カオルの家

内藤 亮

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「大きくなったな!」
「大きくなったどころか……」
「あはは。俺も歳をとるはずだ」
「市村というのは?」
「娘婿の名字だよ。おれは引退したんだ」
 ドアがノックされ、先ほどの受付の女性がお茶を持って入って来た。
「娘の洋子だ」
 山本が簡潔に紹介した。
「引退、なんて嘘ですよ。父はまだまだ現役のつもりなんですから」
 そういわれて山本は頭をかいた。
「だけどよ。いつまでも山本工務店のままじゃあ信良のぶよしがやりづらいだろ。これから会社を背負っていくのはあいつなんだから」
「そういうことは本人に言ってあげてちょうだい」
 山本はぐっと詰まったような声を出した。洋子は小さく笑うと一礼して部屋を出て行った。
 こほん、と咳ばらいをすると山本は山小屋の立面図と設計図のコピーを机の上に広げた。オリジナルは青焼きだったらしく、図面の隅と文字や図面の線の輪郭が何とはなしにぼやけている。
「ちゃんと図面があるんですね」
 宥己が驚いてそういうと、山本は笑った。
「俺の爺さんの代に建てたんだよ。あの頃は、設計もうちでやっていたからな。昔は工務店も不動産屋も少なかったから管理もしていたってわけさ」
 山本は当たり前のように言ったが、更地にするでもなく古い建物をそのまま所有していたとは何とも呑気な話だ。芳の手前、そうとは言えないが、あの家は塩漬け物件そのものだ。コインパーキングになっていても不思議ではない。もっとも、あそこを駐車場にしたところで借り手があるとも思えないのだが。
「馨さんの家、誰かが買ってしまったらどうしようって心配していたのよ」
「お前なら分かるだろ。あの物件はそうそう買い手がつかないさ」 
「まあ、そうですよね。あ、すみません、芳さん」
 宥己がそういうと、芳はくすり、と笑った。
「おかげで安く譲ってもらったわ」
「で、どうだい、リフォームの目途はたちそうか?」
「最低限、水回は新しくしないと。出来れば断熱工事もやったほうが」  
「壁紙を張り替えればいいんじゃないの?」
「あの家の寒さは半端じゃあないですよ。予算が許せば断熱材をいれて窓と屋根も変えたほうがいいです。今は昔と違っていいものがあるから」 
「たしかにな。あのままじゃあ冬を越すのは大変だ」
「ざっとですが見積もりを作ってきました。ご参考までに」 
 宥己は見積書を山本と芳に渡し、スケッチブックを取り出した。
「その見積書の計画でリフォームするとこんな感じになります。間取りは基本そのまま、高くつくから水回りの移動はしません」
「素敵!」
 芳はうっとりとした顔をしてスケッチブックのページを繰っている。
「一晩でラフを描いて見積もりを作ったのか?」
「はあ。見積もりの数字は知り合いの設計事務所に出してもらいました。数字が妥当かどうかの判断は山本さんがしてください。僕は個人の住宅は扱ったことがないので詳しいことが分からないんです」
「アドバイスだけにしちゃあ、えらい熱心じゃないか」
 山本がさも可笑しそうに笑った。宥己は冷汗をかきながら見積書を渡した。友人が金額を吹っ掛けてくるはずはないから、芳にも参考になるだろうし、セレクトホーム市村と相みつをとることもできる。そう思って見積書を作ってもらったのだが、まさか山本と相みつを取ることになるとは思ってもみなかった。山本はざっと目を通すと、見積書をぽんっと机の上に置いた。
「ふん。ま、素人さんの相場だな。うちなら昔からのつきあいの代理店があるから、もっと安く出来るぞ」
 友人はドラマのイメージそのままのイケてる設計士なのだが、山本にかかっては形無しだ。山本は芳が見ているスケッチブックを覗き込んだ。
「しっかし上手いもんだな。どこに勤めてるんだ? うちの会社に引き抜きたいくらいだ」
 お世辞だと分かってはいても、山本の言葉は嬉しかった。
「実は今、失業中で……。苦戦しています」
 〝山本のおじさん〟の前で格好をつけてもはじまらない。宥己は苦笑しながら言った。
 東京に帰ったら条件の提示を下げてまた仕切り直しだ。土砂降りの建築業界にこだわらず、いっそのこと職種そのものを替えたほうがいいのかもしれない。これが設計士として最後の仕事になるかもしれないのだ。暗澹とした気持ちを押し殺し、宥己は山小屋の設計図を手に取った。
 設計ソフトで描いた図面とちがって、手で図面を引き数字が書き込まれた図面には設計士の個性がそこはかとなく表れている。宥己は頭に刻み込むように図面を見つめた。
「そういうことならうちにこないか。給料は幾らくらい欲しいんだ?」
「へ?」
「鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして。ゼネコンじゃないと嫌なのか? 給料はまあ、なんだが、うちは福利厚生が充実してるぞ」
「いえ、そんな。戸建てはやったことが無いから、その……」
「そんなことはやってみないと分からないだろう。うちに来たいのか、来たくないのかハッキリしろ、宥坊」
 昔に戻ったような顔で、山本は言った。
「専属の設計の方はいらっしゃらないのですか?」
 宥己が遠慮がちに尋ねると、
「新しく建てるときは設計事務所と手を組むけどな。ちょっとしたリフォームくらいならうちだけでやれるから」
 わざわざ設計料を払ってまでリフォームをする客はほとんどいないのだろう。この不景気に山本の好意に甘えていいものだろうか。
「あの、本当にいいんですか」
「四の五の言わんでいい。お前の仕事ぶりを俺にみせてみろ」
「はい! 宜しくお願いします」
 思わず椅子から立ち上がって直立不動で返事をすると、芳がふきだした。
 山本は仕事の合間に顔を出しては遊び相手をしてくれた。魚取り、虫取り、木登り、秘密基地作り。果ては落とし穴の作り方や喧嘩のやり方まで、凡そ思いつく限りの外遊びや荒っぽい遊びは、全て山本に教わった。必死になって山本についていくうちに、熾火のような痛みをいつの間にか忘れていた。今ならあの頃の恩が少しは返せるかもしれない。
「給料はとりあえず新卒扱いだ。ほかの社員の手前、しばらくはそれで我慢してくれ」
「ありがとうございます!」
 好きな仕事が出来るのだ。食って寝る場所が確保できれば無給でもいいくらいだった。
「給料の額面も聞かないでいいのか? 相変わらず欲がねえなあ。芋堀りに行ったのを覚えてるか? 洋子は片っ端からでっかい芋をとってるのに、お前はちっさい芋ばっかり拾ってたろ」
「そうでしたっけ」
 山本の知り合いの農家が芋を掘らせてくれるというので、一緒に連れて行ってもらったのだ。そういえば、山本の娘だという小さな女の子が一緒にいた。はしっこい子供で、一緒に芋を掘っていると、小さな手が伸びてきてあっという間に大きい芋を自分の袋に入れていた。あれが洋子だったのだ。
 大きい芋のほうが旨いのは分かってはいたが、寒空の下、地面から掘り出されて転がっている小さい芋が不憫に思われて、宥己は小さい芋ばかり拾っていた。
 あの時、山本は畑の持ち主と立ち話をしていたと思うのだが、子供たちの動きを目端に入れていたらしい。ごつい見た目ではあるが、山本は案外と繊細なところがあるのだ。
「ワンルームの空き部屋があるからそこに住むといい。ま、ちっとは生活の足しにはなるだろう」
「助かります。本当にありがとうございました」
 東京を離れて仕事をする、という選択肢は頭になかった。見知らぬ土地で仕事をするなど思いもよらなかったのだ。宥己はもう一度、深々と頭を下げた。
 ジャケットの胸ポケットに入れていた携帯電話が振動している。
「すみません、ちょっと外します」
 部屋を出て通話ボタンを押すと、最初に響いたのは義明の怒鳴り声だった。
「何度も電話したんだぞ。どうしてすぐ出ないんだ!」
「ごめん。ちょっと立て込んでいて」
「失業中に忙しいことがあるのか?」
 義明が叱責をするときはいつも質問系だ。批判はしないが、助言も助力もしない。上司だったらさぞかし仕事がやりづらいだろう。
「今、面接をしていて。うまくいくと決まりそうなんだ」
 電話口から伝わるピリピリとした空気が少し緩んだようだった。
「何という会社だ?」
「セレクトホーム市村っていう会社だよ。伯母さんの山小屋を管理してくれていた山本さん、覚えてる?」
「さあ、知らんな。町中の不動産屋の名前など、いちいち覚えてられるか」
「その方の会社なんだよ」
「本社はどこにあるんだ? 創業はいつだ? 資本金は幾らだ?」
 支店などあるはずもないと分かっていて、義明はあえて質問しているのだ。
「さあ、知らないな。けっこう古い会社みたいだけど」
 似たようなフレーズを使ったら、案の定、義明の怒りが爆発した。
「さあ、とは何事だ! お前は一体何を考えているんだ!」
 この質問系は相手を揶揄するのではなく、怒りの現れだ。
「まだ面接の続きがあるから。じゃあね」
 接点のない会話を続けても不毛なだけだ。宥己は早々に通話を終わらせた。
「大丈夫?」
 ドアの隙間から芳が顔を出した。薄いドアから声が筒抜けだったようだ。芳は本気で心配しているらしく眉根をよせている。山本は面白そうな顔をして芳の後ろから顔をのぞかせていた。 
「ええ。中座して失礼しました。リフォームの話、続けましょう」 
 少し手をかければあの山小屋も再び住めるようになるだろう。芳の住居を見る限り、金を持っているとは思えなかったから、このリフォーム案はかなり控えめな最低限の提案だ。
「ご希望があったらおっしゃってください」
 山本が何か言うかと思って顔を窺ったが、腕を組みソファにどっかりと座ったまま、黙っている。山本流の入社試験らしい。宥己は気持ちを引き締めた。
 ずっと設計室にいたから、アンケート調査くらいは見たことはあるが、個人の客と直接に話したことはない。先ずは予算から聞くものなのか、金額を無視した洒落た案を提示し、客に少しでも金を出させるべきなのか。
「間取りの変更も可能ですよ」
 どちらの立場に立つとも決めかねて、とりあえずは芳の要望がより明確になるよう、モデルプランを提案することにした。 
「ここの四畳半はいらないわ。壁をなくしてリビングダイニングにしたいの」
 馨の布団が敷いてあった部屋だ。あの部屋はもういらない。宥己はスケッチブックを広げ間取り図を書いた。
「こんな感じですかね」
 対面キッチンにしてカウンターを設ける。マンションでよくある間取りだ。
「素敵!」
「こっちの設計図に書き込んでもいいですか?」
「ああ、そうしてくれ。そのほうが後で検討しやすい」
 図は左手で、数字や文字は右手で書き始めると、山本が不思議そうな顔をした。
「宥坊、お前、ぎっちょじゃなかったか?」
「ええと………。字は右手で書くものだって言われて直したんです」
「ふうん」 
「両手で書けるなんて器用ね」
「他に何かご希望がありますか」
「この洋室を寝室にしようと思うの」  
「この部屋は窓が小さいから。出窓の大きいのをつけましょうか」
 変化する陽光に絵の色調が左右されないから、と、馨はこの部屋をアトリエにしていた。馨の俤に封印をして、ここはもう芳の家なのだ、と、宥己は自分にいいきかせた。
「折角だから東側にも窓をつけて。こんな感じかな。朝日が差し込んでも構いませんか?」 
 ゆっくり寝たいという顧客に東に大きな開口部を設けるわけにはいかない。
「ええ、もちろん! 朝日で目覚めるなんて素敵ね」
 設計図に窓を書き込み、ついでに窓のメーカーと型番を付記しておく。寒冷地だから二重窓がいいだろう。
「お前、型番まで覚えてるのか?」
 山本のギョロ目が、さらに大きくなった。
「少し前の設計で使ったから覚えていただけです。ビル仕様の窓ですが戸建てでも使えますし、コスパがいいんです。そろそろ後発モデルが出るらしいんですが、参考にしていただければ」
「へえ、大したもんだ」
 山本はまだ驚いている。
「この図面、コピーさせていただいてもいいですか? 芳さんに一部、渡したいので」
「おう。隣の事務所にコピー機がある。そろそろ昼飯だな。外回りの奴も戻ってくるだろうからついでにお前を紹介しておこう」
 山本の紹介のあとに挨拶をして、セレクトホーム市村への入社があっさりと決まった。
 
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