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 昼休み中のガヤガヤとした教室では、声を張り上げないと話ができない。
「で、そのまま帰ってきたわけっ」
「そうよっ」
 優里も大きな声で返事をした。
「一晩泊まって、看病するところからロマンスがはじまるんでしょ」
「私のはあくまでも生物愛だから」
「つまんないの」
 莉莎子が大げさなため息をついた。中学二年になって間もない頃、優里の母は二度目の癌の手術をした。それ以来入退院を繰り返すようになった母親の替わりに、優里が家事をすべて受け持つようになった。あれから五年。二十歳にして悠里の家事能力はすでにベテラン主婦の領域に達している。
 母親を亡くしたばかりの頃、優里は遮二無二突き進んでいた。日ごろの五割増しくらい賑やかに喋って冗談をとばし、家事をこれでもか、というほどきちんとこなす。そうすることで悲しみを癒そうとしている優里の気持ちが痛いほど分かったから、莉莎子は何も言えなかった。ひそかに憧れていた邦弘おじさんがすっかり意気消沈し、くたびれたオジサンになっていたのを見事回復させたのは、優里の実務能力にほかならない。
 優里を慕う男子は沢山いたはずなのだが、少年の仄かな恋心など現実路線を突き進んでいた当時の優里が気が付くはずもなかった。もうそろそろ女子大生らしい生活をして、彼氏いない歴に終止符をうってもいいのではないか、と莉莎子は思うのだ。
「でもさ。散歩コースの途中なんでしょ。阿賀先生の様子、見に行ってあげたら。ついでにさりげなくリフォームのこと話してみて。ああいうタイプは、優里みたいなポンやりした人のほうが、商談が上手くいくのよ」
 リフォームにかこつけて、ひと押ししてみることにした。
「失礼ね! まあ、あのままほっておくのもね。明日にでも行ってみるわ」
 と、優里はあっさりと答えた。

 莉莎子の言うことももっともだ。様子くらいは見に行くべきだろう。優里は杏の散歩のついでに、動物病院まで足を延ばしてみることにした。
 パチリパチリと植木鋏の音がする。悠希が危なっかしい手つきで生垣を刈り込んでいた。風邪は無事に治ったようだ。
「おはようございます。風邪の具合はどうですか」
「ええ、もうすっかり。先日はありがとうございました」
 とはいうものの、悠希は紙のように白い顔をしている。
「よかったわ。御精がでますね」
「あんまりにも茫々だったから。あ、先日のお金、持ってきますね」
 悠希はバタバタと中に入ると、すぐに出て来た。差し出した紙袋の中には、レーズンウイッチとポチ袋が入っていた。
「ここのレーズンウイッチ、僕の好物なんです。あの時すごく……、助かったから。本当に、ありがとうございました」
  嬉しかったと言いかけた悠希は慌てて言葉を置き換えた。
「私もここのレーズンウイッチ大好きなんです。わざわざ、ありがとうございます! 先生はこの辺りのご出身なのですか」
 代官山に一軒しかない店で、しかも予約をいれておかないと、この菓子は手に入らないのだ。ラム酒漬けのレーズンがいい具合に漬かるまで時間がかかるから、と店のパティシエールが教えてくれた。
「ここは祖母の家でね。遊びに来ると、ばあちゃんがいつもレーズンウイッチを用意していてくれていて。それで好きになったんだな、多分」
「可愛い家ですね。きれいにしがいがありそう」
 植木を刈り込んで家全体がこざっぱりとがしたが、もちろん、半分以上お世辞だ。ボロ屋なのは変わりがない。雑草がなくなった診察所は、ボロボロの壁や屋根が白日の下にさらされて痛々しいくらいだった。
「そう言ってもらえると嬉しいんだけど」
 悠希は苦笑した。
「あれから新しい患者さん、来ましたか」
「おかげさまで。今、家にいますよ」
「えっ。患者さんを待たせて、植木なんて切っていていいんですか」
「うん、大丈夫。せっかくだから、お茶にしましょうか。どうぞこちらへ」
 相変わらず建付けの悪い引き戸をこじ開けると、子猫が三匹、転がるように走って出てきた。杏は慣れたもので、文字通り子猫を鼻であしらっている。
「やあ、杏はさすがだな」
「あの、新しい患者さんって」
「そう、こいつらですよ。庭先に捨てられていてね。名前はマとミとム」
「マ行ですか……」
「猫って、何となくマ行っぽくないですか」
「はあ。まあそうかも。犬はカ行とか?」
 冗談でそう言うと、
「その通り!」
 と悠希は嬉しそうな顔をした。
 お茶はどこで支度をするのだろうと思ってついて行くと、やはりあの診察室だった。本来の使い方といえばそうなのだが。古びた台所に似合わない真新しい冷蔵庫が置いてあった。その隣には物々しい機械が置いてある。
「なんかお医者っぽい機械ですね! すごいわ」
「友達がエコー検査機の中古を安く譲ってくれて。本当はCTスキャンも欲しいんだけど。あれ、高いんだよなあ」
 今日の悠希はよく喋る。これが本来の姿なのだろうか。
「冷蔵庫もあるんですね!」
「そう。先日のことで反省して。牛乳もあるから、カフェオレもミルクティーもできますよ」
「ではミルクティーをお願いします」
 悠希は初めての健康診断で海が粗相をしたダイニングテーブルにクッキーの皿を置き、ティーカップを並べた。
 優里がテーブルを凝視していると、
「大丈夫。ちゃんと消毒してあるから」
 と、悠希は苦笑いしながら言った。確かにアルコールのスプレーがテーブルの端に乗っている。
「先生、お食事もここですか」
「そう。寝るのもここ。他の部屋は根太がぐずぐずで入るのが危険なんだよ」
「あのう、手術とか、ここでできるんですか」
 手術室があるようには見えない。心電図とか? そういうものはあるのだろうか。
「お風呂場は無事だから、いつでもいいですよ。お待ちしています」
 悠希は事も無げに言った。 
 風呂場で手術をするつもりらしい。手際のいい悠希の仕事ぶりをみて、すっかり安心していたのだが、雲行きが怪しくなってきた。不安に駆られたが、悠希の病み上がりのやつれた顔を見ていると、救済しなければ、となにやら義侠心めいたものが湧き上がってくる。海、空ごめん! と優里は心の中で謝った。
「先日、プードルと一緒にここにきた津山さん、私の同級生で実家が工務店なんです。この家の事、相談なさってみたらいかがですか。彼女の曾祖父の代から工務店をやっている老舗で、この辺りでは有名なんです。うちもお世話になっているんですが、良心的ないい工務店ですよ」
「そうしたいのは山々なんですが、なにしろ金がなくて……」
「リフォームっていうのも、ありですよ」
「それなら、なんとかなるかなぁ。このままじゃ、やっぱりまずいですよね」
「ええ、とってもマズイ、と思います」
 意外なことに、ここをきれいにする気はあるようだ。あとは莉莎子に頼みこめば、なんとか工夫をしてくれるだろう。
 
  


       
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