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第三章 翟義の乱

第十八話

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 正午前、翟義軍と討伐軍は二里(約八百メートル)の距離を置いて対峙した。しばらくの間、睨み合いが続いた。翟義は友軍の到着を待ち、王邑は駆け続けた兵の疲労を僅かなりとも回復させようとした。

 二時間後、翟義は指揮下の将兵に前進を命じた。敵軍の正確な情報を掴めていない翟義は、先程から眼前の敵が動かないのは、自分と同じく後続の友軍を待っているからであろうと考えた。敵と味方、どちらの軍が先に戦場へ現れるかは判らないが、幸いにも現時点では自軍の兵力が優勢であり、この兵力差を活かして戦えば、敵の増援が到着する前に目の前の敵を撃破できるかも知れない。後の戦いを有利に進めるためにも、自軍が優勢な内に先制攻撃を仕掛けるべきである、と翟義は判断した。

 翟義軍の各個撃破を目論んでいた王邑は、兵の体力に不安を覚えながらも、翟義の挑戦を真正面から受けた。前進を命じる太鼓が翟義軍の戦列で打ち鳴らされ、討伐軍は弓弩兵を前に出して翟義軍を待ち受けた。翟義軍の重装歩兵の足音が、討伐軍の弓弩兵の横列に段々と近づいた。翟義軍の戦列で打たれている太鼓の音が速さを増した。直後、討伐軍の戦列で数千の弓弦が鳴り響き、弓弩から放たれた矢が翟義軍の前方を翳らせた。翟義軍の兵士たちは怯んだが、幾人かの勇士が己の盾と甲冑と強運を信じ、喊声を上げて敵の戦列へ走り出した。それに引き摺られるように、他の翟義軍の将兵も盾を上げて敵軍へ突撃した。

 突撃する兵士の中に、甲冑姿の劉縯もいた。右手に矛を、左手に盾を持ち、劉縯は矢の雨の下を突進した。矢が突き立つ衝撃を、劉縯は左手の盾に幾度も感じた。敵の弓弩兵が後ろへ下がり、矛と盾を構えた歩兵が前に出てきた。翟義軍を近寄らせまいと矛が突き出された。劉縯は敵の矛を盾で受け、自らの矛で敵の盾を突いて応戦した。距離を置いて矛で突き合う戦いが続き、突くために前に出ては突き返されて後ろへ下がることを繰り返す内に、敵味方の隊形が乱れ始めた。劉縯は矛を捨て、剣を抜いた。繰り出される矛を盾で払い除けて敵兵に詰め寄り、敵の盾を剣で殴りつけた。敵兵が首を竦ませて盾の裏に隠れた。劉縯は敵の盾を剣で叩き、叩いて叩いて叩きまくり、ついには左手の盾を投げ捨て、両手で剣を握りしめて敵の盾を乱打した。その猛烈な勢いに圧倒され、敵兵が後ろに転倒した。劉縯は敵兵を盾の上から踏みつけ、更に剣で叩いたが、そこへ別の敵兵が現れ、劉縯の頭に矛を振り下ろした。劉縯は咄嗟に剣で防いだ。敵兵は両手で矛を振り回し、劉縯に剣の間合いの外から何度も叩きつけた。劉縯は防戦一方に追い込まれたが、再び頭上に振り下ろされた一撃を剣で受け流すと、敵の懐へ踏み込んで胴体に剣を打ち込んだ。剣の刃は小札鎧に弾かれたが、敵は衝撃で体をよろめかせ、地面に膝をついた。劉縯は更に一撃を加えようとしたが、先ほど劉縯に転倒させられた敵兵が、今まさに剣を振り下ろそうとした劉縯へ体当たりを食らわせた。今度は劉縯が転倒した。甲冑の重さに苦しみながら体を起こした時には、既に敵は仲間を助け起こして逃走していた。

 劉縯は新たな敵を探した。三人の敵に囲まれている劉秀を見つけた。劉秀は振り回される矛を盾で防ぎながら、果敢に前へ踏み込んで敵兵の喉に剣を突き立てた。血が劉秀の顔や甲冑に点々と飛んだ。残りの二人は仲間の死に逆上し、わあわあと喚きながら剣と矛で劉秀の盾を滅多打ちにした。劉秀は堪え切れず、後ろへ倒れた。

「おまえら、秀から離れろ!」

 劉秀を矛で殴る敵兵の背に、劉縯は剣を打ちつけた。剣は小札鎧に跳ね返されたが、敵兵は背後からの攻撃に驚き、矛を放り出して逃げた。劉縯は残された一人へ剣を叩きつけた。敵兵も剣で殴り返してきた。激しい打ち合いが続いた。劉縯は敵の剣を弾き返し、敵兵の胴を剣で薙いだ。かん、と高い音を立て、劉縯の剣が折れた。劉縯は無我夢中で敵兵に掴み掛かり、甲冑を着た敵を投げ飛ばした。地面に叩きつけられた敵兵の上に、体勢を立て直した劉秀が跨り、敵の顎の下に剣を押し込んで止めを刺した。

「ありがとうございます、兄上」

 劉秀が敵の首から剣を引き抜いた。劉縯は予備の剣を抜いた。

「秀、おれの後ろについてこい。絶対に離れるなよ」

「待ってください。今、兄上の分の首を落としますから」

 大漢帝国の軍法では、獲得した首級の数に応じて兵に恩賞が与えられる。劉秀は息の根を止めた敵の首に改めて剣を当て、ごりごりと押し切り始めた。見てはいけないものを見た気がして、劉縯は弟から顔を背けた。

 翟義軍と討伐軍は一進一退の攻防を続けた。数で優る翟義軍は幾度も討伐軍を押し込んだが、そのたびに討伐軍の騎兵が乱戦の中へ突入し、縦横に戟を振り回した。戟とは矛の刃の根元に鶴嘴状の刃を取り付けた長柄武器で、討伐軍の騎兵は疾走する馬の上から戟を繰り出し、翟義軍の歩兵を小石のように撥ね飛ばした。

「あの騎兵を指揮しているのは、廉丹か」

 翟義は呻いた。廉丹は戦国の七王国を代表する名将の一人、廉頗れんぱの子孫である。廉頗は七王国の中で最も早く騎兵を導入した国の武将であり、末裔である廉丹も騎兵の指揮に長けている。騎兵の長所である速力と衝力を最大限に活かし、守りが堅い箇所を避けて突撃と離脱を繰り返す廉丹に、翟義軍は翻弄された。

「廉丹を止めろ。討てとは言わん、こちらの歩兵が敵を押し切るまで時間を稼げ」

 東郡の軍務官で、挙兵した時からの腹心である劉宇りゅううに、翟義は命じた。劉宇は二千騎を率いて廉丹の千二百騎に挑んだ。両者は乾いた畠を馬蹄で踏み潰して激突し、辺りに濛々と土煙が立ち込めた。その間に翟義軍は総攻撃を開始し、中央の戦列で敵軍を猛撃して動きを封じながら、両翼を伸ばして押し包もうとした。作戦は順調に進み、討伐軍を指揮する王邑は翟義軍の重囲に陥りかけた。

 討伐軍の騎兵が土煙の中から駆け出てきたのは、今まさに翟義軍の包囲が完成しようとしていた瞬間であった。騎兵の先頭では指揮官の廉丹が高々と戟を掲げていた。戟の穂先には劉宇の首が突き刺さり、無念の形相で宙を睨んでいた。廉丹は自らの勝利を誇示しながら馬を走らせ、翟義軍の後背を強襲した。翟義軍の将兵は胆を潰し、包囲を崩して我先に逃げ出した。

「逃げるな、戦え! 戦うんだ!」

 最前線で戦い続けていた劉縯は、逃げる味方を押し止めるべく声を張り上げた。横を走り抜けようとした兵士の襟首を掴み、その場に踏み止まらせようとしたが、そこへ馬蹄の轟きが近づいてきた。劉縯は兵士から剣を奪い、馬蹄の轟きへ剣を構えた。こちらへ逃げてくる歩兵の群れの向こうに、人間の首を穂先に刺した戟が見えた。

「来い、逆賊! 来い!」

 劉縯は吼えた。逃げ惑う歩兵を蹴散らし、廉丹を乗せた悍馬が姿を現した。劉縯の後ろにいた劉秀が弩の引き金を引いた。矢が唸りを上げて飛び、廉丹の馬の片目を射貫いた。馬が倒れ、廉丹は宙へ放り出された。劉縯は雄叫びを上げて突進した。廉丹は地上で一転して素早く立ち上がると、劉宇の首を刺した戟を投げ捨て、腰の直刀を抜いた。

 剣と直刀が正面から衝突し、甲高い音が鳴り響いた。間髪を入れず、廉丹は劉縯の剣を押し返し、直刀を鋭く振り回した。劉縯の右で、左で、眼前で、鉄が鉄を打つ音、擦る音が連続して響いた。激しく打ち交わす劉縯と廉丹の周りを無数の騎兵が囲んだ。矢箙から矢を抜き取り、弦を引いて弓を構えようとした騎兵たちへ、手を出すな、という命令が廉丹の口から飛んだ。

「兄上」

 次の矢を装填すべく、劉秀は両手の指を弩の弦にかけて引いた。固く張られた弦が指に食い込んだ。その痛みに顔を歪めながらも劉秀は弦を引き、弩の爪に弦をかけた。急いで矢を装填し、弩を構えた。次の瞬間、劉秀の横を馬影が駆け抜け、馬上から繰り出された戟が弩を空中へ撥ね飛ばした。

「秀!」

 劉縯は廉丹の直刀を払い除けて劉秀へ走り寄り、倒れた劉秀を助け起こした。騎兵の一群が渦を巻くように劉縯と劉秀を取り囲んだ。劉縯は自らの体で劉秀を庇いながら周囲の騎兵へ剣を向けた。騎兵たちが一斉に弓弦を引き絞り、劉縯と劉秀に狙いを定めた。

 伝令と思しき騎兵が廉丹の許へ駆けてきた。騎兵は馬を下り、廉丹に何事かを耳打ちした。廉丹は直刀を鞘に納めながら頷くと、別の騎兵が引いてきた馬に乗り、配下の騎兵に撤収を命じた。鏑矢の音が空に鳴り渡り、辺りが土煙に覆われ、馬蹄の轟きが急速に劉縯と劉秀から遠のいた。

「助かった、のか?」

 なぜ、と考える余裕も無く、劉縯は地面の上に座り込んだ。劉縯の汗を拭うように晩秋の冷たい風が流れ、立ち込める土煙を彼方へ吹き払った。

「兄上、あれを」

 劉秀が地平の一角を指差した。劉縯は顔を上げ、弟の指の先に目を凝らした。小さな点のようなものが無数に動いていた。劉縯は疲労を忘れて立ち上がった。

「味方だ。友軍が来た」

 戦いの流れが一変した。味方の来援を知った翟義軍は勇気を取り戻して踏み止まり、逆襲に転じた。王邑は翟義軍の各個撃破に失敗したことを悟り、指揮下の諸隊に退却を命じた。討伐軍は戦いながら後退した。翟義軍は犠牲を出しながらも追い縋り、討伐軍の退却を妨害した。陽が西へ傾き、空が朱く染まり始めた。地平から無数の軍旗が近づいてきたが、討伐軍の退却は遅々として進まず、将兵は挟撃の不安に慄いた。

 その不安に最初に押し潰されたのは、王邑であった。王邑は部下の将校に退却の指揮を委ね、自らは少数の騎兵に守られて戦場から逃げた。王邑の逃走はすぐに討伐軍の全将兵に知れ渡り、将兵は戦意を喪失して潰走した。

 翟義軍は逃げる討伐軍を追撃した。劉縯も疲れた体を叱咤して敵を追いかけた。今日の戦いで劉縯は何十人もの敵を打ち負かしたが、常に激戦の渦中に身を置いていたせいで、倒した敵の首を獲る暇が無かった。もう一つくらいは首を獲らねば、と拾った戟を担いで敵を追い、逃げる敵の背に戟の柄を叩きつけた。敵は衝撃でよろめいた。劉縯は戟を振り上げ、振り下ろした。戟の鶴嘴状の刃が、敵の首筋を貫いた。敵は首筋から赤い飛沫を散らしながら倒れた。劉縯は無我夢中で敵の体を戟で叩いた。何度も何度も何度も戟を振り下ろした後で、ようやく敵が死んでいることに気づいた。

「……やったか」

 劉縯は小さく息をつくと、敵の首を斬り落とすために短剣を抜いた。敵の顎の下に短剣を押し当て、短剣を持つ腕に力を込めようとした。しかし、なぜか腕に力が入らず、それどころか腕が小刻みに震え始め、指の間から短剣が零れ落ちた。

「どうされました?」

 後ろから声がした。振り返ると、劉秀がいた。落とした短剣を、劉縯は目で示した。

「腕が攣った。悪いが、おれの代わりに首を落としてくれ」

「わかりました」

 今日の兄は多くの敵と勇敢に戦い、全身の筋肉を酷使していた。その疲れが出たのだろう、と劉秀は思い、兄の短剣へ手を伸ばした。

 間もなく戦場に夜の帳が下り、翟義は同士討ちを避けるために兵を引き揚げさせた。多くの敗兵が夜の闇に命を救われたが、その闇のために逃げるべき方角を見失い、無秩序に八方へ散じた。

 王邑敗退の報は、すぐに洛陽の孫建へ届けられた。孫建は主な諸将を集めた。報せによれば、王邑は洛陽の東を守る成皋――かつて覇王項羽と高祖劉邦が激しい攻防戦を繰り広げた要塞都市へ入り、逃げてきた敗兵をまとめているが、現時点で王邑が掌握している兵数は五千に満たず、残りの二万数千は陳留郡の各地に散らばり、とても戦力として計算できる状態ではないという。

「潰滅、か」

 孫建は床に広げられた白布を睨んだ。集められた諸将も一様に顔を伏せた。重苦しい沈黙が続いた。季節は既に秋から冬へ移り変わり、室内には長方形の火鉢が幾つも置かれていた。ぱちぱちと炭火が小さく爆ぜる音だけが諸将の間に響いた。

 警備を担当している将校が、部屋の出入り口に現れた。前線の都市から急使が到着したことを、将校は孫建に伝えた。急使は書簡を携えていた。孫建は書簡を受け取ると、書簡の封泥――簡冊を縛った紐の結び目を封じた粘土に目をやり、そこに押されている印章を確かめた。

「荘校尉か」

 孫建は佩剣を引き出して封泥の紐を切り、書簡を広げた。書簡の文章に目を通すと、将校の一人に手渡して読み上げさせた。書簡は王邑の敗戦の二日後に書かれており、先日まで翟義が攻囲していた都市に入城し、後方に待機させていた輜重を呼び寄せ、都市へ逃げてきた敗兵を励まして死守の態勢を整えていることが綴られていた。

「豎子め。死守という言葉を、軽々しく使いおって」

 孫建は舌打ちした。将校の一人が顔を上げ、出撃を主張した。別の将校が、洛陽の防衛に十分な兵力を回せないことを理由に反対した。諸将の間で議論が交わされた。やがて意見が出尽くし、将校の一人が孫建に裁断を仰いだ。孫建は敷き物の上で立ち上がった。

「事は窮まった。もはや洛陽と陳留、両方を守る手段は無い。洛陽か、それとも陳留か。どちらか一つを、我らは選ばねばならん」

 孫建は諸将の顔を見渡した。

「出陣だ。洛陽を狙う見えざる敵に備えるのではなく、陳留の見えている敵を討つ」

 同時刻、数日前まで翟義に攻囲されていた前線の都市では、荘校尉こと荘尤が守城戦の準備のために奔走していた。逃げ落ちてきた兵士を再編成し、糧食や武具を城内へ運び入れ、先の戦いで傷んだ城門や城壁を修復し、城外に放置されていた攻城兵器を解体して守城兵器に作り直した。都市を預かる県令が荘尤の過労を案じ、休息を取るよう勧めたが、荘尤は穏やかに断った。何かしていないと不安に苛まれた。兵士たちもそうであろうと思い、朝から晩まで牛馬のように働かせた。荘尤自身も兵の中に混じり、城壁の上から敵へ投げ落とすための日干し煉瓦を、泥に塗れながら作った。

 翌日の午後、翟義軍の先遣隊が現れた。兵数は四千ほどで、城内の兵を掻き集めれば戦えない数ではなかったが、荘尤は王邑の敗戦を思い出して堪えた。王邑が寡兵でありながら翟義軍を攻撃した動機の一つは、多勢の敵から受ける重圧に耐えられなくなったからであった。今は耐えることが勇気だ、と自分に言い聞かせ、荘尤は都市の守りを固めた。

 二日後、翟義軍の本隊が到着し、再び都市を包囲した。兵数は約十万。翟義軍の将兵は先の戦勝のために意気軒昂であり、この勢いに乗じて攻めれば数日中に都市は陥落する、と翟義は考えていた。
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