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約束の夜
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一夜が明け静一はまた軽い寝不足に苛まれていた。そのうえ二日続けて床に寝てしまったせいで、首から背中が強張り重く痛んでいる。
それでも、なんとか背筋を伸ばして手にした資料に目を向けた。
「質問、リストにしたから」
「ありがとうございます」
高山からは出社早々に声を掛けられた。話がしたいと言われ縄の処理具合を聞かれるのかと身構えた。しかし、すぐに経費申請システムの改修についてのミーティングだと告げられ、少しだけ気を落としながら二人して会議室に移動し今に至る。
「ざっと見て、気になる所ある?」
「そう、ですね」
A4の用紙一枚に収まるリストには、システムの使用状況の他に会計の基礎知識に関する質問も混じっている。しかし、それを指摘するのは憚られた。
「えーと、特には、ない、かと」
「本当に?」
黒縁眼鏡の奥で睫毛の長い目が微かに細められる。
「すみません、嘘です」
「そう」
会議室の中に軽いため息が響いた。
「つまらないことに、時間使わないで」
「すみません」
「それで、どこが気になるの?」
「えーと、ですね。気分を悪くされて、しまうかもしれないので、恐縮、なのですが」
「そういうの、いいから」
「は、はい」
自然と肩が跳ねる。抑揚のない声は消して威圧的ではない。しかし、逆らいがたい響きを持っていた。
「その、多分、なんですが、システム改修に入るには、基本的な会計の知識があったほうがいいかと」
「分かった」
「へ?」
意外な反応に肩の力が一気に抜けた。
「なに? 他に気になることがあるの?」
「あ、いえ。そうじゃなくて、『馬鹿にしてるのか』とか言われると思ったので」
実際に、以前システム改修の話が出たときは、打ち合わせ中に同じ指摘をされた社内システムの担当者が怒鳴りだし、それにナオミが応戦して収拾がつかない事態になった。
さすがに怒鳴られはしないだろうが、気分を害されるかもしれない。そのことによって、週末の約束が反故になることが恐ろしかった。しかし、向かい合った顔はいつものように涼しげな表情を浮かべている。
「別に。基礎知識あったほうがいいのは当然だし」
「そう言っていただけると助かります。たしか、書棚に開発者向けの会計知識の本があったはずです。それを読めば、一番から十二番の質問は解決できるかと」
「そう。なら、あとで貸して」
「かしこまりました。残りの質問は一度確認してからの回答でも大丈夫ですか?」
「うん。大丈夫」
高山が軽く頷きながら、自分用の資料の角を揃えファイルにしまう。どうやら、問題無く打ち合わせを終えることができそうだ。
「ところで、手、どうしたの?」
突然かけられた予想外の言葉に静一は再び肩を跳ねさせた。眼鏡越しに漆黒の目が右手の平を見つめている。親指の付け根から魔一文字に走る微かな赤い痕。それを指していることは明らかだった。
「その、ちょっと、摩擦で」
「……ああ」
事情は全て伝わったようだ。手入れの行き届いた指がファイルを机に置き、顎の下で軽く組まれる。
「それで、油入れに使ったのは?」
「蜜蝋と手袋……多分、化繊のやつです」
「そう」
「えーと、まずかったですか?」
「いや、いいと思う」
艶やかな薄い唇が微かに弧を描いた。
「週末、楽しみにしてる」
「っどうも」
静一は目を反らしながら軽く頷いた。
それからは、日中はシステム改修のサポートをしつつ、帰宅後は眠りに落ちるまでひたすら縄を鞣す日々が続いた。高山との関係は、軽く挨拶を交わすほかはシステムに関する質問のやり取りをする程度に留まっている。しかし、それについて不満はなかった。
無表情に画面を見つめる端正な顔。均整の取れた肢体。時折書類を手渡してくる骨張った長い指。その全てが、縄を纏った姿を想像させる。それでけで心は満たされていた。
そして迎えた週末の夜。
「それじゃあ、あがって」
「失礼します」
姿勢の良い後ろ姿に導かれるまま、オフィス街の片隅にあるマンションの一室に足を踏み入れる。靴箱の上には相変わらず樹氷の縄を纏った写真が置かれていた。何度見ても乱れ一つない正六角形の連続や、それに包まれた黒い肌襦袢姿に息を飲んでしまう。
「食事、後でいいよね」
有無を言わさない響きをもつ静かな声を受け、静一は写真から目を放した。
「あ、はい」
急ぎ靴を脱いで揃え、後ろ姿を追って部屋の中に入る。キッチンと一体となった薄暗い居間の中央には灰皿の載った小さなローテーブル、窓際には三面鏡の姿見、壁に備え付けられたハンガーラックにかかっているのは件の黒い肌襦袢。
二人はどちらともなくテーブルをはさみ腰掛けた。
「じゃあ、縄見せて」
「はい」
促されるまま鞄から麻縄を取りだし手渡す。
「うん。ちゃんと纏められてる」
白い指がおもむろに束を解き、撚り目を一つ一つ確かめるように緋色の縄の上をなぞる。そのまま、ときおり慈しむように掌の中に滑らせながら、ときおり叱責するように強く引きながら、あるいは息がかかるほど顔を寄せながら、仕上げた縄が確かめられていく。思わず、その仕草から目を背けるようにうつむいた。
できる限りの処理はした。少なくとも、粗悪と言われるような出来ではないはず。それでも、相手は細川樹氷やあの緊縛師を知っている。
部屋の中はには、しばし縄をたぐる微かな音だけが響いた。
「クセもついてないし、毛羽立ちもゴミもない」
静寂の中、落ち着いた声がこぼれた。そこからは、少なくとも刺々しさは感じられない。
おそおそる顔を上げると、控えめな照明の下で薄い唇が弧を描いていた。
「うん、上手にできたね」
白い手が軽く頭をなでる。その瞬間、全身の血が沸き立った。
「あの、それじゃあ!」
「うん、縛らせてあげる」
高山は頭に置いた手を頬へ滑らせながら緩やかに立ち上がった。
「シャワー浴びてくるから、そのまま待ってて」
「はい!」
「いい子だね」
滑らかな手が頬を一撫でして離れていく。静一は胸を高鳴らせながら、黒い肌襦袢を手に取り浴室は向かう姿を見送った。
一人になった居間の中、鼓動の音だけがやけにうるさく聞こえる。一度、気を落ち着かせようと軽く伸びをすると、キッチンのカウンターに置かれている小さな影に気がついた。形からして写真立てのようだ。瞬時に玄関の写真が思い出された。
また、細川樹氷の写真だろうか。それなら見てみたい。それでもそのまま待っていろと言われた。そうは言っても少しくらいなら。
逡巡しながらも身体は自然と立ち上がり、カウンターの写真立てを手に取っていた。
花が敷き詰められた床でうつ伏せに横たわる黒い肌襦袢姿。
ふくらはぎと腿を密着させた脚と、後ろ手で合掌したした腕は緋色の幾何学模様に戒められて繋がれ、胴体にも精緻な飾り縄が施されている。
口元には同じ色の縄で編まれた轡。
基調としているのは逆海老縛りだろう。しかし、その精巧さは通常のものとは比べものにならない。おそらく、受け手にかかる負担も。それでも、もたげた顔には恍惚の表情が浮かんでいる。
静一はその毒々しいアラベスク模様に陶酔し、同時に深い絶望へと突き落とされた。
こんな作品の受け手に選ばれるような相手が、自分の縄で満足するはずがない。どんなに手を尽くしたところですぐに呆れられ、一度きりで捨てられてしまうだろう。
それでも。たとえそうだとしても。
「ああ。それ、見てたんだ」
突然の声に写真立てを落としそうになった。
いつの間にか、仄かに上気した肌に黒い肌襦袢を纏った高山がすぐ傍に立っている。香水を使ったのか、辺りにはいつのも煙草とは違うバニラと香辛料が混ざったような香りが漂っていた。
「お待たせ」
寒々しい灯りの下に柔らかな笑みが浮かぶ。
静一は吸い込まれるように笑みに向かって半歩踏み出した。
それでも、なんとか背筋を伸ばして手にした資料に目を向けた。
「質問、リストにしたから」
「ありがとうございます」
高山からは出社早々に声を掛けられた。話がしたいと言われ縄の処理具合を聞かれるのかと身構えた。しかし、すぐに経費申請システムの改修についてのミーティングだと告げられ、少しだけ気を落としながら二人して会議室に移動し今に至る。
「ざっと見て、気になる所ある?」
「そう、ですね」
A4の用紙一枚に収まるリストには、システムの使用状況の他に会計の基礎知識に関する質問も混じっている。しかし、それを指摘するのは憚られた。
「えーと、特には、ない、かと」
「本当に?」
黒縁眼鏡の奥で睫毛の長い目が微かに細められる。
「すみません、嘘です」
「そう」
会議室の中に軽いため息が響いた。
「つまらないことに、時間使わないで」
「すみません」
「それで、どこが気になるの?」
「えーと、ですね。気分を悪くされて、しまうかもしれないので、恐縮、なのですが」
「そういうの、いいから」
「は、はい」
自然と肩が跳ねる。抑揚のない声は消して威圧的ではない。しかし、逆らいがたい響きを持っていた。
「その、多分、なんですが、システム改修に入るには、基本的な会計の知識があったほうがいいかと」
「分かった」
「へ?」
意外な反応に肩の力が一気に抜けた。
「なに? 他に気になることがあるの?」
「あ、いえ。そうじゃなくて、『馬鹿にしてるのか』とか言われると思ったので」
実際に、以前システム改修の話が出たときは、打ち合わせ中に同じ指摘をされた社内システムの担当者が怒鳴りだし、それにナオミが応戦して収拾がつかない事態になった。
さすがに怒鳴られはしないだろうが、気分を害されるかもしれない。そのことによって、週末の約束が反故になることが恐ろしかった。しかし、向かい合った顔はいつものように涼しげな表情を浮かべている。
「別に。基礎知識あったほうがいいのは当然だし」
「そう言っていただけると助かります。たしか、書棚に開発者向けの会計知識の本があったはずです。それを読めば、一番から十二番の質問は解決できるかと」
「そう。なら、あとで貸して」
「かしこまりました。残りの質問は一度確認してからの回答でも大丈夫ですか?」
「うん。大丈夫」
高山が軽く頷きながら、自分用の資料の角を揃えファイルにしまう。どうやら、問題無く打ち合わせを終えることができそうだ。
「ところで、手、どうしたの?」
突然かけられた予想外の言葉に静一は再び肩を跳ねさせた。眼鏡越しに漆黒の目が右手の平を見つめている。親指の付け根から魔一文字に走る微かな赤い痕。それを指していることは明らかだった。
「その、ちょっと、摩擦で」
「……ああ」
事情は全て伝わったようだ。手入れの行き届いた指がファイルを机に置き、顎の下で軽く組まれる。
「それで、油入れに使ったのは?」
「蜜蝋と手袋……多分、化繊のやつです」
「そう」
「えーと、まずかったですか?」
「いや、いいと思う」
艶やかな薄い唇が微かに弧を描いた。
「週末、楽しみにしてる」
「っどうも」
静一は目を反らしながら軽く頷いた。
それからは、日中はシステム改修のサポートをしつつ、帰宅後は眠りに落ちるまでひたすら縄を鞣す日々が続いた。高山との関係は、軽く挨拶を交わすほかはシステムに関する質問のやり取りをする程度に留まっている。しかし、それについて不満はなかった。
無表情に画面を見つめる端正な顔。均整の取れた肢体。時折書類を手渡してくる骨張った長い指。その全てが、縄を纏った姿を想像させる。それでけで心は満たされていた。
そして迎えた週末の夜。
「それじゃあ、あがって」
「失礼します」
姿勢の良い後ろ姿に導かれるまま、オフィス街の片隅にあるマンションの一室に足を踏み入れる。靴箱の上には相変わらず樹氷の縄を纏った写真が置かれていた。何度見ても乱れ一つない正六角形の連続や、それに包まれた黒い肌襦袢姿に息を飲んでしまう。
「食事、後でいいよね」
有無を言わさない響きをもつ静かな声を受け、静一は写真から目を放した。
「あ、はい」
急ぎ靴を脱いで揃え、後ろ姿を追って部屋の中に入る。キッチンと一体となった薄暗い居間の中央には灰皿の載った小さなローテーブル、窓際には三面鏡の姿見、壁に備え付けられたハンガーラックにかかっているのは件の黒い肌襦袢。
二人はどちらともなくテーブルをはさみ腰掛けた。
「じゃあ、縄見せて」
「はい」
促されるまま鞄から麻縄を取りだし手渡す。
「うん。ちゃんと纏められてる」
白い指がおもむろに束を解き、撚り目を一つ一つ確かめるように緋色の縄の上をなぞる。そのまま、ときおり慈しむように掌の中に滑らせながら、ときおり叱責するように強く引きながら、あるいは息がかかるほど顔を寄せながら、仕上げた縄が確かめられていく。思わず、その仕草から目を背けるようにうつむいた。
できる限りの処理はした。少なくとも、粗悪と言われるような出来ではないはず。それでも、相手は細川樹氷やあの緊縛師を知っている。
部屋の中はには、しばし縄をたぐる微かな音だけが響いた。
「クセもついてないし、毛羽立ちもゴミもない」
静寂の中、落ち着いた声がこぼれた。そこからは、少なくとも刺々しさは感じられない。
おそおそる顔を上げると、控えめな照明の下で薄い唇が弧を描いていた。
「うん、上手にできたね」
白い手が軽く頭をなでる。その瞬間、全身の血が沸き立った。
「あの、それじゃあ!」
「うん、縛らせてあげる」
高山は頭に置いた手を頬へ滑らせながら緩やかに立ち上がった。
「シャワー浴びてくるから、そのまま待ってて」
「はい!」
「いい子だね」
滑らかな手が頬を一撫でして離れていく。静一は胸を高鳴らせながら、黒い肌襦袢を手に取り浴室は向かう姿を見送った。
一人になった居間の中、鼓動の音だけがやけにうるさく聞こえる。一度、気を落ち着かせようと軽く伸びをすると、キッチンのカウンターに置かれている小さな影に気がついた。形からして写真立てのようだ。瞬時に玄関の写真が思い出された。
また、細川樹氷の写真だろうか。それなら見てみたい。それでもそのまま待っていろと言われた。そうは言っても少しくらいなら。
逡巡しながらも身体は自然と立ち上がり、カウンターの写真立てを手に取っていた。
花が敷き詰められた床でうつ伏せに横たわる黒い肌襦袢姿。
ふくらはぎと腿を密着させた脚と、後ろ手で合掌したした腕は緋色の幾何学模様に戒められて繋がれ、胴体にも精緻な飾り縄が施されている。
口元には同じ色の縄で編まれた轡。
基調としているのは逆海老縛りだろう。しかし、その精巧さは通常のものとは比べものにならない。おそらく、受け手にかかる負担も。それでも、もたげた顔には恍惚の表情が浮かんでいる。
静一はその毒々しいアラベスク模様に陶酔し、同時に深い絶望へと突き落とされた。
こんな作品の受け手に選ばれるような相手が、自分の縄で満足するはずがない。どんなに手を尽くしたところですぐに呆れられ、一度きりで捨てられてしまうだろう。
それでも。たとえそうだとしても。
「ああ。それ、見てたんだ」
突然の声に写真立てを落としそうになった。
いつの間にか、仄かに上気した肌に黒い肌襦袢を纏った高山がすぐ傍に立っている。香水を使ったのか、辺りにはいつのも煙草とは違うバニラと香辛料が混ざったような香りが漂っていた。
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