カオルの家

内藤 亮

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「引っ越し、終わったのか」
 昼飯を食べようと茶を淹れていると、山本に声をかけられた。
「はい」
「よく決心したな」
「大切な人が住んでいた家ですから」
「弟さんと売買契約を交わすとは思わなかったよ。欲がねえな。そのまま貰っとけばいいものを」
「友人から物を貰うわけにはいきません」
 施しを受けたら、それはもう友ではない。
「そうか。お前らしいな」
 すぐに立ち去るのかと思ったが、山本は宥己が茶を淹れて弁当を広げるのをじっと見ている。
「今日も握り飯とだし巻き卵か?」
「はぁ。山本さんも、お茶、いかがですか」
「おう、ありがとさん。コンビニ弁当よりは進歩だがな。一緒に飯を食べる相手、早くみつけろよ」
「はい」
「思ったより元気そうで安心したよ」
「ご心配おかけしました。もう大丈夫です」 
 芳に握り飯とだし巻きの作り方を教わったのは、入院することが決まった日だった。食が細ったと気が付いた時には、芳はもう入院の手続きを済ませていた。
 放射線治療が終わった日はぐったりとして早々に寝室に入ってしまうのだが、翌朝になると芳は花が開くように精気を取り戻した。学校へも毎日行っていた。食事をともにして、一日の出来事を互いに話す。そんな、穏やかな毎日が続いていた。ひょっとしたらこのままずっと、と思っていた矢先の出来事だった。
 あの時は芳に何度もダメ出しを食らったが、今の握り飯なら、及第点をもらえると思う。だし巻き卵も教わった通り、強火で焼けるようになった。
 芳の声が蘇ってくる。
 お結びを作るときは手に水をつけすぎないこと。塩加減は慎重に。握り具合は空気を含ませるように、食べる時に崩れない必要最低限の固さに握ること。
 卵を焼くときは強火で。出汁はね、出来合いでいいのよ。そういうと芳は、お気に入りなの、と言いながら冷蔵庫から、白出汁の瓶詰めを取り出してきた。
「卵は弱火でしょう?」
「素人はね。だけど、手早く火を通さないと卵が固くなるのよ。プロをみてごらんなさい。美味しいだし巻きを出すお店はみんな強火だから」
 芳が説明をしているうちに、卵はみるみるうちに金色のだし巻き卵になった。
「ふう。さすがにきっついわねえ」
 卵を焼き終わると、芳はソファに座り込んだ。
「無理しないで」
「貴方もね」
 芳は宥己の左手を取り、両手で包み込むように握った。
「なんでも分かち合える人をちゃんとみつけるのよ」
「え?」
「話してくれたの。貴方を守れなかった、って。馨さんの涙を見たの、あの時が初めてだった」
「自分の気持ちをぶっつけるばっかりで。馨ちゃんがそんな気持ちだったなんて。ちっとも気が付かなかった……」
「それでいいんじゃない? 子供の特権なんだから」
「でも」
「今の貴方になら、馨さん、きっと何でも話したわよ。一緒に食べた御飯、美味しかった。今日まで一緒にいてくれてありがとう。楽しかったわ」
 そういって芳は右手を差し出した。目が潤んでいた。本当は抱きしめたかったが、芳の流儀にしたがって握手をした。しっかりと手を握ったら、女にしては大きな手が力強く握り返してきた。
 格好いいままでお別れさせて、という芳の言葉に従って病院には行かなかった。葬儀の知らせがきたのはそれから間もなくだった。五月晴れの爽やかな風が吹く日に芳は旅立っていった。
 芳の水彩画は弟夫婦に渡した。いつもの姉さんだ、といって夫婦は涙ぐんでいた。
 芳のスケッチは、祐介と馨の絵と一緒に屋根裏の奥にしまった。
 〝貴方の絵を描きなさい〟
 二人のカオルとの約束だ。
 
 「午後からは佐野さんの棟上げだな」
 佐野滋、吉本の言う頑固爺だ。せっかくの趣ある民家を取り壊す、と平気で言うので、滋を説得するため久しぶりに本気で絵を描いた。芳にもらった水彩画のセットが役に立ったのは言うまでもない。
 時がもたらした重みは、建築の粋を凝らしても作れるものではない。ずっとその地に在った建物はそれ自体が生きて時を刻んでいるのだ。増築部分は、主がいなくなり廃屋になった家から部材を調達した。家々が持っていた歴史を紡がせてやりたかった。ゼネコンに務めていたときは、スクラップ&ビルドが当たり前で、そんなことは思いもしなかったのに。重厚な梁を生かしたリビングは、滋の自慢になるにちがいない。
「佐野さん、建前で餅とお金をまくそうですよ」
「今時、華々しくて結構なこった。あの爺さんらしいや」
「ですよね。じゃあ、そろそろ行ってきます」
「おう、行ってこい。爺さんに宜しくな」
 吉本の集落では、リフォームがちょっとした流行になっている。今年のお盆は帰省する者がますます増えそうだ。
 事務所の外に出ると、樹々と水の匂いをたっぷりと含んだ高原の風が頬を撫でた。芳と会って、もうすぐ三回目の夏が来る。 


                                 了 
    
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