緋の翅

鯨井イルカ

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その腕が纏うもの、その手から滑り落ちるもの

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 講習会以降も、日中の二人に相変わらず業務以外の会話はなかった。
 ただし、関係に少しの変化は起きている。

「今、ミーティング大丈夫?」

「はい。会議室確保しておきますね」

「分かった。資料は共有フォルダに入れてあるから」

「かしこまりました」

「先に喫煙室行ってくる」

「はい」

 煙草入れ以外何も持たずに出ていく高山に代わり、ロッカーから取り出したプロジェクターと机に置かれたままのノートPCを手にして会議室に向かう。ミーティングの際はそれが日常茶飯となっていた。また、過去の伝票など紙資料が必要な際も静一が率先して厚いファイルを棚から用意する。それに対して感謝や労いはない。

「さすがにさぁ、あれは感じ悪くない?」

 ナオミからそんな言葉が投げかけられたこともあった。たしかに傍目からみれば、高山の態度は不遜としか思えないだろう。それでも、エラー改修だけではなく抜本的に経費申請システムの作り直しとなったのだから、多少の手間を自分が受け持つのは当然だと感じる。


 それに、この腕に縄を纏う以外のことをさせるのは無粋の極みでしかない。

 
「それでは、失礼いたします」

 薄暗い寝室のなか藍色の作務衣を着た静一は一礼してフローリングの床に跪いた。
 平日の夜は縄の処理に費やし、週末には高山のマンションで基本的な縛りの実践。そんな生活が二人の日常となっていた。

「……」

 ベッドに浅く腰掛けた高山は縄頭を咥え、軽く捲った黒い肌襦袢の袖から白い腕を差し出している。

 熱を帯びた視線に促されながら、滑らかな橈骨茎状突起の下へ縄を這わせそのまま上に向かって縄を走らせる。たわみのない縞模様が肘の間際へさしかかると薄い唇は縄頭を離した。すかさずその間へ縄尻を通し結びを作る。

 完成した前手縛りを前に切れ長の目は満足げに細められた。

「いかがでしょうか?」

「悪くないよ。でも、縄の間隔はあと五ミリ詰めて」

「かしこまりました。テンションのほうは?」

「そうだね、あと爪一枚分きついほうが好みかな」

「では、次回からはそのように」

「うん。じゃあ、今日はこれまで」

「はい、ただいま」

「ん」

 縄を解かれた緋色の痕が残る腕がおもむろに伸び、柔らかな掌が頬に触れる。

「今日も上手だったよ」

「……どうも。今、煙草をお持ちしますね」

「うん」

 こと縄に関しては、高山はおしみなく労いの言葉をかけた。
 枕元の壁には艶やかな縄を纏った写真が飾られ、黒革の煙草入れには緋色の飾り房がついたままだ。
 それでも、今必要とされているのは自分の縄。

 心の中で繰り返しながら、今夜も細身の煙草を咥えさせ跪いて火を点ける。すると、深く息を吸う音のあと甘い煙が頬を撫でた。

「……明日一日、時間取れるよね」

「は、はい? 一日中、ですか?」

「そう」

 白く骨張った指に火のついた煙草を向けられ、静一は慌てて灰皿を差し出した。煙草は滑り落ちるように指から離れ灰皿の底で細い煙を上げ続ける。

「そろそろ、あれの練習を始めてもいいと思って」

 あれが指すものは間違いなく樹氷が残した図面のことだ。データを預かってから何度も読み返し、構造は頭にたたき込んである。そのために必要な追加の縄も既に処理が終わった。

「ちょうど吊り床のあるホテル、取れたし」

「それだと、吊りの練習がメインですか?」

「うん。吊りの基本になるのは、もう全部練習したよね?」

「そう、ですね」

「なら何も問題はないでしょ」

「……はい。なにも問題は、ありません」

 言い聞かせるように言葉を復唱し深く頷く。それでも胸がざわつくのは、期待からなのか不安からなのかは自分でも判断がつかなかった。

※※※

 その後、もう寝るから、と口にした高山を寝室に残し、静一は一人居間に敷かれた来客用の布団に横たわった。
 常夜灯が照らすなか、手にしたスマートフォンの画面が煌々と輝いている。写っているのは片脚吊りの状態で縄を纏ったマネキンのイラスト。全身は余すところなく緋色の連続する籠目模様で飾られ、本来ならば身体を支える役割に過ぎない吊り縄までもが受け手を飾り立てている。

 全体を見るとそれは毒々しい蝶にも似ていた。

 一見すると、再現することは不可能に思える。しかし、イラストに添えられた活字と見紛う手書きのメモを読み込むと、いくつかの基本的な縛りに分解できることが分かる。

 週末の夜、手ほどきを受けながら何度も何度も縄を走らせた。
 その度に、高山は満足げに微笑み労いの言葉をかけてくれた。上手だよ、いい子だね、と。

「大丈夫。今回も、きっと」

 誰に聞かせるわけでもない声と共に、訪れた眠気に身を任せまぶたを閉じた。

 残光が緩やかに消えていくなか、どのくらいの時間微睡んでいたのだろうか。不意に、目の前にもやのようなものが浮かんだ。それはざわついた暗闇の中で次第に明確な形を結んでいく。

 黒い肌襦袢の背にとまる緋の翅。

 かつて動画で見たそれは、たしかに精緻で美しくはあった。しかし、眠りの間際まで眺めていた図面と比べると、否、比べるまでもなく簡素なものだった。複雑な幾何学模様が創りあげる受け手の美や、それに対する「命がけ」とまで評された執念は感じられない。

 ただ、それよりも強く感じるのは――。

 急激に覚醒した目の前では、相変わらず図面を写しだした画面が煌々と輝いていた。
 樹氷はこれだけ緻密な図面を残しながら、なぜこの縄を施さなかったのか?
 そんな疑問を抱きながら画面を見つめていると、隣の部屋から微かな衣擦れと穏やかな呼吸が聞こえてきた。
 高山はもう眠り込んでいるのだろう。きっと明日のことを心待ちにしながら。寝不足などでその期待を裏切るわけにはいかない。
 静一はスマートフォンのサイドボタンを押して再び目を閉じた。
 

 一夜が明け、静一は高山に連れられ予約を入れたホテルへと向かった。高級住宅街としても有名な都内の駅で降り、真新しいマンションと古びたアパートが入り交じる路地を進む。今にも雨が降り出しそうな曇にまとわりつく生ぬるい空気。あまり好ましい天候ではないが、半歩先を歩く姿勢の良い後ろ姿はどこか楽しげだ。

 期待と不安が入り交じるなか十分ほど歩くと目的地へたどり着いた。一見するとマンションの様な外観の玄関には、林檎の木に絡みつく蛇の紋章が描かれたプレートが掲げられている。緊縛を愛好するものなら一度は目にしたことのあるものだ。ただし、浮世離れした利用料金のせいで実物を目にする者は少ないだろう。
 支払いは高山が持つと聞いているが、本当に大丈夫だろうか。一気に込みあげてきた現実的な不安が胃の辺りを締め上げる。立ち竦んでいる間に姿勢の良い後ろ姿はフルスモークの自動ドアの中へ消えていった。
 静一も意を決してあとに続く。

 自動ドアを入ると毛足の長い絨毯の感触に足を取られた。しかし、すぐ前に立ち止まっていた高山の背にぶつかり、顔面から転ぶことだけは免れた。

「っすみません、高山さん」

「……」

「高山さん?」

 呼びかけに返事はなく、薄暗いロビーにはただベリオールズの交響曲が響いている。機嫌を損ねてしまったかと焦ったが、黒縁眼鏡の奥にある瞳は明らかに自分以外の場所を見つめている。その視線の先に目を向けると、受付でチェックインを行う二つの人影が見えた。

 白髪交じりのオールバックに漆黒の着流しという出で立ちの後ろ姿と、明るい髪色でブランド物のスポーツウェアを纏いモノグラムが散りばめられたキャリーバッグを引いた後ろ姿。
 間違いなく、樹氷とイツキだ。

 傍で零れた小さなため息にフォローの言葉をかける前に、イツキがこちらに振り返った。その顔には驚きとも憤慨とも取れる表情が浮かんでいる。
 どうかこのまま放っておいてほしい。そんな願いも虚しく、小柄な身体が肩をいからせながら近づいてきた。

「アンタ達、何しにきたのよ!?」

 BGMを遮り甲高い怒鳴り声が響く。樹氷は軽く振り返り咎めるような視線を送っただけで、再びチェックインの手続きに戻った。

「ここはアンタ達みたいな奴が来ていい場所じゃないのよ!」

 幾分か声量は落ちたものの、淡い桃色に塗られた唇が高圧的な言葉を吐き出しつづける。

「ええと、でも、もう部屋は取ってあるんで」

「関係ないわよそんなの! ここの格が落ちるでしょ! さっさと帰りなさい!」

 あまりの面倒さに思わず視線を隣に向けたが、高山は反論することもなくいつものつまらなそうな表情で鞄からミネラルウォーターを取り出した。今回もまともに取り合う気はないのだろう。きっとチェックイン手続きが終われば、樹氷も止めに入るはずだ。適当な相槌をうちつつ甲高い声を受け流すことにしよう。

 そう心に決めた瞬間。

「……あ」

 キャップを開きかけた所で、ボトルは骨張った指を滑り落ち絨毯に叩きつけられた。

「高山さん!? 濡れてないですか!?」

 静一はタオルを取り出しながら慌てて跪く。その横を黒い影が横切った。
 いつの間にか、樹氷が高山の手首を掴んでいる。

「円、この手はなんだ?」

「樹氷には、もう関係な……」

「いいからみせなさい」

 静かだが威圧感のある声を受け、黒縁眼鏡の奥で長い睫毛が伏せられた。

「……うん」

 短い返事だけを残して、二人は客室へ繋がる廊下へ消えていく。
 しばらくの間、ロビーには重苦しい旋律だけが響いていた。

「……いつまで這いつくばってんのよ」

 不意に頭上から力ない声が零れた。顔を上げるとイツキが腕を組んでいた。その顔から先ほどまでの憤りに満ちた高圧的な表情は消えている。

「アンタ達も部屋取ってあるんでしょ? ほら、行くわよ」

 消え入りそうな声に促され、静一は手にしたタオルで軽く床を拭きボトルを拾って立ち上がった。

「これ以上、アタシを惨めにしないでちょうだい」

 受付に向かう小柄で華奢な後ろ姿は微かに震えているように見えた。
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