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序章 異世界召喚
十八話 焔に沈む
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——ゴォォォオオオッ!!
孤児院だった建物はすでに燃え落ち、今はただ、赤い炎が天を舐めるだけの瓦礫の山と化した。
崩れ落ちた梁、砕け散った壁、舞い上がる火の粉。近づくだけで皮膚を焦がす環境である。その中心に、エドはひとり立っていた。
子ども達は炎の中に消えた。多分、死んだと思う。しかし、まだ、希望はある。
レンとソフィアがその炎の向こうへと走り去っていたのだ。
もう姿は見えない。声も聞こえない。気配すらない。
だが、エドはそちらを目で追うこともしなかった。
「……逃げ切ったはずだ。アイツらなら」
だから、振り返る必要はない。
目の前にいるのは——魔女に従順な、巨大なワイバーン。
炎に照らされ、鱗が黒く染まる。
その双眸は、理など欠片も通じない、純然たる魔物のそれだった。
「さて……クソトカゲ。相手はオレだ」
そう言って、エドは彼の"武機"である『轟海反魔』の柄を強く握りしめる。
「グルアァァァァッ!!!」
そして、ワイバーンの咆哮と共に、彼は走り出した。
◇
"ワイバーン"。それは、魔物の中でもとりわけて恐るべき存在だ。
もちろん、世界にはそれ以上の怪物がごまんといる。
"ドラゴン"に"ロックバード"、"デーモン"……それから、過去に海上で出会った巨大なタコの怪物。ああいう連中は、規格外という言葉すら生ぬるい。
しかし、それらと邂逅する機会というのは極めて稀だ。
だが、ワイバーンは違う。
奴らは森、荒野、山岳、火山地帯など様々な場所に環境適応している。
そのため、人の暮らす領域にも平然と姿を見せる。
結果として、ドラゴンよりも、ロックバードよりも、はるかに多くの命がワイバーンに奪われていた。
だからこそ、人はワイバーンを恐れる。
滅多に出会わない伝説の怪物ではなく、現実的で、身近な死因のひとつだからだ。
「にしたってコイツぁ、規格外だがなぁ!」
叫びながら、"武機"を振るう。
そうして、直撃したはずの攻撃は、硬い鱗によって弾かれる。
「クソがっ!」
ワイバーンは低く唸り、炎の揺らめく地を踏みしめながら距離を詰めてくる。
こんな化け物が、よりにもよって——ルミナに。
奥歯がきしむ。
「ったく、こんな長閑なとこに出てくるタマかよ、オメェは!」
ルミナは小さな村だ。
湧き水が豊富で森も穏やか。そして、魔物は弱いものばかり。
ワイバーンなんて、場違いにも程がある。
本来なら、決して来るはずがない。
だというのに。
「どう考えても、そこら辺に生息していたって訳じゃねぇだろ」
ワイバーンは体躯を沈め、獲物を狙う獣の構えを取る。
その瞳は獰猛に光りながらも、どこか人の意志を宿したような、歪な焦点をしていた。
オレは嫌でも理解する。
「魔女に……仕えてる、ってのか?」
魔物が魔女に仕える事があるという話は聞いたことがある。
だが、それはあくまで雑魚に限った話だ。
理由は単純。
支配される側と支配する側に、圧倒的な力の差がなければ成立しない。
だからこそ、言い切れる。
こんな強大な魔物が、誰かの下にいることなど——本来、ありえない。
「……理解が追いつかねぇな」
額から汗が落ちた。
奴は単なる魔物ではない。
鋭く、荒々しい中にも妙な統率があった。
……そんな化け物を従えてるってことはよ。
視線の先、火の粉の向こうで、デルタと対峙している"魔女"が、漆黒の炎を纏っていた。
「……おいおい……なんだよ、アレは」
オレは笑うしかなかった。
魔女と呼ばれる存在を何度か見たことがある。
どれも脅威と呼ばれるに相応しい、強大な力を持った"魔物"だった。それでも、オレから見たヤツらは常識の範疇。
だが、今回は違う。
あんなデタラメなワイバーンを従えるようなヤツ、災害そのものじゃねぇか……!
全身の産毛が逆立つ。
「——ッ!」
恐怖を身体が意識し始めた時、そんな隙すら容赦なく断ち切るように、ワイバーンが跳んだ。
「グァルルルルァァッ!!」
獣じみた咆哮とともに、弾丸のような巨体が突進してくる。
「クソっ……考え事してる暇はねぇってわけかよ!」
オレは反射で地を蹴る。
直後、さっきまでいた場所をワイバーンの翼が薙ぎ払い、瓦礫と炎を乱暴に吹き飛ばした。
「っぶねぇな、おい!」
そう言って、『轟海反魔』を担ぎなおす。
対して、ワイバーンは翼を広げ、高温の火を吐き出す準備を始めた。
喉奥の赤が膨張する。
炎が空気を揺らし、頬に熱波が刺さる。
「へっ、火遊びはもう飽きたっての……!」
オレは跳んだ。
その直後。
——ゴウウウウウッ!!!
炎の奔流が地面を焼き、瓦礫を溶かし、孤児院跡地に再び火柱を生む。
しかし、オレの姿は炎の正面にはない。
正面から突っ込むつもりなど、最初からなかった。
「横がガラ空きだぞ……!」
炎を吐き続けるワイバーンの脇腹へ、渾身の槌が振り抜かれた。
そして、確かな破壊音が響く。
ワイバーンの鱗が砕け、肉がへこみ、大きくよろめく。
だが。
その尻尾が、反射的にエドへ襲いかかる。
「っ……!」
今度はワイバーンがオレの脇腹をひっぱたき、体は瓦礫へと吹き飛ばされた。
石が砕け、血が散る。
「が……はっ……!」
だが、倒れ込んだままでは終わらない。
エドは荒い息を吐きながらも沈む炎の中から立ち上がった。
「……まだだ。まだ終われねぇ」
先ほどの一撃をあと何回入れれば、コイツは倒れるだろうか。
先ほどの一撃をあと何回受けても、オレは耐えられるだろうか。
考えるほど、明確な片側に恐怖を覚える。
「……でもよ」
エドは血を拭い、口角をわずかに吊り上げた。
「倒すしかねぇんだ、オレが……!」
その瞬間、ワイバーンが岩盤を踏み砕きながら跳んだ。
巨体のわりに、ありえない速さだ。
「ッ!」
エドは地を蹴り、わずかに身を避ける。
だが、避けきれなかった。
鋭い爪が肩口を浅く裂いた。
「ぐっ……!」
皮膚が裂け、血が熱を帯びて軽く滴る。
ほんのかすり傷。
しかし、直撃していれば、腕が吹き飛んでた。
「はっ……冗談きつすぎだろ、オマエ」
ワイバーンは距離を詰めながら、喉奥で熱を鳴らす。
火炎か、突進か、それとも尾か。
次は何が来るのかと身構える。
「グルルルゥッ!」
突然、予想外の攻撃が飛んでくる。
ワイバーンの顎が、地面を引き裂くように突き出され、オレを噛み砕こうしていた。
「……まじかよっ!」
反射で身体をひねり、エドはぎりぎりでその噛みつきをかわす。
顎が通り過ぎた瞬間、地面が爪の衝撃でえぐられ、火花が散った。
「危ねぇ、危ねぇ……!」
しかし、その予想外の攻撃は、逆にチャンスでもあった。
ワイバーンは噛みつこうと体を伸ばしたため、脇腹が無防備になっている。
——ここだ。
エドは呼吸を整え、足を踏み込み、槌を握り直す。
炎と煙の中、僅かに見えるワイバーンの脇腹。目を閉じず、狙いを定める。
「喰らえ! 《破撃式:滅砕》ッ!!!」
槌を渾身の力で振り上げる。
鱗が砕けるとともに、重低音の衝撃が地面を揺らした。
「クルルッ……!」
ワイバーンが大きくよろめく。
その瞬間、エドは息を整え、次の一撃の準備に体を構える。
「まだだッ!」
そうして、ニ撃三撃とここらに生息する魔物であれば、致命傷となる一撃を何度も喰らわせる。
殴るたびに、ワイバーンは痛みを鳴き声に乗せた。しかし、いくら殴っても決定打が入っているといった様子はない。
「おい、しつけぇぞ! クソトカゲッ!」
叫びながらも、手は止めず。もはや、何度殴ったかもわからない。
その度に聞こえる悲鳴に良心が痛む……なんてことはないが、次第に攻撃の手が、遅くなっていった。
腕が、石を抱えたように重い。
握ったハンマーが、まるで誰かに引き戻されているかのように、思うように振れない。
——オレももう歳か。昔ならもっとやれた。あと百発くらいは平然と振り抜けただろう。
そう思いながら、オレは短く鼻で笑った。
だが、次の瞬間。
身体の動きが、完全に止まった。
「……ぁ?」
歳だとしても、これはおかしい。
疲労で動けないとかいう次元じゃない。筋肉に力が入らない。感覚が抜け落ちていく。
心臓の鼓動が、妙に遠く聞こえた。
「なん……だ……?」
膝が勝手に落ちる。
そうして、瓦礫に触れたはずの手は、自分のものじゃないみたいだった。
視界の端がじわりと黒く染まる。
炎も、瓦礫も、ワイバーンの影も、全部が歪んで距離感を失っていく。
「……くそ……待て……っ……まだ……」
倒れる。
止めようとしても無駄だった。
額が熱い破片に触れ、頬に灰が貼りつき、呼吸のたび胸が苦しくなる。
そして、皮膚の下がじんわりと焼けるように熱くなった。
そして、オレは何が起きているのか、理解する。
——あぁ、なんだよ。クソ。
ワイバーンはオレの攻撃を何発受けても、倒れなかった。
オレはワイバーンの攻撃を一発受けて……負けた。
——はぁ……。こりゃあ、オレ、死んだな。……まぁ、悪くない人生だった。
ズシン、ズシン。
——最期が戦いってのは癪だが、守るために戦えたのは良かった。
ミシッ……ミシミシミシン……。
——あぁ、ソフィアちゃんに、レン……ちゃんと逃げられただろうな。もし、ちゃんと逃げられたんなら、それでい
ぐしゃ。
そうして、エドとワイバーンの戦いは勝負を決した。
◇◇◇
——最初に動いたのは、魔女だった。
「燃え尽きろッ! 《エンバーリビアンス》ッ!!」
叫びと同時に、魔女の足元の炎が爆ぜる。
その後、大地から赤い火柱が無数に伸び、灼熱の蛇の群れのように触れたものすべてを呑み込もうと蠢いていた。
「しつこいですね」
この地獄とも言える光景を前に、デルタは眉一つ動かさない。
彼女は音楽の巨匠がバラードを指揮するかのように、小さく腕を振った。
その動きに連動して彼女の"武機"である『聖罰禍槌』は周囲を大きく飛び回る。
結果、デルタは最小限の動きで、イラリアの放った炎の魔法を相殺した。
「チッ。怪力女が……」
魔女は舌打ちを鳴らしながらも、火柱を上げ続けた。
火柱は意志を持って動いているかの如く、飛び回り、焼き払う。
そして、瓦礫が焦げ落ちる音の中でデルタは静かだった。
炎は踊り狂い、空気は焼け、視界には赤黒い揺らぎが満ちているというのに……たった一人、この空間で彼女だけが炎に支配されていない。
「これで、終わりですか?」
デルタは全ての火柱を"武機"で迎え撃ち、魔女に向かって首を傾げる。
「舐めやがって……ッ!」
イラリアは歯ぎしりしながら炎を練り直す。
だが、デルタはすでに踏み込んだ勢いだけで距離を詰め終えていた。
「……な」
イラリアの言葉が終わる前に、デルタの腕が動いた。
「——《聖罰式:怪》」
その動きは、戦闘とは思えないほど静謐で、洗練された所作だった。
そして、『聖罰禍槌』に刻まれた紋様が白く光り、空気の色が変わる。
そのまま、金属の塊は弧を描いて雷鳴のような衝撃音とともに空気を振動させて、イラリアへと叩き込まれた。
「——ガッ、ァァァっ!!」
天罰のような一撃を受け、魔女の身体が空中を跳ねるように吹き飛び、崩れた壁を何枚も突き破ってようやく地に転がる。
周囲の炎すら、一瞬、衝撃でかき消されたかのようであった。
デルタは揺らぐ炎を掻き分けるように歩き、倒れ伏すイラリアを見下ろす。
「これ以上、子ども達を炎の中に閉じ込めて置くわけにはいきません。ここで終わりです」
その言葉には、静かな怒りがあった。
イラリアは荒い呼吸をしながら、その瞳に憎悪を宿す。
「……ふ、ふふ……終わり……?」
灰で汚れた唇が歪む。
「アナタ……まさか……自分が勝ったと……思ってる?」
デルタは無言のまま、槌を構え直す。
とどめを刺すつもりだった。
しかし、それは叶わない。
「……甘いわよ。聖女崩れが」
瞬間、黒い炎がイラリアの胸元から噴き出す。
「アハ、アハハ……あぁ、許せない。許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せないぃィィイ!!!」
黒炎はまるで生き物かのようにイラリアの四肢へ絡みつき、自らを燃やす。
そうして、炎の光がその輪郭をぼやかすたびに、イラリアの身体がわずかに伸び、削れ、歪む。
「……これは」
目の前で暴走する黒炎を前に、デルタはわずかに眉を寄せた。
彼女は魔法の細かな理論には詳しくない。彼女にとって魔法とは、そもそも理を踏み越えた悪しき力という認識でしかないからだ。
それでも、最低限の知識はある。
魔法は強力だが、決して無秩序ではない。
火・水・風・雷……種類は限られており、見慣れない術であっても、性質さえ掴めば対処はできる。
初見殺しといえど、結局は分類できる現象のひとつにすぎない。
——本来なら。
しかし、その枠組みから外れた現象が、ごく稀に存在する。
"固有魔法"。
臨界点を超えた魔物だけが扱えると言われる、奇術。
既存の魔法とは一線を画し、発動の瞬間まで性質すら掴めない。
受けてから初めて理解できる——そんな悪夢のような力。
黒炎のうねりは、まさにそれだ。
説明のしようがない、侵食の気配。
イラリアは、まさしく固有魔法の使い手だった。
「あぁ、許せない。全てが許せない。ワタシから、全てを奪ったこの世界が、許せない!
黒き炎に包まれて、掠れた声で魔女は続ける。
「怒りが。恨みが。憎しみが。溢れて溢れて止まらない!」
炎の中で魔女は叫ぶ。
「ワタシは全てを奪われた! だから、ワタシも全てを奪い返すの!」
そして、完成。漆黒の炎の怪物。
「オマエモワタシモ、スベテノミコンデ……"姉さん"ヘノタムケニシテヤルッ!!!!」
イラリアの腕が長く伸び、黒炎の触手が地を這う。
その軌跡が黒い痕として残り、周囲の瓦礫が砂のように崩れ落ちる。
デルタは槌を握り直し、静かに息を吐いた。
「……ならば」
黒炎の咆哮にも似た轟音が響き渡る中、デルタの声だけが不思議と澄んでいた。
「アナタの怒りは——ここで止めます」
黒炎が、再び爆ぜた。
◇◇◇
どれほどの時間が経ったのだろうか。
一刻だったかもしれないし、一律だったかもしれないし……はたまた、一滴だったかもしれない。
とにかく、どうやら、ワタクシの戦いはここで終わったようだ。
黒く濁った天を仰ぎ、全く体を動かせずにいる中で、チラリと右を向けば、黒き炎を消し去った魔女の姿が見える。
彼女はぜぇぜぇと息を切らしながら、ゆっくり……ゆっくりとこちらへと向かってきていた。
——レンはソフィアを逃してくれたでしょうか。
——彼女はこの先も、生きて行けるのでしょうか。
——ソフィア、リオ、リエル、ラーファ、ルーチア、フィナ、クララ……それに、レン。
——ワタクシはアナタ達の母親になれていたのでしょうか。
——もっと笑っていたかったです。もっと色々教えてあげたかったです。もっと一緒にいたかったです。
死を直感するワタクシの心は沢山の感情を叫んでいた。
その中に、死にたくないとか、痛いのは嫌だとか、そういった恐怖は含まれていない。
頭を埋め尽くすのは、家族のこと。
そして、ふらふらと歩幅の合わない足音が目の前で止まった。
見下す彼女と目線が合う。
彼女は何も言わないまま、ゆっくりとワタクシの方へと手を伸ばした。
そうして、そのまま……動けないワタクシの首を両の手で締め上げる。
「ヴ……グッ……」
軽く漏れる嗚咽にも動じず、彼女は一切力を変えずに、ただ淡々と殺している。
そうして、思考を絞られる。
リオのことをリエルのことをラーファのことをルーチアのことをフィナのことをクララのことをレンのことを考えられなくなって……ただ、一つだけが頭の中に残った。
「ごめ、んな……さ……」
「は?」
黙っていた魔女が、小さく漏らす。しかし、これは彼女に向けたものではない。
あぁ、ソフィア。ごめんなさい、ソフィア。
アナタの母親を殺したのは——。
「詫びるってんなら、死んでも詫びろ。処刑人が」
ワタクシの意識は、魔女の言葉を最後に途切れた。
◇◇◇
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……!!」
俺はソフィアを背負い、彼女の"武機"を引き摺りながら、必死になって森の中を走っていた。
「ぐっ……あぁ……。はぁっ……!」
涙なのか汗なのか分からない熱いものが目の端を伝う。
喉は焼け、肺は悲鳴を上げ、それでも足は止まらない。
「逃げなきゃ……逃げなきゃ……っ」
もはや、どこに向かっているかなど分からない。
ただ——ソフィアを抱えて走ることだけが、今の俺にできる唯一のことだった。
「ッ……頼む……頼むから……っ」
木々の間を縫うように走りながら、俺は何度も何度も願う。
ソフィア。どうか、間に合ってくれ。
みんな。どうか……無事でいてくれ。
しかし、背後から聞こえてくる音は……その祈りを嘲笑うかのようであった。
ズドォォォォンッ!!
大地そのものが揺れるような低い爆音。
遅れて、耳をつんざくような金属の衝撃音が、空気を震わせて森の奥まで響く。
それはただの戦闘音ではない。何かが、壊れている音だ。
振り返ることが出来ない。
振り返れば、足が止まる。
足が止まれば——デルタさんの覚悟が無駄になる。
「……っくそ……!」
歯を食いしばり、俺はソフィアを抱きかかえ直した。
その身体は硬直しており、定期的にえずく様から生きていることを実感できる。
しかし、背が湿っていく感覚からも出血の量が尋常じゃないということは分かった。
このままいけば彼女は……。
「ソフィア……絶対に……離さないからな……!」
自分に言い聞かせるように言葉を紡ぎ、俺は必死で足を進める。
走る。考える暇もなく、ただ走った。
村から少しでも遠ざかれば、誰かに会えるかもしれない。
助けを呼べるかもしれない。
できることなら——ヤガネさんのような行商人の誰かが、たまたま通りがかってくれれば。
そんな淡い期待にすがりながら、俺は震える足にさらに力を込めた。
「……っは……はぁ……っ!」
木々が切れ、視界が開ける。
濃い影に覆われていた森を抜けた瞬間、俺は思わず目を見開いた。
すぐ先に——人影が、ある。
「っ……! よかった……!」
思わず安堵が漏れ、俺はその影に向けて駆け寄ろうとした。
だが。
あと数歩踏み込んだところで、足が凍りつく。
「……なんで、こんな時に……!」
そこにいたのは、人間じゃない。
ゴブリンだった。
群れではなく、ただ一体。
けれど——その一体は、今の俺にとって最悪の存在だった。
俺は息を呑む。
普通のゴブリンなら、ソフィアやデルタさんにとっては敵にもならないだろう。
だけど、普段ですら無能な俺は、現在、ソフィアを抱えて"武機"を引き摺り、全身が消耗しきった状態で、ただの武器すらまともに握れないのである。
目の前の一匹でさえ、充分すぎる脅威。
ゴブリンは、森の陰からこちらをじっと見ていた。
獲物を見つけた時特有の、いやらしい笑みを浮かべながら。
「……最悪だ……っ」
足は止まり、呼吸がさらに乱れる。
逃げられる距離ではない。
戦える状態でもない。
なのに——この一瞬でさえ、立ち止まれば、後方で戦うデルタさんの決意が無駄になってしまう。
「どうすりゃ……いいんだよ……!」
喉の奥が震えた瞬間。
ゴブリンが、にたりと笑い、棍棒を握りしめて一歩踏み出した。
「くそ……っ、ふざけんな……!」
逃げるしかなかった。
戦えば即死。
ソフィアを背負ったままでは、なおさらだ。
俺は咄嗟に方向を変え、再び森の奥へと駆け込む。
だが——
「ギャ゛ッ……ゴ、ゴロサナイ、ゴロ……ゴロゴロゴロゴロ!」
その耳障りな声とともに、背後から草を踏みしだく音が迫ってくる。
速い……いや、俺が遅いのだ。
「はぁ……っ、はぁ……っ、やめ……やめてくれよ……っ!」
それでも、懸命に走る。
しかし、足はもういうことを聞かなかった。
次の瞬間。
「ギャッ!」
鋭い掛け声とともに、背後から何かが迫った感覚があり……
「ッッッ!!?」
頭蓋の内側を揺さぶられるような衝撃が走る。
ゴブリンの棍棒が、俺の後頭部を打ち抜いたのだ。
視界が白く弾け、足がもつれ支えていたソフィアの身体が、俺の腕から滑り落ちていく。
「ソ……フィア……っ!!」
手を伸ばそうとしたが、遅い。
彼女は地面へ、静かに倒れ込む。
「う、あ……っ……」
膝が崩れ、俺は土の上に倒れ込んだ。
ゴブリンは、ゆっくりとソフィアの方へ歩き出す。
その背中が、俺の視界の端から離れていった。
——あぁ、駄目だ。絶対に。
「……やめろ……」
這うように手を伸ばし、必死に地面を掴む。
「やめろ……っ!」
震える手が、ゴブリンの足首に届いた。
ゴブリンは苛立ったように振り返り、俺の腕を蹴り飛ばす。
「ギャッ!!」
肋が軋む。
呼吸がつぶれる。
それでも、絶対に離さない。
「……やめろ、っ……ソフィアに……触るな……!」
もう声になっていなかった。それは、ただの呻きにしか聞こえなかったかもしれない。
ゴブリンはしばしこちらを見下ろし、何度も何度も俺を蹴りつけた。
何度も。何度も。何度も。何度も。
骨が砕け、肌は赤黒く染まり、顔面なんて酷い有様になっていたと思う。
そうして、暴力に飽きたゴブリンは諦めたように鼻を鳴らすと俺の身体を足首ごと掴み、そのまま地面をずるずると引きずり始めた。
「ぐっ……あっ……!」
森の土が頬を裂く。
指先から血がにじむ。
気づけば、俺はソフィアのすぐそばまで連れてこられていた。
彼女はぴくりとも動かない。
その胸は、かすかにしか上下していない。
ゴブリンは彼女へ手を伸ばした。
「……やめろ……やめろぉ……っ!」
俺は最後の力を振り絞り、掴んでいた足を、爪が剥がれる勢いで引っ掻いた。
「ギィアァッ!!?」
獣じみた悲鳴が上がり、ゴブリンの意識が完全に俺へ向いた。
怒りに染まった瞳が、俺を真上から射抜く。
——あ、これは死ぬやつだ。
理解した瞬間。
棍棒が、容赦なく俺の頭上に振り下ろされ……
「っ——」
世界が、暗闇に溶けた。
◇◇◇
そして、カトウレンは異世界にて事切れた。
これにて閉幕、バッドエンド。
しかし、"愛"はそれを拒んだのだった。
孤児院だった建物はすでに燃え落ち、今はただ、赤い炎が天を舐めるだけの瓦礫の山と化した。
崩れ落ちた梁、砕け散った壁、舞い上がる火の粉。近づくだけで皮膚を焦がす環境である。その中心に、エドはひとり立っていた。
子ども達は炎の中に消えた。多分、死んだと思う。しかし、まだ、希望はある。
レンとソフィアがその炎の向こうへと走り去っていたのだ。
もう姿は見えない。声も聞こえない。気配すらない。
だが、エドはそちらを目で追うこともしなかった。
「……逃げ切ったはずだ。アイツらなら」
だから、振り返る必要はない。
目の前にいるのは——魔女に従順な、巨大なワイバーン。
炎に照らされ、鱗が黒く染まる。
その双眸は、理など欠片も通じない、純然たる魔物のそれだった。
「さて……クソトカゲ。相手はオレだ」
そう言って、エドは彼の"武機"である『轟海反魔』の柄を強く握りしめる。
「グルアァァァァッ!!!」
そして、ワイバーンの咆哮と共に、彼は走り出した。
◇
"ワイバーン"。それは、魔物の中でもとりわけて恐るべき存在だ。
もちろん、世界にはそれ以上の怪物がごまんといる。
"ドラゴン"に"ロックバード"、"デーモン"……それから、過去に海上で出会った巨大なタコの怪物。ああいう連中は、規格外という言葉すら生ぬるい。
しかし、それらと邂逅する機会というのは極めて稀だ。
だが、ワイバーンは違う。
奴らは森、荒野、山岳、火山地帯など様々な場所に環境適応している。
そのため、人の暮らす領域にも平然と姿を見せる。
結果として、ドラゴンよりも、ロックバードよりも、はるかに多くの命がワイバーンに奪われていた。
だからこそ、人はワイバーンを恐れる。
滅多に出会わない伝説の怪物ではなく、現実的で、身近な死因のひとつだからだ。
「にしたってコイツぁ、規格外だがなぁ!」
叫びながら、"武機"を振るう。
そうして、直撃したはずの攻撃は、硬い鱗によって弾かれる。
「クソがっ!」
ワイバーンは低く唸り、炎の揺らめく地を踏みしめながら距離を詰めてくる。
こんな化け物が、よりにもよって——ルミナに。
奥歯がきしむ。
「ったく、こんな長閑なとこに出てくるタマかよ、オメェは!」
ルミナは小さな村だ。
湧き水が豊富で森も穏やか。そして、魔物は弱いものばかり。
ワイバーンなんて、場違いにも程がある。
本来なら、決して来るはずがない。
だというのに。
「どう考えても、そこら辺に生息していたって訳じゃねぇだろ」
ワイバーンは体躯を沈め、獲物を狙う獣の構えを取る。
その瞳は獰猛に光りながらも、どこか人の意志を宿したような、歪な焦点をしていた。
オレは嫌でも理解する。
「魔女に……仕えてる、ってのか?」
魔物が魔女に仕える事があるという話は聞いたことがある。
だが、それはあくまで雑魚に限った話だ。
理由は単純。
支配される側と支配する側に、圧倒的な力の差がなければ成立しない。
だからこそ、言い切れる。
こんな強大な魔物が、誰かの下にいることなど——本来、ありえない。
「……理解が追いつかねぇな」
額から汗が落ちた。
奴は単なる魔物ではない。
鋭く、荒々しい中にも妙な統率があった。
……そんな化け物を従えてるってことはよ。
視線の先、火の粉の向こうで、デルタと対峙している"魔女"が、漆黒の炎を纏っていた。
「……おいおい……なんだよ、アレは」
オレは笑うしかなかった。
魔女と呼ばれる存在を何度か見たことがある。
どれも脅威と呼ばれるに相応しい、強大な力を持った"魔物"だった。それでも、オレから見たヤツらは常識の範疇。
だが、今回は違う。
あんなデタラメなワイバーンを従えるようなヤツ、災害そのものじゃねぇか……!
全身の産毛が逆立つ。
「——ッ!」
恐怖を身体が意識し始めた時、そんな隙すら容赦なく断ち切るように、ワイバーンが跳んだ。
「グァルルルルァァッ!!」
獣じみた咆哮とともに、弾丸のような巨体が突進してくる。
「クソっ……考え事してる暇はねぇってわけかよ!」
オレは反射で地を蹴る。
直後、さっきまでいた場所をワイバーンの翼が薙ぎ払い、瓦礫と炎を乱暴に吹き飛ばした。
「っぶねぇな、おい!」
そう言って、『轟海反魔』を担ぎなおす。
対して、ワイバーンは翼を広げ、高温の火を吐き出す準備を始めた。
喉奥の赤が膨張する。
炎が空気を揺らし、頬に熱波が刺さる。
「へっ、火遊びはもう飽きたっての……!」
オレは跳んだ。
その直後。
——ゴウウウウウッ!!!
炎の奔流が地面を焼き、瓦礫を溶かし、孤児院跡地に再び火柱を生む。
しかし、オレの姿は炎の正面にはない。
正面から突っ込むつもりなど、最初からなかった。
「横がガラ空きだぞ……!」
炎を吐き続けるワイバーンの脇腹へ、渾身の槌が振り抜かれた。
そして、確かな破壊音が響く。
ワイバーンの鱗が砕け、肉がへこみ、大きくよろめく。
だが。
その尻尾が、反射的にエドへ襲いかかる。
「っ……!」
今度はワイバーンがオレの脇腹をひっぱたき、体は瓦礫へと吹き飛ばされた。
石が砕け、血が散る。
「が……はっ……!」
だが、倒れ込んだままでは終わらない。
エドは荒い息を吐きながらも沈む炎の中から立ち上がった。
「……まだだ。まだ終われねぇ」
先ほどの一撃をあと何回入れれば、コイツは倒れるだろうか。
先ほどの一撃をあと何回受けても、オレは耐えられるだろうか。
考えるほど、明確な片側に恐怖を覚える。
「……でもよ」
エドは血を拭い、口角をわずかに吊り上げた。
「倒すしかねぇんだ、オレが……!」
その瞬間、ワイバーンが岩盤を踏み砕きながら跳んだ。
巨体のわりに、ありえない速さだ。
「ッ!」
エドは地を蹴り、わずかに身を避ける。
だが、避けきれなかった。
鋭い爪が肩口を浅く裂いた。
「ぐっ……!」
皮膚が裂け、血が熱を帯びて軽く滴る。
ほんのかすり傷。
しかし、直撃していれば、腕が吹き飛んでた。
「はっ……冗談きつすぎだろ、オマエ」
ワイバーンは距離を詰めながら、喉奥で熱を鳴らす。
火炎か、突進か、それとも尾か。
次は何が来るのかと身構える。
「グルルルゥッ!」
突然、予想外の攻撃が飛んでくる。
ワイバーンの顎が、地面を引き裂くように突き出され、オレを噛み砕こうしていた。
「……まじかよっ!」
反射で身体をひねり、エドはぎりぎりでその噛みつきをかわす。
顎が通り過ぎた瞬間、地面が爪の衝撃でえぐられ、火花が散った。
「危ねぇ、危ねぇ……!」
しかし、その予想外の攻撃は、逆にチャンスでもあった。
ワイバーンは噛みつこうと体を伸ばしたため、脇腹が無防備になっている。
——ここだ。
エドは呼吸を整え、足を踏み込み、槌を握り直す。
炎と煙の中、僅かに見えるワイバーンの脇腹。目を閉じず、狙いを定める。
「喰らえ! 《破撃式:滅砕》ッ!!!」
槌を渾身の力で振り上げる。
鱗が砕けるとともに、重低音の衝撃が地面を揺らした。
「クルルッ……!」
ワイバーンが大きくよろめく。
その瞬間、エドは息を整え、次の一撃の準備に体を構える。
「まだだッ!」
そうして、ニ撃三撃とここらに生息する魔物であれば、致命傷となる一撃を何度も喰らわせる。
殴るたびに、ワイバーンは痛みを鳴き声に乗せた。しかし、いくら殴っても決定打が入っているといった様子はない。
「おい、しつけぇぞ! クソトカゲッ!」
叫びながらも、手は止めず。もはや、何度殴ったかもわからない。
その度に聞こえる悲鳴に良心が痛む……なんてことはないが、次第に攻撃の手が、遅くなっていった。
腕が、石を抱えたように重い。
握ったハンマーが、まるで誰かに引き戻されているかのように、思うように振れない。
——オレももう歳か。昔ならもっとやれた。あと百発くらいは平然と振り抜けただろう。
そう思いながら、オレは短く鼻で笑った。
だが、次の瞬間。
身体の動きが、完全に止まった。
「……ぁ?」
歳だとしても、これはおかしい。
疲労で動けないとかいう次元じゃない。筋肉に力が入らない。感覚が抜け落ちていく。
心臓の鼓動が、妙に遠く聞こえた。
「なん……だ……?」
膝が勝手に落ちる。
そうして、瓦礫に触れたはずの手は、自分のものじゃないみたいだった。
視界の端がじわりと黒く染まる。
炎も、瓦礫も、ワイバーンの影も、全部が歪んで距離感を失っていく。
「……くそ……待て……っ……まだ……」
倒れる。
止めようとしても無駄だった。
額が熱い破片に触れ、頬に灰が貼りつき、呼吸のたび胸が苦しくなる。
そして、皮膚の下がじんわりと焼けるように熱くなった。
そして、オレは何が起きているのか、理解する。
——あぁ、なんだよ。クソ。
ワイバーンはオレの攻撃を何発受けても、倒れなかった。
オレはワイバーンの攻撃を一発受けて……負けた。
——はぁ……。こりゃあ、オレ、死んだな。……まぁ、悪くない人生だった。
ズシン、ズシン。
——最期が戦いってのは癪だが、守るために戦えたのは良かった。
ミシッ……ミシミシミシン……。
——あぁ、ソフィアちゃんに、レン……ちゃんと逃げられただろうな。もし、ちゃんと逃げられたんなら、それでい
ぐしゃ。
そうして、エドとワイバーンの戦いは勝負を決した。
◇◇◇
——最初に動いたのは、魔女だった。
「燃え尽きろッ! 《エンバーリビアンス》ッ!!」
叫びと同時に、魔女の足元の炎が爆ぜる。
その後、大地から赤い火柱が無数に伸び、灼熱の蛇の群れのように触れたものすべてを呑み込もうと蠢いていた。
「しつこいですね」
この地獄とも言える光景を前に、デルタは眉一つ動かさない。
彼女は音楽の巨匠がバラードを指揮するかのように、小さく腕を振った。
その動きに連動して彼女の"武機"である『聖罰禍槌』は周囲を大きく飛び回る。
結果、デルタは最小限の動きで、イラリアの放った炎の魔法を相殺した。
「チッ。怪力女が……」
魔女は舌打ちを鳴らしながらも、火柱を上げ続けた。
火柱は意志を持って動いているかの如く、飛び回り、焼き払う。
そして、瓦礫が焦げ落ちる音の中でデルタは静かだった。
炎は踊り狂い、空気は焼け、視界には赤黒い揺らぎが満ちているというのに……たった一人、この空間で彼女だけが炎に支配されていない。
「これで、終わりですか?」
デルタは全ての火柱を"武機"で迎え撃ち、魔女に向かって首を傾げる。
「舐めやがって……ッ!」
イラリアは歯ぎしりしながら炎を練り直す。
だが、デルタはすでに踏み込んだ勢いだけで距離を詰め終えていた。
「……な」
イラリアの言葉が終わる前に、デルタの腕が動いた。
「——《聖罰式:怪》」
その動きは、戦闘とは思えないほど静謐で、洗練された所作だった。
そして、『聖罰禍槌』に刻まれた紋様が白く光り、空気の色が変わる。
そのまま、金属の塊は弧を描いて雷鳴のような衝撃音とともに空気を振動させて、イラリアへと叩き込まれた。
「——ガッ、ァァァっ!!」
天罰のような一撃を受け、魔女の身体が空中を跳ねるように吹き飛び、崩れた壁を何枚も突き破ってようやく地に転がる。
周囲の炎すら、一瞬、衝撃でかき消されたかのようであった。
デルタは揺らぐ炎を掻き分けるように歩き、倒れ伏すイラリアを見下ろす。
「これ以上、子ども達を炎の中に閉じ込めて置くわけにはいきません。ここで終わりです」
その言葉には、静かな怒りがあった。
イラリアは荒い呼吸をしながら、その瞳に憎悪を宿す。
「……ふ、ふふ……終わり……?」
灰で汚れた唇が歪む。
「アナタ……まさか……自分が勝ったと……思ってる?」
デルタは無言のまま、槌を構え直す。
とどめを刺すつもりだった。
しかし、それは叶わない。
「……甘いわよ。聖女崩れが」
瞬間、黒い炎がイラリアの胸元から噴き出す。
「アハ、アハハ……あぁ、許せない。許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せないぃィィイ!!!」
黒炎はまるで生き物かのようにイラリアの四肢へ絡みつき、自らを燃やす。
そうして、炎の光がその輪郭をぼやかすたびに、イラリアの身体がわずかに伸び、削れ、歪む。
「……これは」
目の前で暴走する黒炎を前に、デルタはわずかに眉を寄せた。
彼女は魔法の細かな理論には詳しくない。彼女にとって魔法とは、そもそも理を踏み越えた悪しき力という認識でしかないからだ。
それでも、最低限の知識はある。
魔法は強力だが、決して無秩序ではない。
火・水・風・雷……種類は限られており、見慣れない術であっても、性質さえ掴めば対処はできる。
初見殺しといえど、結局は分類できる現象のひとつにすぎない。
——本来なら。
しかし、その枠組みから外れた現象が、ごく稀に存在する。
"固有魔法"。
臨界点を超えた魔物だけが扱えると言われる、奇術。
既存の魔法とは一線を画し、発動の瞬間まで性質すら掴めない。
受けてから初めて理解できる——そんな悪夢のような力。
黒炎のうねりは、まさにそれだ。
説明のしようがない、侵食の気配。
イラリアは、まさしく固有魔法の使い手だった。
「あぁ、許せない。全てが許せない。ワタシから、全てを奪ったこの世界が、許せない!
黒き炎に包まれて、掠れた声で魔女は続ける。
「怒りが。恨みが。憎しみが。溢れて溢れて止まらない!」
炎の中で魔女は叫ぶ。
「ワタシは全てを奪われた! だから、ワタシも全てを奪い返すの!」
そして、完成。漆黒の炎の怪物。
「オマエモワタシモ、スベテノミコンデ……"姉さん"ヘノタムケニシテヤルッ!!!!」
イラリアの腕が長く伸び、黒炎の触手が地を這う。
その軌跡が黒い痕として残り、周囲の瓦礫が砂のように崩れ落ちる。
デルタは槌を握り直し、静かに息を吐いた。
「……ならば」
黒炎の咆哮にも似た轟音が響き渡る中、デルタの声だけが不思議と澄んでいた。
「アナタの怒りは——ここで止めます」
黒炎が、再び爆ぜた。
◇◇◇
どれほどの時間が経ったのだろうか。
一刻だったかもしれないし、一律だったかもしれないし……はたまた、一滴だったかもしれない。
とにかく、どうやら、ワタクシの戦いはここで終わったようだ。
黒く濁った天を仰ぎ、全く体を動かせずにいる中で、チラリと右を向けば、黒き炎を消し去った魔女の姿が見える。
彼女はぜぇぜぇと息を切らしながら、ゆっくり……ゆっくりとこちらへと向かってきていた。
——レンはソフィアを逃してくれたでしょうか。
——彼女はこの先も、生きて行けるのでしょうか。
——ソフィア、リオ、リエル、ラーファ、ルーチア、フィナ、クララ……それに、レン。
——ワタクシはアナタ達の母親になれていたのでしょうか。
——もっと笑っていたかったです。もっと色々教えてあげたかったです。もっと一緒にいたかったです。
死を直感するワタクシの心は沢山の感情を叫んでいた。
その中に、死にたくないとか、痛いのは嫌だとか、そういった恐怖は含まれていない。
頭を埋め尽くすのは、家族のこと。
そして、ふらふらと歩幅の合わない足音が目の前で止まった。
見下す彼女と目線が合う。
彼女は何も言わないまま、ゆっくりとワタクシの方へと手を伸ばした。
そうして、そのまま……動けないワタクシの首を両の手で締め上げる。
「ヴ……グッ……」
軽く漏れる嗚咽にも動じず、彼女は一切力を変えずに、ただ淡々と殺している。
そうして、思考を絞られる。
リオのことをリエルのことをラーファのことをルーチアのことをフィナのことをクララのことをレンのことを考えられなくなって……ただ、一つだけが頭の中に残った。
「ごめ、んな……さ……」
「は?」
黙っていた魔女が、小さく漏らす。しかし、これは彼女に向けたものではない。
あぁ、ソフィア。ごめんなさい、ソフィア。
アナタの母親を殺したのは——。
「詫びるってんなら、死んでも詫びろ。処刑人が」
ワタクシの意識は、魔女の言葉を最後に途切れた。
◇◇◇
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……!!」
俺はソフィアを背負い、彼女の"武機"を引き摺りながら、必死になって森の中を走っていた。
「ぐっ……あぁ……。はぁっ……!」
涙なのか汗なのか分からない熱いものが目の端を伝う。
喉は焼け、肺は悲鳴を上げ、それでも足は止まらない。
「逃げなきゃ……逃げなきゃ……っ」
もはや、どこに向かっているかなど分からない。
ただ——ソフィアを抱えて走ることだけが、今の俺にできる唯一のことだった。
「ッ……頼む……頼むから……っ」
木々の間を縫うように走りながら、俺は何度も何度も願う。
ソフィア。どうか、間に合ってくれ。
みんな。どうか……無事でいてくれ。
しかし、背後から聞こえてくる音は……その祈りを嘲笑うかのようであった。
ズドォォォォンッ!!
大地そのものが揺れるような低い爆音。
遅れて、耳をつんざくような金属の衝撃音が、空気を震わせて森の奥まで響く。
それはただの戦闘音ではない。何かが、壊れている音だ。
振り返ることが出来ない。
振り返れば、足が止まる。
足が止まれば——デルタさんの覚悟が無駄になる。
「……っくそ……!」
歯を食いしばり、俺はソフィアを抱きかかえ直した。
その身体は硬直しており、定期的にえずく様から生きていることを実感できる。
しかし、背が湿っていく感覚からも出血の量が尋常じゃないということは分かった。
このままいけば彼女は……。
「ソフィア……絶対に……離さないからな……!」
自分に言い聞かせるように言葉を紡ぎ、俺は必死で足を進める。
走る。考える暇もなく、ただ走った。
村から少しでも遠ざかれば、誰かに会えるかもしれない。
助けを呼べるかもしれない。
できることなら——ヤガネさんのような行商人の誰かが、たまたま通りがかってくれれば。
そんな淡い期待にすがりながら、俺は震える足にさらに力を込めた。
「……っは……はぁ……っ!」
木々が切れ、視界が開ける。
濃い影に覆われていた森を抜けた瞬間、俺は思わず目を見開いた。
すぐ先に——人影が、ある。
「っ……! よかった……!」
思わず安堵が漏れ、俺はその影に向けて駆け寄ろうとした。
だが。
あと数歩踏み込んだところで、足が凍りつく。
「……なんで、こんな時に……!」
そこにいたのは、人間じゃない。
ゴブリンだった。
群れではなく、ただ一体。
けれど——その一体は、今の俺にとって最悪の存在だった。
俺は息を呑む。
普通のゴブリンなら、ソフィアやデルタさんにとっては敵にもならないだろう。
だけど、普段ですら無能な俺は、現在、ソフィアを抱えて"武機"を引き摺り、全身が消耗しきった状態で、ただの武器すらまともに握れないのである。
目の前の一匹でさえ、充分すぎる脅威。
ゴブリンは、森の陰からこちらをじっと見ていた。
獲物を見つけた時特有の、いやらしい笑みを浮かべながら。
「……最悪だ……っ」
足は止まり、呼吸がさらに乱れる。
逃げられる距離ではない。
戦える状態でもない。
なのに——この一瞬でさえ、立ち止まれば、後方で戦うデルタさんの決意が無駄になってしまう。
「どうすりゃ……いいんだよ……!」
喉の奥が震えた瞬間。
ゴブリンが、にたりと笑い、棍棒を握りしめて一歩踏み出した。
「くそ……っ、ふざけんな……!」
逃げるしかなかった。
戦えば即死。
ソフィアを背負ったままでは、なおさらだ。
俺は咄嗟に方向を変え、再び森の奥へと駆け込む。
だが——
「ギャ゛ッ……ゴ、ゴロサナイ、ゴロ……ゴロゴロゴロゴロ!」
その耳障りな声とともに、背後から草を踏みしだく音が迫ってくる。
速い……いや、俺が遅いのだ。
「はぁ……っ、はぁ……っ、やめ……やめてくれよ……っ!」
それでも、懸命に走る。
しかし、足はもういうことを聞かなかった。
次の瞬間。
「ギャッ!」
鋭い掛け声とともに、背後から何かが迫った感覚があり……
「ッッッ!!?」
頭蓋の内側を揺さぶられるような衝撃が走る。
ゴブリンの棍棒が、俺の後頭部を打ち抜いたのだ。
視界が白く弾け、足がもつれ支えていたソフィアの身体が、俺の腕から滑り落ちていく。
「ソ……フィア……っ!!」
手を伸ばそうとしたが、遅い。
彼女は地面へ、静かに倒れ込む。
「う、あ……っ……」
膝が崩れ、俺は土の上に倒れ込んだ。
ゴブリンは、ゆっくりとソフィアの方へ歩き出す。
その背中が、俺の視界の端から離れていった。
——あぁ、駄目だ。絶対に。
「……やめろ……」
這うように手を伸ばし、必死に地面を掴む。
「やめろ……っ!」
震える手が、ゴブリンの足首に届いた。
ゴブリンは苛立ったように振り返り、俺の腕を蹴り飛ばす。
「ギャッ!!」
肋が軋む。
呼吸がつぶれる。
それでも、絶対に離さない。
「……やめろ、っ……ソフィアに……触るな……!」
もう声になっていなかった。それは、ただの呻きにしか聞こえなかったかもしれない。
ゴブリンはしばしこちらを見下ろし、何度も何度も俺を蹴りつけた。
何度も。何度も。何度も。何度も。
骨が砕け、肌は赤黒く染まり、顔面なんて酷い有様になっていたと思う。
そうして、暴力に飽きたゴブリンは諦めたように鼻を鳴らすと俺の身体を足首ごと掴み、そのまま地面をずるずると引きずり始めた。
「ぐっ……あっ……!」
森の土が頬を裂く。
指先から血がにじむ。
気づけば、俺はソフィアのすぐそばまで連れてこられていた。
彼女はぴくりとも動かない。
その胸は、かすかにしか上下していない。
ゴブリンは彼女へ手を伸ばした。
「……やめろ……やめろぉ……っ!」
俺は最後の力を振り絞り、掴んでいた足を、爪が剥がれる勢いで引っ掻いた。
「ギィアァッ!!?」
獣じみた悲鳴が上がり、ゴブリンの意識が完全に俺へ向いた。
怒りに染まった瞳が、俺を真上から射抜く。
——あ、これは死ぬやつだ。
理解した瞬間。
棍棒が、容赦なく俺の頭上に振り下ろされ……
「っ——」
世界が、暗闇に溶けた。
◇◇◇
そして、カトウレンは異世界にて事切れた。
これにて閉幕、バッドエンド。
しかし、"愛"はそれを拒んだのだった。
10
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