けられる。まるで、何かを探すように。
「……あの、山田部長」
「なんだ?」
視線は窓の外に向いたまま、どこか気のない声が返ってくる。
「この辺りに、公園があるのご存じですか?」
公園という言葉に、山田の眉がピクリと動いた。
「……ひょっとして、中央に噴水のある所か?」
やはり、この人もあの公園を知っている。加奈子はゆっくりと頷いた。
「はい。先日、そこで不思議な格好をした、ご高齢の男性に会ったのですが……」
「そうか、根岸もだったのか」
「はい。では、部長も?」
「ああ」
「そうでしたか」
二人はそろって、窓の外に目を向けた。
「……一体、なんだったんでしょうね、あれ」
「さあな。それで、根岸は一体、なにを見たんだ?」
「えーと、鯨が空を泳いでましたね」
「鯨か。なんだか、子供の空想みたいだな」
「ひょっとして、バカにしてますか?」
「してない、してない」
「本当ですかね……。それで、部長はなにを見たんですか?」
「俺か? 俺は、山茶花が空一面に、咲いては散っていくところだったな」
「へー。意外と可憐なものをご覧になったんですね」
「……根岸の方こそ、バカにしてるだろ?」
「いえいえ、そんな滅相もございません」
ひとしきり言葉を交わすと、二人はどちらからともなく、苦笑を浮かべた。
「なんだか、山田部長とはじめて自然に会話ができた気がします」
「ああ、そうだな。他のヤツらとも、こんなふうに付き合えれば、毎週毎週しかめ面で怒鳴らなくてもいいんだろう
けどな……」
「ご自覚は、あったんですね」
「当たり前だ。ただ、そうでもしないと、この部署は変わらなかっただろ」
「たしかに、そうでしょうね。ただ、正直なところ、不満も相当出てますよ」
「……俺を共通の敵にして、部がまとまって何か成果がでるなら、それで構わないさ」
「……そうですか」
二人は再び窓の外に目を向けた。空はいつの間にか、薄紅色から深い紫色に変わっていた。
――ガコン。
再び聞こえた物音に振り返ると、営業部の若手社員、松山洋一が自動販売機の前で腰を屈めていた。
松山は二人に気がつくと、慌てて深々と頭を下げた。
「山田部長、根岸さん、お疲れさまです!」
「お疲れさま」
「お疲れ。定例会議は欠席だったが、商談は上手くいったのか?」
山田の問いかけに、松山は頭を上げて姿勢を正した。
「はい! 皆さんのご指導のおかげで、なんとかまとまりました!」
歯切れのいい返事だが、どこか目が泳いでいる。その視線が窓の外を気にしていることに、二人はすぐ気がついた。
「松山、お前戻ってくる前に、近くの公園に寄らなかったか?」
「え? あ、は、はい。社に戻る前に商談の内容をまとめておこうと、少しだけ……」
「そこで、不思議な格好をしたおじいさんに会わなかった?」
「え……、なんでご存じなんですか?」
目を丸くしながら問い返され、二人は再び苦笑を浮かべた。
「やっぱりか」
「松山君も、会ったのね」
「やっぱり? 松山君も? ……ということはお二人も、ペガサスの大群を見たんですね!?」
興奮気味の声に、二人は同時に吹き出した。
「あはははは! 松山君のが一番メルヘンチックね!」
「はっはっはっは! これはなかなか、可愛らしいものを見たじゃないか!」
「ああ! 笑わないでくださいよ! そう言う、お二人はなにを見たんですか!?」
休憩スペースには、三人の楽しげな声が響いた。
窓の外では、濃紺色に変わった空に細い月が浮かんでいた。
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お読みいただき、ありがとうございました!
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