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2.欲望

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 自分が、女に恋愛感情とか、もっと言えば性欲を覚えないタイプだというのは、なんとなく絢也にはわかっていた。
 中学に上がりたての頃、同級生が女の胸だとか尻だとかについて話をしているのを、絢也は別の世界の話でも聞くように聞いていた。
 それでも、まだそのころは女よりも音楽の方が好きなだけだと思っていたから、そこまで悩んでもいなかった。

 そんな絢也に、容赦なく現実を突き付けたのは、2年生になってクラス替えで一緒になった、吉岡という男子だった。
 大人しくて、人見知りで、まるで人形のように整った容姿をしていた彼が、絢也にだけ、心をひらいた。
 くじ引きで決まった図書係で組むことになった吉岡が、好きな本の話をするときに初めて見せた、はにかんだ笑顔に、絢也はなんだか分からない、胸を突き上げるような感情に襲われた。
 その夜、どうしても股間が熱くて、思わず手を伸ばした。そのときに、脳裏に思い描いていたのは、吉岡のはにかんだ笑顔と、その首筋。

 手のひらに吐き出した精を見て、絢也は呆然とした。

 ——同級生の、男で、抜いてしまった……

 それ以降、絢也は吉岡とは距離を置くようになった。
 吉岡は悲しそうにしていた、ように思う。
 でも、そのときの絢也には、自分の気持ちを、薄暗い欲望を知られるくらいなら、誤解されたままの方がマシだった。

 自分で、自分が受け入れられなかった。
 だから、音楽に没頭した。
 表向きは、女より音楽が好きな変人で通した。

 それでも、一度知ってしまった世界は、絢也を離してくれはしなかった。
 自分が男に欲情する身体なのか確かめたいという欲求は、絢也を、同級生が回し読みしていたエロ本ではなく、女性向けに作られているであろう、若手俳優や男性アイドルの写真集に向かわせた。
 そして、思い知った。
 女性がときめくように撮られた儚げな表情や、上半身の素肌を晒した身体に、自分の身体が熱くなることを。
 そのしなやかな身体のラインに触れたい。組み敷きたい。男同士でどうするなんて知らなかったけれど、ただ、触れたい、征服したいと思った。
 その欲望に、絢也は自分が何か別の生き物になってしまったように感じて、恐れた。

 その気持ちを、絢也は全部音楽にぶつけた。
 自分で作曲もしていたし、ギターも練習した。
 絶対プロになってやると、そう思いながら、地元のライブハウスに出入りするようになった。
 高校に入って自分のバンドを組むと一気に忙しくなり、いっときはそうした悩みは忘れられたように思えた。

 だが、士郎は、絢也のそんな恐れや躊躇いを全部軽々と飛び越えて、いきなり絢也の心臓のど真ん中を撃ち抜いた。
 ステージで見せる攻撃性と全てを飲み込むオーラ、ステージを降りた途端に人懐こく笑ったり、はにかんだり、くるくるとよく変わる表情。
 長い手足はステージの上では客を煽り、歌を視覚化するように動き、ステージを降りればその言葉以上に雄弁に語った。その強烈な魅力に、絢也はあっという間にさらわれた。
 気づいたときには、心を丸ごと、奪われていた。

 ——こいつが、欲しい。

 ボーカリストとして、友人として、仲間として。そして、たぶんそれ以上の存在としても。
 絢也は、士郎をどうしても欲しいと思った。
 そう自覚したら、我慢ができなかった。
 ……そんなのは、初めてだった。

 失ったら、痛いのに。
 たぶん、二度と立ち直れないくらい。
 
 それほどの深みにはまるのは、ずっと避けてきた。
 バンドを始めてから出会った人間の中には、絢也と同じ嗜好の者もいて、誘われたこともある。
 だが、遊びで付き合うとか、身体だけの関係は何か違うと感じたし、だからと言って、深みにはまって後戻りできなくなるのも嫌だった。
 そんな絢也をそうした連中は「つまんない子」とか「真面目ちゃん」と呼んで蔑んだが、絢也はそれでよかった。

 それなのに。
 士郎に対しては、絢也は歯止めが効かなかった。
 どんどん、のめり込んでいる。
 頭の片隅では、危険を知らせる警告音が鳴っていたが、それさえ無視するくらいに。
 あくまで、ボーカリストとして、惚れただけ。
 そう士郎は自分に言い聞かせた。
 そうしないと、とんでもないことになりそうだったから。
 そうやって言い訳していれば、士郎に歌わせたい曲がとめどなく頭の中に溢れてくるのも許される気がしていた。

 そして、金曜が来た。
 
 朝から絢也はそわそわしていた。
 授業をサボって町に出ても、今頃士郎はどうしているだろうか、ということばかり考えていた。
 いつも覗く楽器屋へ行っても、今日ばかりは何も頭に入ってこない。
 バイト中も、ミスをいくつもして社員にどやされた。
 ようやく解放されて家に帰った絢也の頭の中は、これからかける電話のことでいっぱいだった。
 もう士郎は家に帰ってきているだろうか。
 冷蔵庫から出したコーラを一気飲みして、絢也は電話に向かった。

 2コール目に、電話の向こうで女性の声が応答した。
 母親だろうか。緊張を隠して、士郎を呼んでもらった。

「絢也?」

 士郎の声だ。それだけで、絢也は胸が苦しくなった。
 どうしようもなく、体温が上がる。心臓がうるさい。

「それで? どうだった」
「うん、2人とも、いいって。明日、バイト終わってからになるけど、スタジオ、入れる」
「マジで!」

 絢也は思わず小さくガッツポーズをした。
 念のため、スタジオは遅めの時間に取ってある。
 スタジオの場所と予約時間を伝えて、電話を切った。
 明日が楽しみで仕方ない。興奮で、しばらく眠れなかった。
 
「絢也!」

 スタジオに先に着き、中で準備していた絢也を呼ぶ声がした。
 振り向くと、士郎と、その後ろに2人。

「こっちがベースの直樹、それからこっちがドラムの拓郎」
「おう。俺、絢也。じゃあ、3人とも必要なもんとか借りてきて。準備できたら教えて」

 自然と絢也が仕切る形になって、それぞれが準備を始めた。
 さすがに士郎が心当たりのある人間として挙げただけあって、直樹も拓郎も慣れた手つきでチューニングを始める。
 ひとしきり音を出し終わると、直樹と拓郎がそれぞれ手を挙げて準備ができたことを知らせる。

「おっけ、じゃあ、なにやろうか。ナルシスとかできる?」
「ナルシスなら、Fとヴェールはできる」
「俺もFなら」
「Fって、歌い出し、なんだっけ?」
「君の~、後ろすが~たを~」
「あーわかったわかった、大丈夫」
「じゃあ行こう」

 拓郎のカウントで、全員が一斉に音を出した。

 ……

 ズダン! と拓郎のドラムで曲が終わる。

「……やべーな」
「うん。やばい」

 まだ興奮の余韻が残る顔を見合わせ、絢也と士郎が上擦った声で言葉を交わした。
 気持ちいいくらい、息ぴったりだった。
 スタジオだっていうのに、ノリノリで弾いてしまって、汗だくだ。

「じゃああと何できる? キンセンカは?」
「キンセンカは月の裏側と、リアルはやったことあるよ」
「お、リアルいいね」
「士郎、歌える?」
「……Bメロあやしいけど」
「忘れたら適当に歌って」
「おっけ」

 そうしてあっという間に時間は過ぎた。
 正直言って、楽しすぎた。
 その気持ちが絢也のものだけじゃないことは、顔を見ればすぐわかる。
 全員目がキラキラしていた。
 拓郎なんて、興奮のあまりスティックが手からすっぽ抜けて、危うく絢也に直撃しそうになるハプニングまであったほどだ。

 そして、歌う士郎はやっぱり最高だった。
 カラオケの時も思っていたが、歌詞を慈しむように歌う士郎の緩く伏せた睫毛が、歌の世界をなぞるように動く指が、すさまじい色気を放っていて、絢也はおかしくなりそうだった。

 ——だから、まずいって。

 頭の中から歌う士郎の残像を振り落とすように絢也は頭を振り、片付けに集中した。

 受付で支払いを済ませ、スタジオを後にすると、4人は近くのファミレスで、初めてのバンドミーティングを開いた。

 順番があべこべだが、ようやくお互い自己紹介をする。
 もともと絢也がプロ志向である話は士郎からしてあったから、そこの認識は共通していた。
 好きなバンド、よく行くライブハウス、これまで経験したライブの話。
 直樹も拓郎もメタル寄りの音楽をやっていたため、絢也と同じイベントに出たことがなかったのも分かった。

「俺、意外かもだけど、結構フォークとか歌謡曲も好きなんだよね。木下康正とか」
「あ、でもわかる! 俺も自分ではコピーしたことないけど、涙色の空とか好き」
「康正の曲って歌うの難しいんだよー。メロは簡単なのに、すごい下手に聞こえる」
「1曲くらいやってみても面白そうじゃない?」
「マジかー」
「士郎なら歌えるって」
「じゃあ次までにやる曲決めようぜ」

 とりあえずは、コピーから。それで肩慣らしをしたら、オリジナルも作っていく。その方向で、全員賛成した。

「次の時、何曲かデモ作って、持ってくわ」
「絢也、もうそんなにストックあんの? すごすぎじゃね?」
「んー、ずっとやりたいって思ってたからなぁ。バンドが組めてても組めてなくても、卒業したら東京行くつもりだったし」
「だよなあ、東京だよな、まずは」
「俺、金貯めなきゃヤバイ」

 口々に、将来のことを話し出す。
 卒業まであと1年以上あったが、絢也はその時を見据えて情報収集をしていた。
 まだまだ現実味はなかったけれど、意思は固かった。
 このメンバーで、東京に行く。そう思うと、一気に何もかもが動き出した気がした。
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