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秘密
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色のない無機質な部屋の中で、やたらと白いシーツが敷かれたベッドの上に蓮さんは鼻から管を通し、目を閉じて横たわっていた。もう七十を越したせいもあるのだろうが、頬がやつれてまるで血が通ってないみたいに青白い。圭司が知っている昔ながらの蓮さんはそこにはいなかった。
蓮さんの店はかつて五反田にあった。建てつけの悪い木枠の引き戸をガタガタいわせながら店に入ると、天ぷら油が染み付いた茶色い壁に赤い枠の札に墨で書いたメニューがこれでもかというほど貼ってあり、昼間っから近所のおっちゃんや学生達が焼酎を酌み交わし、カウンターの向こうではふくよかな丸顔の蓮さんがいつもニコニコ笑っており——
——似合わねえよ、蓮さん。こんな静かな場所ってさ
かける言葉も見つからないまま、近くにあった折り畳みのパイプ椅子を広げ、圭司は黙って蓮さんの傍に座り、着ている浴衣のはだけそうな胸元をそっと合わせた。
空港から菊池の事務所に着いてすぐ、圭司が車から降りると菊池が「行くぞ」と言う。もちろんどこに行くかなど言わなくてもわかっていた。自分らは後から行くからとステラたちを横浜の実家に連れて行くように圭太に頼み、菊池と圭司はタクシーで蓮さんの入院する病院に向かったのだった。
ところで日本に帰る前はステラのためにホテルを予約していたのだが、姉の史江が実家に泊まっていけばいいとさっさとホテルを解約していた。ステラが電話で仲良くなったという菊池の事務所の事務員——圭太の姉らしい——を交えて今夜は横浜で女子会をすると史江が張り切っていた。
病院に着くと、病室の前で菊池が外で待っているからと言い圭司は一人で病室に入った。積もる話もあるだろうと気を効かせたつもりらしい。
しばらく黙って蓮さんの顔を見ていた。言われてなければ、それが蓮さんであるとは気がつかないほど痩せていて、なんでもっと早く来なかったのかという後悔がじわじわとこみ上げてきた。
気がつくと、いつの間にか蓮さんが薄目を開けてじっと圭司を見ていた。
「なんだよ、俺の顔になんかついてるか。惚れるなよ」蓮さんは弱々しい声でそう言ってうっすらと笑った。
もう話せないのではと思っていた圭司は、急に話しかけられて「ただいま」と言うのが精一杯だった。
「いつ帰ってきた」
見た目よりはしっかりしてそうだ。
「さっき着いたばかりで」と答える。
「そうか。元気だったか」
「ええ、蓮さんも——。いやお世辞にも元気じゃないですよね」自分の間抜けさに笑ってしまう。
「何言ってんだ。まだまだお前より元気だよ」と蓮さんは痩せ細った右腕で力こぶを作る真似をして、二人は目を合わせて散々笑った。
「お前、アメリカで何やってんだ。いつまで待ってもレコード出さねえし」
「レコードって、今どき」そう言って圭司は笑う。「実は今、アメリカで蓮さんの店2号店を出してて」
「2号店?」
「うん、和食の店。蓮さんとこで覚えた丼とか」
「おっ? アメ公も丼食うのか。流行ってるか」
「ああ、案外と儲かってる。まあ日本人も多い地区だけどね」
「お前が作るのは俺の味だろう。美味いのは当たり前だぜ」ニヤリと蓮さんが笑った。
それから圭司は、アメリカに渡ってからのことを蓮さんに話して聞かせ、蓮さんの味のおかげで今食えていることを報告すると蓮さんは満足気だった。そして昔話に花が咲いた。
「今日はキクは?」と病室の入り口あたりを見ながら蓮さんが言う。菊池を「キク」と呼ぶのは何年経っても変わらない。
「誠はここまでは連れてきてくれたんだけどね。外にいるって」
「あいつらしい。そんなんで気をきかせたつもりか」と圭司と同じことを蓮さんが言う。
「まあ、そんなんなんで、また来ます」そう言って圭司が椅子から立ち上がった。
「いつまでこっちにいるんだ」
「十日ぐらいですね。十二月に入ったら店も忙しくなるんで。近々娘がレコード出すんですよ」——今どきレコードって
その瞬間だった。蓮さんが突然、驚いたような顔で半身を起こし、
「娘って、お前——」
と、そう言って言葉が止まった。
「あ、ああ。俺、娘がいるんです。向こうで養女にした娘なんだけど、去年から日本の学校に通わせてて」
蓮さんの様子に驚きながら、圭司は簡単に圭のことを話して聞かせた。圭司の話を聞いて蓮さんはなぜか大きな息を吐いて、しばらく黙って圭司を見ていた。
「蓮さん、どうかした?」
「いや、なんでもない。そうか、お前も一丁前に親をやってんだなと思ってな」
「俺ももうすぐ五十になるんで、人並みには」
「そうか。もうそんな年になるか。そうだな」
「はい。もういい歳です。それじゃ、帰ります」そう言ってもう一度頭を下げて、圭司は蓮さんに背中を向けた。その背中に、
「ああ。気をつけて」
と蓮さんは言ったのだった。
そういえば、俺がアメリカに渡ってすぐ、蓮さんが俺を探してたと誠が言ってたな。さっきは何も言わなかったけど、なんだったんだろうと菊池の言葉を圭司はふと思い出した。
——次に会ったとき、聞いてみようか。
蓮さんの店はかつて五反田にあった。建てつけの悪い木枠の引き戸をガタガタいわせながら店に入ると、天ぷら油が染み付いた茶色い壁に赤い枠の札に墨で書いたメニューがこれでもかというほど貼ってあり、昼間っから近所のおっちゃんや学生達が焼酎を酌み交わし、カウンターの向こうではふくよかな丸顔の蓮さんがいつもニコニコ笑っており——
——似合わねえよ、蓮さん。こんな静かな場所ってさ
かける言葉も見つからないまま、近くにあった折り畳みのパイプ椅子を広げ、圭司は黙って蓮さんの傍に座り、着ている浴衣のはだけそうな胸元をそっと合わせた。
空港から菊池の事務所に着いてすぐ、圭司が車から降りると菊池が「行くぞ」と言う。もちろんどこに行くかなど言わなくてもわかっていた。自分らは後から行くからとステラたちを横浜の実家に連れて行くように圭太に頼み、菊池と圭司はタクシーで蓮さんの入院する病院に向かったのだった。
ところで日本に帰る前はステラのためにホテルを予約していたのだが、姉の史江が実家に泊まっていけばいいとさっさとホテルを解約していた。ステラが電話で仲良くなったという菊池の事務所の事務員——圭太の姉らしい——を交えて今夜は横浜で女子会をすると史江が張り切っていた。
病院に着くと、病室の前で菊池が外で待っているからと言い圭司は一人で病室に入った。積もる話もあるだろうと気を効かせたつもりらしい。
しばらく黙って蓮さんの顔を見ていた。言われてなければ、それが蓮さんであるとは気がつかないほど痩せていて、なんでもっと早く来なかったのかという後悔がじわじわとこみ上げてきた。
気がつくと、いつの間にか蓮さんが薄目を開けてじっと圭司を見ていた。
「なんだよ、俺の顔になんかついてるか。惚れるなよ」蓮さんは弱々しい声でそう言ってうっすらと笑った。
もう話せないのではと思っていた圭司は、急に話しかけられて「ただいま」と言うのが精一杯だった。
「いつ帰ってきた」
見た目よりはしっかりしてそうだ。
「さっき着いたばかりで」と答える。
「そうか。元気だったか」
「ええ、蓮さんも——。いやお世辞にも元気じゃないですよね」自分の間抜けさに笑ってしまう。
「何言ってんだ。まだまだお前より元気だよ」と蓮さんは痩せ細った右腕で力こぶを作る真似をして、二人は目を合わせて散々笑った。
「お前、アメリカで何やってんだ。いつまで待ってもレコード出さねえし」
「レコードって、今どき」そう言って圭司は笑う。「実は今、アメリカで蓮さんの店2号店を出してて」
「2号店?」
「うん、和食の店。蓮さんとこで覚えた丼とか」
「おっ? アメ公も丼食うのか。流行ってるか」
「ああ、案外と儲かってる。まあ日本人も多い地区だけどね」
「お前が作るのは俺の味だろう。美味いのは当たり前だぜ」ニヤリと蓮さんが笑った。
それから圭司は、アメリカに渡ってからのことを蓮さんに話して聞かせ、蓮さんの味のおかげで今食えていることを報告すると蓮さんは満足気だった。そして昔話に花が咲いた。
「今日はキクは?」と病室の入り口あたりを見ながら蓮さんが言う。菊池を「キク」と呼ぶのは何年経っても変わらない。
「誠はここまでは連れてきてくれたんだけどね。外にいるって」
「あいつらしい。そんなんで気をきかせたつもりか」と圭司と同じことを蓮さんが言う。
「まあ、そんなんなんで、また来ます」そう言って圭司が椅子から立ち上がった。
「いつまでこっちにいるんだ」
「十日ぐらいですね。十二月に入ったら店も忙しくなるんで。近々娘がレコード出すんですよ」——今どきレコードって
その瞬間だった。蓮さんが突然、驚いたような顔で半身を起こし、
「娘って、お前——」
と、そう言って言葉が止まった。
「あ、ああ。俺、娘がいるんです。向こうで養女にした娘なんだけど、去年から日本の学校に通わせてて」
蓮さんの様子に驚きながら、圭司は簡単に圭のことを話して聞かせた。圭司の話を聞いて蓮さんはなぜか大きな息を吐いて、しばらく黙って圭司を見ていた。
「蓮さん、どうかした?」
「いや、なんでもない。そうか、お前も一丁前に親をやってんだなと思ってな」
「俺ももうすぐ五十になるんで、人並みには」
「そうか。もうそんな年になるか。そうだな」
「はい。もういい歳です。それじゃ、帰ります」そう言ってもう一度頭を下げて、圭司は蓮さんに背中を向けた。その背中に、
「ああ。気をつけて」
と蓮さんは言ったのだった。
そういえば、俺がアメリカに渡ってすぐ、蓮さんが俺を探してたと誠が言ってたな。さっきは何も言わなかったけど、なんだったんだろうと菊池の言葉を圭司はふと思い出した。
——次に会ったとき、聞いてみようか。
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