拾われた男と拾った女

長月猛夫

文字の大きさ
1 / 1

拾われた男と拾った女

しおりを挟む
 松沢のベンツが交差点で停まったとき、かたわらを老婆が通り過ぎた。冬枯れの町に背を丸め、あかぎれの手をさすりながら無表情に歩いていく。
「あれは……」
 松沢の記憶が鮮明によみがえる。容姿は変わっているが、肩からぶらさげた巾着袋に見おぼえがある。
「美佐子」
 そのとき、目の前の信号が青に変わった。松沢はクルマを発進させる。ルームミラーの中で小さくなっていく美佐子の姿。松沢はそれを一瞥し、ふたたび真正面に視線を戻した。

 戦争が終わり、日本中が経済成長の只中にあったころ、松沢雅俊は生まれた。開業医の長男として将来を決めつけられていた松沢は、本人も疑ったり逆らったりすることなく、毎日勉強にいそしむ。そんな彼が、運命に疑問を抱きはじめたのは、大学受験の失敗が原因だった。
 進学校に進み、成績は常にトップクラス。教師連中や友人、そして両親も松沢がすんなり医大に合格し、ゆくゆくは父親のあとを継ぐものだと確信していた。
 しかし、まさかの不合格。
 それまでは期待の星とちやほやしていた連中が、手のひらを返したように冷たくなり、もちろん両親の態度も変わる。
「お友だちのS君もストレートでT大に合格。それにくらべて……」
「予備校に1年、大学に6年、研修に2年。9年たてばわしも還暦だ。その歳まで現役で働かなくてはいけないとは……」
 夕食後のダイニング。松沢の父親は葉巻をくゆらせながらいう。
「なんだよ、たった1年の違いじゃないか」
「国家試験にストレートで合格すればの話だ。最初からつまずいた人間に、そんな能力があるとは思えん」
 しんらつな言葉に、松沢の感情は高ぶる。
「わかったよ。そこまでいうんなら、あとなんて継いでやるものか!」
「雅俊!」
 母親が金切り声で叫ぶ。
「なんだよ! 1回くらい失敗したからって、まるでいままで、のらりくらりと生きてきたようないい方しやがって。オレはオレなりに精一杯やってきたんだ。それを……」
「人間はな、結果がすべてなんだ。精一杯やったからといって、治療に失敗があればどうする」
「だから、医者なんかならねえっていってるだろ。これからは、オレらしい生き方をするんだよ!」
「お前らしい生き方? なんだそれは」
「それは……」
 松沢は口ごもる。改めてつきつけられても、漠然とすら将来の姿は浮かんでこない。
 今までは、医者になる以外の生き方を考える余裕もなかった。医師以外の仕事を知らないといっても過言ではない。
「答えられまい。お前はわしのあとを継ぐ以外、生きる方法がないんだ。ただし、2度と失敗は許されない。来年、もしものことがあれば」
「どうするっていうんだよ」
「親子の縁は切ってもらう。ウチの病院はわしの代で終わりだ」
「お父さま。なにもそこまで……」
「お前は黙っとけ!」
 叱責の声が母親に飛ぶ。
「いいか雅俊。あしたから、いや、きょうから1年間、お前は死に物狂いで勉強するんだ。それに、大学はどこでもいいってもんじゃない。わしの卒業したK大に必ず合格するんだ。そしてK大学閥の一員となる。そうすれば、お前はなんの苦労もなく生きていける。わしが、そして先輩連中が必ず助けてくれる」
「オレに一生、あんたの手のひらの上で生きていけというんだな」
「雅俊! お父さまに対して、なにを……」
「あんたの顔が利く大学に通って、あんたのつくった病院で働いて、あんたのあとを継ぐ。あんたが死ぬまで、オレは言いなりってわけだ」
「まあ、その通りだ」
 父親は平然と答え、葉巻をもみ消した。
「わかったんなら、いますぐ部屋に戻って勉強しろ。ぐずぐずしている余裕などないだろう」
 松沢は拳を握り、父親をにらみつけ、ダイニングを出た。耳には母親のすすり泣く声だけが届いていた。

 その日のうちに荷物をまとめてボストンバッグにつめ、松沢は家を出た。行き先は東京都心。東京は大学受験のときに訪れていた。松沢と両親が暮らす町は、東海道線で1時間ほどしか離れていない。
 別に目的があって上京したわけではない。行けばなんとかなる、という考えがあった。だが、18歳の少年が思うほど世の中は甘くなかった。
 東京に到着した日はビジネスホテルに泊まり、次の日から住む家を探す。しかし、保証人もいない未成年に、部屋を貸すものはない。仕方なくホテルをわたり歩く。やがて手持ちの現金も銀行の預金も底を突く。全財産を詰め込んできた肩がけ巾着袋の中には、10円玉が数枚残されているだけだ。
「どうしよう……、家に帰ろうか。でも旅費が……」
 カネがなくなって1日目。泊まるところがなく、公園で野宿しようとしたが、まだ春浅い季節なので冷風が身体に突き刺さる。松沢は公衆便所の個室に入り、風をしのいで朝がくるのを待った。
 2日目、その日はみょうに暖かく風も弱かった。それでも適当な寝場所が見つからず、松沢はカバン1つ持って公園のベンチに座っていた。
「母さん、心配してるだろうな」
 夜明け前の空をながめながら、松沢は思いをめぐらせる。最後に聞いた、母親のすすり泣く声が耳に響く。しかし、すぐに父親の顔がオーバーラップし、いきどおりがムカムカとわき起こってくる。
「いや、2度とあのくそオヤジの顔は見たくない。それに、いま帰ったところで、顔に泥を塗られたとか、家名を傷つけたとかいって追い出されるのがオチだ」
 それではどうする。このままのたれ死にするのか。それとも無銭飲食でもして警察に捕まるのか。
「刑務所に入れば、とりあえず飯は食えるよなぁ」
 腹の虫がぐぅ~と鳴く。カネがなくなってから水しか口にしていない。空腹がこんなにも辛いものだとは、想像だにしていなかった。
「どうしよう、どうしたらいいんだよ」
 不安に心がさいなまれ、涙がこぼれ落ちる。松沢はそのままひざを抱え、子どものように泣きじゃくった。
「あら、どうしたの?」
 そのとき、だれかが松沢に声をかけた。
 警察か。逃げようか。けれど、声色は女のものだ。女性警察官? そうであっても、駆け出す体力は残っていない。
「どうにでもなれ」
 松沢はそのまま、涙ではれた顔をあげる。その目に映ったのは、心配そうに松沢を見つめる女性だった。
「泣いてたの? お家は?」
 黒いワンピースドレスに身を包んだ女性は、前かがみになって松沢の顔をのぞき込んでたずねる。濃い目の化粧と長い黒髪。若くはないが、さほど老けてもいない。
 それが松沢と美佐子との出会いだった。
「家は……」
 そう口走ったとき、松沢はめまいをおぼえ、その場に昏倒した。

 父親の顔が浮かぶ。母親は泣いている。白衣に身を包んでいるのは同級生のSだった。
「松沢、この病院はオレがもらったぜ」
 Sは嘲笑を浮かべながら松沢に言う。
「お前はだれだ? お前みたいなヤツは見たこともない」
 父親が言う。
「雅俊、あなたのことはあきらめました。2度とわたしたちの前に顔を見せないで」
「まあ、お母さん、これからはボクが」
 Sが母親の肩を抱く。
「待て、待ってくれ、見捨てないで!」
 叫んだとき、松沢は目ざめた。
 夜は明けていた。明るい日差しが、すりガラスを通して部屋に充満している。
 松沢は薄い布団の上で起きあがった。わけがわからず、部屋の中を見まわす。
「おめざめ?」
 部屋の隅から声がした。そこには、鏡台に向かって髪をブラッシングしている美佐子の姿があった。
「ここは?」
「わたしのアパート」
「あなたは?」
「おぼえてないの?」
 パジャマ姿の美佐子は松沢に歩み寄り、顔をのぞき込む。
「公園でわたしは、あなたを拾ったの」
「あ……」
 松沢の記憶がよみがえる。身体は冷や汗で濡れている。
「よく寝てた。けど、うなされてたわよ。悪い夢でも見たの?」
 鼻と鼻が触れ合いそうなほど、美佐子は顔を近づけてくる。表情は素顔になっていたが、妖しい笑みと赤い唇、そして濃厚な匂いに松沢は動揺を覚える。
 腕時計を見ると午後3時。松沢は10時間以上も寝ていたことになる。
――グ~~~。
「あら」
 突然鳴り響いた腹の音に、美佐子はケラケラと笑いだした。
「お腹、空いてるのね。いいわ、ごちそうしてあげる」
「メシ、食べさせてもらえるんですか?」
「あんまり、じょうずじゃないけどね」
 美佐子はカーディガンをはおって、部屋にある小さな台所に向かう。
「料理ができるまで、お風呂に入ってらっしゃい。近くの銭湯なら、もう開いてるから」
「あ……、はい」
「悪いけど、カバンの中を見せてもらったわ。下着もシャツもズボンも、お洗濯してなかったようね。あとで洗っておいてあげる」
 美佐子は松沢に背を向けたまま、快活に話す。松沢はよろよろと起き上がり、カバンの中をたしかめる。
「たしかに、におう……」
「そうか、下着の着替えね。これを」
 美佐子は調理の手を止め、タンスの引き出しから男物のブリーフとランニングシャツを取り出した。
「とりあえず、お風呂から上がったら、これに着替えて。そうそう、タオルに石鹸……」
 風呂に行く用意を手際よく整える美佐子。
「おカネ、持ってる?」
「いえ」
「じゃあ、これ」
 財布から小銭を取り出し、松沢にわたす。松沢は手のひらに乗るコインを見つめる。
「はい、いってらっしゃい。場所はねえ……」
 道順を教えられ、松沢は部屋を出ようとする。
「いってらっしゃい。気をつけてね」
 松沢の背中に向かって美佐子は声をかけ、ふたたび台所に立った。

 松沢にとって、銭湯は生まれて初めての体験だった。まだ早い時間なので客の姿はまばら。ほとんどは老人だが、中にはこれから店に出るであろう板前風の若い男もいた。
 身体を洗って湯船に浸かっていると、松沢は気分がほぐれてくるのを感じた。と同時に、自分を部屋まで連れて行ってくれた美佐子の素性が気になる。
「あんな夜遅くに、しかもドレス姿でウロウロしてるだなんて」
 水商売の女に違いない。いままでの生活環境には、存在しなかったタイプの女性だ。
 高校は私立だが、小学校中学校は公立に通った。そこにはさまざまな職業の親を持つ同級生がいて、母親がホステスの子どももいた。
 母親は松沢にいう。
「水商売の親に育てられた子どもなんて、たいした人間にはならないの。社会のクズのような人たち。だから、そんな子といっしょに遊んじゃダメよ」
 あからさまな侮蔑を向ける母親。松沢も母親の言うとおりだと認識していた。しかし松沢は、母親の軽蔑していた世界で働く女性に助けられた。
「なんだか……」
 身体の疲れがいやされると、強烈な空腹感に襲われる。松沢は湯船から出ようとする。そのとき、浴室のドアが開き、男が一人はいってくる。
 男はかけ湯をして、松沢と同じ浴槽に身体をひたす。その背中には、一面にイレズミが彫られていた。
 松沢は目を見張り、緊張で身体が動かなくなる。不用意に湯船から出て、その瞬間にしぶきが男にかかりでもしたら、と危惧する。
 仕方なく、松沢は男が出るまで我慢してつかる決心をした。だが、次第に頭がのぼせ始め、めまいを起こしそうになる。
 やがて男は風呂からあがる。このときを逃しては、と松沢は急に立ちあがった。途端に足がもつれ、タイル張りの床にうずくまってしまう。
「おいおい、兄さん。大丈夫かい」
 声をかけてくれたのは、件のイレズミ男。
「のぼせちまったのかい。すこし休んでいきなよ」
「い、いえ、大丈夫です」
 松沢はつくり笑いを浮かべ、そそくさとその場を立ち去った。

 美佐子の部屋に戻ると、こたつの上に味噌汁とご飯、煮物やおひたし、焼き魚などの料理が並んでいた。
「遅かったわね。気持ちよかった?」
 普段着に着替えていた美佐子は、にこやかな表情でいう。
「さ、遠慮しないで食べなさい。わたしは仕事の用意するから」
 美佐子はそういって立ちあがる。
 こたつの前に座った松沢は、目の前の料理を息もつかずにほお張り、咀嚼し、飲み込んでいった。そのようすを見て美佐子はいう。
「よっぽど、お腹が空いていたのね」
「は、はい」
「どれくらい食べてなかったの?」
「2日」
「じゃあ、倒れるのもムリないか」
 美佐子は鏡台に向かって化粧をほどこし、髪形を整える。
「あなた、お名前は?」
「松沢、松沢雅俊です」
「マーちゃんか。お歳は?」
「18です」
「若いわねぇ。ひと回りも年下なんだ」
 それを耳にした松沢は、箸を動かしながら美佐子を見た。
 12歳以上年上なら、30歳を超えている年齢だ。松沢の周囲にいた女性といえば、母親、学校の教師、そして学食や購買部、事務室の職員。その中には、30前後の女性もいた。しかし、そんな女性たちにはない色気と美しさが、美佐子にはそなわっている。
「さてと」
 化粧を終えた美佐子は押入れを開け、仕事に着ていく服を選び始める。
「う~ん、きょうはこれの気分かな」
 空腹が解消され、少しは気分に余裕の出てきた松沢は、美佐子を確認する。しかし、すぐに視線をこたつに戻した。
 ドレスを選び終えた美佐子は、スカートとシャツを脱ぎ、スリップ1枚姿になっていた。
 素肌が大胆に露出される。いままで気づかなかった豊満な乳房のふくらみが、はっきりと見て取れる。腰からヒップ、太ももからふくらはぎにかけての艶美な曲線が、松沢の神経を過敏にする。
 松沢はドキドキしながら食事を終えた。
「汚れもの、洗っておいたから、日が暮れる前に取り込んでおいてね」
 素顔から一変、松沢と出会ったときのように、美佐子の面立ちは派手さを取り戻す。
「じゃあ、いってきまーす」
 ハンドバッグを持ち、コートをはおった美佐子は、ハイヒールをはいて部屋を出て行く。残された松沢は、はたしてこのままいつづけていいものなのか、それとも出て行くべきかを迷いつつ、部屋の真ん中であぐらをかいていた。

 美佐子の部屋は歓楽街から少しだけ離れた場所に位置し、夜の帳が落ちると、ときおり酔漢の騒ぎ声や女の黄色い声が届いてくる。部屋にあるのは鏡台にたんす、こたつと小さなテレビだけ。部屋の壁は薄く、となりの部屋のテレビの音が漏れ伝わってくる。
 ふとんを畳んで部屋の隅に置き、日が暮れる前に洗濯物を取り込んだ。そのあと、時間つぶしにテレビでも見ようと、松沢はスイッチを押す。だが、画像がうまく映らない。
 美佐子のテレビはアンテナが上から伸びているタイプで、方向を調整しないと電波が届いてこない。そんなことを知らない松沢は、テレビの横をたたいてみたり、チャンネルをガチャガチャひねってみたりするが、最後にはあきらめてスイッチを切った。
 こたつに座って手持ちぶさたな時間を過ごしながら、松沢はこれからのことについて考えた。
 とにかく、収入を得なければ生きていけない。家に帰る決心は、まだつかない。しばらく、この部屋に住まわせてもらい、仕事を見つけてから出て行くという方法もある。とはいえ、そんな厚かましい願いを美佐子が受け入れてくれるはずもない。
 そもそも、この時間まで、部屋にいてよかったのかどうかもわからない。美佐子が帰ってきて、追い出される可能性もある。となれば、ふたたび路頭に迷うことになる。
「やっぱり、家に帰るのが一番かな」
 美佐子にカネを借りて電車に乗る。腕時計をおいていくといえば、美佐子も承諾してくれるだろう。時計は父親が高校入学の祝いに買ってくれたもので、故郷に戻る片道の電車賃以上の価値はある。
「でもなぁ」
 父親の顔が浮かぶ。やはり憤りが込みあげてくる。だからといって、このままでは解決の糸口は見えない。とにかく一度家に帰り、今度はきちんと計画を練ってふたたび飛び出す。
「土下座でもすれば、親父も許してくれるだろう」
 その後は懸命に勉強する振りでもしておけばいい。
「そうだ、そうしよう」
 そう決めると、安心したからか急に眠気が訪れ、松沢はこたつにもぐって眠ってしまった。

 深夜になり、松沢は妙な感触をおぼえて目をさました。
 こたつの中ではなく、布団の上に松沢は寝かされていた。しかも全裸で。そんな自分の上に、スリップ姿の美佐子が覆いかぶさっている。
 美佐子は松沢の乳首を舐め、みぞおちから腹部を探り、股間に手を伸ばす。その瞬間、松沢はビクリと身体をケイレンさせる。
「あ……」
 松沢は、思わず声を出す。それに気づいた美佐子は、松沢の顔をのぞきこんでささやいた。
「起きたの?」
「はい」
「よく眠ってた」
「はい」
 美佐子の息には酒のエキスが含まれていた。その目はゆるみ、唇から舌が顔をのぞかせている。
「なにもしないでいいのよ。そのままでいて」
「で、でも」
「いや? わたしとこんなことになるの」
「いえ、それは……」
「大丈夫?」
「はい」
「じゃあ、好きにさせて」
 美佐子はふたたび、松沢を舐り始める。その顔面は、徐々に松沢の下半身に移動する。
「ふうん、カワイイ、若い子ってすてき」
 松沢は身体を硬直させていた。目を閉じ、唇をかみ締め、興奮と緊張をこらえる。
「どうしたの? こわいの?」
 そんな松沢の姿を見た美佐子はたずねる。
「女は初めてなの?」
 松沢は黙って縦に首を振る。
「じゃあ、わたしが男にしてあげる」
 美佐子は身を起こしてスリップを脱ぎ、ブラジャーをはずす。そして改めて、松沢の股間に顔をうずめたのだった。

 まだ出会って一日しかたっていない女性に手ほどきを受け、松沢は童貞でなくなった。終わったあと、松沢は絶頂と虚脱をおぼえて昏睡してしまう。
 次の日の朝、松沢が布団の中で目をさますと、となりで美佐子が寝息を立てていた。
 素顔の美佐子の顔は、間近で見ると肌荒れが目立つ。目尻にはうっすらとしたシワが刻まれ、ほほのところどころにシミも浮かんでいた。
 それでも松沢は嫌悪をおぼえなかった。それどころか、生きていくために必死になって過ごしてきたであろう美佐子の人生をかいま見たような気になり、これまで安穏と生きてきた自分が恥ずかしくもあった。
 そんな美佐子の顔を見つめていると、彼女がうっすらと目を開ける。
「おはよう」
 美佐子はほほ笑みながらいう。
「おはようございます」
 松沢は答える。
「きのうはお疲れさま。大丈夫?」
 いたずらな表情でささやく美佐子。
「大丈夫です」
 松沢も笑みを浮かべてしまう。
「ステキだったわよ。でも信じてね」
「はい?」
「酔ってたから襲ったんじゃない。酔っていなくても」
「襲った?」
「うん。たぶん」
 美佐子は布団から起き上がる。素肌には何もつけていない。松沢は目をそらしてしまう。
「さて、どうする?」
 美佐子はブラジャーを着けながら松沢にたずねた。
「ここでわたしといっしょに暮らす?」
「いいんですか」
「いいわよ。あなたが初めてってわけでもないし」
「え?」
「ううん、こっちの話」
「でも、美佐子さんはボクのことを知らないし、ボクも美佐子さんのことは……」
「これからゆっくりわかり合えばいいじゃない。それとも、わたしじゃダメ?」
 ブラジャーを着け、パンティをはき、スリップをまとった美佐子はいう。
「ダメだなんて」
「じゃあ、決まり。わたし、きょうは休みなの。朝ごはん、外に食べにいきましょ?」
 美佐子は立ち上がる。窓から朝の光が差し込んでいる。白い陽光に映し出された美佐子の肢体は、みずからが発光しているかのようにきらめいて見えた。

 その日から松沢と美佐子の同棲生活がはじまった。
 食事は美佐子が用意してくれる。出勤前に風呂に入る美佐子と、手をつないで銭湯に出かけることもある。小づかいは美佐子が用意してくれ、松沢は財布代わりの巾着袋に入れる。
 深夜になって美佐子が帰ってくると、二人は食事をとってから布団に入り、欲情のおもむくまま互いを求め合う。休みの日ともなれば、朝から晩まで美佐子は松沢を求め、松沢も応じた。
「美佐子ちゃん、最近なんだか明るいね」
 美佐子の勤める場末のスナック。店の中で、美佐子は客に指摘される。
「あら、そう?」
「男でもできたんじゃないの?」
「やだ、図星」
 美佐子ははっきりと告げる。
「えー、美佐子ちゃん。彼氏できたの?」
 同僚のホステスが、おどろいたようにいう。
「そう。まだ18歳のお坊ちゃん」
「なんだよ、それ」
「かわいいのよ。それに、すごく元気」
「元気って、あっちのほう?」
 客は冷やかすように聞く。
「そう。だから欲求不満もなくなっちゃった」
 明るく快活に笑う美佐子。客や同僚も、それに釣られて大きな声で笑った。

 一方の松沢は、美佐子との関係が深まれば深まるほど、悩みを抱きつつあった。
 空腹とは無縁の生活が送れる。夕方まで寝ていても、とがめるものはいない。勉強をする必要もなく、一日中ぶらぶらしていられる。性欲も解消してもらえる。つまりはヒモだ。
 このままでいいはずがない。自分はこんな生活をするために、一流といわれる進学校を卒業したのではない。
 あるとき松沢は、自分が通うかもしれなかったK大学の校門に立っていた。そこでは同じ年ごろの連中が、明るい笑顔で青春を謳歌していた。
「だめだ、オレはこのままだとダメになる」
 美佐子がいつまでも自分を養ってくれる保証はないし、ずるずると関係を続けていて得られるものは何もない。しょせん美佐子と自分は住む世界が違う。スナックで媚を売る女と、まだやり直せる自分はいっしょになれない。
「いっしょ? 結婚?」
 その言葉を口にしたとき、松沢は戦慄をおぼえた。
 人生のゴールを、こんなに早く決めてしまっていいはずがない。まだやり直せる。まだ大丈夫。まだ自分はもとの世界に帰ることができる。
 母親の顔が浮かぶ。あれほど憎らしかった父親ですら懐かしい。
「ダメだ、ダメだダメだダメだ!」
 そう叫ぶと松沢は、ボストンバッグだけを手にして東京駅へ向かった。

「ただいまぁ。もう寝ちゃったの?」
 店から戻り、部屋に入った美佐子は呆然と立ち尽くす。
 その日は満月。青い光が明かりもつけない空間を浮かび上がらせる。
 松沢の姿はない。荷物もない。書き置きすら残されていない。布団はきちんとたたまれている。
「また、一人になっちゃった」
 美佐子は畳の上にしゃがみ、やがて両手で顔を覆って嗚咽をあげた。

 家に戻った松沢を見て、母親は涙を流してわびた。父親は相変わらず無愛想だったが、何を責めることもなかった。それが松沢にとっては、つらく思えた。
 その日から遅れを取り戻し、松沢は次の春にK大へ通うこととなった。ふたたび東京へ出ることに若干の不安はあったが、美佐子と再会してもきっぱりと関係を断ち切る覚悟はできていた。
 だがそれも杞憂に終わり、松沢は美佐子と顔を合わせることはなく、順調に医者への道をのぼりつめ、無事父親のあとを継ぐことができた。
 そして30年以上の月日が流れた。その後、松沢は結婚し、子どももでき、充実した日々を過ごしていた。
 ある日、美佐子と過ごしたアパートを訪ねたことがある。けれど、アパートの場所は青空駐車場に変わっていた。美佐子が勤めていたスナックの辺りにも出かけてみた。歓楽街は区画整理され、ショッピングビルが建てられていた。
 町で見かけた老婆が、美佐子だという確証はない。けれど肩からぶら下げた巾着袋。あれは松沢が残していったものにそっくりだ。
 クルマを走らせ、松沢は美佐子との日々を思い浮かべた。美佐子の裸体と甘美な感触がリアルによみがえってくる。
 乳房のやわらかさ、部分のなめらかさ、温度、香り。
 松沢は車を道路脇に停め、老婆の歩いていたほうを振り返った。しかし、そこに姿は見えない。
 街は普段通りの顔つきをしていた。普段通りの人の流れを松沢は見つめ、ふたたびクルマを走らせた。
しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。

ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。 真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。 引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。 偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。 ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。 優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。 大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

熟女教師に何度も迫られて…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
二度と味わえない体験をした実話中心のショート・ショート集です

還暦の性 若い彼との恋愛模様

MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。 そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。 その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。 全7話

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

彼の言いなりになってしまう私

守 秀斗
恋愛
マンションで同棲している山野井恭子(26才)と辻村弘(26才)。でも、最近、恭子は弘がやたら過激な行為をしてくると感じているのだが……。

処理中です...