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美しくなければ
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「このたびは、まことに申し訳ございませんでした」
部屋の玄関で樹氷が深々と頭を下げている。その様子に静一は講習会での出来事を思い出した。ただ一つ違っていることは。
「いえ、そんなことは。どうか頭を上げてください」
「いいのよ静一、そんな頭ずっと下げさせとけば! さ、中で飲み直しましょう!」
イツキがこちらの肩を持っていることだろう。
頼もしくもあるが今は二人で話をしたい。
「イツキさん、すぐに向かうので先に戻って飲んでいてください」
「そ、じゃあお言葉に甘えるわね。アンタもそんな奴放っておいて早く来なさいよ」
小柄な身体がフラついた足取りで部屋のなかに戻っていく。それとほぼ同時に上げられた顔には苦々しい表情が浮かんでいた。
「また、イツキを傷つけてしまいましたね」
呟きからはどこか自責のようなものを感じる。実際に、イツキはハイペースでシャンパンをあおるくらいに自棄になっていた。しかし、いま追及したいのはそこではない。
「あの、細川先生」
「なんでしょうか? などと問うのは空々しいですね」
向かい合った顔に苦笑いが浮かぶ。
「円のこと、ですよね」
「はい。今日のこと、それに今までのことも伺いたいので」
言葉を止めて内扉から中を覗くと、イツキはベッドに横たわり目を閉じていた。これなら、痴話喧嘩が勃発することもないだろう。
「ひとまず中へどうぞ」
「失礼いたします」
静一は部屋に移動すると樹氷をソファーへ座らせ、自分は部屋に備え付けられていた踏み台に腰を掛けた。
「すみません、気を遣わせてしまって」
「いえ、お気になさらずに。それで、高山さんの状態は?」
「今は施術も済んで部屋で眠っていますよ」
「施術?」
「はい。こう見えても、本業は鍼灸等の東洋医学なもので」
苦笑いとともに黒い着流しの袂からステンレスのケースが取り出された。光り輝く蓋には青漆色の文字で「氷川鍼灸整骨院」と印字されている。
「今回は軽い症状だったので、このまま少し休めば手は問題なく動くようになるかと」
「そうですか」
「出来れば、今日は縄……、とくに吊りは止めていただけるとありがたいのですが」
「そう、ですよね」
軽く頷くと、ええ、という短い返事が零れた。
それからしばらく、部屋の中には微かな寝息だけが響いた。
「講習会では、失礼いたしました」
「え?」
不意に樹氷が沈黙を破った。
「円、平川さんになにも教えていなかったのですね」
呟きが胸を痛打する。
期待に応えられるように縄の腕を磨いてはきた。それに対して労いの言葉も掛けられてきた。
それでも、信頼までは得られなかった。
「すみません。牽制のようになってしまいましたか」
謝罪とともに、眉をひそめた笑みが浮かぶ。
「いえ。高山さんは先生のことを慕っていたのでしょうし」
「そんなことはないですよ。身体が動かなくなるまで、不調を教えてもらえなかったのですから」
「それは言わずとも不調に気づいてくださると考えたから、ではないでしょうか」
その上で、自分を縛ることを止めないだろうとも。
「ははは、それは有り得そうですね。ああ、一服しても?」
「はい、どうぞ」
「どうも」
軽い会釈の後、帯に下げた煙草入れからマッチと弓矢が描かれた紙箱が取り出された。高山とはじめて言葉を交わしたときに購入したあの煙草だ。
関節の太くなった長い指が短い煙草を箱から口へと運び、マッチを擦って火を点ける。
「……それでも結局、私は円の期待には応えられなかった」
渋い煙とともに言葉が吐き捨てられた。
「身体に負担の少ない縛り方も編み出したのですが」
「あの動画の」
「ああ、ご覧になったことがあるのですね」
「ええ」
「自画自賛と呆れらるかもしれませんが、あのときの円も美しかったでしょう?」
「そう、ですね」
半面から覗く紅の引かれた唇、漆黒の肌襦袢の背に広がる緋の翅、吐息と衣擦れの音。
「画面から目が離せなくなるほどに」
「そう言っていただけると、緊縛師冥利に尽きます。実際のところ、告知は最小限、細川樹氷という名を伏せて、それでも配信を開始したら瞬く間に同時接続が増えていきました。最終的にショーで前にするのとは比べものにならないほど大勢の方に観ていただき、コメントも好意的なものばかりでしたよ」
華やかな話とは裏腹に樹氷の声は重々しい。
「それでも、円は」
再び渋い煙が吐き出され、関節の目立つ指がガラスの灰皿の底で煙草をにじる。
「決して笑んではくれなかった」
「……」
苦痛と恍惚に潤んだ目と弧を描く薄い唇。そんな笑みが見られるのは、意に沿った縄を施せたときだけだ。
幾何学模様を以て身体をきつく戒める縄。
そこに、受け手への配慮などは求められていない。
「今の縄でも充分に評価される、納得がいかないのならもう一緒にいられない。そう伝えると円は私の元を去っていきました」
「そう、だったのですか」
「ええ。結局私は円にとって、理想的な縄を纏うための道具でしかなかったんです」
自嘲的な言葉と共に淋しげな笑みが浮かぶ。
きっと自分も同じように、調整中の道具程度にしか思われていないのだろう。
それでも、構わないと思っていた。
ただし、使い主の身体を蝕んでいいとは思えない。
そうだとしても、使い主の望みは。
「細川先生、ひとつ伺いたいことが」
逡巡のなか、自然と言葉が零れた。
「なんでしょうか?」
「高山さんは、なぜ、そこまでして先生の縄を纏い続けたかったのでしょうか?」
「そう、ですね」
紙箱から二本目の煙草が取り出され火が点けられる。
「私も円が去っていくとき、同じ質問をしました」
深い息とともに渋い煙が吐き出された。
「そのときは、『美しくなければ、存在している意味なんてないから』という答えが返ってきましたよ」
「美しく、なければ?」
「はい。ただ、なぜそんな考えに至ったかまでは聞くことが出来ませんでした。円の顔がいつもより、悲しげ……いえ、怯えているようにすら見えたので」
「……そうですか」
過去になにかがあったことは容易に想像できた。しかし、それが何なのか。樹氷すら知り得なかったことが自分に明かされるはずもない。
不意にどこか遠くを眺めながら紫煙をくゆらせる横顔が脳裏に浮かんだ。
きっと、この先もあの漆黒の目に誰かが写ることはない。
なぜかそんな気がする。
「他にお聞きになりたいことは?」
「いえ」
「そうですか。さて、と」
樹氷は煙草を灰皿に軽く押しつけ、腕時計に目を移した。
「そろそろ円も起きると思いますんで、傍に居てあげてください」
「分かりました。部屋はどちらに?」
「六○五号室です。フロントでマスターキーを借りてきたので問題なく入れるかと」
「すみません、ありがとうございます」
「いえいえ。ああ、それと今日は二部屋ともこちらで払っておきますので」
「重ね重ねありがとうございます」
「お気になさらず。それより、くれぐれも円のことをお願いしますね」
「……はい」
静一は鍵を受けとると背中に視線を感じながら部屋を後にした。廊下には受付とおなじくベリオールズの交響曲が流れている。足取りは自然と重くなる。
部屋の内扉を開けるとい草の香りを感じた。吊り床がとりつけられた梁がめぐる天井の下、青々とした畳に設置された寝台で高山は横になっていた。掛け布団越しに薄い胸が上下している。まだ深く眠っているのだろう。
「失礼します」
軽く頭を下げ足音を立てずに寝台に近づく。
伏せられた長い睫毛、歪みのない鼻梁、艶やかな薄い唇、滑らかな肌。
「……貴方は、縄を纏わなくても美しいのに」
「……」
返事はない。深い眠りの淵に呟きは届かなかったのだろう。
それにたとえ届いていたとしても、今の言葉が高山にとってなんの価値も持たないことは、静一にも分かっている。
それから十分ほどして薄いまぶたが開いた。
「おはようございます」
「……おはよう」
漆黒の瞳が辺りをおもむろに見回す。
「樹氷は?」
「まだ、僕たちが予約した部屋にいると思います」
「そう」
高山は枕元の眼鏡をかけながら上半身を起こした。
「何か言われた?」
「今日は縄は止めるように、と」
「ふぅん」
レンズ越しの虚ろな視線の先で滑らかな細い指が数度動かされる。
「受け手を美の極限へ至らせられるのなら」
かつて樹氷が残した言葉。
それに続く言葉も今望まれている行動も、分かりきっている。
ただ、応え続ければ目の前の指は。
「……すみません。先ほど少しアルコールをいただいてしまったので、今日は、もう」
「……そう」
高山は寝台から起き上がりシャツの乱れを軽く直した。
「なら、俺は帰るから」
「あの、鞄お持ちしましょうか?」
「別に、必要ない」
姿勢のいい後ろ姿が立ち止まらずに玄関へ向かっていく。
静一は伸ばしかけた手を握りしめて口を噤んだ。
部屋の玄関で樹氷が深々と頭を下げている。その様子に静一は講習会での出来事を思い出した。ただ一つ違っていることは。
「いえ、そんなことは。どうか頭を上げてください」
「いいのよ静一、そんな頭ずっと下げさせとけば! さ、中で飲み直しましょう!」
イツキがこちらの肩を持っていることだろう。
頼もしくもあるが今は二人で話をしたい。
「イツキさん、すぐに向かうので先に戻って飲んでいてください」
「そ、じゃあお言葉に甘えるわね。アンタもそんな奴放っておいて早く来なさいよ」
小柄な身体がフラついた足取りで部屋のなかに戻っていく。それとほぼ同時に上げられた顔には苦々しい表情が浮かんでいた。
「また、イツキを傷つけてしまいましたね」
呟きからはどこか自責のようなものを感じる。実際に、イツキはハイペースでシャンパンをあおるくらいに自棄になっていた。しかし、いま追及したいのはそこではない。
「あの、細川先生」
「なんでしょうか? などと問うのは空々しいですね」
向かい合った顔に苦笑いが浮かぶ。
「円のこと、ですよね」
「はい。今日のこと、それに今までのことも伺いたいので」
言葉を止めて内扉から中を覗くと、イツキはベッドに横たわり目を閉じていた。これなら、痴話喧嘩が勃発することもないだろう。
「ひとまず中へどうぞ」
「失礼いたします」
静一は部屋に移動すると樹氷をソファーへ座らせ、自分は部屋に備え付けられていた踏み台に腰を掛けた。
「すみません、気を遣わせてしまって」
「いえ、お気になさらずに。それで、高山さんの状態は?」
「今は施術も済んで部屋で眠っていますよ」
「施術?」
「はい。こう見えても、本業は鍼灸等の東洋医学なもので」
苦笑いとともに黒い着流しの袂からステンレスのケースが取り出された。光り輝く蓋には青漆色の文字で「氷川鍼灸整骨院」と印字されている。
「今回は軽い症状だったので、このまま少し休めば手は問題なく動くようになるかと」
「そうですか」
「出来れば、今日は縄……、とくに吊りは止めていただけるとありがたいのですが」
「そう、ですよね」
軽く頷くと、ええ、という短い返事が零れた。
それからしばらく、部屋の中には微かな寝息だけが響いた。
「講習会では、失礼いたしました」
「え?」
不意に樹氷が沈黙を破った。
「円、平川さんになにも教えていなかったのですね」
呟きが胸を痛打する。
期待に応えられるように縄の腕を磨いてはきた。それに対して労いの言葉も掛けられてきた。
それでも、信頼までは得られなかった。
「すみません。牽制のようになってしまいましたか」
謝罪とともに、眉をひそめた笑みが浮かぶ。
「いえ。高山さんは先生のことを慕っていたのでしょうし」
「そんなことはないですよ。身体が動かなくなるまで、不調を教えてもらえなかったのですから」
「それは言わずとも不調に気づいてくださると考えたから、ではないでしょうか」
その上で、自分を縛ることを止めないだろうとも。
「ははは、それは有り得そうですね。ああ、一服しても?」
「はい、どうぞ」
「どうも」
軽い会釈の後、帯に下げた煙草入れからマッチと弓矢が描かれた紙箱が取り出された。高山とはじめて言葉を交わしたときに購入したあの煙草だ。
関節の太くなった長い指が短い煙草を箱から口へと運び、マッチを擦って火を点ける。
「……それでも結局、私は円の期待には応えられなかった」
渋い煙とともに言葉が吐き捨てられた。
「身体に負担の少ない縛り方も編み出したのですが」
「あの動画の」
「ああ、ご覧になったことがあるのですね」
「ええ」
「自画自賛と呆れらるかもしれませんが、あのときの円も美しかったでしょう?」
「そう、ですね」
半面から覗く紅の引かれた唇、漆黒の肌襦袢の背に広がる緋の翅、吐息と衣擦れの音。
「画面から目が離せなくなるほどに」
「そう言っていただけると、緊縛師冥利に尽きます。実際のところ、告知は最小限、細川樹氷という名を伏せて、それでも配信を開始したら瞬く間に同時接続が増えていきました。最終的にショーで前にするのとは比べものにならないほど大勢の方に観ていただき、コメントも好意的なものばかりでしたよ」
華やかな話とは裏腹に樹氷の声は重々しい。
「それでも、円は」
再び渋い煙が吐き出され、関節の目立つ指がガラスの灰皿の底で煙草をにじる。
「決して笑んではくれなかった」
「……」
苦痛と恍惚に潤んだ目と弧を描く薄い唇。そんな笑みが見られるのは、意に沿った縄を施せたときだけだ。
幾何学模様を以て身体をきつく戒める縄。
そこに、受け手への配慮などは求められていない。
「今の縄でも充分に評価される、納得がいかないのならもう一緒にいられない。そう伝えると円は私の元を去っていきました」
「そう、だったのですか」
「ええ。結局私は円にとって、理想的な縄を纏うための道具でしかなかったんです」
自嘲的な言葉と共に淋しげな笑みが浮かぶ。
きっと自分も同じように、調整中の道具程度にしか思われていないのだろう。
それでも、構わないと思っていた。
ただし、使い主の身体を蝕んでいいとは思えない。
そうだとしても、使い主の望みは。
「細川先生、ひとつ伺いたいことが」
逡巡のなか、自然と言葉が零れた。
「なんでしょうか?」
「高山さんは、なぜ、そこまでして先生の縄を纏い続けたかったのでしょうか?」
「そう、ですね」
紙箱から二本目の煙草が取り出され火が点けられる。
「私も円が去っていくとき、同じ質問をしました」
深い息とともに渋い煙が吐き出された。
「そのときは、『美しくなければ、存在している意味なんてないから』という答えが返ってきましたよ」
「美しく、なければ?」
「はい。ただ、なぜそんな考えに至ったかまでは聞くことが出来ませんでした。円の顔がいつもより、悲しげ……いえ、怯えているようにすら見えたので」
「……そうですか」
過去になにかがあったことは容易に想像できた。しかし、それが何なのか。樹氷すら知り得なかったことが自分に明かされるはずもない。
不意にどこか遠くを眺めながら紫煙をくゆらせる横顔が脳裏に浮かんだ。
きっと、この先もあの漆黒の目に誰かが写ることはない。
なぜかそんな気がする。
「他にお聞きになりたいことは?」
「いえ」
「そうですか。さて、と」
樹氷は煙草を灰皿に軽く押しつけ、腕時計に目を移した。
「そろそろ円も起きると思いますんで、傍に居てあげてください」
「分かりました。部屋はどちらに?」
「六○五号室です。フロントでマスターキーを借りてきたので問題なく入れるかと」
「すみません、ありがとうございます」
「いえいえ。ああ、それと今日は二部屋ともこちらで払っておきますので」
「重ね重ねありがとうございます」
「お気になさらず。それより、くれぐれも円のことをお願いしますね」
「……はい」
静一は鍵を受けとると背中に視線を感じながら部屋を後にした。廊下には受付とおなじくベリオールズの交響曲が流れている。足取りは自然と重くなる。
部屋の内扉を開けるとい草の香りを感じた。吊り床がとりつけられた梁がめぐる天井の下、青々とした畳に設置された寝台で高山は横になっていた。掛け布団越しに薄い胸が上下している。まだ深く眠っているのだろう。
「失礼します」
軽く頭を下げ足音を立てずに寝台に近づく。
伏せられた長い睫毛、歪みのない鼻梁、艶やかな薄い唇、滑らかな肌。
「……貴方は、縄を纏わなくても美しいのに」
「……」
返事はない。深い眠りの淵に呟きは届かなかったのだろう。
それにたとえ届いていたとしても、今の言葉が高山にとってなんの価値も持たないことは、静一にも分かっている。
それから十分ほどして薄いまぶたが開いた。
「おはようございます」
「……おはよう」
漆黒の瞳が辺りをおもむろに見回す。
「樹氷は?」
「まだ、僕たちが予約した部屋にいると思います」
「そう」
高山は枕元の眼鏡をかけながら上半身を起こした。
「何か言われた?」
「今日は縄は止めるように、と」
「ふぅん」
レンズ越しの虚ろな視線の先で滑らかな細い指が数度動かされる。
「受け手を美の極限へ至らせられるのなら」
かつて樹氷が残した言葉。
それに続く言葉も今望まれている行動も、分かりきっている。
ただ、応え続ければ目の前の指は。
「……すみません。先ほど少しアルコールをいただいてしまったので、今日は、もう」
「……そう」
高山は寝台から起き上がりシャツの乱れを軽く直した。
「なら、俺は帰るから」
「あの、鞄お持ちしましょうか?」
「別に、必要ない」
姿勢のいい後ろ姿が立ち止まらずに玄関へ向かっていく。
静一は伸ばしかけた手を握りしめて口を噤んだ。
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