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21. 何に代えても、失いたくない

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 それは、そろそろ本格的に冬の足音が聞こえ始めたある日の朝早くに起こった。
 森にはもうだいぶ木の実や植物も食べられるものが少なくなり、冬眠の準備にかかる獣たちも現れ始めている。その一方で、残り少ない食料をめぐって、生存競争も熾烈さを増していた。思うように餌にありつけず、飢えて気性の荒くなった大型の獣たちがそこここにうろついている。
 そんな折、不運にも、そのうちの一頭をディートハルトが仕留め損ね、手負いにしてしまったのだ。
 獣はディートハルトに気づくと、木々が震えるほどの咆哮をあげて向き直り、次の瞬間には襲いかかってきた。
「ディー……!」
 少し離れた木の上にいたメイリールは、思わず短い叫び声を立てた。ルークも同時に、甲高い警戒の鳴き声を発する。
 その声に、一瞬獣の注意がディートハルトから逸れた。その瞬間を見逃さず、獣の下敷きになっていたディートハルトは獣の急所を外した短剣を引き抜き、今度こそ深々と喉笛を貫いた。
「ッ……」
 致命傷を負いながらも、なおも暴れる獣の下からなんとか這い出たディートハルトが地面にうずくまる。相当深い傷を負わされたのか、駆け寄るメイリールの方を見上げることもせず、ぐったりと倒れたままだ。
 裂けた服を赤く染める鮮血が、地面に黒い水溜りを広げていく。このままでは、命が失われていくのも時間の問題と思われた。
 メイリールは、全身の血の気が引いていくのを感じ、頭が考える前に身体が動いた。
 ——こんなことなら、もっとちゃんと魔力制御の実習まじめに受けとくんだった……
 ディートハルトの傷口に、意識を集中させる。勢いよく噴き出す血液を前に、ほとんど無意識のうちに魔力を発動させていた。
 もちろん、こんな使い方をしたのは初めてだ。合っているのかも分からなかった。
 もともと魔族の力は天界のそれに比べると、治癒や回復には向いていない。実際、魔族にとって魔力の日常的な使い途としてもっとも頻度が高いのは飛行、次いで相手の支配や魅了といったものだった。
 ——止まれ……止まれ……!
 ディートハルトが、いなくなってしまうかもしれない。そんな、たった数時間前まで考えもしなかったことが、今目の前で現実になろうとしている。
 どんなことをしてでも、食い止めなければと、無我夢中で力を使った。
 身体が熱い。魔力の暴走を意味するそれをメイリールは無視し、ただひたすらにディートハルトの命を繋ぐことだけを考えた。ルークが気遣わしげにメイリールへ視線を投げるが、それに構っている余裕などない。
 だが、次第にメイリールの意識は遠のき、やがて、視界が暗転した。

 額に冷たい感触を覚えて、メイリールは目を開けた。
 ぱちぱちと何度か瞬きをすると、視界がはっきりしてくる。目に入ってきたのは、見慣れた洞窟の天井だった。
 額に手をやると、濡れた布が手に触れた。
「目が覚めたか」
 耳慣れた低く心地良い声に、メイリールは勢いよく身体を起こした。その拍子に一瞬視界がぐらっと傾いて、とっさに床に手をついた。
「まだ回復しきってないなら、寝ておけ」
 メイリールは、横に座る男の姿をまじまじと見つめた。
「生きてる……」
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