星に捧げる小夜曲

のえ桐花

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プロローグ

さよなら

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 あまり長く住んでいた訳ではない部屋には、纏める荷物もたいしてなかった。
 冒険者になった時から使っている、腰に据え付けたポーチの中に収まってしまうくらいのものだ。もっと沢山のアイテムが入る上等のものもあるけれど、大体の魔術師は装備品もアイテムもそんなに多く必要としないので、容量には余裕がある。
 まだ、窓の外は暗い。
 街ではどうか知らないけれど、この拠点で起き出している者はいないだろう。
 ギルドを抜けるとは言ったものの、いつ出ていくとは誰にも言っていない。
 誰が一番に、部屋がもぬけの殻になっていることに気付くかは分からないけれど。
 自分がいなくなったことを少しでも惜しんでくれる人がいるのならば、このギルドでやってきたことにも意味があるのだろう。

 ギルド狩りの最後に脱退を宣言した後、ギルドの親しくしていた面々、とかくライアンが話したそうにしていたけれど、リルフィーナは意識してそれを避けた。
 夕食も外で摂り、拠点に戻る際も裏口を使ってまで。
 突然の決断で、皆には申し訳ないと思っている。
 けれど少しでも話してしまったら、何が切欠で泣きついてしまうか分からないくらいには、少女の心は波立っていた。
 平常を装ったままでいられなくなったら一気に崩れてしまう気がしたし、それに……話をした相手が自分を差し置いてライアンとウィリアが付き合っていると認識していたとしたらと思うと、怖くてたまらなかった。

 百歩譲って、ギルドマスターが自分ではない相手と付き合っていることが認知されているだけならまだしも、それまで長い付き合いのあった自分が不在にしている間に乗り換えたことが周知のものとなったら。
 そうなれば、倫理観のしっかりしている者ほど嫌悪するだろう。折角和気藹々とやってきてここまで大きくなったギルドが滅茶苦茶になってしまうのは、リルフィーナの望むところではない。
 だから急な離脱だ、無責任だと自分ひとりが悪く思われる程度なら、なんともなかった。
 もう、一番の人の一番でなくなってしまったのだから、それくらいたいしたことじゃない。
 それにしても。
 ギルドの皆はともかく、ライアンはどうしてこの後に及んで自分と話そうとしていたのだろうと疑問が浮かぶ。もう、話してどうなることもないのに。

 脳裏に浮かぶ光景。
 女性の腕が彼に絡みつき、逞しい腕もしなやかな肢体を抱き締めていた。
 その姿を思い出すと怖気が走り、少女は何度かかぶりを振る。

 すっかりがらんどうになった部屋で、少女は身に着けていたエンブレムを外して文机の上に置いた。
 ギルドのシンボルが描かれた、その一員であることを示すエンブレム。
 一昨日までは、これを外す日が来るとは夢にも思っていなかった。
 でも、もうお別れだ。
 後ろ髪引かれる思いはあるけれど、去らなくてはならないという気持ちの方が強い。
 親しくしていた者たちには、本当は個々に別れを告げたかったけれど、やはり勇気が出せなかった。
 心の中でごめんなさいと呟いて、決意に背を押されるように、少女は部屋を出た。



 裏口の扉を開けると、外はまだ夜の匂い。
 夜明け前の空気は澄んでいて、活気のある昼間のものとは随分違う。
 魔導ランプの街灯がぽつぽつと光るだけの、眠っている街の通りを抜けて、外に繋がる門を守る兵士と言葉を交わす。
 冒険者が夜も明けぬうちに出掛けることはさして珍しいことでもないから、身分を明かしていればあっさりと通して貰えた。
 目指すのは、ブリアン王国首都の南にある港だ。
 拠点を移す前、自分たちが主に活動していた国への船も出ている。
 行き先はまだ決めきれていないけれど、辿り着く先は恐らく胸に浮かぶ風景なのだろう。急ぐ旅でもないし、当面食べていけるだけのお金はある。
 ただ、それ以外は何もなくなってしまったような、虚しい感覚が自分の中にずっとあって、消えてくれない。
 果たすべき役割はもうないし、どこに行って何をしてもいい。
 自由だ。
 まるで糸の切れた凧のように、大空に投げ出されてしまったようなものだけれど。
 胸に空いた大穴が、自分がこれから何をすればいいのか、何をしたいのかと考えることを妨げている。穴を塞ぐ術は、当面思い付きそうにない。

 今まで抱えていた大切なものを、何もかも失ってしまっても、とりあえずの行き先を決めた足は動いてくれる。
 街道を進むうちに東の空が明けてきて、草原を不思議な色合いに染めていく。
 自分の髪の色に似た夜の帳が、少しずつ幕開けの光に押し上げられて。
 きれいだな、とまだ自分が思えることに気付いて、少女は息が詰まるような感覚を覚えた。
 黎明の世界に包まれながら、振り返る。
 いつの間にそんなに歩いたのか、立派な設えの城壁に守られた大きな街は、随分と遠くなっていた。
 少なくとも当分は、この街を訪れることはないだろう。
 第二のホームとなる筈だった場所。
 しばらく佇み、少女は思い出したように髪飾りを外して、掌の上のそれを眺めた。

 野に咲く名もなき花。
 誰に顧みられることもなくても、確かに存在している白い花。
 それが自分と重なって、泣きたいような笑いたいような気持ちになる。
 髪飾りを贈られて、手ずから着けて貰ったのはそんなに遠い昔ではないのに、今ではもう随分と遠い記憶のように感じられた。
 あんなに嬉しくて幸せだったのに、大切にしようと思っていたものは、全てこの手から零れ落ちてしまった。

 ギルドからの脱退を告げた時の、彼の顔を思い出す。
 自分から捨てた人間が離れていくのを、どうして傷付いたような表情で見ていたのか。
 他に好きな人が出来たのだとしても、きちんと別れてから新しい相手と付き合うのが筋だろう。こちらが知らないうちに、一方的に関係を壊しておいて、恋人になる以前のような『兄妹』のような関係に戻れるとでも思っていたのだろうか?
 少女の指はいつしか髪飾りを握り締め、小さく震えていた。
 一瞬投げ捨ててしまおうかとも思ったけれどやっぱりそれはできなくて、少女は髪飾りをローブの胸ポケットにそっとしまい込んだ。
 まだひんやりとした空気を、ゆっくりと吸う。

「さよなら」

 聞く者のない別れの言葉は、迫る朝焼けに滲んで溶けていった。



     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 やがて夜明けを迎えた港から、一隻の船が出て行く。
 甲板に立つ少女は、しばらく小さくなっていく港を眺めていたが、海鳥たちの鳴き声に誘われるように船の進む方向、碧い海原に目を向けた。
 潮の匂いを孕んだ風が、長い髪をなびかせる。
 少女は軽く俯いて、目を閉じて。
 再び双眸を開き顔を上げた時には、青い双眸に何かひとつ決意を抱いた色を浮かべていた。
 その瞳は、もう振り返らない。
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