カナリア

春廼舎 明

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◇圭介8

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「今日はどっちに帰るの?」
「はい?学校の方です。」
「そう。学校はいつから?」
「週明けからです。だから、部屋、お掃除しないと。」
「なるほど。」

 車のキーを握ったまま迷う。スプリングコートを着て、帰り支度を整えた陵伽がそばに立った。
 俺を見上げて、何を期待してる?

「圭介さん」
「何?」

 ジャケットの袖を掴まれる。

「この後、予定ありましたか?」
「いや?ないよ、帰るだけ。」
「お疲れですか?」

 不安気な目で、顔を覗き込まれる。知ってる、俺はこの目に弱い。

「まあ、20代の若者と比べれば疲れてる。どうした?」
「送ってくって、言ってくれないんですか?」
「いいの?」
「どうしてです?今までも送ってくださってたのに。」

 ため息を吐いた。どうして、少しくらい、これっぽっちも警戒してくれないんだろうか。父親と似たようなもんなのか。それくらいの年齢の男なら、あの業界ギラギラした脂ギッシュ…改め、エネルギッシュな奴が多い。それなら警戒するのか?

「…わかった。帰ろうか?」
「はい!」

 諦めて、左手を差し出せば、なんのためらいもなく手を取り、腕を絡めてくる。階段を降りるとき、支えるのに手だけだと不安定で怖い。バランスが取りにくくむしろ降りづらい、だから腕ごと支えた方が、がっしり掴まれて安心する、らしい。初めて腕に抱きつかれた時は、びっくりした。
 惚れた子に、腕に抱きつかれて、平常心を保っている風を装う俺の身にもなってほしい。夏場はヤバい。ダウンコートを脱いだ今ですら危ない。

 階段の前に来ると、下にいたコウタが振り向いた。釣られて話をしていたお客さんも振り返った。

「陵伽ちゃん、階段、雨で濡れてるから、気を付けて。」
「はい」

 コウタの言葉に従って、ぎゅっと俺の腕にしがみついた。いつも通り、ゆっくり1段ずつ降りる。
 なんか、コウタの女性客にガン見されてる……めっちゃ見られてる!なんか聞こえないけど、舌打ちされた!いや、あれ、コウタの客だろ?なんで俺と腕組んでる陵伽に舌打ち?コウタに声かけられたから舌打ち?
 女って恐え…

「これ、階段に滑り止めつけた方がいいな。美咲さんに言ってみる?」
「……」

 ものすごく真剣に階段を降りてる……。聞いてないし。

「圭介、何にやけてんだよ。」

 階段を降り切ると、コウタに弥次られた。

「いや、スッゲー真剣に階段降りてるなって」
「だって、滑って巻き添えにしたら、どうしようって」
「それぐらい支えてやるよ。そこまで軟弱じゃねえよ。」
「なら、お姫様抱っこで階段下ろしてやれば?圭介」
「そこまで脚、悪くありません!」
「ごめんごめん、でも、滑り止めの件は聞こえたよ。あとで美咲さんに言ってみるよ。」
「任せた」

 相変わらず腕にしがみついている彼女を連れて、その場を抜け駐車場へ向かった。

え、あの二人って付き合ってるんですか?
さあねー?

 後ろからそんな話し声が聞こえた。彼女が慌てて腕を離す。恐る恐る俺の顔を覗き込む。

「何?」
「また誤解されました。誤解されるような事、させちゃいました。」
「誰に?」
「圭介さんのファン、減りません?」
「あれは、コウタのファンだ。」


 運転しながらチラリと隣を見る。今日はあまり眠くなさそうだ。せっかくだから訊いてみる。

「コウタとはどんな話で説得したの?」
「?…何についてですか?」
「セットリスト変更の取り消し」
「……猫が喉をぐるぐる鳴らすの、そんな感じって言ったらすごーく納得してくれました。」
「は?…それだけ?」
「どんな想像してました?」
「…言わせんのかよ。」
「コウタさんは猫派ですね。説得するまでもなかったですよ。ふふふ」

 含み笑いが、父親と似てるぞ、と思ったが黙っておいた。

「そっちか」
「そっち?どっち?何がですか?」
「いや、いい。気にするな。」
「でも歌詞は念の為、伏せろというので、ハミングにしました。」
「まあ、妥当だろうな」
「ならなんで、はじめOKしたんですか?圭介さん。」
「は?」
「そういうこと喚起させる歌詞でしょ。」
「ぶっ……」
「圭介さんは歌詞の意味、想像しなかったんですか?」
「いや、……だから、何言わせんだよ。」

 慌てて路肩に車を寄せた。彼女を見れば、珍しく視線を外して呟かれた。

「少しくらい想像してくれてもいいのに。」
「おっさんをからかうなよ……そしたら、送ってくやれなくなるぞ。」

 気がつけば、俺の左手は彼女の頭をぽんぽんと撫でていた。ため息をついて車を出した。
 彼女はわかったのか、わかってないのかキョトンとした表情を浮かべた後、にこっと笑い、静かに歌い出した。本当に歌うのが好きなんだな、と微笑ましく思ったが、歌った曲はセトリに変更で入れようとした曲だった。自分の顔がどんどん熱くなっていくのがわかった。

なんでその曲なんだ、歌詞、わかってて!コウタの隣じゃ恥ずかしいって言ったくせに。やめてくれ、本当タチ悪いぞ。
……いや、隣がコウタじゃないから歌えるのか?

 助手席から車を降りるには、左足から降りる。彼女は左足が悪いからどうしてももたつく。紳士的にエスコートとかそんなもんじゃない、ただ手伝ってやってるだけ。車から降りて一瞬、妙な間があった、彼女が俺に抱きついた!なんのご褒美だ、いや試練か、拷問か、なんなんだ。
 最近彼女から、ちょっとした接触が増えている。親しい間柄でちょっとしたスキンシップ、といえばそう言えるレベル。でもさすがにどんな鈍感な奴だって、抱きつかれたらわかる。躓いたと言うなら、あの間はなんだ。俺の勘違いじゃないだろう、でも彼女は勘違いしてるんじゃないか?
 抵抗をやめ、彼女の頭を撫でる。髪がサラサラすべすべしてさわり心地がいいから、思わず梳くように髪を撫でる。ぎゅっとしがみついていた彼女から、ふっと力が抜けるのがわかる。

マズイなあ、俺、何やってんだ。このままじゃマズイってわかってるけど、どうしようもない。

 彼女がポーッとした表情で俺の顔を覗き込む。

「圭介さん」
「ん?」
「また、お話しできますか?水曜日、あのお店に行けば」


 ドアの向こうに彼女が消えるのを見守って、運転席に戻る。親父さん、安心してください、清く正しいお付き合いです。まだ。

 まったく何が清く正しいだ、30過ぎたオッサンが。もしあのまま部屋に誘われたら、間違いなく上がり込んでる。そしたらどうなるかなんて分かり切ってる。
 部屋を掃除しなきゃと言っていたので、掃除前の部屋は見せたくないのか、早く掃除したいのか、ちゃんと節度ある対応なのか、自己抑制がちゃんと働いているのか、やっぱりそういう対象に見ていないのか。一人悶々と無駄に考え、疲れ、信号待ちで止まったハンドルに突っ伏して盛大にため息を吐いた。

パパッ!

 後続車から早く行け!とクラクションを鳴らされた。慌てて車を発進させ、もう一度ため息を吐く。学校が始まり、忙しくなれば浮ついていた気持ちも落ち着くだろう。そしたら訊いてみよう、話そう。

 新年度が始まっても、特にちゃんと約束したでもないけど、水曜日の夕方はコーヒーショップに向かうと彼女に会う。相変わらず、帰り道は遠回りして送る。俺も特にその習慣を変える気は無くて、水曜日事務所の帰りに、彼女に会えるのを楽しみにしていた。

「なんか最近、圭介調子よくね?」
「俺が良いと何か不都合か?」
「いやー?」
「なら良いだろ。」
「陵伽ちゃん、また歌いに来てくれないかな~」
「彼女の学校、課題とか授業が厳しいらしいから、ゴールデンウィークまでは無理だろ」
「残念。圭介呼べないの?」
「呼んでどうする」
「歌ってもらうー」
「発売したら買え、毎日聴けるぞ。」
「そのつもり。で、圭介はいつデートしてんの?そんな忙しい彼女と」
「は?」
「あれ?付き合ってんじゃないの?」
「いや、いつからお前の中ではそういうことになってるんだよ。」
「えーだって、この間のライブ帰りの階段降りるときとか、親密そうな雰囲気が漂ってたけど?」
「いや、レコーディングで缶詰になってたりで、多少なりとも信頼関係は深まったと思うが、そういうのとは違うぞ。」
「あれ?そうなの?俺、圭介と違ってそういうの鈍感じゃないはずなんだけど。」
「鈍感認定するなよ。」

 ほぼ毎週水曜に会っている。お茶しておしゃべりして、ちょっとしたドライブして散歩したり、で家に送り届ける。なんだこの中学生のような健全なデートは。いや中学生にドライブはないか。デートなのかこれ。デートといえば、まだ報酬もらってない。もしかしてそれがこれ?
 あっけらかんと、そう言われるような気もしてきて、あえて訊かずにいた。

コウタにはバレバレだったが、そんなに雰囲気ダダ漏れだったのだろうか。
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