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 優里は手書きの(!)診察券をもう一度、しげしげと眺めた。阿賀動物病院と書いてあって、携帯の電話番号が記されている。書かれているのはそれだけで、診察時間もホームページのアドレスも記載されていない。緊急事態だったから仕方なかったが、普通ならまず、あんな獣医には行かなかっただろう。
 ラッシュアワーに傘をさしたまま、人の流れに逆らって駅へと歩くのは至難の業だ。人とすれ違うたびに傘をすぼめて歩かないと前に進めない。駅へは少々遠回りになるが、優里は迷わず遊歩道へと足を向けた。
 昨夜、ゴルフコンペで入賞して上機嫌の父親から臨時の小遣いを貰った。本屋に寄ってから、ちょっと贅沢なランチを食べるつもりだったのだ。大学の講義は午後から始まる。時間はたっぷりとある。
 目黒川沿いに設けられた遊歩道は車は侵入禁止になっていて、葉桜のこの時期は人通りも少ない。
 雨音を聴きながらのんびり歩いていて、桜の木の下に捨てられている段ボール箱を見つけてしまった。箱の中の子猫は濡れそぼってぶるぶると震えている。子猫を抱き、川沿いを歩きながら近くの獣医を目指して歩いていたら、あの獣医を見つけたのだ。ベニヤ板に阿賀動物病院とマジックで書かれた看板が門扉に打ち付けてある。念のため、ウェブの地図で確かめてみたが、獣医の記載はない。怪しい。怪しすぎる。やはり、遠回りでもかかりつけの獣医に行こう、と回れ右をしかけたら、子猫が痙攣を起こしはじめたのだ。
 阿賀は仔猫を丁寧に触診し、口の中、耳の中くまなくライトを当てて調べていた。拾った猫をそんなに丁寧に診察する獣医はそうそういない。
 いかにも器用そうな長い指をしていた。診察費が思いがけなく安かったのもよかった。ミルクもくれた。阿賀動物病院の診察料は手持ちの現金で充分だったのだ。予防接種にはじまり、避妊や去勢手術と、野良猫を飼い猫にするには、一連の医療行為が伴うのに、阿賀は次の診断については何も言わなかった。商売っ気のない獣医だ。
 ペットを飼うのは初めてではないから、獣医には何度も行っている。これといった医者になかなか巡り合えず、近所のペットクリニックを渡り歩いている、という現状なのだ。獣医についてはそれなりに鑑識眼もあるつもりだ。あの獣医師は案外と当たりなのかもしれない。
 今通っているペットクリニックは、垢抜けた雰囲気の総合病院で、待合室にはカッシーナのソファが置かれ、ペット用と人間用の浄水器が設置されている。柔らかいパステルカラーの壁には大きな液晶テレビが備え付けられていて、イギリスのペット番組アニマルプラネットがいつも映し出されている。Tケーブルテレビと契約をしているのだ。
 医師は当番制らしく、担当医がしょっちゅう交代するのが難だ。事ある毎に様々な項目の血液検査を勧められるのが煩わしいが、家から近いからとりあえずそこに通っている。
 患者の間には歴然とした階級があるようだ。純血種の犬や猫は、必ず院長やベテランの獣医師が担当する。雑種の猫を連れた優里は下層部の患者のようだ。担当医が頻繁に変わるだけならまだしも、いかにも研修中のような若い医師が担当のことが多い。あんずの予防接種に行くと、たいてい自分といくつも歳が違わないような獣医が出てくる。先日は注射を打つ手が震えているのを見てしまった。
 愛犬の杏は一応血統書のついた柴犬なのだが、ごく普通の犬のせいか、悠里の「飼い主階級」は上がりそうもない。スフィンクスを五匹くらい飼えば階級が上がるのかしら、と半分やけくそに思っていたのだが、ここにきてさらに雑種の猫が二匹だ。しばらくは底辺患者のままだろう。
 のんびりとランチを楽しむ時間はもうない。うっかりすると講義にも遅刻してしまう。それでも、二匹の子猫の命を救ったのだと思うと、温かい気持ちになった。
 優里は父親と二人暮らしだ。母親は三年前に亡くなった。母が動物好きで小さなころから家には何かしら動物がいた。
 今家にいるのは、芝犬の杏と和猫の寅吉、アメリカンショートヘアの雑種のサチだ。もう二匹くらい猫が増えても、父は文句を言わないだろう。いざとなったら、この手は卑怯だから使いたくないのだが、目に涙をためて「お父さん、お願い」と言えばいいのだ。
 子猫は、やはり蚤だらけだった。亡くなった子猫のタオルの中は、冷たくなった宿主から逃れようとする蚤でいっぱいだ。ごめん、とタオルの中の子猫に謝りながら、子猫の顔を覆って殺虫剤をかけ、とりあえず外のウッドデッキに置いた。二匹の方は、洗面所でシャンプーして、タオルでよく拭いてやった。ドライヤーをかけてもキョトンとしている。ミルクを与えると、ぐいぐいと飲むので一安心した。 
 猫砂の近くに寝床を作って子猫を入れてやると、いつの間にかサチが興味深そうに寄って来て、眠そうにしている子猫の匂いを嗅いでいる。遠巻きに眺めていた杏と寅吉も、サチに倣って子猫の匂いをかぎはじめた。
「さっちゃん、これから学校だから、チビさん達のことよろしくね」
 優里の言葉が通じたかのようにサチは子猫を抱え込むように傍らで丸くなると、そのまま眠ってしまった。御年二十。悠里と同い年だが、人間で言えば百を超える歳だ。寝てばかりいるが、いざという時は頼りになる婆さんなのだ。
 庭の山桜の根元に大きな穴を掘り子猫を埋めた。魂鎮めの木といわれる桜の根元だ。子猫はきっと安らかに眠るだろう。物置の隅にネズミのガーデンオブジェがあったのを思い出し、墓標のかわりに置いてやった。部屋に戻って母の仏壇の鉦を勢いよく鳴らし、手早く合掌した。
「母さん、行ってきます。お線香貰うね」
 雨が小降りになってきた。子猫の墓に線香を手向けると、優里は急いで大学へ向かった。
 駅舎に入ってきた特急に慌てて乗り込むとほっと溜息がもれた。朝から駅と家の間を往復して今日の運動はもう十分だ。直通運転だからこのまま乗っていれば大学の最寄駅に到着する。
 経営学基礎Aの講義は、他の学部の生徒も履修するから、大教室で行われる。大抵の生徒は後ろの席に座るのだが、優里は講義を聞き漏らすことのないよう、最前列、教授の唾がかかりそうな真ん中の席に座ることに決めている。教授も熱心な生徒がいるのは嬉しいらしく、講義中に、優里がよく分からない、という顔をすると、図を書いたり、違う方向から説明をしたりしてくれるのだ。
 最近の学生は勉強しない、というが、家計を預かっている優里の金銭感覚はシビアだ。大学の月謝分はすべて元をとろうと思うから、講義は熱心に聴く。英会話や論文購読といった卒業単位に関係ない講義も受講しているから、大忙しなのだ。優里がいつもの席に座って一息ついていると、快活な声がした。
「おはよう!」
 幼馴染の莉莎子りさこだ。近所の工務店の娘で、同じ大学の建築学部に籍を置いている。優里は経済学部だから、大学で会えるのはこの授業の時だけだ。
「なにくたびれた顔してるのよ」
 阿賀動物病院の話をすると、
「あの空家、持ち主がいたのね。リフォームは是非とも津山工務店に! 優里、宣伝しておいてね。お安くしておくから」
「でもね、なんだかお金なさそうよ」
「これだからサラリーマンの娘はダメなのよ。仕事は取ってくるもんよ。いいわ、私がショコラとクリームを連れて偵察に行くから。あんなボロ屋、いっそのこと撤去して建て替えね」
 と、さりげなく過激なことを言った。ショコラとクリームはその名のとおりの毛色をしたスタンダートプードルだ。曾祖父の代から工務店を営んでいる莉莎子の家は、土地も家も優里の家の四倍はあろうかという豪邸だ。大型犬二匹がリビングを歩いていても全く違和感がない。
 莉莎子には四つ上の兄がいるのだが、おっとりとした芸術家肌で、今は友人と一緒に住宅の内装を扱うデザイン事務所を経営している。莉莎子は、あんな温(ぬる)いやり方、とばかにするが、このご時世で潰れもせずにきちんと利益を出しているのだから立派なものだ。
 津山工務店の次期社長は私ね、と豪語するだけあって、莉莎子は学生とは思えないほどの経営センスがある。
「ええと、莉莎子」
「なに?」
「ええと、あの、そろそろ杏もフィラリアとノミの駆除をしないとだから。阿賀動物病院、一緒に行こうよ」
 阿賀が莉莎子の営業攻撃に太刀打ちできるとは思えなかったから、優里は慌てて提案した。
「いきなり家を壊したりはしないわよ」 
 莉莎子は優里の切羽詰まった顔を見て、ぷっと噴き出した。
「やだ、警戒したの分かっちゃった?」
 次期社長だと豪語するだけあって、さすがに人心を読むのに長けている。優里が莉莎子を尊敬するのはこんなところなのだ。
「そりゃあ。じゃあさ、金曜日、学校終わったらすぐでどう? 下調べをするだけだから安心して。診療所の前で待ち合わせね」
 莉莎子がてきぱきと計画を決めた。こういう顔をするときの莉莎子は本気のビジネスモードなのだ。優里はこくり、と唾をのみこんだ。

 ショコラとクリームを連れた莉莎子が大きく手をふった。目ざとく二匹を見つけた杏がぐいと綱を引っ張った。三匹ともメス、子犬の頃から一緒だから至極仲がいいのだ。尻尾を千切れんばかりにふって、互いに挨拶をしている。莉莎子の手には本格的なデジタルカメラが握られていた。
「写真撮ってたの? 許可なく?」
「悪用はしないからかまわないでしょ。そろそろ午後の診察時間よ。行きましょ」
 バックパックにカメラを隠し、てきぱきとそう言うと先に立って歩いていく。莉莎子は早くもビジネスモードにはいっているようだ。
 莉莎子が言うように、建て替えたほうがいいのかもしれない。晩春の午後の眩いような光の下で、雑草に囲まれた建物は一層貧弱に見えた。ベニヤ板に『阿賀動物病院』とマジックで書かれた看板を見て、莉莎子がうんざりとした顔をした。
「よくこんな所に入る気になったわね」
「緊急事態だったんだもの。でも優しそうな先生よ。バッチイ子猫にマウストゥーマウスで人工呼吸だもの」
「ふうん。悪い人じゃなさそうね。では行きますか」
 莉莎子は建付けの悪い引き戸の隅をガンと叩き、勢いよく戸を開けた。
「こんにちは!」
 奥から阿賀が顔を出した。ゴージャスなスタンダートプードル二匹を見て驚いた顔をしている。やっぱり今日もスウェット姿だ。ひょっとして、あの日と同じ服?
「友達、連れて来たんです」
 悠里が言うと、ようやく合点がいったらしく、阿賀はにこりとした。
「どうぞこちらへ」  

 診察の帰り道、莉莎子は大袈裟に溜め息をつくといった。
「あそこはダメね。早晩つぶれるわ。もう、なんていうか貧乏オーラが家中に漂ってるもの。獣医でスリッパもないでしょ。先生も先生よ。一体なに、あの恰好は。ま、安くノミの駆除ができたのはよかったけど」
「そんな。見捨てないでよ。仕事は取ってくるものなんでしょ」
「そうは言ったけど。阿賀先生は例外ね。私の診療カード、番号が2よ。携帯電話の番号だけでホームページのアドレスも書いてない。このカードだってコンビニのコピー? いい加減すぎるわ。悠里がここの患者になってずいぶん経つんでしょ。それなのに、いまだに一人も患者が来ないわけ? 当たり前よね」
 莉莎子は大袈裟な仕草で、万事休すと言った顔をして天を仰いだ。
「あのね、私、一所懸命に仕事をしない人って好きじゃないの。ごめんね、こんな言い方して」
 莉莎子の言うことも、もっともだった。ポンポンと言われても言い返すことができない。
「でも。私、見ちゃったんだもの。先生の左手の薬指、指輪の跡があったの」
「ダラダラ営業の原因がそれだっていうの?」
「そうかもって。よくわからないけど。だから、ね、もうちょっと温かい目で見てあげて」
 離婚か死別か。まだその思いを引きずっているのではないか。阿賀は顔色が悪く、ひどく痩せている。母を亡くして、意気消沈していた頃の父と阿賀の姿がダブるのだ。
「まあ、優里がそこまでいうのなら。写真も撮ったことだし。やってみましょうか」
 優里の父親をよく知っている莉莎子は、すぐに分かってくれた。さすが、わが友!!
「それでこそ、津田工務店の次期社長よ!」
 やれやれ、というように莉莎子は肩をすくめた。

 子猫二匹はすっかり元気になった。もうミルクは卒業だ。離乳食を食べ始め、家中を飛び跳ねている。サチはしつこく付きまとわれてシャーシャーと怒っている。最近の子猫たちのお気に入りは寅吉だ。寅吉はまだ三歳。人間で言うと二十そこそこだから、あちらこちら跳ねまわる子猫たちと一緒になって遊んでやっている。
「なあ、悠里」
 トーストを齧りながら父親の邦弘はあくびをかみ殺している。
「空と海、そろそろ予防接種をしていいんじゃないか。外に出してやらないと、こっちの身がもたないよ。毎晩布団の上で運動会だから」
「ごめん! このところバタバタしてたから。今日にでも接種、連れて行くわ」
「頼んだぞ。今夜は遅くなりそうだから、戸締りしっかりな。夕飯は外で済ませるよ」
「うん、分かった。行ってらっしゃい!」
 朝食の後片付けを済ませると、悠里は早速、阿賀動物病院に電話をした。すぐに阿賀が出てきた。
「阿賀動物病院です」
「子猫の予防接種の予約をお願いしたいのですが」
「いつでもいいですよ」
 他の患者の予約は全く入っていないのだろう。莉莎子の言うことも、もっともだった。この調子では病院は早晩潰れるのではないかと心配になる。
「今日の16時で大丈夫でしょうか」
「はい、お待ちしています」
 大学から帰ったら獣医に直行だ。夕方の散歩もかねて杏も連れて行くことにした。柴犬はペットシートを嫌がる個体が多いらしい。台風の日、犬も人も完全武装して散歩に行くと、会うのはたいてい柴犬だ。そんな時は、知らない人でも、「いやあ、まいりますよね、でも可愛いんだ、これが」、と柴犬を飼う者同士、口に出さずとも以心伝心で苦笑いしながら挨拶を交わすのだ。狭いながら庭があるのだが、ここでも杏はめったに大小をしない。
 自分が獣医に行くときは尻尾がだらりと下がるのだが、今日は空と海の付き添いと分かっているのだ。ベーグルのような尻尾をキリリとあげて、先頭を意気揚々と歩いている。空と海は杏と一緒だと安心するらしく、ケージの中で大人しくしている。猫組を獣医に連れて行くときは杏と一緒に行くのが一番だ。杏と一緒だと、どの獣医も驚くほど猫組は大人しくなるのだ。
「こんにちは。佐伯です」
「やあ、お待ちしていましたよ」
 今日の阿賀はちゃんと白衣を着ていたが、顔が隠れるくらい大きなマスクをしていた。
「お風邪ですか?」
 ええ少し、と言うとひどく咳いている。ここは急いで診察をしてもらって、さっさと帰る方がいいだろう。
「ではよろしく」
 空をダイニングテーブルの上に置く。
「ずい分大きくなりましたね」
 体重(いまだに人間用のデジタル体重計だ)を測り、接種をする。優里は、はい次、と手際よく空をケージに入れ、海をダイニングテーブルの上に置いた。
「避妊と去勢の手術、いつ頃連れてきたらいいですか」
 優里は注射をしている阿賀の綺麗な手を見ながら尋ねるた。
「二か月後くらいかな。オスはタマが落ちてこないと手術できないから」
 阿賀は優しく海のタマのあるあたりを触りながら答えた。
「なるほど」
「はい、これでおしまい」
 海を手渡した途端、阿賀はその場に尻餅をついてしまった。思わず助け起こしたが、掴んだ手が火のように熱い。
「薬とか飲みましたか?」
 阿賀は黙って首を振った。マスク越しの顔をよく見ると、蒼白な顔をして目が落ちくぼんでいる。食事もまともに取っていないようだ。
「先生、食事はどうなさってるんですか」
「コンビニの世話になってます」
「冷蔵庫、ないんですか」
「はあ、ないですね」
 台所には医療用具があるだけで、調理器具や食器の類は一つもない。
「食べるもの、ちょっと買ってきます。杏のことよろしく」
 悠希が止める間もなく、優里は走って出て行ってしまった。
「お前のご主人、行動が早いな」
 診察室の床に座り込んだまま、悠希が杏の頭を撫でると、杏はそうでしょう、と言うように三回、尻尾を振った。
 

 
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