魔道の果て

桂慈朗

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プロローグ

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 まさか、こんな中途半端な段階で元の世界に戻ることになるとは予想だにしなかった。
 大魔導師であるアレクサンダラスでさえも、今の事態は想像の外にあったのだ。
 王子に切られ失った左腕の止血は何とか間に合っている。
 たが、自分自身の腕を再生するにはもう時間が経過しすぎている。

 だが、それが彼を襲う絶望の全てではない。
 腕を失ったショック以上に、一度ならず二度目の挑戦もこんな形でふいにされたということ。
 それが、アレクサンダラスの心に大きな影を落としている。

 老いた身とはいえ、これまでの人生でも感じたことのない脱力感。
 世界を救うために弟子達と起こした最初の行動が失敗に終わり、やむを得ず試みた異世界への転移だったのだ。
 転移した異世界はアレクが今いる(本来いるべき)世界と比較して、比較にならないほど高度に発達した世界。
 そして魔法のない政界。
 だからこそ不完全な魔法では果たし得ないことを、そこで得た異世界の技術を活用してこの世界を救おうとしていたのに。
 アレクの心情を全く察することのない乱入者により、突然引き戻されてしまった。

 乱入者、その凶悪な男は名前をアンザイと言う。
 魔法を使えない世界の住人。
 だが、魔法を使うアレクと真っ向から戦える人物。
 男の真の目的はわからないが、アレクを利用し無理矢理こちらの世界にやってきた。
 魔法のない世界にも関わらず、奴が準備していた魔法陣によるこの世界への転移がなされたのである。
 転移のショックで朦朧とする中、かろうじて最後の力を振り絞りアンザイの目の届かない距離に再転位することはできた。
 ただがそこで魔力の大部分を失い自らの傷口を塞ぐのが精一杯。
 遠くに逃げると言うこともできなかったのである。

 それでも、垣間見えたのは記憶の中に残る見知った森の中にある祠。
 なぜここに転移できたのかはわからない。
 必死の状況が生み出した奇跡、もしくは偶然の結果かもしれなかった。
 ただ、それでも今ここにこうして体を横たえている。
 傍らでは、かつての高弟の一人サルトネスが甲斐甲斐しく世話をしていた。

 よく知っている空気感。
 体が覚えているエーテルの感覚。
 鳥の声が聞こえる。
 匂いも、音も、そして静けさも。
 すべてが、ここはアレクサンダラスが元にいた世界であることを明確に主張していた。
 ここは日本ではない。
 そう、帰ってきてしまったのだ。

「お前の居宅の傍に出れたのは、本当に運が良かったな」
「まだ、ご無理をされないでください。傷に障ります」
 起き上がって礼を言おうとするアレクサンダラスを、サルトネスは無理矢理寝かしつけて毛布を掛ける。
 それに対して、アレクサンダラスは横になったまま弱々しく答えた。
「うむ。世話をかける」
「とんでもございません。再びお会いできたこと、このサルトネス、望外の喜びでございます」

 アンザイが向こうの世界(日本)に準備していたのは、アレクが誂えたような容易周到な転移魔法陣ではない。
 アレクも知らない未知の魔法陣と魔法であった。
 荒っぽく、そして非常に強引な。
 だが、それでも異世界に転移させるだけの力を持っていたようだ。
 しかも、アレクサンダラスの魔力を吸い上げる形で起動するもの。
 アレクは、道具としてこの世界に引き戻されたのである。
 乱暴さが影響しているのか、あるいは転移魔法の発動中に片腕を失ってしまったことが影響しているのか。
 それはわからないが、どちらにしても自分が酷く衰弱しているのは認識している。

 そして、今は回復魔法の効きが非常に弱々しい。
 エーテルの薄い向こうの世界であればともかく、十分な密度あるこちらの世界でこれほどまでの状態に陥ったことは彼の記憶になかった。
 あたかも、大魔導師として誇ってきた魔法の力の大部分を失ったような感じ・喪失感。
 周囲から集め、練り込むことが当たり前であるはずのエーテルが、するするっとどこかに吸い取られていくような感覚。

 気弱になっているせいだと思いたい。
 しかし、心の奥底ではおそらくそれが願望に過ぎないことに気づいている。
 大魔導師アレクサンダラスは、その役目を終えようとしているのだ。
 32人の高弟を誇り、隠遁後も大陸の隅々まで名を知られた、あの大魔導師。
 その栄光も、ここで終わりを迎えるのではないか。
 そう考えると、傷からくる痛みや消耗以上に、心の底に深い傷跡を刻んだような気がしていた。

(またもや儂は事を為し得なかったか)

 異世界から持ち帰ろうとした技術の内、幾ばくかは彼の頭の中にしっかりと残っている。
 だが、中途半端な情報程度ではこの世界を救うことなどできやしない。
 そう、現実は甘くないのである。
 大陸を統一することに敗れ、異世界の技術を利用してこの大陸を改造し、あるいは多くの住民達と脱出することも実現できそうにない。

 今からでも、弟子たちと少数の国民を率いて逃げるという手はない訳では無いだろう。
 万が一、海に漕ぎ出し、運良く新たな大陸を見つけることができればという条件付きではあるが。
 その結果として、僅かの人でも生きのびることができたならば、この世界の人類が滅びることはないかもしれない。
 向こうの世界を知り、この世界でも他の大陸があるだろうことは既にアレクは確信している。

 しかし、この世界における海の恐ろしさを考えると望みは薄いと言わざるを得ないだろう。
 海の外に他の大陸があることすら未だ発見されたことはないこの世界の事なのだ。
 存在していると確信はあれど、正確な位置が判らなければ事を容易に為し得るとは言えないのだ。
 そもそも、この世界では今ある箱庭のような世界から人類は外に飛び出してきたことが無い。
 そんなヨチヨチ歩きのこの世界の人類に、危険を冒す勇気があるだろうか。
 将来の災厄に対して、今挑戦する。
 それをさせる難しさは、よく理解している。
 だからこそ、全ての国を支配下に置きたかった。
 強制的ではあっても、人類にチャレンジをさせたかったのだ。

 どうやら、傷ついた状況では思考がネガティブになるばかりのようだ。
 痛みについては、現在神経が麻痺しているのかほとんど感じていない。
 今はとりあえず体を休める方が良いだろう。
 唯一のかすかな希望は、最後の弟子であるカズキが異世界の技術をこちらの世界に持ってきてくれること。

 ただ本来彼にそのような義務はないし、アレクが強く王女と二人で生きるように言い残しもした。
 最も重要なことは、異世界転移のための魔法陣についてはカズキには何も伝えてはいないということ。
 この魔道は、単純な魔法のみでは成立しえない特殊な手法が必要である。
 大魔導師のアレクサンダラスであっても、様々な力の相乗効果を得てようやく為し得るレベルのモノなのだ。

 カズキの魔法に対する理解力は過去の誰よりも高いが、魔法発動の実技についてはまだひよっこレベル。
 加えて彼は、媒介となる異世界人との接触無しには魔法を行使できないという大きな欠陥がある。
 兎にも角にも王女は敵である組織に捉えられたままであり、それを奪い返さなければ何事が進むこともありえない。

 徐々に微睡(まどろみ)の世界に沈み込んでいく。
 いつもは警戒魔法を常に張り巡らせているアレクではあったが、腕を失うという大きな負傷と魔法力の減退に加えて、信頼する弟子の元に到達した安心感からだろうか。
 赤子のような無防備な状態に陥ってしまっていた。

 アレクサンダラスが深い眠りについたのを確認すると、弟子であるサルトネスは音を立てないように密やかに、壁に掛けられているアレクのローブを探り始める。
 最初はゆっくりと、そしていつの間にか激しく。

「ない。どこにも持っていないぞ。いつも決して手放すことが無かったはずだが。なぜ師匠は持っていないのだ。ひょとして、異世界に残してきたのか!」

 彼が探しているのは、大魔導師アレクサンダラスが記していた魔道書。
 高弟も与り知らぬ様々な魔法の原理が記されているという噂のある書物である。
 それを遠くから見かけたものは複数いるが、その存在をアレクサンダラスが口にしたことはない。

 公式に存在を師匠が認めたことはないが弟子たちの誰もが知っており、それを誰が引き継ぐか噂し続けてきた垂涎の書物。
 それを受け継ぐことが大魔導師としての地位を受け継ぐことに等しいもの。
 現在の弱っている師匠であれば、サルトネスでもその命を奪うことは赤子の手を捻るよりも易しいことである。

 大魔導師が再びかつての力を取り戻せば難しくなるし、今ここで魔道書を奪うことができたならば魔術師としての彼の格は間違いなく跳ね上がる。
 魔法はセンスが重要視されるが、それは何もないところから生み出すことが難しいため。
 魔道書を用いればその取得は格段に容易になる筈である。
 かつて大魔導師の許では魔道書ではないが、教書と呼ばれる修練のための書物は幾つも読んできた。
 そして、そこに記載されていない魔法が魔道書には数多く記されているというのが弟子たちの共通認識であった。

 サルトネスは大魔導師の高弟には位置付けられているが、衆目が認識する順位では決して序列が高いわけでは無い。
 むしろ、ほぼ末席に近い。
 このまま大魔導師が没したとしても、魔道を仕切る存在になる可能性はすこぶる低い。
 運よく一国の宮廷魔術師の地位には着けることがあるかもしれないが、それとて序列がものをいう世界。
 有力な国の、しかも高位につける可能性は皆無である。

「師匠はああ言ったが、最初から魔術師だけで世界を変えることなどできやしないのさ」

 小さな声で呟きながら、彼はこの大魔導師をどのように利用しようかと思考を巡らせていた。
 それほど悩んでいる時間はない。
 少し考えたのち、一羽のハトに似た鳥の首輪に紙片を取り付けて放った。
 使えるカードを最大限使うという、この世界ではごく普通の行動であるとサルトネスは考えていた。
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