ローリン・マイハニー!

鯨井イルカ

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帰れ!

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壁に掛けたデジタル時計を見ると、0時30分を示していた。テーブルの上には、ひと月前に封をした小さな壺がある。封をしてからしばらくはガサゴソと音を立てていたが、その音も既に途絶えている。丁度、頃合いなのだろう。
 都会暮らしといえども、いや、寧ろ都会の方が、材料を揃えるのは容易だ。四方をコンクリートだのアスファルトだのに囲まれて、草木が茂り土が露わになっている場所が限られているのだから。
 封をした札を剥がして蓋を開けると、大小様々の毒虫が折り重なり、ピクリとも動く気配は無い……失敗か。
 呪事を生業とする血筋に生を受けてから今日まで、虫を使役するのには長けているという自負はあったのだけれども。
 虫というのは、実に使い勝手が良く、気に入っている。正確に命令さえすれば、正確にこちらの期待通りの働きをする。使役される物の意志や自我、使用者との信頼関係など、不愉快なだけだ。今回も、中身の毒さえ手に入れば、本体は潰してしまおうと考えていたが、失敗ならば仕方ない。
 嘆息を吐き、中身を棄てようと壺に手を掛けると、それまでピクリとも動かなかった毒虫どもの足が、俄かにカサカサと動き出した。自ら動いているというよりも、風に煽られて揺れているように見える。
 中をよく確認しようと覗き込むと、突然強い光が溢れた。思わず目を閉じたが、まぶた越しに光の強さが伝わってくる。
 しばらくすると、強い光は収まった。
恐る恐る目を開くと、テーブルの向こう側に見慣れない人影があった。
 切り揃えられ重めの前髪と、先端で一つにまとめられた長い後ろ髪、鈍色の着物に、淡黄の帯、橙色の帯留めには鉄色の丸い帯留めがついている。婉容という形容が相応しい顔立ちに、微かに困惑した表情が見て取れる。
 彼女はこちらを見つめた後、視線を自分の掌に落とし、ゆっくりと指を握って開いた。そして、再びこちらに視線を上げた。
「ええと、ヒトの姿になってしまったので少し驚きましたが……貴方様があの恐ろしい場所から出して下さったのでしょうか?」
 彼女の話しぶりからすると、どうやら壺の中の生き残りのようだ。ということは、失敗ではなかったか……まさか、人型に変化して現れるとは思わなかったけれども。
 しかし、人型の物を使役するのは少々面倒だ。
「ええと、違ったのでしょうか?」
「ああ、すまない。少し考え事をしていた。どうやら、そのようだ」
 困惑した表情を浮かべながらゆっくりとした口調で話す彼女の問いに答えると、その表情が一変して晴れやかになった。
「それは、どうもありがとうございます。是非とも、お礼をしたいのですが、何をすればよいでしょうか?」
 ふむ。計画していた形とは大幅にズレが出てしまったが、何とか修正は出来そうだ。
「では問おう。得意な毒は何だ?神経系か?溶血系か?炎症系か?」
「毒……?毒ですか……代々、ムカデさんの毒には気をつけろとは言われてましたが……」
 矢継ぎ早に問うと、彼女は困ったような、落ち込んだような表情になり答えた。どうやら、毒のある類では無いらしい。
「では、強力な顎や鋭い針は?」
「針は多分ないですね。あと、顎の力は……以前、煮干しを頂いたことがあるのですが、美味しいと思っても、顎がすごく疲れた記憶がありますね」
 何だか、暗雲が立ち込めてきたようにも思えるが、まだ可能性が潰えた訳ではない。
「獲物を捕らえるために、罠を仕掛けたり、優れた跳躍力を発揮したりは?」
「たまに煮干しを頂いていましたが、普段は落ち葉や朽木を食べていたので……あ、でも美味しそうな白菜があったら、駆除を覚悟で、一族を引き連れて食べに行く気概はあります!」
 ……まだ、諦めるには早いと思いたいが……
「……元の姿の時の脚の数は?」
「7対14本です」
「好んでいた場所は?」
「湿った場所が好きでした」
「……外敵に攻撃されたら、どうする……?」
「丸まってやり過ごします」
 ここまで情報が有れば、元の姿を判断することなど容易い。容易のだけれども……
「ダンゴムシ、ということか」
「はい、ダンゴムシです。ヒトのお子さん達には、大人気でしたよー」
「分かった。帰れ」
「えぇぇ!?何故ですか!?」
 その反応に、盛大な嘆息が漏れた。
「お前を出してやったのは、慈善のためじゃない。役に立たないのならば、去ってもらうより他はないだろ」
「少しお待ちください……えーと……確か私たちは薬になったはず……」
 薬か……場合によっては使い道があるか。
「で、その効能は?」
「利尿作用があるらしいので、浮腫が気になるときなどに」
「帰れ」
「そうなりますよね……」
 傷の治りが早くなる、瞬間的に集中力が高まるというような類いならまだしも、血圧を含めた健康管理を日々行なっていた人間には全く無用の長物だ。
 冷めた目で見つめていると、彼女はオロオロとした後、ハッとして、おもむろに自分の胸をさすった。
「……繁殖、いたしますか?」
「本当にもう帰れよ!」
 素頓狂な提案に声を荒げると、彼女は申し訳なさそうに苦笑した。
「お役に立てず、申し訳ないです。では、私はこれで失礼いたしますね。助けていただいて、本当にありがとうございました」
 そう言って、彼女は玄関へ向かって行った。しかし、姿形は人のままだ。
「待て、その姿のまま外に出るつもりか?」
「え?あ、はい。先程から元に戻ろうとは考えていたのですが、どうすれば元に戻るのか、皆目見当もつかなかったので」
 振り返った表情には、相変わらず苦笑いが浮かんでいる。帰れとは命じたものの、冷静になって考えてみれば、どこに帰るというのだろうか。
 こちらの思案に気づいたのか、彼女は鷹揚な口調で、大丈夫ですよ、と言い言葉を続けた。
「都会だといっても、街路樹や植込みや花壇なんかもまだまだありますから、身を隠したりご飯を探したりするのには、それほど困りませんよ」
 本来の姿なら、それもそうなのかもしれないけれども。
「その姿のままでもか?」
「あ……そうでした……」
 彼女の思考回路だと、すぐ近くの植込みに居着いてしまうだろう。そうすると、このマンションの植込みということになる。
「ヒトの世界では、女性が植込みにうずくまっていたら、酷く厄介な事になるんだけど?」
「そうですよね……困りました……」
 彼女はその場を回り歩きながら、どうしましょうどうしましょう、と言葉を零して頭を抱えた。
 まったく、頭を抱えたいのはこちらの方だ。
「……仕方ない。本来の姿に戻る方法が分かるまで、ここに居ると良い」
 彼女の表情が、俄かに明るくなる。
「ありがとうございます。本当に、何とお礼を言って良いのか……」
「厄介ごとを起こされるよりは、側で管理をした方が、まだマシだと考えただけだ」
 彼女は、それでも本当に助かります、と言って深々と頭を下げた。しばらく目は離せないだろうが、幸いな事に、自由になる時間は余るほどある。
 時間が出来たきっかけは、あまり幸運な出来事では無かったが……まあ良い、これも長い間怠ってきた呪事の研鑽の一環だと思うしか無い。
「しかし、しばらく行動を共にするとなると、周囲に怪しまれないように、呼び名をつける必要があるか……」
 流石に女性に向かって、お前、と高圧的な呼び方をするのは外聞が悪いな。ダンゴムシではあるけれども。
「ああ、それならば、以前ヒトのお子さんと暮らしていた時に、つけていただいた呼び名がありますよ」
「そう。なら、その名にするか」
「かしこまりました。それでは、たまよ、とお呼びください」
 彼女が口にした名は、古風な名前だったが、着物と婉容な様子にとてもよく似合っていた。あまりにも人の名前として不都合な代物なら、改名してやろうと思っていたが、問題は無いだろう。
「それでは、貴方様は何とお呼びすれば良いでしょうか?」
 その問いに、すぐには答えられなかった。意思の疎通が出来る物を使役するのは今回が始めてのため、使役される側から呼びかけられることには慣れていない。慣れている者は恥も外聞もなく、ご主人様、などと呼ばせるのだろうが、周囲の好奇の目に晒されるのは御免被りたい。
 あまり好ましいことでは無いが、本名でやり取りするのが自然か。まあ、名を知られたところで、ダンゴムシなのだから、呪も何も無いだろう。それに、多少の呪がかかったところで、今更騒ぐことでもないか。
「名は、日神ひがみ 正義まさよしだ。呼び方は、様付け以外なら何でも良い」
「では、親愛をこめて、ひがみん、なんていががでしょうか?」
「その呼び方だけはやめろ」
 素早く否定すると、彼女は少し落ち込んだ顔をした。彼女に非はないが、その呼び名を使われると、思い出したくもないことや、思い出したくもない人物を思い出してしまう。
「可愛らしくて良いと思ったのですが……では、正義さんとお呼びいたしますね」
「まあ、それが無難だろうな」
 しかし、ある程度の年齢になってからは、名の方で呼ばれることも少なくなったため、若干の違和感は感じる。まあ、短い付き合いだろうから、それでも構わないか。
「後は、人に尋ねられた時に、答える関係性か……兄妹と言い張れる程、外見は似ていないな……それ以外で成人した男女が一緒に暮らしていて違和感がない関係となると、夫婦くらいか」
「かしこまりました。では、繁殖行為をいたしましょうか」
 おもむろに着物の胸元に手をかける彼女に、しない、と短く告げると、また落ち込んだような表情を見せた。現在の容姿はそこそこ魅力的な女性にはなっているが、虫に欲情する趣味はない。
「ともかく、本来の姿に戻るまでは夫婦として過ごすから、不自然にならないように心掛けてくれ」
「かしこまりました」
 返事だけは素直なのだけれども
「ところで、しばらく何も食べていなかったので空腹なのですが、朽ちた木材などがありましたら、かじってもよろしいですか?」
 肝心な中身が、微妙に伴っていない。
「……何か野菜を持ってくるから、大人しく待ってろ」
「そんなご馳走をいただけるなんて……どうもありがとうございます」
 頭を下げる彼女を横目に、盛大な嘆息を吐いてから、軽く頭痛がする頭を抑えて、キッチンに向かった。
 しばらくは、頭痛のする日々が続きそうだ。
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