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5.東京へ

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 最後の一音を、絢也のフリで合わせる。
 絢也はそのまま黙ってスタジオを横切ると、置いてあったレコーダーの録音スイッチを切った。
 全員がそのままの姿勢で固唾を飲み、絢也が再生ボタンを押すのを待つ。
 今録ったばかりの音が、スタジオに流れ出した。

「お、いい感じじゃね?」

 我慢できずに小声で話しかける拓郎に、直樹が小さく頷き返す。
 この1曲だけでこれで3回目だ。先に録った2曲も入れたら、録音回数は2桁になる。
 そろそろ、集中力も限界にきているのを絢也も感じていたから、今回のテイクで決めたかった。

「うん、これで行こう」

 絢也の一言に、ホッとした空気が流れる。
 ようやく、デモテープに入れる3曲の録音が終わった。
 あとの作業は、絢也が家で行うことになっていた。

 10月のライブもまずまずの出来だった。
 メンバー総出で、出入りしたことのあるライブハウスや楽器店にライブ告知のフライヤーを置かせてもらうよう頼み込む、「フライヤー置いてください大作戦」(拓郎命名)が功を奏して、かなり集客もアップしたし、出演者の中で同じ10代でプロを目指してオーディションを受けまくっているというバンドとも知り合い、非常にいい刺激になった。
 絢也が年内を目標としていたデモテープの作成は、彼らに触発されて、11月末に前倒しになった。

 あとは、出来上がったデモテープをばら撒くだけ。
 年明けには、2月と3月に、Mr. Liarとして初めてステージに立ったあのライブハウス、ルチアでのライブが決まっている。

 そして、それが終わったら、4人揃って晴れて高校を卒業し、いよいよ上京だ。

 卒業式は高校生活の終了を意味する一大イベントのはずだが、絢也の頭の中は上京してからの生活を整える段取りで頭がいっぱいで、泣いたり笑ったり写真をせがまれたりしつつも、そのほとんどで心ここに在らずだった。
 それでも、もうこれからは滅多に会えない連中ばかりだと思うと、少しだけ感傷的にもなった。


 卒業式が終わった翌週、絢也は士郎と共に東京にいた。
 段取りとして、まず絢也と士郎だけ先に上京し、住む場所を決めて、それから直樹と拓郎を呼ぶことにしていた。
 最初は節約できるものはなんでも節約するに越したことはなく、全員同居が一番手間も金も省けるから、とにかく安くて広いアパートを探すことにしていた。

「ここ、どう?」
「うーん、風呂ないのはちょっとなあ……確かに安いけど」
「じゃあ、やっぱりこっちかなあ。そこよりは高くなるけど」

 士郎の指差した物件詳細を、絢也がもう一度手元に引き寄せて眺める。
 2人は東京に来たその足で、賃貸情報雑誌を集めてファミレスで作戦会議を開いていた。

「わかった、じゃあまずはこの不動産屋、行ってみるか」

 2人は立ち上がって会計を済ませると、不動産屋へ向かった。

「うん、いいんじゃない?」
「俺も、まあいいかな。部屋数は十分だし、駅までは歩けるし」
「じゃ、契約しちゃう?」
「かしこまりました!」

 部屋の内覧をしながら話す2人の会話を、隣で聞いていた営業マンが爽やかに引き取った。

「では、重要事項の説明をさせていただきます」

 初めての部屋の賃貸契約に、絢也も士郎も目を白黒させる。
 目が痛くなりそうな小さな文字で、びっしりと訳のわからない言葉が並ぶ紙を見つめて、二人は途方に暮れた。
 何枚も住所やら名前やら保証人やらを書かされ、印鑑を押して、昼過ぎから始まった手続きはいつの間にか夕暮れ時に差し掛かっていた。
 今すぐ住みたいところだが、まだ電話も引いてなければライフラインも契約しなければならない。
 鍵だけもらって、2人は近場の安いビジネスホテルに引き上げた。

「明日、電話の契約して、電話開通したらガス電気水道かな……」

 げっそりした顔で絢也が言う。

「思ったより、大変なのな、部屋借りるのって……」
「直樹たち来たら、絶対何かやらせようぜ……俺たちだけこんな大変な目に遭うの、割に合わねえよ……」
「とりあえず、どっちにしろ、1回荷物は取りに帰らなきゃだよな。荷物運び、やらせるか」
「それがいい。トラック借りて一発で持ってった方が、絶対安いしな……」

 そう言いながら、絢也は一気に疲れが出て、眠気で意識が飛びそうだった。
 そんな絢也を見て、士郎が目を細める。

「お前、そのまま寝たら風邪ひくぞ。シャワー先浴びてこいよ」
「ん、そうするわ……」

 シャワーを浴びながら、次第に部屋探しで興奮状態だった頭が落ち着いてくると、今度は絢也の心臓が暴れ出した。
 金の節約のために、シングルふた部屋ではなく、ツインの部屋にしてもらったのだが(さすがにダブルという選択肢はなかった)、今更のように、今夜、士郎と初めて一緒に夜を過ごすことになるのだと意識してしまったのだ。

 ——よ、夜を過ごすって、俺、もう少しなんか他の言い方ないのかよ……

 自分で思い浮かべた言葉に自分で動揺して、絢也はシャワーヘッドを取り落としそうになった。
 空気を読まずに反応しかけた股間を叱り付けて、乱暴に髪を洗うと、絢也は努めて無表情でバスルームを出る。
 それを見た士郎が、さっさと服を脱ぎ捨てると入れ違いにバスルームへ消えていった。
 絢也が慌てて顔を背けたことには、気づいていないようだった。

 ——あいつが出る前に、寝ちまおう……

 風呂上りの士郎なんて、生殺しの生き地獄でしかない。それでなくても、さっき目の端にちらっと映った士郎の裸が目の裏にチラつくのだ。
 絢也は目を瞑り、必死に頭を空っぽにしようと試みた。

 どれくらい経ったかわからない。
 ガチャ、とドアが開く音がして、士郎がバスルームを出た気配がした。
 自分と同じホテルに備え付けのボディソープを使ったはずだが、士郎からふわりと香るその匂いは、士郎の体臭と混ざって絢也をたまらない気持ちにさせた。

「ん? 絢也、寝たのか……?」

 そう呟く声がすぐ近くでして、絢也は必死で寝たフリをする。
 頭の中で、無意味に今作っている曲のコード展開を思い浮かべた。
 やがて、隣のベッドにゴソゴソと潜り込む音がして、電気が消えた。


「なあなあ、絢也、このさ、PHSってやつ買ってみない?」

 昨日は結局、なんだかんだ疲れていたのかそのまま眠りに引きずり込まれ、朝まで目が覚めることはなかった。
 万一夜中に目が覚めていたら、隣で眠る士郎に何をしでかしていたかわかったもんじゃない。
 それでなくても、寝起きの士郎のなんとも無防備な姿に、すでに朝の生理現象で元気いっぱいだった絢也の股間は暴発しそうになり、それを押さえつけるので精一杯だった。
 朝飯がわりの缶コーヒーをすすりながら、絢也は隣を歩く士郎の指差す方を見やる。

「……高そう」
「だけどさ、どこでも電話できんだぜ? 家に帰らなくてもすぐに連絡できんのって、今後を考えたら必要だろ」
「……公衆電話」
「お前が! 電話嫌いなのは知ってるけどよ! お前がリーダーだろうが! お前に連絡つかなかったら怒られるのは俺なんだよ!」
「……」

 士郎の言っていることは本当だった。
 絢也は電話するより直接話したいタイプで、用事がある時は自分から出向くのだが、かかってきた電話に対するレスポンスは決していい方とは言えなかったのだ。
 だが、士郎の主張ももっともで、今後東京で活動していくにあたり絢也が窓口となる以上、絢也に繋がる電話番号は必要だった。
 絢也は渋々士郎の後についてショップに入る。

「……またこの意味不明な呪文みたいなの読むのか……」

 昨日に続き、PHSの契約書にびっしりと書かれた利用規約に絢也がげんなりする。
 1時間後、意気揚々と店を出た士郎と、立て続けの契約に疲労の色を隠せない絢也の手には、それぞれ契約したPHSが握られていた。

「すげーな! 広告では散々見てたけど、いよいよ俺たちもPHSデビューだ!」
「お前、あんまりはしゃぐなよ。田舎モン丸出しでダセエ」
「じゃあ絢也、番号! 交換しようぜ」
「こういう時のお前ってほんと、人の話聞かないよな……」
「いいから! ほら早く!」

 士郎に急かされて、絢也は仕方なく自分のPHSを取り出すと、そのまま士郎に手渡した。
「ほい」
「?」
「お前、やって」
「マジかよ……なんか、普段訳わかんねえエフェクタ弄ってるお前にしちゃ、超意外」
「めんどくせえこと嫌いなんだよ」
「はいはい。ほら、これ、俺の番号。これで、いつでも俺に連絡できるようになったぞ!」
「いや、お前には家に帰れば嫌でも会うだろ……」

 迷惑そうに言ったが、内心絢也は嬉しいような照れ臭いような、むず痒くてたまらない気持ちだった。

 ——士郎の電話番号を初めて教えてもらったのは、俺。

 士郎が早速電力会社に電話をかけるのを横目に見ながら、士郎は弾む気持ちを抑えるのに苦心していた。
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