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14.すぐそこにある、幸せ

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 あの騒動があったあと、絢也はすぐにレコード会社に連絡をとり、ボイストレーナーを用意してもらうことにした。
 もっと早くこうすれば良かったのだ。
 だが、過ぎたことをああだこうだ言っても仕方ない。

 士郎はその後経過を見て、後遺症の心配もなく無事退院にこぎつけた。
 トレーニングは士郎の希望もあって、退院の翌週から始めることになった。
 集中トレーニングをしてもらうため、週末を除いてほぼ毎日、3週間みっちり面倒を見てもらう。

「で、なんでお前が俺の送り迎えしてんの」
「俺がしたいから」
「なんだそれ。お前だって暇じゃねえだろ。俺につきっきりになってたらまずいんじゃねえの」
「そうでもないよ。お前がレッスン受けてる間、俺は別のスタジオ使わせてもらっていろいろやってるし」
「まあ、お前がそう言うなら、いいけど……俺としては、助かるし」

 レコード会社の所有スタジオを使って行うボーカルレッスンに、絢也は士郎の送迎を買って出た。
 バンドを組んでからほとんど初めての、士郎と2人の時間だ。

 病室で士郎に告白紛いのことをしてから、2人の間に特に大きな変化があったかといえば、そうでもなかった。
 ただ、絢也は、もう嘘をつかなくていい、もう隠さなくていい、という大きな安堵感から、士郎に対してリラックスして接することができるようになっていた。
 そのことが、少しだけ、2人の距離を縮めた。

「俺さ、お前がバンドマンじゃなくても、ボーカリストじゃなくてもいいって言ったじゃん」
「うん」
「だけど、俺、お前が歌ってるの見るのが好きなんだよ。だから、お前にはやっぱり、歌っててほしい。いや、むしろ俺のために歌え」
「ぶっ」

 士郎が噴き出した。

「なんだそのジャイアン発言」

 冗談でも、こういうことを言えるようになったこと、そして士郎がそれに嫌悪感を示さないことは、絢也にとって、くすぐったいような、身を竦めたくなるような、そんな初めての感覚をもたらした。

 ——これが、恋ってやつなのかな。

 柄にもなく、そんなことを思ってしまうくらい、士郎は浮かれていた。
 だが、人間とは欲深い生き物だと、絢也はそう時間がたたないうちに実感することになった。

 この関係で十分だと最初は思っていたのに、いつまでたってもそれ以上は縮まらない士郎との距離に、次第に絢也はイライラし始めた。
 ほんの少しだけ縮まった士郎との距離。
 縮まったはずなのに、まだ開いているその距離がもどかしくて、士郎は今更のように頭を抱えていた。

 それに、士郎の態度も謎だった。
 レッスンが終わると、士郎は絢也の籠っているスタジオまでやってきて、ひょこっと顔を出す。
 最初は外で絢也が片付けるのを待っていたが、次第に中まで入ってくるようになり、突然手元を覗き込むように近くに顔を寄せてきたりするようになった。
 明らかにこれまでとは違うその距離の近さに、絢也は戸惑い、頭を悩ませた。


「絢也くん、完っ全に振り回されてるじゃない」

 あの騒動の顛末の報告も兼ねて、キョウちゃんのバーへ顔を出した絢也は、ママに促されるがままに、最近の士郎の態度まで洗いざらい話してしまっていた。

「うん……士郎が何考えてんのか、全く分かんなくて」
「でもねえ、絢也くんらしいっちゃらしいんだけど、人の気持ちを優先させすぎなのよね。嫌われたらどうしようとか、これからも一緒にやってかなきゃいけないから下手なことできないとか、考えてるのはよーくわかるんだけどー」
「うん」
「アタシから見て、士郎くんは絢也くん待ちなんじゃないかなぁって、思うんだけど?」
「は? 俺待ち?」
「そう。一度、絢也くんは、士郎くんに、ノンケも同じバンド内も恋愛対象外、って言い切ってるでしょ?」
「……うん」

 そういえば、確かに自分はそう言った。
 その言葉が意味することを、分かるけれど分かりたくない。

「だから、士郎くんとしては、絢也くんがそのルールを自分で曲げる決心がつくのを待ってるんじゃないかな~と、アタシは思うわね~」
「そんなこと……」
「まあ、可能性だけどね? でも、アタシから言えるのは、自分で作ったルールに縛られて、すぐそこにある幸せに手が伸ばせないなんて、バカじゃないの? ってことかしらね~」

 キョウちゃんはいつものニコニコ顔だったが、その言葉の重さと鋭さは、絢也の心にずっしりとのしかかった。
 絢也はそれに何も答えることができず、その後しばらく無言で酒を飲んでいた。

 ——自分のルールに縛られて、すぐそこにある幸せに手が伸ばせない……

 キョウちゃんのその一言は、その後も絢也の心に残って、絢也の眉間のシワを増やすことになった。

 一方、そんな絢也をよそに、士郎はメキメキと歌唱力を上げていっていた。
 ボイストレーニングをちゃんと受けるのは初めてだという士郎は、はじめの何回かは身体に力が入って思うように声が出ず、肩を落としていた。
 が、次第に持ち前の素直さを取り戻すと、どこかでコツを掴んだのか面白いように声が伸びるようになっていき、3週間が終わる頃には前以上に声のバリエーションも増え、表現力は以前と比べて見違えるように磨きがかかっていた。

 それを誰よりも喜んでいたのは、絢也だった。
 最終日、いつもならスタジオで士郎が来るのを待っていた絢也は、レッスンが終わる時間に合わせて作業を切り上げ、レッスンの部屋にそっと顔を覗かせた。
 第三者は入室禁止だったが、顔を覗かせた絢也を見て、トレーナーは部屋の隅の椅子を勧めた。

「じゃあ、ラストもう1回だけ、歌ってみましょうか」

 トレーナーの言葉に頷いて、士郎が息を吸う。

「……」

 力強く、艶やかに、そしてのびやかに歌う士郎は、やはり、一番輝いていた。

「お前、髪結構伸びたな」

 帰りの車の中、士郎が後ろ一つに結んでいた髪の毛を解いて、犬のようにフルフルと頭を振るのを運転席からチラッと見て、絢也が何気なく言った。

「うん。お前が、長い方が好きだって言ったから」

 士郎は窓の外を見ていて、目を合わせない。
 だが、髪の毛からチラッとのぞくその耳が、じわじわと朱に染まるのが、横目でも分かった。

 ——そんなこと、俺、言ったっけか。

 絢也すら記憶が曖昧なそんな一言を、士郎は覚えていて、それでずっと髪の毛を伸ばしていたというのか。
 絢也も真っ赤になりながら、黙々と運転に意識を集中した。

 ——すぐそこにある、幸せ……

 絢也は、キョウちゃんがいう通り、その幸せは案外手を伸ばせば掴めるところにあるのかもしれない、と思い始めていた。
 だが、手を伸ばす勇気だけが、いつまで経っても出なかった。


「プロデューサー変更? うーん、まあ、どんな人かにもよりますけど……はい、わかりました」

 電話を切った絢也を、士郎が物問いたげな目つきで絢也を見た。

「次のアルバム、プロデューサー変えたいって、佐伯さんから」
「ふうん……まあ、会ってみないと分からないよね」
「そう。だから、来週、一度ミーティングするってよ」
「了解ー」

 士郎の喉が復活してから、その完全復帰を印象付けるかのように、年末に立て続けにライブをこなし、年始からも休みなくツアーに出ていた。
 それが一段落した5月、4枚目となる次のアルバムを制作する段になって、レコード会社の担当である佐伯から、これまでとプロデューサーを変更する連絡が入った。
 とは言っても、プロデューサーの変更自体はそう珍しい話ではない。
 単純にスケジュールの都合であることもあれば、前作とは違うものにしたいという意図のこともある。
 どちらかといえばセルフプロデュースに持っていきたいと考えていた絢也だったから、気が合わなければ自分たちでやるまでだ、そう考えていた。

「今回のアルバムを担当させていただくことになった、伊藤です。これまでには…」

 伊藤と名乗ったその男の自己紹介を聞きながら、絢也はなんだか引っかかる気がしていた。
 だが、その引っ掛かりがなんなのか、結局その日は分からず、そのままうやむやになってしまった。

 他のメンバーにも特に異存はなかったため、伊藤がプロデュースする形で、アルバム制作が始まった。
 今回のアルバムは特にコンセプトを決めることなく、曲主体で雰囲気を見ていくことにしたいという絢也の意向を採用して、曲ありきで進めていくことになった。

 伊藤と相談しながらアレンジを固めてゆき、ドラムから音録りを開始する。
 話してみると、案外伊藤は話のわかる人間だった。
 バンドのプロデュース経験もあり、作業はスムーズに進んだ。

 全ては順調に見えた。
 絢也も、感じていた引っ掛かりのことは、いつの間にか忘れていた。
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