男主人公たちの様子がおかしいのですが、前世を思い出した悪役令嬢は命の危機にさらされているのでそれどころではありません

あいえい

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廃妃の呪いと死の婚姻5-4

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廃妃の呪いと死の婚姻5-4

 家政婦長のフューズ夫人は開口一番こう言った。
「なんとまあ、春の女神もかくやというご様子ですねえ」
 口さがない下男や下級メイドからは、鉄の女と揶揄されているフューズ夫人の頬は上気し、瞳は星を映した様にキラキラと輝いていた。ヒューズ夫人の趣味が観劇であることは古参の者たちの間では周知の事実で、彼女の休息日は全てこの趣味に費やされた。彼女の部屋の大きなキャビネットには所狭しと、これまでかかった演目の冊子やポスターが大切に収められている。オペラは別として王国では女性が女の役を演じることを禁じていた。自然、女主人公は線の細いまるで女と見まごうばかりの美しい若者たちが演じることが多く、彼らの演じる女たちは現実の女よりも一層女性的で蠱惑的な魅力にあふれていた。彼らは階級を問わず王国内外の多くの女性たちを虜にし、放さなかった。ヒューズ夫人の亡くなった夫は寡黙な人で、彼女の稼ぎの半分近くを演劇に費やす夫人に一切口を挟まなかった。子どもはおらず、夫が亡くなってからは彼女の情熱はナイトリー侯爵家の家政婦長という重く名誉ある務めと、演劇に二分された。

 だから、最近一番のヒット演目のヒロインが身に着ける、古代の女神を思わせる衣装を身に着けたノクターンの麗しい艶姿を目にして、ヒューズ夫人が感情の迸りを抑えきれなくなるのは当然だった。
「ジェネヴィエーヴ様のつれづれをお慰めするために、ノクターンにリラの演奏をしてもらおうと思うのです。より一層、雰囲気を醸し出すためにも・・・この格好で」
 化粧を終え、衣装を替えさせてから席を外したアリアがヒューズ夫人を伴って戻ってきた時から、嫌な予感がしていたノクターンだったが、アリアの台詞を耳にして、膝から崩れ落ちた。
「まあ、まあ、まあ、まあ。ミス・ラトクリフ!なんて素晴らしい思い付きでしょう」
 アリアの計画にはヒューズ夫人の同意が必須だった。ほんの僅かばかり反対されるのではないかと言う懸念もあったのだが、夫人の一オクターブ高くなった声を聴きながら、アリアは勝利を確信した。
「療養中のジェネヴィエーヴ様にとっても良質な音楽はとてもよろしいでしょうと、神官様も仰っていました。ですので、最近はリラにお手を触れることができないジェネヴィエーヴ様のお心を、何とかお慰めできたらと愚考いたしましたの。ヒューズ夫人が賛成してくださって安心いたしましたわ」
 アリアが安堵の笑みを浮かべると、ヒューズ夫人もまた我が意を得たりと頷いた。
「わたくしも連日治療漬けの毎日では、お心が滅入ってしまわれると懸念しておりましたが、お好みの楽器の演奏を聴くことができればジェネヴィエーヴ様も晴れ晴れされることでしょう。それに、ミスター・ラトクリフのこの素晴らしいお姿と言ったらございません。ミス・ラトクリフが化粧を施されたと仰いましたわね。相手のことをよく理解していないとこの完成度にはできないでしょう。流石ご姉弟でございます」
 ヒューズ夫人がノクターンを改めてまじまじと見ながら感心すると、アリアは
「実は、母をモデルにいたしましたの」
 とポツリとつぶやいた。ノクターンはその言葉にピクリと肩を揺らした。僅かに仰向くと、悪戯っぽくほほを染めるアリアと目が合った。
「私たちは男女の双子にしてはよく似ていると言われますが、どちらかというと私は父に似ていて、ノクターンは母似なんです」
「お二人のお母上のラトクリフ令夫人は確か著名な声楽家でもありましたね」
「はい。すらりとした長身で、娘の私が申し上げるのもなんですが、涼やかな美しさを備えた方でした。ノクターンに化粧をしている間中、どうしても母の姿が浮かんで・・・。幼い頃の私は母がより美しく装う過程が魔法のように思えて、母がメイドの手を借りて身支度する様子を眺めていました。その時の記憶を頼りにノクターンにお化粧をしてみたのですが、驚くくらい母に似ていて。・・・っ」
 感極まったアリアが言葉を詰まらせると、これはかなわないなとノクターンは白旗を上げた。亡き母を持ち出されてはへそを曲げ続けるわけにはいくまい。そう言われてまじまじと姿見を見やればそこには、なるほど記憶の中の母とよく似た面影が映っていた。
「ミスター・ラトクリフ」
 ピシッとしたヒューズ夫人の口調にノクターンは慌てて姿勢を正した。
「は、はい」
「本来であれば淑女の部屋に血縁でもない若い男性が入るなど言語道断です。しかし、貴方は以前にもジェネヴィエーヴ様の寝室に入ることを許されているという経緯もあることですし、何よりもお二人のジェネヴィエーヴ様を想うお気持ちに心を打たれました。よろしゅうございます。わたくしの権限と責任で、今回も例外として許可いたしましょう。・・・但し、やるからには徹底的にさせていただきます」
「はい。ありがとうございます?」
 なぜ自分は礼を言わなければならないのだろうかと内心首を傾げつつ、ノクターンはヒューズ夫人に頭を下げた。
「まずは、お立ちください」
 そこからヒューズ夫人によるノクターンへの厳しい指導が始まった。女性らしい立ち居振る舞いから始まり視線のやり方、果てはお茶の作法までヒューズ夫人がこれならばと納得するまで、みっちりと徹底的に叩き込まれたのだった。
その甲斐あって、2日後、寝室にリラを抱えて入室してきた佳人にジェネヴィエーヴは目をしばたいた。
「あら、まあ・・・」
 同席した侍女の一人も頬を染めて美貌の伶人に熱い視線を送っている。
「本当にノクターンなの?」
 優雅に一礼した異国風の衣装をまとった麗人はうっすらとほほ笑みを浮かべた。
「はい。お気に召していただけましたでしょうか」
淡く紅をはいた薄い唇からこぼれた声はよく知るノクターンのものだった。元々男性にしては涼やかな声音を持つノクターンだったが、殊更優しく紡がれたその言葉は中性的な容姿と相まって蠱惑的ですらあった。ジェネヴィエーヴがちらりとヒューズ夫人とアリアに視線を向けると、そこには満足そうな表情を浮かべる二人がいた。
「二人がノクターンを困らせたのでしょう?目に浮かぶわ」
 くすくすと笑い声をあげるジェネヴィエーヴにアリアが、そんなことはありませんよと澄まし顔で言った。
「ヒューズ夫人と私はノクターンの善意の協力者にすぎません」
 その台詞にそうなのとノクターンを見やれば、
「そうですね。ジェネヴィエーヴ様に少しでもお気に召していただけるように、ご指導賜りました」
 と苦笑した。
「あら、だったらあなたを困らせた第一の人物は私ね」
 ジェネヴィエーヴ頬に手を当てながら困ったように、それでも嬉しそうにコロコロと笑った。久しぶりに対面した彼女の楽し気な様子にほっとしつつも、更に一回りほっそりとした彼女の白い手首にノクターンは胸がずきりと痛んだ。
「さあ魅力的な吟遊詩人さん、一体どんな曲を聞かせてくださるの」
 ジェネヴィエーヴがそう悪戯っぽく訊ねるとノクターンはリラを抱え直して
「お嬢様のお気に召すままに」
 何なりとお申し付けくださいと一礼した。
そうして、ジェネヴィエーヴがとまどろみ始めるまでノクターンの演奏は続いたのだった。ジェネヴィエーヴを中心にした久方ぶりに華やいだ雰囲気に、ナイトリー邸は一時の賑わいを取り戻したかのようだった。

 次に目を覚ました時、アリアから変装し、危地に飛び込むというノクターンの計画を知らされたジェネヴィエーヴは僅かに眉を顰めた。
「危険ではないのかしら」
 ノクターンの身を案じるジェネヴィエーヴに、アリアは必ず誰かを同行させると約束していると伝え、安心させた。
「とにかく今の停滞した状態を打破したいというのが本音です。私は王宮との行き帰りで外出などままならない状態ですし、ノクターンに委ねるしかないと思っています」
 王妃の容態は行ったり来たりを繰り返しており、中々快方に向かわなかった。そもそも、王妃を蝕む毒の特定ができていない現状では、対症療法的に治癒を施すしか術がなく、元々閉経に際して体調の優れなかった王妃の身体は、激烈な毒薬の作用によって様々な不調を来していた。
 王妃の治療のために招聘されたアリアは、本来であれば王宮に留められているはずであったが、ジェネヴィエーヴの治療継続のために通いでの登城が例外的に許可されていた。今日は3回目の聖魔法による施術の予定日だった。人払いされた部屋の中にはジェネヴィエーヴとアリアの二人きりしか残されていない。呪法に対する処置には大きな副反応が伴うことがこれまでの2度の施術で判明していた。アリアはジェネヴィエーヴの手を握りながら、慎重に少しずつ魔力を注入していった。
「アリア、私ねもう少し見通しが立ったらお父様に打ち明けようかと思っているの」
 うっすらと額に浮かんだ汗を優しく拭ってもらいながら、ジェネヴィエーヴは静かに告げた。
「侯爵閣下に?」
 目を見開いているアリアの驚いた表情にクスリと笑みを浮かべて、ジェネヴィエーヴは小さく頷いた。
「いつかはお話ししなければならないことだったから。あなたにも辛い思いをさせてしまっているわね。いつまでも、あなただけに負担をかけ続けるわけにはいかないもの」
 ジェネヴィエーヴ本人の希望とはいえ、治癒魔法と言い繕いながら、危険を伴う聖魔法を施しているという事実はアリアの心に影を落としていた。
恩人であるナイトリー侯爵を欺き続けていることにアリアが苦しみ続けていることをジェネヴィエーヴは理解していた。今はまだよいが、いつジェネヴィエーヴの意識がクレメンティーンの呪いに飲み込まれてしまうかもしれない危惧が常に付きまとっている中で、ジェネヴィエーヴは意識がはっきりしている内に、自分自身の口から愛する父親に事実を打ち明けるべきだと考えていた。
「前回通りなら7日もすれば副反応も収まるでしょう。その頃にはノクターンの調査もある程度進んでいるでしょうから、その段階でお父様にお話ししようと思うの。そろそろ私たちの手には負えなくなってきていることだし、お父様のお力もお借りできるようになればいいと思うわ」
 じっとジェネヴィエーヴを見つめていたアリアはコクリと頷いた。
「分かりました。きっとノクターンも賛成すると思います。侯爵閣下のお力をお借りできればとこれまでも何度か言っていましたから」
 アリアの色よい返事に、ジェネヴィエーヴは良かったと言って薄く微笑んだ。
アリアはジェネヴィエーヴにお辛くありませんか、もうそろそろ聖魔法の効果が表れることですので、横になってくださいと促した。
「そうね、少し休ませてもらうわ。あなたも昼までには王宮に上がらないといけないのでしょう。少しでも休んで頂戴」
 そう言ってジェネヴィエーヴがそっと目を閉じると、アリアは暫くの間ジェネヴィエーヴを見つめていたが、規則正しい寝息が聞こえ始めたのを確認して、隣室に控えていた看護師に声を掛けると、布団を整えてからそっと部屋を後にした。

 ジェネヴィエーヴはうとうとと微睡の中にたゆたっていた。左半身から徐々に熱が広がってゆくのを感じる。聖魔力は初めひんやりとしている。目を閉じてじっと魔力の動きを感じていると、それは左の指の先から、徐々に血管を伝うようにして身体を巡っていく。左手から注ぎ込まれた魔力は静かに浸み通りながら、心臓まで達した瞬間にぱっと花開いたように熱を放つようになるのだ。そして、身体中を熱い魔力が巡りだす。
 苦痛はなかった。ただひたすらひどい熱感と倦怠感の中で、深い眠りと半ば覚醒した状態を繰り返してゆく。アリアと入れ違いに部屋に入ってきた看護師が額から伝う汗を拭きとり、時々高熱で渇いた唇を濡らしてくれる。指先一つ動かすこともできず、ジェネヴィエーヴはただひたすらベッドの上で時が過ぎるのを待ち続けるしかなかった。
「もうそろそろカーテンを閉めましょう」
 どれほど時間が経ったのであろうか、ジェネヴィエーヴの意識は僅かに浮上した。いつもであれば聞こえてくるノクターンの演奏も今日は聞こえてこない。では、きっとノクターンは当初の計画通り出発したのだ。一体今は何時頃なのだろう、ノクターンは無事だろうか。アリアはまだ王宮から戻らないのだろうか。彼女は心配いらないと言っていたが、たった一人の弟のことだ、内心は不安でたまらないことだろう。
 ぼんやりとアリアたちに思いをはせていたジェネヴィエーヴは、かちゃんと食器のこすれ合う音と潜められた看護師と侍女たちの言葉にパチリと目を開いた。珍しいこともあるものだ。これまでの聖魔法の施術では一晩中、覚醒することはなかった。確かに身体中が熱くてひどい熱感と倦怠感に見舞われてはいるものの、今は身体を動かせないほどではなかった。
「まあ、ではラトクリフ嬢は城にとどめ置かれていらっしゃるのですか?」
「ええ。家令の話では旦那様が陛下に直接掛け合っていらっしゃいますが、いったいどれほどでご帰邸できるか分かりかねる状況だと」
 わずかに空いた扉の外では看護婦と侍女の一人が話しているのだろう、抑えてはいるが不安気な声がジェネヴィエーヴの耳にまで届いた。
 アリアが帰ってこられないかもしれない、城で何かあったのだろう。置時計の文字盤は既に20時を回っている。
 ゆっくりと身を起こせば眩暈に襲われた。肘をついたままの姿勢でじっと瞼を閉じてこらえていると、少しだけ眩暈が収まったように感じた。よかった、いつもの世界がぐるぐるとまわるような、身じろぎすら取れないほどの眩暈ではない。
彼女が枕元に置かれたベルを手に取ると、チリリと澄んだ高い音が響いた。すぐに慌てた様子の看護婦と侍女が部屋に足早に入ってくる。
「何があったの」
 ジェネヴィエーヴの掠れた声に看護婦がそっと水差しを口元へと差し出した。ジェネヴィエーヴは大人しく吸い口に唇を付けると、一口二口嚥下して、改めて侍女を見つめた。
「王宮から知らせがあったのでしょう。説明を」
 侍女の話はおおむねジェネヴィエーヴが想像していた通りであった。王妃の容態が急変したのだ。しかし、侍女の次の言葉にジェネヴィエーヴの心臓がドクリと鳴った。
「詳細は不明ですが、詳しい事実が判明するまで招かれた薬師の方々は身柄を拘束されたということです。ミス・ラトクリフは治癒術師の皆様と共に王妃様の治療に当たっていらっしゃいます」
 薬師とは恐らく時代打開のために王宮に招かれた学者たちのことだろう。その中にはミスター・フェラーズも含まれている。ざらりとした不穏な予感がジェネヴィエーヴの胸をよぎった。
「この知らせは薬師の関係者にも知らされたのかしら」
 思いがけない問いかけに侍女が言いよどむ。
「申し訳ございません、そこまでは報告を受けておりません。お調べいたしましょうか」
 ジェネヴィエーヴは早馬を王都にあるミスター・フェラーズ達の研究室へと送るように指示した。
「ノクターンはまだ帰らないのね。仕方ないわ、・・・だったらミス・フェラーズの所にやっていたメイドを呼んで。確認したいことがあると」
 眉間を抑えてぐったりとクッションに倒れむと、手を貸そうとする看護婦を制して、その他にもいくつか指示を出した。侍女は素早く身を翻すと足早に部屋を後にした。
 暫くして侍女に連れられたメイドが姿を現すと、震えるメイドにジェネヴィエーヴは努めて微笑みを浮かべた。
「そんなに緊張しなくてもいいのよ。退勤時間を過ぎていたのに呼び立てて悪かったわね。あなたは今朝もミス・フェラーズのお宅に伺ったでしょう。それで、ミス・フェラーズのことで幾つか聞きたいことがあるの。彼女は何か今日の予定についてあなたに話したかしら。どこかに出かけるとか」
 ジェネヴィエーヴの問いかけに、メイドは恐縮しつつそれでも答えられる質問にほっと安堵しながら話し出した。
「ミス・フェラーズは今日はお友達のお宅に伺う予定だと仰っていました。ディナーに招待されていて、そのままお泊りになるだろうから、明日の朝の訪問は結構ですとも仰っていました」
「そう、そうおっしゃっていたのね。ところで、そのお友達はどちらの方かお話になって?グレイ夫人の侍女のことかしら。〇〇通りにお住いだという」
「はい。その方です。一緒の馬車で王都までいらっしゃったと仰っていましたので、間違いないと思います。二区画先にできた新しい劇場にお出かけになるそうです」
 ジェネヴィエーヴはその返答を聞くと礼を言ってメイドを下がらせた。そしてじっと考え込んだ後で、侍女に隣室から王都の地図を持ってくるようにと指示した。もう何度もアリアやノクターンと検討した地図である。黒く塗りつぶされているのはミス・フェラーズの自宅のある場所だった。そこから〇〇通りを探してゆく。はっきりした場所は分らないものの、新劇場の場所からおおよその位置は推測することができた。
 地図を眺めていたジェネヴィエーヴは血の気がさっと引いていくのを感じた。グレイ夫人の侍女の自宅とミスター・フェラーズの自宅の間、広場から少し外れた細い路地には赤々としたインクでバツ印が書き込まれていた。その場所こそ、ジェネヴィエーヴが夢の中で見たミス・フェラーズが暴漢に襲われ命を落とす惨劇の現場であった。
 ジェネヴィエーヴはやきもきしながら遣いが戻ってくるのを待ち続けた。それから執事が部屋をノックするまでの間、ジェネヴィエーヴはミスター・フェラーズの研究所へ走らせた遣いの戻りを何度も何度も確認した。
「なんですって?研究室からミス・フェラーズに知らせを送ったのね。では彼女はもうお兄様の置かれている状況をご存じなのだわ。ミス・フェラーズにはお会いできて?さぞ心配されていたことでしょう」
 ジェネヴィエーヴはメイドの話を聞くと、遣いの者に研究所に寄った後そのままの足でグレイ夫人の侍女の家まで行き、ミス・フェラーズを訪ねるようにと重ねて指示を出していた。
「左様でございます。大層お心を痛めていらっしゃったそうでございます。ですが、遣いの者の報告によりますと、ミス・フェラーズと直接お話しすることは叶わなかったそうでございます」
 執事の言葉にジェネヴィエーヴは眉根を寄せた。ドキリと胸が鳴り、高熱で熱いはずの背中に冷や汗が伝った。
「どういうことかしら。ミス・フェラーズはご友人のミス・エアのお宅にご滞在のはずでしょう」
 執事は恐縮の態で首を垂れた。
「ミス・フェラーズは知らせを聞いてすぐにご自宅に戻られたそうでございます。ミス・エアはお止めしたそうですが、王宮から何か報せがあるといけないと仰って、徒歩でご帰宅されたとのことでございました。何分ご婦人がお一人で歩くような時間帯ではございませんので、信頼できる下僕の一人を付き添いにつけて送り出したそうでございます。ミス・フェラーズがご帰宅されたのは、訪問したほんの数分前のことだったようです」
 目を見開いて執事の話に耳を傾けていたジェネヴィエーヴは、羽織ったガウンを胸の前にかき寄せると、ぐっと目を閉じて深く息を吐いた。
 今夜アリアは王宮から戻ることは難しいだろう、自身の身体の状態を考えればノクターンの帰宅を待つべきであることは分っている。しかし、その間にミス・フェラーズの身に何かあったとしたら?ジェネヴィエーヴは煩悶した。
未来は自分自身で切り開かねばならない。幾多の助言や援助を受けようとも、人生のうち何度かは必ず己の力でやり切らねばならぬ瞬間がある。なぜ、今この瞬間自分は微睡から目覚めたのか、立ち上がらねばならない、今こそその時なのだ。
 ジェネヴィエーヴは静かに瞼を開くと、すっくと背筋を伸ばした。
「直ちに、馬車を用意しなさい」
 彼女は毅然とした口調で命じた。

 ナイトリー侯爵不在時、侯爵夫人のいないこの邸宅で最も優先されるべきはジェネヴィエーヴの命であった。ましてや一介の執事や侍女がそれに逆らえるはずもない。
ジェネヴィエーヴは侍女の手を借りながら、手早く身支度を整えると長らく臥せっていた部屋を後にした。
 階下は騒然としていた。驚いた様子の家令と家政婦長が交互にジェネヴィエーヴを説得しようとするのを左右にしながら、ジェネヴィエーヴは傲然と歩を進めた。ようやく玄関ホールに差し掛かる頃にはジェネヴィエーヴの意気は上がり、侍女の腕にぶら下がるようにして何とか歩いているといった有様だった。それでも彼女の決意は翻らなかった。
 長年の経験から、家令と家政婦長はもうこうなったら、ジェネヴィエーヴは誰の意見にも耳を貸さないことを理解していた。それでも、彼女を危険にさらすわけにはいかないと、急ぎ護衛騎士を選抜した。そうした間にも再び熱を発し始めた身体に顔をしかめながら、ジェネヴィエーヴは額に手を当ててきつく唇をかみしめた。
「お嬢様」
ぐらりと態勢を崩したジェネヴィエーヴを、侍女が慌てて支える。隣に控えていた看護婦がすぐに手を差し出し、膝から崩れ落ちたジェネヴィエーヴを両脇から支えた。異変に気付いた家令と家政婦長が慌てて駆け寄ってくるのを、発熱によって潤んだ瞳の端に見とめながら、ジェネヴィエーヴは右手を挙げた。
「大丈夫よ。少し眩暈がしただけ。それよりも準備を急いで、一刻でも早く出発しなくてはいけないの」
 ジェネヴィエーヴの額にジワリと汗が浮かぶ。なぜこれほど彼女が焦っているのか理解できず困惑の表情を浮かべた家令と家政婦長は、顔を見合わせるとコクリと頷いた。どのような勘気を被ろうとも、今の状態の彼女を行かせるわけにはいかない。心を合わせた二人が硬い表情でジェネヴィエーヴに一歩近づいた時、先触れと共に扉の開け放たれた玄関ホールにガラガラと馬車の音が響いた。一同の視線が一斉に音のする方向へと向けられる。
――まさか、何故?
 横付けされた馬車の紋章にジェネヴィエーヴは目を見開いた。家令が素早く馬車へと向うのを目で追いながら、混乱のために表情を取り繕うこともできなかった。
 馬車の扉がパッと開かれると、二つの人影が降り立った。先に出てきた若い紳士が足早に歩を進めながら家令に何事かを告げる。そして、後から降り立った身なりの良い紳士とジェネヴィエーヴの視線がバチリと絡み合った。その人物は侍女と看護婦に両脇を支えられている彼女の姿を目にして、驚きの表情を浮かべた。
「ジェネヴィエーヴ嬢?」
 彼の言葉にもう一人の若い紳士も玄関ホールの中へと視線を移すと、僅かに肩を揺らした。
「・・・殿下とノートン卿?」
 ジェネヴィエーヴがポツリとつぶやいた。現れたのは王宮に詰めているはずのクラレンスとヒューバードであった。ジェネヴィエーヴの有様を見て、クラレンスが慌てて彼女の元へと駆け寄る。
「どうして、殿下がわが家へ?」
 ジェネヴィエーヴの熱で上気した顔を間近にして、クラレンスは失礼しますと短く断ると彼女の背中と膝裏に手を入れるとぐっとジェネヴィエーヴを抱き上げた。
「きゃっ」
 小さく悲鳴を上げたジェネヴィエーヴが突然の体勢変化にめまいを感じ、クラレンスのジャケットをぐっと握りしめると、それに気づいたクラレンスは申し訳ありませんと重ねて謝罪した。
「ご無礼をお許しください。ですがとても顔色がお悪いことをご存知でしたか?今にも倒れてしまいそうだ。何があったのか存じませんが、すぐに横になった方がいい」
 そう言って屋敷の奥へと向おうとするクラレンスを、ジェネヴィエーヴは慌てて引き留めた。
「殿下、お待ちください!」
 必死のジェネヴィエーヴの静止の言葉にクラレンスはピタリと歩みを止め、彼女の顔へ視線を落とした。思いがけない至近距離からクラレンスと顔を合わせて、ジェネヴィエーヴはどぎまぎしながら言葉を継いだ。
「申し訳ございませんが、私は行かなくてはなりませんの。すぐにも出発しなければならないのです」
 クラレンスは吃驚して眉を顰めた。
「出かけるですって?こんな状態で?それはお勧めできませんね。どうやら熱もあるようです。貴女が今しなければならないことは、部屋で十分に休息を取ることだと思うのですが」
 彼はジェネヴィエーヴを近くの椅子にそっとおろすと、膝をつき彼女の手を握って真剣な調子で言った。
「それは体調のお悪い貴女自身が出向かねばならないような案件なのでしょうか。他の者に任せることはできませんか?」
 ジェネヴィエーヴはどう説明したものかと眉根を寄せて
「はい。私が行かねばならないのです」
 アリアもノクターンもおりませんので、私でなければなりませんときっぱりと言い切った。普段にない断固とした調子の彼女の言葉に、クラレンスは僅かに動揺をみせた。しかし、直ぐにぐっと眉根を寄せると、
「そうですか。どうしても行くと仰るのですね?でしたら私がお連れします。丁度私たちが乗ってきた馬車がありますし、王室騎士であるノートン卿も同行しているので好都合です。ナイトリー侯爵家からも騎士と併せればジェネヴィエーヴ嬢の安全をしっかりお護りできるでしょう」
 これが私ができる最大限の譲歩です。これをお聞き届けいただけないのであれば、婚約者として貴女を行かせるわけにはいきません。強い意志を感じさせる言葉にジェネヴィエーヴは困惑した。しかし、クラレンスがこれ以上の反論を許さないことを理解して、しぶしぶ頷いたのだった。
 こうしてジェネヴィエーヴは騎乗したヒューバートとナイトリー侯爵家の騎士数名に護られながら、クラレンスと共に馬車に乗り込んだのだった。
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悪役令嬢の リディア・メイトランド に転生した私。 シナリオ通りなら、死ぬ運命。 だけど、ヒロインと騎士のストーリーが神エピソード! そのスチルを生で見たい! 騎士エンドを見学するべく、ヒロインの恋を応援します! というわけで、私、悪役やりません! 来たるその日の為に、シナリオを改変し努力を重ねる日々。 あれれ、婚約者が何故か甘く見つめてきます……! 気付けば婚約者の王太子から溺愛されて……。 悪役令嬢だったはずのリディアと、彼女を愛してやまない執着系王子クリストファーの甘い恋物語。はじまりはじまり!

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