カオルの家

内藤 亮

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「今日の予定は?」
「これから吉本さんの所に行きます。あとは結城さんの家です」
「いよいよ今日が引き渡しだな」
「はい」
「吉本さんの方はうまくいきそうか」
「ううん、どうかなあ。なにしろお金がないんですよ。子供達には頼りたくないそうですし。でもあのままってわけにもいかないし」
「ま、頑張れ。吉本の爺さんから金をとろうなんて思ってないから」
 吉本の家に行くのは気が滅入る。運転席に座ると思わずため息が漏れた。
 この町には二つの顔がある。観光客や別荘族の集まる華やかな地域と、古くからの住民が住む地域だ。ショッピングモールや洒落た美術館。品のいいレストランやバー。新しく開発されたエリアを繋ぐ幹線道路を離れると、道はだんだんと狭くなり舗装も急に悪くなる。街灯もまばらな細道を進んでいくと、リゾート開発から取り残された集落に行き着く。若者が都市へ出ていった集落は典型的な限界集落となっていて、市村の家もそんな集落の一つにあった。
 冬を越すための薪が軒下に積み重なり、ブリキの煙突から煙が出ている。二階のベランダの竿には干し柿がずらりと干してあった。建付けの悪い引き戸を開けると土間になっていて、時代劇に出てくるような竈が設えてある。この竈がいまだに現役なのだから恐れ入る。一応プロパンガスも設置されていて煮炊きができるようになっているのだが、吉本曰く、プロパンガスを使うと高くつくのだそうで、一人になった今はガスはほとんど使っていないらしい。
「こんにちは」
「おお、よく来たな。今日は冷えるな。ま、こっちに上がれ」
「お邪魔します」
 根太が傷んでいるらしく畳の上に上がるとずぶりと足が沈む。床を踏み抜いたら、と気が気ではない。炬燵があるが電気は入っていない。冷たい炬燵に足をいれ、淹れてもらった生温い茶を飲みながら吉本が口を開くのを待つ。茶渋で真っ黒になった湯呑から茶を飲むのは、吉本の家に何度も通った今でもかなりの勇気がいった。
「とりあえずよ、屋根だけ直してくれ。せっかく来てもらったのにすまんな」
「いえいえ。階段はあのままでいいんですか」
 真ん中の階段の床板が抜け落ちていて大きく跨がないといけないのだ。勾配のきつい階段だから足の悪い吉本にはかなりの負担だ。そんな足でわざわざ二階に上がらないでもよさそうなものだが、山間の集落の落日は早い。太陽が午後になっても当たる二階とベランダは貴重な場所なのだ。ベランダには柿だけでなく、煮しめたような下着と作業着が干してあった。
「まあな。こんなぼろ屋に金をかけても仕方ねえ。俺が死ぬまで家がつぶれなきゃあいいんだ」
 淡々と言われ、宥己は下を向いた。
「お前が気にすることはねえ。とりあえず雨が漏らないようにしてくれりゃあそれでいいからよ」
「はあ。お役に立てなくて申し訳ありません」
 庭先にがっしりとした造りの小屋が建っているのが見える。
「あの小屋は何ですか」
 薄暗い部屋の中で湿っぽい話をしているとますます気持ちが沈んでくる。仕事の話はもう終わりだ。
「ありゃあ牛小屋だ。昔、飼ってたんだ」
「酪農もやっていらしたのですか」
 驚いて尋ねると、吉本が噴き出した。
「なんも。牛ったって、たったの一頭だぞ。まあ、ペットみたいなもんだな。一緒に働いて乳も肥やしも出してくれる。餌はそこらの雑草だしな。搾りたての牛乳はうめえぞ」
 スパーマーケットやホームセンターなどない時代だ。雑草を食べ、乳を出し、畑を耕し肥料も排出する牛は大切な家族だったに違いない。
「今は使ってない?」
「物置き替わりだ」
「拝見させてもらってもいいですか」
「ああ、かまわんよ」
 先に立つ吉本は左の肩を大きく揺らせながら歩いている。南京錠を開けながら、
「ま、盗られるようなものはないんだが、大工道具やら鉈やら入っているからな。念のためだ」
 ずっと締め切っていたらしく、ギシギシ言わせながら引き戸を開けると埃の匂いが鼻をついた。巻き上がった埃が晩秋の日に照らされている。小屋の片隅には雑多な生活道具に交じって古材が無造作に積み重ねてあった。
「この古材は?」
「作業小屋を解体した時の木材だ。捨てるのも手間だったからな」
「吉本さんが解体したんですか?」
「ああ、俺が解体した。作業小屋も牛小屋も建てたのは俺だ」
「しっかりした建物ですね。大工に頼んだのかと思いましたよ」
「こんなものを大工に頼む奴がいるか。昔の百姓はこのくらいのことは自分でやったもんさ」
 当然のような口ぶりだが、吉本の顔に誇らしげな表情がうかんでいる。手直にあった木材を手に取ってみると、充分に乾燥していて繊維が固くしまっている。建材として充分に使えそうだった。
「階段、一緒に修理しましょう」
「おまえとか?」
「ええ。牛小屋を建てるより簡単ですよ。吉本さんは寸法通りに木を切ってくださればいいんです」
「面白そうだな」
「寸法を測ってきます。すぐ戻りますから待っていてください」
 母屋から牛小屋に行くには崩れそうな農道を歩かないとならない。足の悪い吉本には難儀だ。道具や木材も自分で運ぶつもりだった。気配を感じて振り返ると吉本が後ろからついてくる。足は大丈夫かと問いかけて宥己は慌てて口を閉じた。吉本は少年のように目を輝かせ、肩を揺らせながら早足でついてくる。吉本はあっという間に宥己を追い越すと、ギシギシする引き戸の片隅をかんっと勢いよく蹴って引き戸を開けた。
 吉本は階段に重ねてあった雑誌をてきぱきと片付けると振り返った。
「狭いから気をつけろよ」
「はい」 
「そこ、押さえてろ」
 いつのまにか役割が逆転している。吉本が折れている床板を剥がすと階段の仕組みが露わになった。
 昔の職人はいい仕事をする。教科書の手本のようにきっちりと組まれた枠組みは釘を一本も使っていない。とはいえ、こんな細工は素人には難しいだろう。とりあえず板を打ち付けてしまえば不便はない。
「枠はしっかりしてますね。釘はありますか?」
「臍を刻めばいいんだろ」
 しゃがみこんで階段を見ていた吉本がこともなげに言った。
 お前の図は分かりやすくていいぞ、と一端の大工のような口をききながら、吉本はたちまち材木を寸法通りに切った。端材を当て木槌で打ち込むと吉本の刻んだ臍がほぞ穴とぴたりと合わさった。
「ま、こんなもんだろ」
 腰に手をあて、本職の大工のような口ぶりで吉本が言った。
「床の修理もこれだけの腕前があればご自分で出来ますよ」
「俺が?」
「ええ。こんなにいい古材がたくさんあるんですから積んどくだけじゃあ勿体ないです。今、無垢材って貴重なんです。古材は若い人の間でも人気なんですよ」
「へえ。あの木っ端がねえ」
 吉本が牛小屋に目を遣った。あと一押しだ。
「手伝ってくれるのか」
「もちろんです。その代わり、屋根の修理は会社のほうに頼んでくださいね。依頼された仕事が全部キャンセルになった、なんて言ったら上司に怒られる」
 宥己が大真面目な顔をしていうと、吉本が大笑いした。
「これからやるか?」
「すみません。これからもう一軒回らないとなので。屋根の修理は打ち合わせ通り、来週の月曜日から工事を始めます」
「俺の家の床はどうなるんだ」
「ええと……。来週の水曜日でもいいですか」
 水曜日は定休日だから十分に時間が取れる。
「よっしゃ。よろしくな!」
 金にならない仕事を請け負ってしまったが、吉本の弾んだ表情を見ているとこちらのほうも気持ちが明るくなる。休みといっても食料の買出しに出かけるくらいで、あとは食っちゃあ寝のグダグダした一日を過ごすだけなのだ。
 何気なく腕時計に目を遣った宥己は、ぎょっとしてもう一度時計の針を確かめた。芳の家に行く時間を大幅に過ぎている。
 吉本に別れを告げ、急いで芳の家に連絡をいれた。
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