ローリン・マイハニー!

鯨井イルカ

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「いやあ、急にごめんね、日神君」
 ソファーに腰掛けた月見野部長が、額からスキンヘッドの頭頂部にかけての汗を拭きなが、笑顔でそう告げた。
「いえ、特にこれと言った予定もありませんでしたし、問題ありません」
 テーブルを挟んで床に正座をしているため、見上げる格好になっているが、威圧感はない。
「そう言ってもらえるなら、良かったよ。ところで、脚を崩したら?」
「いえ、このままで構いません。それよりも、お話と言うのは?」
 単刀直入に聞くと、月見野部長はハンカチをポケットにしまい、苦笑した。
「いくつかあるけど、まずは結婚おめでとう」
 意外な言葉に面食らっていると、月見野部長もキョトンとした表情になった。
「あれ、違ったのかな?管理部の課長さんからそう聞いたんだけど?」
 個人情報保護の観念がないのは、人事課長としてどうなのだろうか。いや、今の問題はそこではなく、何処まで詳しく事情を知っているかか。
「その話、どこまでご存知ですか?」
 流石の人事課長も、事実をありのまま伝えてはいないだろうが、変に面白おかしい話にされているのも面倒だ。まあ、事実の方が面白おかしい話なのかもしれないけれども。
 月見野部長は、少し困惑した表情を見せてから、こちらの問いに答えた。
「ああ、課長さんからは、ある美しい女性が囚われの身となって困っているところに、天馬に乗った日神君が颯爽と現れて、快刀乱麻を断つ活躍を見せて救い出したら、なんやかんやあって結婚する下りとなったって聞いたけど……」
 ……作り話だとしても、クオリティが低いにも程がある……が、念のため聞いておこう。
「その話、信じられたのですか?」
「いやいやいや!流石の僕でも、その話までは信じないよ!」
 世話になった上司に対して失礼ではあるが、本気にしていなくて良かった。客先に同行する時も、道中で必ずと言っていいほど寸借詐欺に遭って、涙ぐみながら万札を渡そうとするような人だからな、この人……
「それよりも、これは僕からの気持ちだから、受け取って」
 月見野部長はそう言いながら、クラッチバッグから袱紗を取り出してこちらに差し出した。
「ありがとうございます。連絡が遅くなってしまい、申し訳ございません。只今、妻も呼んで参ります」
 袱紗を受け取って立ち上がり、書斎へと向かった。扉を開けると、たまよが書棚の前に這いつくばっていた。扉が開く音に気づいたからか、顔だけはこちらを向いているが、書棚の最下段を覗き込んでいたのだろう。
「えーと……これには、深い事情がありまして……」
 たまよは目を泳がせながら、気まずそうにそう言う。何をしていたかは大体分かるが、念のため確認だけはしておこう。
「……そんな所に、さっき没収した落ち葉は隠していないぞ?」
「な、何故解るのですか!?」
 ……やはりか。
「どうしてもと言うなら、料理用の朴葉を調達するから、拾ってきた落ち葉のことは諦めてくれ」
 嘆息混じりにそう告げると、たまよは目を輝かせて、かしこまりました、と言ってから立ち上がった。そして、割烹着の埃を払う仕草をしてから、小首を傾げた。
「ところで正義さん、私はまだ隠れていた方が良いですか?」
「その件だけど、もう大丈夫だ。勤め先の上司の方がいらして、結婚祝いを頂いたから挨拶とお礼に来て欲しい」
 袱紗を机に置きながらそう言うと、かしこまりました、と言う声が背後から聞こえた。
「その方は、ダンゴムシが転がる姿はお好きですか?」
 その言葉に慌てて振り返ると、たまよが今にも前転を繰り出しそうな構えをしている。
「……普通に歩いて来て、お礼の言葉を言ってくれるだけで良いから」
「かしこまりました」
 たまよを連れてリビングに戻ると、月見野部長は座ったまま首を傾けて居眠りをしていた。
「月見野部長、ご紹介が遅くなってしまい、申し訳御座いません。こちらが妻のたまよです」
 声を掛けると、月見野部長は勢いよく目を開き、数度ゆっくりと瞬きをした。
「初めまして。妻のたまよです。夫がいつもお世話になっております」
 たまよが、そう言ってゆっくりとお辞儀をする。
「この度は、お祝いを頂きありがとうございました。お礼に、掛け布団をお持ちいたしますので、少々お待ちくださいませ」
 そう言って踵を返すたまよの襟を思わず掴んでしまった。
「きゃ!?人前で何をなさるのですか正義さん!?」
「色々と誤解しているのは置いておくが、何をしようとしているんだ?」
「え?冷房のかかっている部屋で眠ってしまっては、風邪を引いてしまうかと思いまして……」
「確かにそういった気遣いも必要だが、ここは居眠りをしてしまっていたことについて気付かないフリをして差し上げるのが、大人の対応だ」
「かしこまりました。大人の女性として、何も無かったことにいたします」
 たまよは襟元を正してから、改めて月見野部長に向き直ると、笑顔で軽く会釈をした。
「只今お茶をお持ちいたしますね」
「あ……うん。気を遣わせちゃってごめんね」
 月見野部長も苦笑いをしながら、会釈を返した。たまよが居間を後にすると、月見野部長は穏やかな表情で眺めてから口を開いた。
「しかし、ちょっと変わっている所はあるけど、管理部の課長さんが言ってた通り、良い子そうで安心したよ」
「少々世間知らずな所はありますが、私には出来すぎた妻ですよ。それで、色々とあるという話の他の部分は一体何でしょうか?」
 盛大に目が泳いでいるところを見ると、結婚祝いだけを渡しに来たわけでは、ないのだろう。
「……昨日管理部の部長さんから、一年前に君が起こした件について、事情を聞いて来てほしいと言われていてね」
 一つ目の話は、概ね予想通りか。ただ、人事課長からの依頼かと思っていたので、依頼主だけは予想外だった。
「その件については、一度人事課長にお話しした通りですよ。出来が悪いと思っていた後輩に、営業成績で抜かされると思ったら、ひどく不愉快になりましてね。神経質なお客様でしたし、不備のある書類を捏造して騒ぎにしてやれば、少なくともアイツへの信頼は失墜すると考えました。そうなった場合、最初にトラブル対応するのは上司である私ですし、上手く騒ぎを鎮静化できれば、案件そのものを引き継いでこちらの手柄にできますからね。ただ、目撃者がいたことと、その目撃者を始末し損ねたことは想定外でしたが」
 更に言うと、その目撃者が月見野部長の頭から生えてきたのは、もっと想定外だった。しかし、話がそれてしまいそうなので、口に出すのはやめておこう。
 月見野部長はこちらの回答に納得が行かなかったのか、渋い顔をした。そして、一度唇を噛み締めてから質問を続けた。
「じゃあ、吉田の書類をわざわざミスの多い物に作り変えていたのは?」
「勿論、優秀な新人を早めに潰しておこうと思ったからですよ。アイツの行動力は、私の地位を脅かしそうでしたからね。日頃からミスが多い奴という印象を周囲に与えておけば、手柄を横取りしやすいですから」
「……全部、僕が君から聞いていた話とは違うけど?」
 渋い表情のまま問いかける月見野部長に、テーブルの上で指を組みながら、笑顔で答えを返す。
「部門外に説明するなら、それが一番分かり易いじゃないですか。それに、貴方に説明した話の方が、嘘かもしれませんよ?」
 こちらの回答に、月見野部長は俯きながら深く溜息をついてから顔を上げた。
「……二つ目の話なんだけど、一昨日浦元君から、早川君の個人の連絡先に連絡があったそうだ」
 二つ目の話題は、意外なものだった。
「……一体、どんな話だったんですか?」
「早川君曰く、詳しいことはまだ聞いてないけど、ちょっと協力して欲しい仕事があるって話だったらしい」
「早川は何と返事をしたんですか?」
「いや返事をする前に、目を輝かせて、何か新しいビジネスにつながりますかね?と相談があったから、ひとまず回答を保留しておくように伝えたよ」
 ……後輩を厄介ごとから遠ざけ過ぎたのが、仇になったか。早川のことだ、少し表面を取り繕えば、簡単に丸め込まれて、気づかないうちに共犯者に仕立て上げられてしまうだろう。あるいは、共犯者では無く主犯にされてしまう可能性の方が高いか。
「失礼いたします。お茶をお持ちしました」
 頭痛のするコメカミを押さえていると、たまよがにこやかに湯飲と白菜の漬物を乗せた盆を手に現れた。
「あと、これはお茶請けにどうぞ」
「あ、どうもありがとうね」
 テーブルに湯飲と白菜の酢漬けが乗った小皿を置くたまよに、月見野部長が笑顔で礼を言う。
「いえいえ。ええと、私は席を外していた方がよろしいですか?」
 漬物と湯飲を置き終わったたまよが、盆を手に尋ねると月見野部長はゆっくりと頷いてから答えた。
「うん、ちょっと込み入った話になっちゃうからゴメンね。ところで、日神君はちゃんと君のことを大事にしてくれているかな?」
 いきなり何を聞きだすんだ、この人は。
「はい。まだまだ不慣れなことも多いので叱られてしまうことも有りますが、困っている所を助けていただきましたし、優しい方だと思っています」
 たまよの言葉に、胸のあたりが鈍く痛む。その困ったことになるきっかけを作ったのが、俺だということを黙ったままにしておくか、伝えるべきか。
「そうだね。日神君は若干複雑な所もあるけど、いい子だから仲良くしてあげてね」
「はい!それでは、私はこれで」
 穏やかに笑む月見野部長に頭を下げて、たまよはリビングを出て行った。それにしても、だ。
「不正をやらかした輩に向かって、いい子は無いでしょう」
 まあ、自分でも厄介な性格をしている自覚はあるため、前半は認めるが。
「でも、何かあった時に部下二人のフォローを頼むと言ってきたのも事実だよね?……で、さっきの続きなんだけど、浦元君の件は正直なところ、僕だけじゃ手におえない」
「……それで、管理部の部課長達に相談したら、手を貸す代わりに諸々の事情を話せ、ということになった訳ですか」
 月見野部長は、無言でコクリと頷いた。確かに、あの二人の全面的な協力があれば心強くはある。
「……お断りします。あの二人の手を煩わせなくても、私一人で何とかします」
 こちらの答えに、月見野部長は、やっぱりか、と呟いた後に再び深い溜息をついた。
 そして、真剣な顔つきでこちらを見つめて口を開いた。
「それならば、会社に辞表を出して、僕が浦元君を始末してこよう」
「何を仰っているのですか!?」
 思わずテーブル手をついて立ち上がると、月見野部長は表情を変えずに言葉を続けた。
「何って、君がしようとしてる事を代わりにするだけだよ。確かに僕には君のような稀有な才能は無いけど、まだまだ体力はある方だからね」
 視線も、相変わらずこちらを見据えたままだ。きっと、本気なのだろう。
「……やめてください。貴方が背負う事じゃ無い」
「別に、君が背負う事でもないだろう。前々から言っていたが、君は一人で抱え込みすぎだ」
「……抱え込んでいた分は、自分でこなしていたつもりなんですけどね」
 軽口を叩いてみたところ、生意気を言うな、という言葉とともに月見野部長に笑顔が戻った。
 世話になった方を加害者にする訳にも行かないが、一つだけ確認をしておこう。
「では、言い訳がましい話をさせていただきますが、レコーダーやらカメラやらを隠しているなら、出していただけますか?」
 そう尋ねると、月見野部長はギクリとした表情を見せた後、ハンカチを取り出して額の汗を拭き、気まずそうに笑った。逐一、反応が分かり易い。
「……いつから気付いてたの?」
「いえ、以前取り乱す姿を誰かさん達に隠し撮りされていたことがあったので、カマをかけてみただけです。別に録音されるのは構いませんが、隠されるよりも目の前に置かれた方が聞き取りやすい音声になるかと思いまして」
 月見野部長は、これは参った、と苦笑しながら言い、クラッチバッグから細身のICレコーダーを取り出しテーブルの上に置いた。既に録音状態になっているようだが、革製のバックに入れたままだとまともに録音出来ないだろうに……
「じゃあ、改めて話を聞かせてもらおうかな」
「かしこまりました。ちなみに、この音声は誰が聞く予定ですか?」
 確認をすると、月見野部長は少し間を置いてから答えた。
「管理部の部課長さん達は、確実に聞くね。あと、場合によっては早川君かな」
「そうですか……なら、浦元の事についても、話しておきましょうか」
 月見野部長は、そうだね、と言って頷いた。
 まあ、恨みを持っている人間の言葉をどこまで信じるかは定かではないが、警告だけはして置いてやることにしよう。
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