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第4話 暗雲、立ち込める

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 あの仔猫――てんきゅうを飼うことになった金曜日の、週明けの今日。放課後に、期末試験の追試が実施された。

 科目は3科目。
 英語に数学、そして物理。

 彼女よりいい点数を取ったら、つまり、賭けに勝ったら、デートができることになった僕は、週末はいつもより集中して勉強に専念できた。

 そういえば、詳しい事情は母さんには話していないのに、僕を見てはニヤニヤしたり、鼻歌を唄うのを止めてくれなくて困ってる。

 彼女のことをカノジョと勘違いでもしてるんじゃないだろうか。思春期まっさかりの僕にとっては非常にナイーブな問題なので、できればいつもどおりに接して欲しいと心から願っている。
 ……母さんがこわくて、とても言えないけどさ。


 そういえば、てんきゅうには約束どおりちゃんとお礼をした。
 僕のお小遣いで買った猫ミルクを、スポイトでてんきゅうの口の中へ入れてやったりもしたんだ。まるで母猫になったようで、ますますてんきゅうが可愛くて仕方ない。

 あんなにか細く鳴いていたてんきゅうも、今ではすっかり元気になって、自分の力でちびちびと、お皿から猫ミルクを飲めるようにもなったんだ。

 今日なんて、まるで僕の追試を応援するかのように、僕の足におでこをコツンと当てて、行ってらっしゃいしてくれた。


 僕は、3科目に全ての力を出し尽くした。
 最後まで付き合ってくれた齋藤先生も、「鈴木、良く頑張ったな。見直したよ」……って、褒めてくれたくらいなんだ。

 ――――――――――――――。

 ―――――――――――。

 ――――――――。


 ………………でも………………

 一緒に追試を受けるはずだった彼女は今日、急遽のお休みで、学校に、来なかったんだ。

 ――――――。

 ――――。

 僕は、齋藤先生に聞いてみた。

「赤宮さん、どうして今日お休みなんですか? 風邪ですか?」
「あ、ああ……。お前たちは、ずっと一緒に放課後勉強してたもんな。心配だろう」

 齋藤先生は、核心には触れずに当たり障りのない返答をする。

 でも、僕は気がづいてしまった。

 いつも優しい齋藤先生の目尻のシワが、まるで苦虫を噛み潰したように、深く、深く……なっていっていることに。

 言葉に詰まった齋藤先生への助け舟かのように、遠くの方で、ゴロゴロ、と雷の音が聞こえてきた。
 そして外は急に暗くなり、雨がザーッと滝のように校庭に降り注ぐ。

「いかんいかん。こりゃあ、ゲリラ豪雨かもしれんな」

 齋藤先生は、ポケットからスマホを出して天気予報をチェックして、で、優しく微笑んだ。

「鈴木、これからもっと雨が強まるらしい。今のうちに帰った方がいいぞ。お疲れ様。気をつけてな」

「……はい……。お先に失礼します。さようなら」




 なんだか、
 無性に、
 ――――――――嫌な予感がする……!



 僕は叩きつけるような雨なんか気にせずに、傘もささずにぬかるんだ校庭を駆け抜ける。


 ――あの、優しい齋藤先生が、理由わけもなく休みの理由りゆうを隠すものなのだろうか?

 ――個人情報だなんだってうるさい世の中だけれど、普通、風邪なら風邪って、それくらいの情報話してもいいものだろ?

 ――優しい齋藤先生が、苦虫を噛んだような表情を浮かべてまで、はぐらかしたりする、その理由は……?



 …………彼女の身に、何かが起こったに違いない。

 考えすぎ?
 いや、そんなことない! ……って僕の勘がそう告げている。

 だって、僕たちが仲良くなるきっかけになった、神の恵みゲリラ豪雨が降っているのだから。これは何かのお告げに違いない。

 ――虫の知らせ?――

 ――いや、そんなはずない‼︎


 僕は、彼女の家へ向かう途中、
 地面のぬかるみや、
 道路の水溜りに足を掬われ、
 なんども、なんども、転んでしまった。
 服もビシャビシャだし、きっと顔もドロドロだろう。

 でも、そんなこと、どうだっていいんだ。


 彼女が、彼女が――――無事でさえ、いてくくれれば……!




 僕は先日母さんと送り届けた彼女の家にたどり着いた。

 息が上がる。
 心臓の音がうるさい。
 耳の奥で潮騒しおさいのような音まで聞こえる。

 でも、でも……。
 もっともっと、うるさいのは――――――


 聞こえないフリをしたかった。
 いや、本当は、ずっとずっと聞こえていた。
 違うと、思いたかったんだ。

 心のどこかで、もしかしたら、と思ったりもしたけれど、「否定」、したかったんだ。



 この、「サイレン」は、彼女の家から聞こえてきているものではない、って。




 ――ピーポーピーポーピーポー……。

 サイレンの音が、急に止まった。

 家の中から、ストレッチャーに乗った彼女が運ばれてくる。

 泣き叫んでいる、彼女のお母さん。
 取り乱してしまって、応対できる様子ではない。

 ……でも……!

「あの……! あの……! 赤宮さん! 鈴木です! 何があったんですか?」

 彼女のお母さんの目には、僕の姿も声も入ってこないようだった。泣き叫んで、ストレッチャーにすがろうとしているところを、救急隊の人がやんわり押し留めている。

 僕の質問の代わりに、救急隊の1人が僕の応対をしてくれた。

「君、ひどい格好だけど、君も怪我を?」
「いえ、僕は大丈夫です。それより、赤宮さんは大丈夫ですか? 僕の――大切な、友達なんです!」

 救急隊のお兄さんは、上から下まで僕を見て、必死さを悟ってくれた。本来ならばおそらくNGなのだろうけど、混乱中の彼女のお母さんを落ち着かせて、僕が同行する許可を得てくれた。


 僕は、赤宮さん母子と一緒に、救急車に乗った。

 すぐに受け入れ先は決まらないものなのか、救急隊の人が必死で各所に連絡を取っている。

 彼女の口にあてがわれる酸素マスク。
 顔色が、悪い……。

 僕は、恐怖で震えが止まらなくなった。
 でも、それより震えているのは、彼女のお母さんのほうだ。

 僕は、ぎゅうっと彼女のお母さんの手を握った。

「大丈夫です、きっと、大丈夫です」

 と言いながら、自分自身にも、言い聞かせるように。



 都合がいいって、思われたっていい。
 これからは、ちゃんと信心深く生きていきますから。

 どうか、神様、仏様……誰でもいいです。
 助けてください……!


 受け入れ先の病院が決まった矢先、ゲリラ豪雨が、パタリと止む。

 その代わりに、雲一つないそらから、パラパラと、神の恵み――天泣てんきゅうが降り注ぐ。
 きっと、彼女を思って、てんが泣いているに違いない。


 僕らは、虹――天弓てんきゅう光る方角の病院へ向かいながら、てんを仰いで、祈りを捧げた。


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