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記憶のかけら
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——なんだ、これ
圭司は母親が書いたという、アルファベットで書かれた圭の名前をじっと見ていた。
——この違和感はなんだ
「圭司、どうかしたの?」
様子がおかしいことにステラが気がついたようだ。
「あっ、いや、なんでもないよ」と圭司は笑顔で不安な気持ちを取り繕った。
「本当に?」
「ああ、本当さ。やっとこれで間違いなく圭は日本から連れてこられたってことが証明されたと思ってさ。トムに残った記憶はかけらかも知れないけど、ちゃんと正しかったんだな」
——本当はそこじゃない
「そうよね。少なくとも十六年前に日本からアメリカへ渡った人のルートだけを探していけば間違いないってことだものね。確か神さまの指先を辿れ、だったっけ」
トムに会った時のことはステラにも詳しく話してきかせていたが、それを覚えていたようだ。
「まあ、神さまが仕組んだことかどうかは俺は疑わしいけどな」
そう言いながら、圭司は件の紙切れを再び小さく折りたたんで、何事もなかったように缶に戻そうとしたときだった。
「確認に行かないの?」と突然ステラが言った。
「確認? なんの?」ドキッとした。
「トムに、母親が残したのはこの紙かって聞かないの?」訝しげにステラが聞いた。そうするのが当たり前じゃないのか、という顔をしている。
——しまった
「いや、まあ流石にこれで間違いないだろうってな。そう思って」慌てて笑ってごまかした。「そうだな。一度確認した方がいいかもな。今度トムのところへ行くときに持って行ってみた方がいいか」
自分でもわかっていた。紙を拡げてみたときの、例えようのない妙な違和感。これ以上深く詮索しない方がいいのでは、というアラームが頭の中で鳴っているのだ。何がそうさせているんだ——
ステラはたぶん、そんな圭司の様子に何か感じているのだろう。「まだ今度」と曖昧に言った圭司に、
「明日はお店も休みだし、行ってみようよ? 私もトムに会ってみたい」
と考える隙を与えないのだ。彼女もひょっとしたら、同じ違和感を感じていたとしたら。
「ああ、そうか。明日は休みだったな。ちょうどいいや」
有無を言わせず、結局トムのところへ翌日早朝から行くことにしたのだった。
⌘
よく晴れた日だったが、真冬のボストンは想像以上に寒かった。初めてトムと会った日はちょうどホームの庭先で日光浴をしていたのだが、今日はまだ午前中で寒いせいかゲートから見える庭には誰も出ていないようだった。
受付でトムの見舞いだと告げると、今日は南向きの太陽の光が当たるサンテラスの部屋の内側で、海の方を見ながら車椅子に座っているトムのところへ案内された。
「やあ、トム」
圭司は驚かせないよう、横から軽く挨拶をした。トムはゆっくりと顔を右に向けて圭司とステラをみて、微笑んだ。
「やあ、親愛なるフレンド。どこで会った友達かな」と穏やかにいう。
「ニューヨークのストロベリーハウスから来ました。あなたが育ててくれた高橋圭の父親です」とかなり端折って圭司は答えた。
「ああ、ケイ。いい子だ。お父さんと会えたのか。幾つになったんだい」と言いながらステラに視線を送ったが、それが圭ではないことはわかったらしい。誰だろうというような不思議そうな顔をした。
「初めまして。私は圭の友達です。ステラと呼んでください」と挨拶をする。
「ああ、覚えてるさ。圭の友達だったかな——」
そう言うと何かを思い出そうとするように、トムは黙り込んだ。
——このままでは何度訪ねてきても、堂々巡りだ
「トム、どうしても聞きたいことがあって来ました」そう言いながら、折れてしまわないようにノートに挟んで持ってきた古ぼけた一枚の紙、母親が圭の名前を書いたという例の紙をトムの前に拡げた。「これが圭の母親が書いたものか覚えていますか」
圭司は単刀直入に聞いた。覚えていて欲しい——
だが、トムは一瞥しただけで、その紙にはそれ以上興味を示さなかった。まだ黙って海を見ていた。
「この間、圭がハウスにいるときからずっと持っていた入れ物に入ってました。圭を預かるときに母親に名前を書かせた紙というのは、これではないんですか」
圭司はよく見えるように、目の前に紙を拡げてもう一度聞いた。
「さあ、どうだったかな——」とトムは言う。「メリンダがそう言ったのなら、そうなんだろうな」
——やはり無理か
圭司とステラが顔を見合わせて、トムはこれ以上思い出せそうもないことをお互いに理解した。ボストンまできた以上、もう少し進展があってもよかったのだが、以前に来たときよりもトムの認知症は進んでいるようだ。
「ケイ・タカハシという名前は、圭の母親が言った名前なの?」
突然ステラがトムに話しかけた。まさかステラがその質問をすると思っていなかった圭司は心臓の鼓動が高鳴るのを感じたが、だがトムは全くステラに関心はないようで、視線を向けようともしない。
やはりもう諦めて帰るしかなさそうだ。
「今日は会ってくださってありがとう。いつまでもお元気で」
そう言って二人が向けた背中に、
「ああ、日本人の名前は難しくて私はよくわからんがね。メリンダがそう言ったんだ。日本人のほとんどはタカハシという名前だってな」
とトムの声がした。
二人は驚いて振り向き、トムに今の言葉を確認しようとしたが、彼はもう深く目を閉じて静かに眠りに入っていた。
帰る車の中でただステラは外の景色を見ていた。
あのときトムに何が聞きたかったのだろう。もし自分と同じことを考えているとしたら——
圭司の胸に大きな不安が芽生え始めていた。
圭司は母親が書いたという、アルファベットで書かれた圭の名前をじっと見ていた。
——この違和感はなんだ
「圭司、どうかしたの?」
様子がおかしいことにステラが気がついたようだ。
「あっ、いや、なんでもないよ」と圭司は笑顔で不安な気持ちを取り繕った。
「本当に?」
「ああ、本当さ。やっとこれで間違いなく圭は日本から連れてこられたってことが証明されたと思ってさ。トムに残った記憶はかけらかも知れないけど、ちゃんと正しかったんだな」
——本当はそこじゃない
「そうよね。少なくとも十六年前に日本からアメリカへ渡った人のルートだけを探していけば間違いないってことだものね。確か神さまの指先を辿れ、だったっけ」
トムに会った時のことはステラにも詳しく話してきかせていたが、それを覚えていたようだ。
「まあ、神さまが仕組んだことかどうかは俺は疑わしいけどな」
そう言いながら、圭司は件の紙切れを再び小さく折りたたんで、何事もなかったように缶に戻そうとしたときだった。
「確認に行かないの?」と突然ステラが言った。
「確認? なんの?」ドキッとした。
「トムに、母親が残したのはこの紙かって聞かないの?」訝しげにステラが聞いた。そうするのが当たり前じゃないのか、という顔をしている。
——しまった
「いや、まあ流石にこれで間違いないだろうってな。そう思って」慌てて笑ってごまかした。「そうだな。一度確認した方がいいかもな。今度トムのところへ行くときに持って行ってみた方がいいか」
自分でもわかっていた。紙を拡げてみたときの、例えようのない妙な違和感。これ以上深く詮索しない方がいいのでは、というアラームが頭の中で鳴っているのだ。何がそうさせているんだ——
ステラはたぶん、そんな圭司の様子に何か感じているのだろう。「まだ今度」と曖昧に言った圭司に、
「明日はお店も休みだし、行ってみようよ? 私もトムに会ってみたい」
と考える隙を与えないのだ。彼女もひょっとしたら、同じ違和感を感じていたとしたら。
「ああ、そうか。明日は休みだったな。ちょうどいいや」
有無を言わせず、結局トムのところへ翌日早朝から行くことにしたのだった。
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よく晴れた日だったが、真冬のボストンは想像以上に寒かった。初めてトムと会った日はちょうどホームの庭先で日光浴をしていたのだが、今日はまだ午前中で寒いせいかゲートから見える庭には誰も出ていないようだった。
受付でトムの見舞いだと告げると、今日は南向きの太陽の光が当たるサンテラスの部屋の内側で、海の方を見ながら車椅子に座っているトムのところへ案内された。
「やあ、トム」
圭司は驚かせないよう、横から軽く挨拶をした。トムはゆっくりと顔を右に向けて圭司とステラをみて、微笑んだ。
「やあ、親愛なるフレンド。どこで会った友達かな」と穏やかにいう。
「ニューヨークのストロベリーハウスから来ました。あなたが育ててくれた高橋圭の父親です」とかなり端折って圭司は答えた。
「ああ、ケイ。いい子だ。お父さんと会えたのか。幾つになったんだい」と言いながらステラに視線を送ったが、それが圭ではないことはわかったらしい。誰だろうというような不思議そうな顔をした。
「初めまして。私は圭の友達です。ステラと呼んでください」と挨拶をする。
「ああ、覚えてるさ。圭の友達だったかな——」
そう言うと何かを思い出そうとするように、トムは黙り込んだ。
——このままでは何度訪ねてきても、堂々巡りだ
「トム、どうしても聞きたいことがあって来ました」そう言いながら、折れてしまわないようにノートに挟んで持ってきた古ぼけた一枚の紙、母親が圭の名前を書いたという例の紙をトムの前に拡げた。「これが圭の母親が書いたものか覚えていますか」
圭司は単刀直入に聞いた。覚えていて欲しい——
だが、トムは一瞥しただけで、その紙にはそれ以上興味を示さなかった。まだ黙って海を見ていた。
「この間、圭がハウスにいるときからずっと持っていた入れ物に入ってました。圭を預かるときに母親に名前を書かせた紙というのは、これではないんですか」
圭司はよく見えるように、目の前に紙を拡げてもう一度聞いた。
「さあ、どうだったかな——」とトムは言う。「メリンダがそう言ったのなら、そうなんだろうな」
——やはり無理か
圭司とステラが顔を見合わせて、トムはこれ以上思い出せそうもないことをお互いに理解した。ボストンまできた以上、もう少し進展があってもよかったのだが、以前に来たときよりもトムの認知症は進んでいるようだ。
「ケイ・タカハシという名前は、圭の母親が言った名前なの?」
突然ステラがトムに話しかけた。まさかステラがその質問をすると思っていなかった圭司は心臓の鼓動が高鳴るのを感じたが、だがトムは全くステラに関心はないようで、視線を向けようともしない。
やはりもう諦めて帰るしかなさそうだ。
「今日は会ってくださってありがとう。いつまでもお元気で」
そう言って二人が向けた背中に、
「ああ、日本人の名前は難しくて私はよくわからんがね。メリンダがそう言ったんだ。日本人のほとんどはタカハシという名前だってな」
とトムの声がした。
二人は驚いて振り向き、トムに今の言葉を確認しようとしたが、彼はもう深く目を閉じて静かに眠りに入っていた。
帰る車の中でただステラは外の景色を見ていた。
あのときトムに何が聞きたかったのだろう。もし自分と同じことを考えているとしたら——
圭司の胸に大きな不安が芽生え始めていた。
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