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廃妃の呪いと死の婚姻4-4
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廃妃の呪いと死の婚姻4-4
ジェネヴィエーヴは結局、一時間も経たずに舞踏会場を後にした。それもこれも過保護なナイトリー侯爵一同の連携の賜物だった。ナイトリー侯爵は複数の家臣や護衛騎士をジェネヴィエーヴのために配置しており、いつ何時であっても愛娘の変化に駆け付けられるような体制を取っていた。
一曲目のダンスが終わってしばらくたった頃、護衛騎士から目配せを受けたナイトリー侯爵はアリアを連れてジェネヴィエーヴのもとへ急いだ。そこで、人いきれにのぼせて頬を上気させている愛娘を見つけると、慇懃ながら有無を言わせぬ態度でジェネヴィエーヴを連れ去ったのだった。
ナイトリー侯爵のジェネヴィエーヴに対する溺愛を知っている貴族たちは、いつものことかとそっと目をそらし、そうでない者たちは唖然とした表情を浮かべた。しかし、朝廷の貴顕であり、国王が最も信頼を寄せている権臣であるナイトリー侯爵を表立って非難する者などありはしなかった。パートナーのクラレンスは苦笑を浮かべ、ジェネヴィエーヴのぬくもりを失った片腕をそっと抑えた。冷酷と言われるナイトリー侯爵の思いがけぬ行動に、珍しいものを目にしたエルヴェシウス辺境伯は興味深気に一行の後ろ姿を見送っていたが、孫であるクラレンスと目が合うとにやりと微笑み、まだまだだなと言ってクラレンスをからかった。
わずかに下ろした馬車の窓から、夜風が吹き込んでくる。ひんやりとした夜気が火照った頬に心地よかった。
「ジェネヴィエーヴ様、お寒くはありませんか?」
ジェネヴィエーヴは布目の細かい暖かなストールに包まれながら、大丈夫よと言って笑った。同車したアリアと侍女は彼女を心配してしきりに世話を焼こうとするため、ジェネヴィエーヴはその度に大丈夫だと言ってきかせねばならなかった。
「ですが、お風邪を召すかもしれません」
共同戦線を張ったらしいアリアと侍女の手で下ろされた窓の外を、ジェネヴィエーヴは名残惜しげに見つめながら、最近アリアはお父様と似てきた気がするわ、一緒に暮らしていると過保護なところも似てくるのかしら、困ったわねと心の中で独り言ちたのだった。
暫くして車窓から移り変わる外の景色も見飽きたジェネヴィエーヴは、舞踏会の余韻にボーっとしているアリアに話しかけた。
「アリア、初めての舞踏会は楽しめて?」
壁の花を覚悟していた当初の懸念とは裏腹に、アリアのダンスの相手は途切れることがなかった。彼女とノクターンが準男爵の子女であることは直ぐに知れ渡ったものの、彼らに対する侯爵令嬢の信頼と愛情あふれる態度を目にして、彼らを侮り蔑むような勇気のある貴族は誰一人としていなかった。見目麗しくナイトリー侯爵とその令嬢から大切に扱われている姉弟は予想に反して非常に人気者だった。ダンスの相手に事欠くどころか、ノクターンなどは積極的なご令嬢達に囲まれて、どうにか失礼のないようにその場を逃げ出すか頭を悩ませていたくらいだった。
「はい、正直言ってこんなに楽しくてよいのかしらと思うくらい楽しかったです。本当に何もかも素晴らしくて」
原作ではジェネヴィエーヴの謀略で心に傷を受けるはずだった初めての舞踏会で、アリアが全く異なる感想を抱くことができたのは素晴らしい変化だった。ジェネヴィエーヴは満足そうな微笑みを浮かべた。
「次は我が家で開かれる舞踏会が控えているわ。またあなたとノクターンの気持ちの良いステップを見ることができるわね」
「そうですね。明日からまた準備で色々と忙しくなりますね。少しでもジェネヴィエーヴ様のご負担を減らせるように、家政婦長とも相談しないといけませんね」
ぐっとこぶしを握って決意を固めるアリアに、ジェネヴィエーヴはお手柔らかにねと苦笑した。
「ところで、ジェネヴィエーヴがお話になっていた方々はどなただったのですか?ナイトリー侯爵閣下はご存知のようでしたが」
ジェネヴィエーヴはクスリと笑みをこぼした。
「クラレンス殿下からご紹介いただいた方々よ。お二人のうちご年配の紳士は殿下の母方のお祖父様で、エルヴェシウス辺境伯と仰る方よ」
アリアは目をぱちくりと瞬いた。
「クラレンス殿下の祖父上様ですか?まあ、私ったらすっかり勘違いしていたみたいです。殿下の母方のご親類はいらっしゃらないのかと思っていました」
彼女の台詞に思い当たるところがあったジェネヴィエーヴは、ああと頷くと
「無理もないわ。殿下も後ろ盾がないと仰っていたものね。これには事情があるの。殿下の母君の御輿入れにエルヴェシウス辺境伯はそれは反対されていたの。けれど、当時王室には王妃様の他に2人のご側室がいらっしゃって、それぞれ王子を産み参らせていたのだけれど、そのご側室の出身家門がエルヴェシウス辺境伯夫人のご実家と敵対する家門の方々だったの。そんな時に令夫人のご実家から、令嬢を側室の一人として差し出してもらえないかという要請を受けたのね。最後には令夫人の強い後押しでエルヴェシウス嬢は後宮入りを決断されて、クラレンス殿下をご出産されたという経緯があるの。エルヴェシウス辺境伯はご不快に思われて、激怒されたそうよ。家長であり父であるエルヴェシウス辺境伯の意向に反して、令夫人とそのご実家の要請で後宮に入ったのであれば、もうエルヴェシウス辺境伯家とは関係のない人間だから、ご自分は向後一切この婚姻に口を挟まない代わりに、どのようなことがあろうとも何の援助も行わないと宣言されたの。令夫人とのご夫婦仲も冷え切ってしまって、令夫人はその後すぐにお亡くなりになってしまわれたのだけれど、エルヴェシウス辺境伯の決意は覆されなかったわ。エルヴェシウス辺境伯の態度が軟化されたのは恐らく、側妃となったエルヴェシウス嬢がお亡くなりになってからだと思うわ。でも、元々エルヴェシウス辺境伯はめったに都に出てくることはないし、領地もとても離れていて簡単に行き来することもできない遠方にあるから、殿下が日常的に頼りにすることができるかというとそうではなかったの。だから、クラレンス殿下が母方の後ろ盾を得られないというのはあながち嘘ではないのよ」
アリアは時折頷きながらジェネヴィエーヴの話に耳を傾けていた。
「今夜の舞踏会に参加されたということはすっかり和解したということなのでしょうか」
と首をかしげると、ジェネヴィエーヴは頬に片手を当てて言葉を濁した。
「そうね。完全に和解したかどうかはわからないけれど、お二人のご様子は随分と親しく打ち解けた雰囲気ではあったわね。家庭教師を紹介して欲しいというクラレンス殿下のご要請にエルヴェシウス辺境伯様が応えられたというし」
「家庭教師をですか?」
「ええ。先程殿下がお連れになったもうお一方というのが、その家庭教師だったのだけれど・・・」
一旦言葉を切ったジェネヴィエーヴの顔をアリアがどうなさいましたかと言って覗き込むと、ジェネヴィエーヴが愉快そうに笑った。
「殿下からご紹介されて、私すっかり驚いてしまって、思わず声をあげそうになってしまったわ。その紳士というのが誰だったと思う?何を隠そう、ケイ・でフェラーズその人だったのよ」
ジェネヴィエーヴはクラレンスが彼女のためにその家庭教師を招いたという気恥しい話は脇において、ケイ・フェラーズを民草のために薬学を専門としている研究者だと説明した。
「まあ、なんて偶然なんでしょう。私もダンスのお相手にこっそり聞いてみたのですが、全くはかばかしい返答を得られなかったんです。情報収集のためにせっかくたくさん躍って、いろんな方にお話を聞いたのに、全然手掛かりを掴めなくてがっかりしてしまったんですよ」
ジェネヴィエーヴはアリアは沢山の申し込みを喜び、若く健康な令嬢らしくダンスを楽しんでいるとばかり思いこんでいたから、彼女の返答に目を見張った。
「まあ、アリアあなたそんなことを考えながら踊っていたの?私ったら、あなたは楽しんでいるとばかり・・・」
アリアはもちろんダンスは楽しかったですが、デビュタント・ボール参加を決めたのはケイ・ミスター・フェラーズの手掛かりを探ることでしたからと笑った。
翌朝、アリアから昨夜の出来事を聞いたノクターンは眉を顰め、難しい表情を浮かべた。
「どうかした?」
アリアが首をかしげると、ノクターンは眉根を寄せたまま答えた。
「とりあえず、ケイ・フェラーズの所属が分かってよかったけど、これからどうしたらいいかと思って。ジェネヴィエーヴ様は何か仰っていなかった?」
なにも、と言ってアリアは首を左右に振った。ジェネヴィエーヴは昨夜の疲れが出たのだろう、日が中天を指す頃になっても部屋から出てこなかった。
「ジェネヴィエーヴ様とクラレンス殿下は婚約者同士とはいえ、ジェネヴィエーヴ様はいつかは婚約を解消されたいと仰っているし、そのためにもできる限り距離を置いているだろう」
「そうね、クラレンス殿下の家庭教師と聞いて交流を持つことは容易いと思ていたけれど、ジェネヴィエーヴ様は複雑なご心境でしょうね。でも、この件に関しては私が何とか間に立つことができると思うの」
ぐっとこぶしを握り決意に満ちた表情を浮かべるアリアに、今度はノクターンが首をかしげる番だった。
「あら、わからない?ミスター・フェラーズの専門分野というのが、裕福ではない人たちのための研究だからよ。ミスター・フェラーズは薬学の専門科なの」
そう言ってアリアはノクターンに、ジェネヴィエーヴから聞いたミスター・フェラーズの研究内容を説明した。
「なるほどね。アリアの光の魔力は治癒と解呪だし、同じく平民たちへの治療を一手に引き受けている教会とのつながりも深いナイトリー侯爵家が、マイナーな薬学の研究を後援するっていうわけか・・・」
「その通り。ミスター・フェラーズとの窓口は私が請け負うつもりだし、支援についての実務的なところは執事さんが行うから、ジェネヴィエーヴ様が表立って動く必要性はほどんどないと思うの」
腰に手を当てて、得意げに言い切ったアリアを横目に、クラレンスはぼそりと呟いた。
「思惑通りにいくかな。殿下がそれを許すとも思わないけど」
ノクターンの目から見て、ジェネヴィエーヴが距離を置こうとすればするほど却ってクラレンスはそれを阻止する方向で動いてきた。その度にノクターンは苦々しい思いでそれを眺めていることしかできず、今回のことも、普段引き籠りがちで、中々会うことすら難しいジェネヴィエーヴと直接顔を合わせることができるこの絶好の機会をクラレンスがみすみす逃すとは思えなかった。そして、その予想は的中するのである。
昼下がりのお茶の時間に、執事が持参した手紙を受け取ったジェネヴィエーヴは目を丸くした。
「まあ、殿下もいらっしゃるの?」
執事は恐縮しつつ、ケイ・ミスター・フェラーズの研究への支援に際する面談に、クラレンスが是非とも自分も同席させてほしいと言ってきたと告げたのである。
「ミスター・フェラーズをご紹介したという責任もあるので、方向性が決まるまでは参席させて欲しいと仰っておられるそうで、そう致しますと、わたくしが一人で参加するというわけにもいかず。大変恐縮ですがお嬢様にもご同席願えませんでしょうか」
困り切った様子で額に汗を浮かべる執事を、ジェネヴィエーヴは気の毒そうにみつめた。
「そうでしょうね。御多忙なお父様にお願いするわけにもいかないし、殿下がいらっしゃるのであれば、私が同席させていただくのが筋だわねえ」
ジェネヴィエーヴが仕方がないわ、と言って承諾した旨の返事を執事に手渡す様子を、ノクターンはやはりと苦々しい気持ちで見つめていたのだった。
手紙を受け取った執事がその場を後にすると、ノクターンが口を開いた。
「ジェネヴィエーヴ様、一つお願いがあるのですがよろしいでしょうか」
「あら、ノクターンがお願い事なんて珍しいわね。なに?」
「ミスター・フェラーズがいらっしゃる場に私も同席させていただきたいのです。元々の予定ではアリアがミスター・フェラーズとの仲を取り持つということでしたが、やはり未婚の若い令嬢が紳士と二人きりで度々会うというのは体裁があまりよくないことですし、その点私は男ですので、その上アリアとは姉弟でもありますから、今後ミスター・フェラーズと会う機会が増えたとしても私が同席していれば、後ろ指を指されるようなこともないと思うのです。お許しいただけますか?」
ノクターンのいうことはもっともだった。ミスター・フェラーズはアリアの恋人候補の一人ということですっかり頭から抜け落ちていたが、そもそも令嬢が婚約者でもない若い男性と二人きりで何度も会うなどということは誉められたことではなかった。たった一人の姉弟であるノクターンが心配するのも当然のことだった。
「これは私の配慮が足りなかったわ。指摘してくれてありがとうノクターン。アリアもごめんなさいね。当日はアリアだけではなくて是非ノクターンも同席してちょうだい。私からきちんとご紹介させていただくわ」
アリアの手に手を重ねてごめんなさいねと重ねて謝罪するジェネヴィエーヴに、同席することの目的がアリアの心配だけもないことにノクターンの心はチクリと傷んだが、笑顔でそれを押し隠した。そして、クラレンスの思惑通りには絶対にさせてなるものかと決意したのだった。
そして当日、体の弱いジェネヴィエーヴを慮って、初めての面談はナイトリー侯爵邸で行われた。ジェネヴィエーヴの出迎えを受けたクラレンスは、極上の笑みを浮かべながら彼女の右手に軽くキスを落としたが、顔をあげる時にちらりとノクターンに鋭い一瞥を投げかけることを忘れなかった。
応接間に通された一行は改めて自己紹介をしあうと、時候の挨拶もそこそこに早速本題に入った。各々、思惑があるとはいえ、ミスター・フェラーズの研究内容に対する説明には一同関心を持って耳を傾けた。一通り説明が終わり、執事からいくつかの鋭い質問が出された後は、打って変わって和やかなお茶の時間となった。
「フェラーズ様にはお妹さんがいらっしゃるのですね。こんなに立派なお兄様がいらっしゃるのですから、お妹さんにとってはご自慢のお兄様なのでしょうね」
丁度話の流れがミスター・フェラーズの故郷と家族に言及されたところで、ジェネヴィエーヴはさりげなく言った。
「そう思ていてくれると嬉しいですね」
ジェネヴィエーヴが当然ですよというと、未だに緊張冷めやらぬ様子だったミスター・フェラーズの表情がわずかに緩んだ。
「今はご一緒にお住いですの?」
「いいえ。母と一緒に実家におります」
ミスター・フェラーズの返事に目をきらりと光らせたアリアが問いかけた。
「フェラーズ様のご出身はこちらではないのですか?」
ミスター・フェラーズは頷くと、
「私の故郷は〇〇州にございます。母と妹はまだそこで暮らしています」
と言って微笑んだ。身分の隔たりの大きいジェネヴィエーヴよりも、アリアに対する方が緊張も少ないようで心なしか表情も和らいで見えた。
「〇〇州というと、グレイ夫人のお住いの州ですね」
ノクターンの自然な返しにジェネヴィエーヴは頷いて言葉を継いだ。
「その通りだわ。フェラーズさん、〇〇州は私の大伯母様がお住いの土地なのです。ご存知かしら、ケリンチパークのグレイ夫人という方なのだけれど」
ミスター・フェラーズは驚きの表情を浮かべた。
「グレイ夫人ですか。勿論存じ上げています。実はケリンチパークは私の実家と同じ教区にあるのです。グレイ夫人には幼い時から度々お会いする機会もあり、特に大学への進学時や父が亡くなった時等には大変お世話になりました。私がこちらに参ってからは女所帯の実家を気にかけてくださって、人かたならぬご恩を感じています」
「まあ、それは素敵な偶然だわ。私も大伯母様にはとても大きなご恩がありますの。厳しい方ですけれど、大好きな伯母ですわ」
「はい。グレイ夫人はとても立派で寛容な方です。私たち家族を始めとして、土地の人々はグレイ夫人を心から尊敬しています」
「そうお聴きできて嬉しいわ。自分が尊敬している方が、隣人の皆様からも慕われていらっしゃるということを知るのはこんなに嬉しいことなのですね。私は幼い頃にお尋ねしたきり、ケリンチにはもう何年も訪問できていないのですが、あちらはお変わりないのかしら」
「どうでしょうか。私ももう5年以上、帰郷できておりません。ですが、妹とは頻繁に手紙をやり取りしていますので、妹ならあちらのことを詳しく書いてくれるでしょう」
ジェネヴィエーヴはミスター・フェラーズとのやり取りにすっかり満足した。ミスター・フェラーズの言葉の端々に彼の誠実な人柄がにじんでいた。彼なら親交を深めても心配ないだろう。
「もし差し支えなければ、研究への後援とは別にして、あちらの様子を教えてくださると嬉しいわ。今後はこのラトクリフ嬢が私の代わりにフェラーズ様のもとに伺いますから、お妹さんから聞いたケリンチのことを彼女にお話しくださいませ」
ミスター・フェラーズは頷くとジェネヴィエーヴの隣に座るアリアに、宜しくお願いしますと言って頭を下げた。
「ミスター・フェラーズとジェネヴィエーヴ嬢にこんなつながりがあったとは不思議な縁もあるものですね」
それまでやり取りを興味深そうに聞いていたクラレンスが口を開いた。
「それも、殿下のおかげですわ。舞踏会で殿下がミスター・フェラーズを紹介してくださらなければ繋ぎ得なかった縁ですもの」
ジェネヴィエーヴがおっとりと微笑むと、クラレンスはホッとしたように笑った。
「そう言っていただけると嬉しいですね。ですが、ミスター・フェラーズと私の縁を繋いでくださったのはジェネヴィエーヴ嬢なのですよ。貴女のおかげで私はミスター・フェラーズという素晴らしい師に出会うことができたのですから、お礼を申し上げなければならないのは私の方です」
蜂蜜のような甘い微笑みを浮かべながら熱い眼差しでジェネヴィエーヴを見つめるクラレンスに、ジェネヴィエーヴは居心地の悪さを感じ、注意深く話をそらした。
「そういえば舞踏会の際にも、エルヴェシウス辺境伯様がそのようなことをおっしゃっていましたわね。フェラーズ様という高いお志をお持ちの方を見出すお手伝いができたとしたら、大変名誉なことですわ。でも、いつも民のためにお心を砕いていらっしゃる殿下のことですもの、早晩フェラーズ様の素晴らしい研究はきっと必ず殿下のお目に留まったはずですわ。ねえ、お二人もそう思うでしょう?」
ノクターンとアリアは、ジェネヴィエーヴの心のうちを察して、その通りですねと同意した。3人からの手放しの称賛に、ミスター・フェラーズは顔だけではなく首筋まで真っ赤に染めて恐縮した。
「ミスター・フェラーズはともかくとして、私は称賛には値しませんよ」
クラレンスが苦笑すると、ノクターンの瞳の奥がきらりと光った。
「御謙遜を殿下。先般も、貧民に対する衣食の提供と就業支援の法案が通ったのは、殿下の強い後押しがあったからだとナイトリー侯爵閣下から伺っております。その他にも、舞踏会の代わりにチャリティーコンサートなどの主幹も務めていらっしゃることを知らぬ者はおりません」
恭しい調子ですらすらと述べるノクターンに、その真意がわからずクラレンスは
「ナイトリー侯爵のような有能な忠臣にそのように評していただけることは、若輩の身としてはとてもありがたいが、身に余る過大な評価には気が引けてしまうね。コンサートについては今年、王妃様から引き継がせていただいたものだし、大切な公務だけれど、私が始めたものではないからね。それにしても、ラトクリフ君は随分と見識が高いのだね。流石ナイトリー侯爵が引き取っただけはある。これまで何度か顔を合わせたことはあったけれど、こうしてゆっくりと話をするのはこれが初めてではなかったかな」
嬉しいよといってクラレンスは上品に微笑んだ。
「私の様な卑賤な身の上の者がこうして殿下とご同席して、あまつさえ言葉を交わすことができるなど、身に余る光栄です。殿下は御謙遜なさいましたが、やはり、殿下が私心なく民草を思いやるお心には、おこがましいことではございますが同世代の貴族の一員として敬服の念を禁じ得ません」
ノクターンは負けじと極上の笑みを浮かべた。ノクターンが私心なく、という言葉を特に強調していたのをクラレンスは見逃さなかった。二人は冷え冷えとした笑みを浮かべながらお互いを称賛し合った。二人の間に漂う剣呑な雰囲気に、ジェネヴィエーヴとアリアはぞ割となぜか肌寒さと居心地の悪さを感じていたが、ミスター・フェラーズがおずおずと口を開いたことで、彼女たちはホッと胸を撫で下ろした。
「あの。大変申し訳ないのですが、私はそろそろお暇させて頂きます。この面談結果を首を長くして待ちわびている、仲間たちにも一刻でも早く伝えてあげたいと存じます」
「まあ。それは大変。楽しい時間はあっという間ですわね、随分とお引止めしてしまって申し訳ありませんでした。どうか、皆様方にもよろしくお伝えくださいませ。お帰りの際はまた当家の馬車をお使いください。執事がご案内いたしますわ」
ジェネヴィエーヴが言うと、アリアが小さく耳打ちをする。
「ああ、そうね。フェラーズ様、ラトクリフ嬢が玄関までご一緒させていただきますわ。次回からは彼女が研究室までお伺いすることになりますから。ええ、ではごきげんよう」
ミスター・フェラーズは貴重なお時間を頂戴し、誠にありがとうございましたと言ってアリアと執事と共にその場を後にした。
「ええと、殿下はお時間は大丈夫ですの?」
二人を見送った後もその場を動こうとしないクラレンスに、怪訝そうにジェネヴィエーヴが問いかけると、
「はい。今日はまだ時間に余裕があります。こうしてナイトリー侯爵邸をゆっくりと訪問させていただくのはとても久しぶりですから、もう少しお邪魔させていただければ嬉しいです。もしよろしければ、庭園を案内していただけませんか?勿論、ジェネヴィエーヴ嬢にご無理をさせることはありませんので、いかがでしょうか」
首をわずかにかしげて子犬のような表情を浮かべるクラレンスに、彼女の体調まで気遣いつつそう言われてしまうと、ジェネヴィエーヴとしては到底申出を断ることはできなかった。仕方なく頷くと、ジェネヴィエーヴはなぜこうなったのかしらと思いつつ、別室で侍女にショールを掛けてもらい、帽子のリボンを結んでもらうと、クラレンスの元へと戻ったのだった。
上機嫌で腕を差し出すクラレンスにエスコートされながら庭園へと続く門へと向かったジェネヴィエーヴの背中を、ノクターンが瞳を揺らしながら見つめていた。
暫くしてジェネヴィエーヴが瀟洒な東屋のベンチに腰を下ろすと、クラレンスは
「ご無理を強いてしまい申し訳ありません」
と謝罪した。
「ご心配には及びませんわ。この程度の運動でしたら問題ありませんもの」
ただし、こうしてしばしば休息を挟まないとなりませんが、とジェネヴィエーヴが苦笑した。ナイトリー侯爵邸は広大な庭園を有していたが、そこには至る所に東屋やベンチが置かれていた。それらは季節の花々や、柔らかな木漏れ日と涼やかな葉擦れの音色を響かせる木立と共に自然と景色に溶け込むように設置されていた。これは全てジェネヴィエーヴのためにと注意深く設計されたものだった。彼女がアリアや時にはノクターンと共に庭園をそぞろ歩き、時折ベンチや東屋に寄ってはゆったりと談笑している様は、さながら一服の絵画のようで、侯爵家の使用人たちは彼らを目にするたびにうっとりとため息をついた。
「この散策だけのことではありません。先日のデビュタント・ボールにしても、私の望みばかりを優先して、ジェネヴィエーヴ嬢に対する配慮が足りていませんでした。今でもパートナーはあなた以外にあり得ないという気持ちはありますが、ジェネヴィエーヴ嬢の健康を犠牲にしてまで押し通すようなことではありませんでした。浅慮であったと反省しています」
どうやら、クラレンスはジェネヴィエーヴがデビュタント・ボールの翌日、疲労のために起き上ることができなかったことを耳にしたようであった。
クラレンスは僅かに目を伏せていたが、目元は長い睫が影を落としている。憂色をたたえる彼の表情はゾクリとするほど美しかった。いけないものを見てしまった時のように、ジェネヴィエーヴはそっと顔をそむけた。心臓が早く脈打っているのは運動のせいだろうか、彼女は軽く握った右手を胸元に寄せた。
「ジェネヴィエーヴ嬢、貴女はいつの頃からか、すっかり変わってしまいましたね」
ポツリとこぼされた一言に、ジェネヴィエーヴの心臓がドキリと音を立てた。
「そう、でしょうか・・・」
クラレンスの顔を見ることができないジェネヴィエーヴの視線の先には、何処から迷い込んできただのだろうか、時季外れのグリーンベルが風に揺れている。
「はい。――貴女は非の打ちどころのない方です。貴女を見ていると小心で利己的な自分の傲慢さが嫌になります」
「まさか殿下。そんなことはありません」
思いがけない言葉にぱっと顔をあげたジェネヴィエーヴは、彼女を見つめるクラレンスの瞳に絡めとられたように身動きが取れなくなった。兄たちを差し置いて完璧な王子とまで評される彼に、何をそんなに憂えることがあるのだろう。
「今でも僕一人が過去に取り残されているような、そんな錯覚を覚えることがあります。・・・婚約を解消したいという貴女の願いを、身勝手な理由でもう何年も拒絶し続けている僕を貴女は未練がましい嫌な男だとお思いでしょう」
身勝手というのならば命可愛さに、一度結んだ誓約を一方的に破棄しようとするジェネヴィエーヴも同様である。ジェネヴィエーヴの胸は罪悪感にツキりと痛んだ。
「そんなこと思うはずないではありませんか」
ジェネヴィエーヴの弱々しい台詞に、クラレンスはくしゃりと顔を歪ませた。その表情があまりにも悲しみに満ちていて、胸を突かれたジェネヴィエーヴは思わず彼の手を取った。クラレンスははっとした。ジェネヴィエーヴが自らクラレンスの手を取るなどいつ以来だろうか。
「身勝手だなんてとんでもない。殿下こそ非の打ちどころのない素晴らしい紳士ですわ」
きゅっと両手でクラレンスの手を握り締めて訴えかけるように言うと、クラレンスは目に見えて驚いた表情を浮かべた。握りしめられた自分の手とジェネヴィエーヴの顔を交互に見つめる彼の頬は徐々に朱に染まっていった。我に返ったジェネヴィエーヴがとっさに手を放そうとすると、クラレンスは彼女の手を逃がすまいともう片方の手で彼女の手を握り返した。クラレンスの手は思っていたよりも大きくて、ジェネヴィエーヴの両手は彼の細く長い優雅な指先にすっぽりと絡め取られてしまった。
「ジェネヴィエーヴ嬢。お言葉ですが、僕は利己的な男です。僕が紳士らしからぬ振る舞いをしたときは遠慮せずに仰ってください。あなたの忠告には喜んで耳を傾け、従いましょう。ですが」
一度言葉を切ったクラレンスはゆっくりと瞬きをすると、彼女に顔を寄せて
「たとえあなたの望みであろうとも、あなたの隣に立つ資格を手放すつもりはありません。未来永劫、絶対に」
そう囁くと、彼女の指先へ口づけを落とした。あたりには鳥のさえずりだけが流れている。ようやく彼は顔をあげると揺れる瞳で彼女をじっと見つめた。
「不躾な振る舞いをしました。お許しください。今後はジェネヴィエーヴ嬢の許可なくこのように触れるようなことは致しません」
至近距離で告げられた台詞に、困り切ったジェネヴィエーヴの頬が真っ赤に染まった。彼女の表情の変化を見て取ると、クラレンスは満足そうにほほ笑んで、
「風が出てきました。そろそろ屋敷へ戻りましょう」
と告げた。彼はいつの間に肩からすべり落ちていたジェネヴィエーヴのストールを手に取ると、彼女の背中に回ってそっと肩へと掛けた。ジェネヴィエーヴはドキドキと早鐘を打つ胸に困惑した。今や全身が心臓になってしまったかのようだった。
それからどこをどうもう歩いてきたのだろうか。気づいた時にはもう屋敷が目の前に迫っていた。クラレンスは直ぐに暇を告げたが、馬車が呼ばれのを待つ間中、彼の上機嫌は続いた。
ジェネヴィエーヴは結局、一時間も経たずに舞踏会場を後にした。それもこれも過保護なナイトリー侯爵一同の連携の賜物だった。ナイトリー侯爵は複数の家臣や護衛騎士をジェネヴィエーヴのために配置しており、いつ何時であっても愛娘の変化に駆け付けられるような体制を取っていた。
一曲目のダンスが終わってしばらくたった頃、護衛騎士から目配せを受けたナイトリー侯爵はアリアを連れてジェネヴィエーヴのもとへ急いだ。そこで、人いきれにのぼせて頬を上気させている愛娘を見つけると、慇懃ながら有無を言わせぬ態度でジェネヴィエーヴを連れ去ったのだった。
ナイトリー侯爵のジェネヴィエーヴに対する溺愛を知っている貴族たちは、いつものことかとそっと目をそらし、そうでない者たちは唖然とした表情を浮かべた。しかし、朝廷の貴顕であり、国王が最も信頼を寄せている権臣であるナイトリー侯爵を表立って非難する者などありはしなかった。パートナーのクラレンスは苦笑を浮かべ、ジェネヴィエーヴのぬくもりを失った片腕をそっと抑えた。冷酷と言われるナイトリー侯爵の思いがけぬ行動に、珍しいものを目にしたエルヴェシウス辺境伯は興味深気に一行の後ろ姿を見送っていたが、孫であるクラレンスと目が合うとにやりと微笑み、まだまだだなと言ってクラレンスをからかった。
わずかに下ろした馬車の窓から、夜風が吹き込んでくる。ひんやりとした夜気が火照った頬に心地よかった。
「ジェネヴィエーヴ様、お寒くはありませんか?」
ジェネヴィエーヴは布目の細かい暖かなストールに包まれながら、大丈夫よと言って笑った。同車したアリアと侍女は彼女を心配してしきりに世話を焼こうとするため、ジェネヴィエーヴはその度に大丈夫だと言ってきかせねばならなかった。
「ですが、お風邪を召すかもしれません」
共同戦線を張ったらしいアリアと侍女の手で下ろされた窓の外を、ジェネヴィエーヴは名残惜しげに見つめながら、最近アリアはお父様と似てきた気がするわ、一緒に暮らしていると過保護なところも似てくるのかしら、困ったわねと心の中で独り言ちたのだった。
暫くして車窓から移り変わる外の景色も見飽きたジェネヴィエーヴは、舞踏会の余韻にボーっとしているアリアに話しかけた。
「アリア、初めての舞踏会は楽しめて?」
壁の花を覚悟していた当初の懸念とは裏腹に、アリアのダンスの相手は途切れることがなかった。彼女とノクターンが準男爵の子女であることは直ぐに知れ渡ったものの、彼らに対する侯爵令嬢の信頼と愛情あふれる態度を目にして、彼らを侮り蔑むような勇気のある貴族は誰一人としていなかった。見目麗しくナイトリー侯爵とその令嬢から大切に扱われている姉弟は予想に反して非常に人気者だった。ダンスの相手に事欠くどころか、ノクターンなどは積極的なご令嬢達に囲まれて、どうにか失礼のないようにその場を逃げ出すか頭を悩ませていたくらいだった。
「はい、正直言ってこんなに楽しくてよいのかしらと思うくらい楽しかったです。本当に何もかも素晴らしくて」
原作ではジェネヴィエーヴの謀略で心に傷を受けるはずだった初めての舞踏会で、アリアが全く異なる感想を抱くことができたのは素晴らしい変化だった。ジェネヴィエーヴは満足そうな微笑みを浮かべた。
「次は我が家で開かれる舞踏会が控えているわ。またあなたとノクターンの気持ちの良いステップを見ることができるわね」
「そうですね。明日からまた準備で色々と忙しくなりますね。少しでもジェネヴィエーヴ様のご負担を減らせるように、家政婦長とも相談しないといけませんね」
ぐっとこぶしを握って決意を固めるアリアに、ジェネヴィエーヴはお手柔らかにねと苦笑した。
「ところで、ジェネヴィエーヴがお話になっていた方々はどなただったのですか?ナイトリー侯爵閣下はご存知のようでしたが」
ジェネヴィエーヴはクスリと笑みをこぼした。
「クラレンス殿下からご紹介いただいた方々よ。お二人のうちご年配の紳士は殿下の母方のお祖父様で、エルヴェシウス辺境伯と仰る方よ」
アリアは目をぱちくりと瞬いた。
「クラレンス殿下の祖父上様ですか?まあ、私ったらすっかり勘違いしていたみたいです。殿下の母方のご親類はいらっしゃらないのかと思っていました」
彼女の台詞に思い当たるところがあったジェネヴィエーヴは、ああと頷くと
「無理もないわ。殿下も後ろ盾がないと仰っていたものね。これには事情があるの。殿下の母君の御輿入れにエルヴェシウス辺境伯はそれは反対されていたの。けれど、当時王室には王妃様の他に2人のご側室がいらっしゃって、それぞれ王子を産み参らせていたのだけれど、そのご側室の出身家門がエルヴェシウス辺境伯夫人のご実家と敵対する家門の方々だったの。そんな時に令夫人のご実家から、令嬢を側室の一人として差し出してもらえないかという要請を受けたのね。最後には令夫人の強い後押しでエルヴェシウス嬢は後宮入りを決断されて、クラレンス殿下をご出産されたという経緯があるの。エルヴェシウス辺境伯はご不快に思われて、激怒されたそうよ。家長であり父であるエルヴェシウス辺境伯の意向に反して、令夫人とそのご実家の要請で後宮に入ったのであれば、もうエルヴェシウス辺境伯家とは関係のない人間だから、ご自分は向後一切この婚姻に口を挟まない代わりに、どのようなことがあろうとも何の援助も行わないと宣言されたの。令夫人とのご夫婦仲も冷え切ってしまって、令夫人はその後すぐにお亡くなりになってしまわれたのだけれど、エルヴェシウス辺境伯の決意は覆されなかったわ。エルヴェシウス辺境伯の態度が軟化されたのは恐らく、側妃となったエルヴェシウス嬢がお亡くなりになってからだと思うわ。でも、元々エルヴェシウス辺境伯はめったに都に出てくることはないし、領地もとても離れていて簡単に行き来することもできない遠方にあるから、殿下が日常的に頼りにすることができるかというとそうではなかったの。だから、クラレンス殿下が母方の後ろ盾を得られないというのはあながち嘘ではないのよ」
アリアは時折頷きながらジェネヴィエーヴの話に耳を傾けていた。
「今夜の舞踏会に参加されたということはすっかり和解したということなのでしょうか」
と首をかしげると、ジェネヴィエーヴは頬に片手を当てて言葉を濁した。
「そうね。完全に和解したかどうかはわからないけれど、お二人のご様子は随分と親しく打ち解けた雰囲気ではあったわね。家庭教師を紹介して欲しいというクラレンス殿下のご要請にエルヴェシウス辺境伯様が応えられたというし」
「家庭教師をですか?」
「ええ。先程殿下がお連れになったもうお一方というのが、その家庭教師だったのだけれど・・・」
一旦言葉を切ったジェネヴィエーヴの顔をアリアがどうなさいましたかと言って覗き込むと、ジェネヴィエーヴが愉快そうに笑った。
「殿下からご紹介されて、私すっかり驚いてしまって、思わず声をあげそうになってしまったわ。その紳士というのが誰だったと思う?何を隠そう、ケイ・でフェラーズその人だったのよ」
ジェネヴィエーヴはクラレンスが彼女のためにその家庭教師を招いたという気恥しい話は脇において、ケイ・フェラーズを民草のために薬学を専門としている研究者だと説明した。
「まあ、なんて偶然なんでしょう。私もダンスのお相手にこっそり聞いてみたのですが、全くはかばかしい返答を得られなかったんです。情報収集のためにせっかくたくさん躍って、いろんな方にお話を聞いたのに、全然手掛かりを掴めなくてがっかりしてしまったんですよ」
ジェネヴィエーヴはアリアは沢山の申し込みを喜び、若く健康な令嬢らしくダンスを楽しんでいるとばかり思いこんでいたから、彼女の返答に目を見張った。
「まあ、アリアあなたそんなことを考えながら踊っていたの?私ったら、あなたは楽しんでいるとばかり・・・」
アリアはもちろんダンスは楽しかったですが、デビュタント・ボール参加を決めたのはケイ・ミスター・フェラーズの手掛かりを探ることでしたからと笑った。
翌朝、アリアから昨夜の出来事を聞いたノクターンは眉を顰め、難しい表情を浮かべた。
「どうかした?」
アリアが首をかしげると、ノクターンは眉根を寄せたまま答えた。
「とりあえず、ケイ・フェラーズの所属が分かってよかったけど、これからどうしたらいいかと思って。ジェネヴィエーヴ様は何か仰っていなかった?」
なにも、と言ってアリアは首を左右に振った。ジェネヴィエーヴは昨夜の疲れが出たのだろう、日が中天を指す頃になっても部屋から出てこなかった。
「ジェネヴィエーヴ様とクラレンス殿下は婚約者同士とはいえ、ジェネヴィエーヴ様はいつかは婚約を解消されたいと仰っているし、そのためにもできる限り距離を置いているだろう」
「そうね、クラレンス殿下の家庭教師と聞いて交流を持つことは容易いと思ていたけれど、ジェネヴィエーヴ様は複雑なご心境でしょうね。でも、この件に関しては私が何とか間に立つことができると思うの」
ぐっとこぶしを握り決意に満ちた表情を浮かべるアリアに、今度はノクターンが首をかしげる番だった。
「あら、わからない?ミスター・フェラーズの専門分野というのが、裕福ではない人たちのための研究だからよ。ミスター・フェラーズは薬学の専門科なの」
そう言ってアリアはノクターンに、ジェネヴィエーヴから聞いたミスター・フェラーズの研究内容を説明した。
「なるほどね。アリアの光の魔力は治癒と解呪だし、同じく平民たちへの治療を一手に引き受けている教会とのつながりも深いナイトリー侯爵家が、マイナーな薬学の研究を後援するっていうわけか・・・」
「その通り。ミスター・フェラーズとの窓口は私が請け負うつもりだし、支援についての実務的なところは執事さんが行うから、ジェネヴィエーヴ様が表立って動く必要性はほどんどないと思うの」
腰に手を当てて、得意げに言い切ったアリアを横目に、クラレンスはぼそりと呟いた。
「思惑通りにいくかな。殿下がそれを許すとも思わないけど」
ノクターンの目から見て、ジェネヴィエーヴが距離を置こうとすればするほど却ってクラレンスはそれを阻止する方向で動いてきた。その度にノクターンは苦々しい思いでそれを眺めていることしかできず、今回のことも、普段引き籠りがちで、中々会うことすら難しいジェネヴィエーヴと直接顔を合わせることができるこの絶好の機会をクラレンスがみすみす逃すとは思えなかった。そして、その予想は的中するのである。
昼下がりのお茶の時間に、執事が持参した手紙を受け取ったジェネヴィエーヴは目を丸くした。
「まあ、殿下もいらっしゃるの?」
執事は恐縮しつつ、ケイ・ミスター・フェラーズの研究への支援に際する面談に、クラレンスが是非とも自分も同席させてほしいと言ってきたと告げたのである。
「ミスター・フェラーズをご紹介したという責任もあるので、方向性が決まるまでは参席させて欲しいと仰っておられるそうで、そう致しますと、わたくしが一人で参加するというわけにもいかず。大変恐縮ですがお嬢様にもご同席願えませんでしょうか」
困り切った様子で額に汗を浮かべる執事を、ジェネヴィエーヴは気の毒そうにみつめた。
「そうでしょうね。御多忙なお父様にお願いするわけにもいかないし、殿下がいらっしゃるのであれば、私が同席させていただくのが筋だわねえ」
ジェネヴィエーヴが仕方がないわ、と言って承諾した旨の返事を執事に手渡す様子を、ノクターンはやはりと苦々しい気持ちで見つめていたのだった。
手紙を受け取った執事がその場を後にすると、ノクターンが口を開いた。
「ジェネヴィエーヴ様、一つお願いがあるのですがよろしいでしょうか」
「あら、ノクターンがお願い事なんて珍しいわね。なに?」
「ミスター・フェラーズがいらっしゃる場に私も同席させていただきたいのです。元々の予定ではアリアがミスター・フェラーズとの仲を取り持つということでしたが、やはり未婚の若い令嬢が紳士と二人きりで度々会うというのは体裁があまりよくないことですし、その点私は男ですので、その上アリアとは姉弟でもありますから、今後ミスター・フェラーズと会う機会が増えたとしても私が同席していれば、後ろ指を指されるようなこともないと思うのです。お許しいただけますか?」
ノクターンのいうことはもっともだった。ミスター・フェラーズはアリアの恋人候補の一人ということですっかり頭から抜け落ちていたが、そもそも令嬢が婚約者でもない若い男性と二人きりで何度も会うなどということは誉められたことではなかった。たった一人の姉弟であるノクターンが心配するのも当然のことだった。
「これは私の配慮が足りなかったわ。指摘してくれてありがとうノクターン。アリアもごめんなさいね。当日はアリアだけではなくて是非ノクターンも同席してちょうだい。私からきちんとご紹介させていただくわ」
アリアの手に手を重ねてごめんなさいねと重ねて謝罪するジェネヴィエーヴに、同席することの目的がアリアの心配だけもないことにノクターンの心はチクリと傷んだが、笑顔でそれを押し隠した。そして、クラレンスの思惑通りには絶対にさせてなるものかと決意したのだった。
そして当日、体の弱いジェネヴィエーヴを慮って、初めての面談はナイトリー侯爵邸で行われた。ジェネヴィエーヴの出迎えを受けたクラレンスは、極上の笑みを浮かべながら彼女の右手に軽くキスを落としたが、顔をあげる時にちらりとノクターンに鋭い一瞥を投げかけることを忘れなかった。
応接間に通された一行は改めて自己紹介をしあうと、時候の挨拶もそこそこに早速本題に入った。各々、思惑があるとはいえ、ミスター・フェラーズの研究内容に対する説明には一同関心を持って耳を傾けた。一通り説明が終わり、執事からいくつかの鋭い質問が出された後は、打って変わって和やかなお茶の時間となった。
「フェラーズ様にはお妹さんがいらっしゃるのですね。こんなに立派なお兄様がいらっしゃるのですから、お妹さんにとってはご自慢のお兄様なのでしょうね」
丁度話の流れがミスター・フェラーズの故郷と家族に言及されたところで、ジェネヴィエーヴはさりげなく言った。
「そう思ていてくれると嬉しいですね」
ジェネヴィエーヴが当然ですよというと、未だに緊張冷めやらぬ様子だったミスター・フェラーズの表情がわずかに緩んだ。
「今はご一緒にお住いですの?」
「いいえ。母と一緒に実家におります」
ミスター・フェラーズの返事に目をきらりと光らせたアリアが問いかけた。
「フェラーズ様のご出身はこちらではないのですか?」
ミスター・フェラーズは頷くと、
「私の故郷は〇〇州にございます。母と妹はまだそこで暮らしています」
と言って微笑んだ。身分の隔たりの大きいジェネヴィエーヴよりも、アリアに対する方が緊張も少ないようで心なしか表情も和らいで見えた。
「〇〇州というと、グレイ夫人のお住いの州ですね」
ノクターンの自然な返しにジェネヴィエーヴは頷いて言葉を継いだ。
「その通りだわ。フェラーズさん、〇〇州は私の大伯母様がお住いの土地なのです。ご存知かしら、ケリンチパークのグレイ夫人という方なのだけれど」
ミスター・フェラーズは驚きの表情を浮かべた。
「グレイ夫人ですか。勿論存じ上げています。実はケリンチパークは私の実家と同じ教区にあるのです。グレイ夫人には幼い時から度々お会いする機会もあり、特に大学への進学時や父が亡くなった時等には大変お世話になりました。私がこちらに参ってからは女所帯の実家を気にかけてくださって、人かたならぬご恩を感じています」
「まあ、それは素敵な偶然だわ。私も大伯母様にはとても大きなご恩がありますの。厳しい方ですけれど、大好きな伯母ですわ」
「はい。グレイ夫人はとても立派で寛容な方です。私たち家族を始めとして、土地の人々はグレイ夫人を心から尊敬しています」
「そうお聴きできて嬉しいわ。自分が尊敬している方が、隣人の皆様からも慕われていらっしゃるということを知るのはこんなに嬉しいことなのですね。私は幼い頃にお尋ねしたきり、ケリンチにはもう何年も訪問できていないのですが、あちらはお変わりないのかしら」
「どうでしょうか。私ももう5年以上、帰郷できておりません。ですが、妹とは頻繁に手紙をやり取りしていますので、妹ならあちらのことを詳しく書いてくれるでしょう」
ジェネヴィエーヴはミスター・フェラーズとのやり取りにすっかり満足した。ミスター・フェラーズの言葉の端々に彼の誠実な人柄がにじんでいた。彼なら親交を深めても心配ないだろう。
「もし差し支えなければ、研究への後援とは別にして、あちらの様子を教えてくださると嬉しいわ。今後はこのラトクリフ嬢が私の代わりにフェラーズ様のもとに伺いますから、お妹さんから聞いたケリンチのことを彼女にお話しくださいませ」
ミスター・フェラーズは頷くとジェネヴィエーヴの隣に座るアリアに、宜しくお願いしますと言って頭を下げた。
「ミスター・フェラーズとジェネヴィエーヴ嬢にこんなつながりがあったとは不思議な縁もあるものですね」
それまでやり取りを興味深そうに聞いていたクラレンスが口を開いた。
「それも、殿下のおかげですわ。舞踏会で殿下がミスター・フェラーズを紹介してくださらなければ繋ぎ得なかった縁ですもの」
ジェネヴィエーヴがおっとりと微笑むと、クラレンスはホッとしたように笑った。
「そう言っていただけると嬉しいですね。ですが、ミスター・フェラーズと私の縁を繋いでくださったのはジェネヴィエーヴ嬢なのですよ。貴女のおかげで私はミスター・フェラーズという素晴らしい師に出会うことができたのですから、お礼を申し上げなければならないのは私の方です」
蜂蜜のような甘い微笑みを浮かべながら熱い眼差しでジェネヴィエーヴを見つめるクラレンスに、ジェネヴィエーヴは居心地の悪さを感じ、注意深く話をそらした。
「そういえば舞踏会の際にも、エルヴェシウス辺境伯様がそのようなことをおっしゃっていましたわね。フェラーズ様という高いお志をお持ちの方を見出すお手伝いができたとしたら、大変名誉なことですわ。でも、いつも民のためにお心を砕いていらっしゃる殿下のことですもの、早晩フェラーズ様の素晴らしい研究はきっと必ず殿下のお目に留まったはずですわ。ねえ、お二人もそう思うでしょう?」
ノクターンとアリアは、ジェネヴィエーヴの心のうちを察して、その通りですねと同意した。3人からの手放しの称賛に、ミスター・フェラーズは顔だけではなく首筋まで真っ赤に染めて恐縮した。
「ミスター・フェラーズはともかくとして、私は称賛には値しませんよ」
クラレンスが苦笑すると、ノクターンの瞳の奥がきらりと光った。
「御謙遜を殿下。先般も、貧民に対する衣食の提供と就業支援の法案が通ったのは、殿下の強い後押しがあったからだとナイトリー侯爵閣下から伺っております。その他にも、舞踏会の代わりにチャリティーコンサートなどの主幹も務めていらっしゃることを知らぬ者はおりません」
恭しい調子ですらすらと述べるノクターンに、その真意がわからずクラレンスは
「ナイトリー侯爵のような有能な忠臣にそのように評していただけることは、若輩の身としてはとてもありがたいが、身に余る過大な評価には気が引けてしまうね。コンサートについては今年、王妃様から引き継がせていただいたものだし、大切な公務だけれど、私が始めたものではないからね。それにしても、ラトクリフ君は随分と見識が高いのだね。流石ナイトリー侯爵が引き取っただけはある。これまで何度か顔を合わせたことはあったけれど、こうしてゆっくりと話をするのはこれが初めてではなかったかな」
嬉しいよといってクラレンスは上品に微笑んだ。
「私の様な卑賤な身の上の者がこうして殿下とご同席して、あまつさえ言葉を交わすことができるなど、身に余る光栄です。殿下は御謙遜なさいましたが、やはり、殿下が私心なく民草を思いやるお心には、おこがましいことではございますが同世代の貴族の一員として敬服の念を禁じ得ません」
ノクターンは負けじと極上の笑みを浮かべた。ノクターンが私心なく、という言葉を特に強調していたのをクラレンスは見逃さなかった。二人は冷え冷えとした笑みを浮かべながらお互いを称賛し合った。二人の間に漂う剣呑な雰囲気に、ジェネヴィエーヴとアリアはぞ割となぜか肌寒さと居心地の悪さを感じていたが、ミスター・フェラーズがおずおずと口を開いたことで、彼女たちはホッと胸を撫で下ろした。
「あの。大変申し訳ないのですが、私はそろそろお暇させて頂きます。この面談結果を首を長くして待ちわびている、仲間たちにも一刻でも早く伝えてあげたいと存じます」
「まあ。それは大変。楽しい時間はあっという間ですわね、随分とお引止めしてしまって申し訳ありませんでした。どうか、皆様方にもよろしくお伝えくださいませ。お帰りの際はまた当家の馬車をお使いください。執事がご案内いたしますわ」
ジェネヴィエーヴが言うと、アリアが小さく耳打ちをする。
「ああ、そうね。フェラーズ様、ラトクリフ嬢が玄関までご一緒させていただきますわ。次回からは彼女が研究室までお伺いすることになりますから。ええ、ではごきげんよう」
ミスター・フェラーズは貴重なお時間を頂戴し、誠にありがとうございましたと言ってアリアと執事と共にその場を後にした。
「ええと、殿下はお時間は大丈夫ですの?」
二人を見送った後もその場を動こうとしないクラレンスに、怪訝そうにジェネヴィエーヴが問いかけると、
「はい。今日はまだ時間に余裕があります。こうしてナイトリー侯爵邸をゆっくりと訪問させていただくのはとても久しぶりですから、もう少しお邪魔させていただければ嬉しいです。もしよろしければ、庭園を案内していただけませんか?勿論、ジェネヴィエーヴ嬢にご無理をさせることはありませんので、いかがでしょうか」
首をわずかにかしげて子犬のような表情を浮かべるクラレンスに、彼女の体調まで気遣いつつそう言われてしまうと、ジェネヴィエーヴとしては到底申出を断ることはできなかった。仕方なく頷くと、ジェネヴィエーヴはなぜこうなったのかしらと思いつつ、別室で侍女にショールを掛けてもらい、帽子のリボンを結んでもらうと、クラレンスの元へと戻ったのだった。
上機嫌で腕を差し出すクラレンスにエスコートされながら庭園へと続く門へと向かったジェネヴィエーヴの背中を、ノクターンが瞳を揺らしながら見つめていた。
暫くしてジェネヴィエーヴが瀟洒な東屋のベンチに腰を下ろすと、クラレンスは
「ご無理を強いてしまい申し訳ありません」
と謝罪した。
「ご心配には及びませんわ。この程度の運動でしたら問題ありませんもの」
ただし、こうしてしばしば休息を挟まないとなりませんが、とジェネヴィエーヴが苦笑した。ナイトリー侯爵邸は広大な庭園を有していたが、そこには至る所に東屋やベンチが置かれていた。それらは季節の花々や、柔らかな木漏れ日と涼やかな葉擦れの音色を響かせる木立と共に自然と景色に溶け込むように設置されていた。これは全てジェネヴィエーヴのためにと注意深く設計されたものだった。彼女がアリアや時にはノクターンと共に庭園をそぞろ歩き、時折ベンチや東屋に寄ってはゆったりと談笑している様は、さながら一服の絵画のようで、侯爵家の使用人たちは彼らを目にするたびにうっとりとため息をついた。
「この散策だけのことではありません。先日のデビュタント・ボールにしても、私の望みばかりを優先して、ジェネヴィエーヴ嬢に対する配慮が足りていませんでした。今でもパートナーはあなた以外にあり得ないという気持ちはありますが、ジェネヴィエーヴ嬢の健康を犠牲にしてまで押し通すようなことではありませんでした。浅慮であったと反省しています」
どうやら、クラレンスはジェネヴィエーヴがデビュタント・ボールの翌日、疲労のために起き上ることができなかったことを耳にしたようであった。
クラレンスは僅かに目を伏せていたが、目元は長い睫が影を落としている。憂色をたたえる彼の表情はゾクリとするほど美しかった。いけないものを見てしまった時のように、ジェネヴィエーヴはそっと顔をそむけた。心臓が早く脈打っているのは運動のせいだろうか、彼女は軽く握った右手を胸元に寄せた。
「ジェネヴィエーヴ嬢、貴女はいつの頃からか、すっかり変わってしまいましたね」
ポツリとこぼされた一言に、ジェネヴィエーヴの心臓がドキリと音を立てた。
「そう、でしょうか・・・」
クラレンスの顔を見ることができないジェネヴィエーヴの視線の先には、何処から迷い込んできただのだろうか、時季外れのグリーンベルが風に揺れている。
「はい。――貴女は非の打ちどころのない方です。貴女を見ていると小心で利己的な自分の傲慢さが嫌になります」
「まさか殿下。そんなことはありません」
思いがけない言葉にぱっと顔をあげたジェネヴィエーヴは、彼女を見つめるクラレンスの瞳に絡めとられたように身動きが取れなくなった。兄たちを差し置いて完璧な王子とまで評される彼に、何をそんなに憂えることがあるのだろう。
「今でも僕一人が過去に取り残されているような、そんな錯覚を覚えることがあります。・・・婚約を解消したいという貴女の願いを、身勝手な理由でもう何年も拒絶し続けている僕を貴女は未練がましい嫌な男だとお思いでしょう」
身勝手というのならば命可愛さに、一度結んだ誓約を一方的に破棄しようとするジェネヴィエーヴも同様である。ジェネヴィエーヴの胸は罪悪感にツキりと痛んだ。
「そんなこと思うはずないではありませんか」
ジェネヴィエーヴの弱々しい台詞に、クラレンスはくしゃりと顔を歪ませた。その表情があまりにも悲しみに満ちていて、胸を突かれたジェネヴィエーヴは思わず彼の手を取った。クラレンスははっとした。ジェネヴィエーヴが自らクラレンスの手を取るなどいつ以来だろうか。
「身勝手だなんてとんでもない。殿下こそ非の打ちどころのない素晴らしい紳士ですわ」
きゅっと両手でクラレンスの手を握り締めて訴えかけるように言うと、クラレンスは目に見えて驚いた表情を浮かべた。握りしめられた自分の手とジェネヴィエーヴの顔を交互に見つめる彼の頬は徐々に朱に染まっていった。我に返ったジェネヴィエーヴがとっさに手を放そうとすると、クラレンスは彼女の手を逃がすまいともう片方の手で彼女の手を握り返した。クラレンスの手は思っていたよりも大きくて、ジェネヴィエーヴの両手は彼の細く長い優雅な指先にすっぽりと絡め取られてしまった。
「ジェネヴィエーヴ嬢。お言葉ですが、僕は利己的な男です。僕が紳士らしからぬ振る舞いをしたときは遠慮せずに仰ってください。あなたの忠告には喜んで耳を傾け、従いましょう。ですが」
一度言葉を切ったクラレンスはゆっくりと瞬きをすると、彼女に顔を寄せて
「たとえあなたの望みであろうとも、あなたの隣に立つ資格を手放すつもりはありません。未来永劫、絶対に」
そう囁くと、彼女の指先へ口づけを落とした。あたりには鳥のさえずりだけが流れている。ようやく彼は顔をあげると揺れる瞳で彼女をじっと見つめた。
「不躾な振る舞いをしました。お許しください。今後はジェネヴィエーヴ嬢の許可なくこのように触れるようなことは致しません」
至近距離で告げられた台詞に、困り切ったジェネヴィエーヴの頬が真っ赤に染まった。彼女の表情の変化を見て取ると、クラレンスは満足そうにほほ笑んで、
「風が出てきました。そろそろ屋敷へ戻りましょう」
と告げた。彼はいつの間に肩からすべり落ちていたジェネヴィエーヴのストールを手に取ると、彼女の背中に回ってそっと肩へと掛けた。ジェネヴィエーヴはドキドキと早鐘を打つ胸に困惑した。今や全身が心臓になってしまったかのようだった。
それからどこをどうもう歩いてきたのだろうか。気づいた時にはもう屋敷が目の前に迫っていた。クラレンスは直ぐに暇を告げたが、馬車が呼ばれのを待つ間中、彼の上機嫌は続いた。
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