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廃妃の呪いと死の婚姻5-6
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廃妃の呪いと死の婚姻5-6
一体、今日はなんという日なのだろうか。ヒューバート・ノートンはもう何度目とも分からぬため息をついた。驚愕の連続だったというべきか。
端を開いたのはアリア・ラトクリフの嘆願だった。
近衛騎士団に籍を置くヒューバートは王妃の容態が急変したことで、治療に当たっていた全ての関係者たちが王宮内に軟禁状態に置かれたことは耳にしていた。だが、切羽詰まった様子のアリア・ラトクリフが、自分に駈け寄ってきた時には面食らったものだった。
「どうか、お力をお貸しくださいノートン卿」
彼女はヒューバートに深々と頭を下げて懇願した。頬を青ざめさせながら、声を震わせる彼女を何とか宥めると、何事かと好奇の視線を向ける周囲の騎士たちの目を避けて、あまり人の近寄らない庭園の一角へと向かった。ここは彼のとっておきの場所であったが、彼が誰かをこの秘密の隠れ家に連れてきたのはこれが初めてだった。
「こちらにおかけください。少しは落ち着きましたか?」
水の枯れた噴水の淵に腰かけると、アリアはようやく自分の大胆な行動が恥ずかしくなったのか、僅かに頬を染めて頷いた。
「申し訳ございません。ノートン卿にご迷惑をおかけしてしまって」
ヒューバードにとって若い令嬢達が訪ねてくることなど日常茶飯事のことだったし、同僚の騎士たちもまた、ああいつものことかと心得ていたから、たいして困ってはいなかったのだが、羞恥に頬を染める初心なアリアの様子に、悪戯心をくすぐられた彼は敢えて困惑した態で目を伏せた。
「そうですね。練武場の近くでしたので、あんな風に若いご婦人から取りすがられるのは、なんというか・・・同僚たちの目が痛かったですね」
意地悪な彼の言葉にアリアはの頬がますます赤く染まった。
「そんなつもりはなかったのですが、本当に申し訳ございません」
両手で顔を覆って謝罪を繰り返すアリアに、思わず頬が緩んでしまいそうになるのを何とか堪えながら、ヒューバードは気がかりだといった風な声音を作った。
「顔を上げてください。私は気にしていませんから、ご安心を。それほどのことがあったのでしょう。差し支えなければ、お話伺ってもよろしいでしょうか?」
ヒューバードが問いかけると、アリアはようやく顔を上げてコクリと頷いた。
「王妃様の件はもうご存知でしょうか」
彼がわずかに頷くと、アリアは眉根を寄せた。
「王妃様のご容体が急に悪化した原因が判明するまでは、治療に当たった者たちは王宮から出ることを禁じられています。そのため私も王宮に留まらなければならないのです。本来であれば、本日は日暮れ前にナイトリー侯爵邸に戻らねばなりませんでした。ですが、事情が事情ですのでそれも叶いません。そこで、ご無理は重々承知の上で申し上げますが、どうかノートン卿にお力をお貸しいただきたいのです」
真剣なまなざしで懇願するアリアにヒューバードは困惑の表情を浮かべた。
「それは、ミス・ラトクリフの頼みとあれば、私でお力になれることでしたら叶えて差し上げたいのですが、一体どのようなことでしょう」
どんな無理難題を突き付けられるのかとヒューバードはコクリと喉を震わせた。
「クラレンス殿下にお取り次ぎ願えませんでしょうか。お従兄弟であるノートン卿であれば、事前の申請がなくとも殿下に拝謁することが叶うのではございませんか?ご無礼を申し上げていることは承知の上ですが、どうか、どうかお願い申し上げます。ジェネヴィエーヴ様のお命にかかわることなのです。ナイトリー侯爵閣下にご連絡申し上げることもできず、今、おすがりできるのは殿下ただ御一人なのです。どうか、ジェネヴィエーヴ様のお為にお力をお貸しください。この通りでございます」
アリアは地面に膝をつくと、両手を胸の前で組んで深く頭を下げた。慌てたのはヒューバードである。
「これは!お立ちください、ミス・ラトクリフ。そんな風になさらないで。さあ、こちらへ、そう、座って。もう少し詳しくお話し願えますか。一体、ナイトリー嬢のお命に関わるとは穏やかではありませんね」
彼はアリアをなんとか再び噴水の淵に座らせると、彼女の前に膝をついて真剣な表情で彼女を見つめた。
そうして、アリアは訥々と話し始めた。ジェネヴィエーヴが新しい治療を始めたばかりであること、それは激しい副反応を伴うが、どのような症状が起こりうるのか予想が難しいこと。ナイトリー侯爵邸から来た伝令によると、ジェネヴィエーヴにはすでに副反応と思しき症状が出始めており、不都合なことに侯爵邸に準備してきた処方では不足があること、出来る限り早急に適切な薬を処方し直す必要があることなどを、慎重に言葉を選びながら説明した。
「別の薬というと、ミス・ラトクリフではないと用意できない類のものだと考えてよろしいのでしょうか」
アリアは光の魔力を持つ稀有な存在である。それを念頭に、ヒューバードはナイトリー侯爵邸では用意することができない、つまりアリアの魔力に由来する治療薬であると推測した。
「はい、その通りです」
彼女は手提げから布で丁寧に包まれた小瓶を取り出した。
「私の魔力を込めてあります。服用に際しては留意点も多く、本来であれば私自身がジェネヴィエーヴ様のご容体を確認した上で、用法を見定めたいのですが、それは叶いません」
次善策として、これをクラレンスとヒューバードに託したいとアリアは訴えた。彼女が取り出した小瓶にはトロリとしたはちみつ色の液体が入っている。
「こちらをお預かりしても構いませんか。殿下にお見せしながら説明させてください」
ヒューバートが訊ねると、アリアは表情をあかるくして力強く頷き、手提げからメモ用紙を取り出した。
「勿論お持ちくださって結構です。それと、これが詳しい服用方法になります」
彼女から渡されたメモに目を通しながら、何度か頷くと、
「少しお時間を戴くかと思いますが、必ず殿下にお伝えしましょう」
彼はアリアから託された小瓶とメモを丁寧に布に包み直した。
「何卒、宜しくお願い申し上げます」
アリアが立ち上がって再び深く頭を下げると、ヒューバードもまた
「またご連絡いたします。待機室でお待ちください」
と言って立ちあがった。
クラレンスへの面会の要請はいつものようににすんなりとはいかなかった。クラレンスは嫡母である王妃を案じて、他の王子や王女たちと共に控えの間に詰めている必要があった。それでも一刻も経たずに面会がかなったのは、やはりヒューバードに対するクラレンスの信頼の重さを表していると言えるだろう。
このような時に一体何事かと事情を問うたクラレンスは、ヒューバードの話を耳にして顔を青ざめさせた。
「ジェネヴィエーヴ嬢の容態はそんなに悪かったのか。その大変な時にミス・ラトクリフを傍から引きはがすようなことを・・・」
予想通りの反応であったが、これではいつまでたっても埒が明かないと判断したヒューバードはクラレンスの悔恨の言葉を遮って、話を進めるた。
「ご存知の通りミス・ラトクリフは身動きが取れないだろう。彼女からこの水薬をナイトリー嬢に届けて欲しいと頼まれたんだ。王宮から何かを持ち出すのは煩雑な手続きがいるし、その点王子であるクリスなら比較的容易だろう。婚約者と言う立場もあるし。問題は王妃様のお加減によっては君も外出が厳しいってことだが」
ヒューバードが腕を組んで悩ましげな声を出すと、顔を覆っていたクラレンスは、ああそれならと顔を上げた。
「恐らく大丈夫だろう」
彼の台詞にヒューバードはおやと首をかしげた。
「王妃様の容態が急変したのはミス・ラトクリフが登城する少し前のことだ。状況的にミス・ラトクリフが王妃様の容態の悪化に直接関係していないことは明らかだ。それに、他でもない彼女の力で王妃様の容態が落ち着いたのだから、彼女を返すことは許可できずとも、願いをかなえることは難しくないだろう」
クラレンスに面会を申し込む際、侍従から王妃は少し前に危機を脱したと耳打ちされたが、それに寄与したのがアリアであったという。王宮付き魔術師や神官たちですら太刀打ちできないほどの強大な光の魔力を持つ彼女に注目する者は、これまではほんの一握りでしかなかった。しかし、今回彼女が証明した能力は、彼女の価値をぐっと高めるものだった。多くの者たちが彼女の値打ちに気付き始めている。今後、彼女を利用しようと考える輩も出てくるだろう。
それでも彼女がナイトリー侯爵の庇護下にある内は、彼女に危害を加えようとする愚か者は現れないに違いない。一人娘を溺愛しているナイトリー侯爵は、その一人娘が愛し、信頼を寄せている人物を蔑ろにすることは決してあるまい。特に、アリアが病弱なジェネヴィエーヴの健康に決定的に関与しているならばなおさら彼女を手放すことはあり得ない。そういった意味で、アリアは最も堅牢で信頼できる権力の保護下にあるといえた。彼女を蔑ろにする者も、悪意を持って彼女を利用しようと考える者も、彼女に近づくことすらできないだろうから。
そうして、ヒューバードの当初の予想に反して、彼とクラレンスは日が傾き始める頃には、王宮を出てナイトリー邸に向かう馬車に収まっていた。しかし、順調だったのはここまでだった。これならば遅いディナーには帰宅できるかもしれないというヒューバードの淡い期待は、見事に裏切られたのだった。それも、訪問の目的であったジェネヴィエーヴの突拍子もない言動によって。
ヒューバードにとってジェネヴィエーヴの印象はそうよいものではなかった。幼い頃の彼女のクラレンスに対する執着は度を越しており、ヒューバードは一時などは嫌悪に近い感情を抱いていたものだったが、ここ数年はどんな心情の変化があったのだろう、彼女の極端な言動はすっかり鳴りを潜めてしまっていた。一体誰が今の彼女のを見て、歪んだ愛着ゆえにクラレンスに固執しているなどと思うだろうか。
過去の偏見をすっかり取り除いてみるジェネヴィエーヴは、物憂げで柔弱な令嬢そのものであった。生まれもった気品と類まれな美貌を備え、王子の婚約者に相応しい教養と知性を身に着けており、彼女は身分、権力、財産、美貌を兼ね備えた完璧な貴婦人であった。噂に聞く彼女はどちらかと言うと淡白な人柄で、金や人、権力には全く興味を示さなかった。その中で、クラレンスに対する過去の執着だけが異質だったといえよう。
ともかく、ヒューバードにとってジェネヴィエーヴは理解しがたい少女だった。生い立ちゆえに、多少性根の歪んでいる彼にとって、理解の範疇を超えた彼女のような人物は忌避すべき対象であった。
その点、アリアなどは情に篤く多感で、たとえ押し殺そうとしてもその多彩な感情があふれ出てしまうのが魅力の根源であったから、本人にどれほど嫌われていようともヒューバードにとってアリアのような人柄を持つ人物は、好ましい相手であった。
一方で、どれほど直截な悪意や冷笑を浴びせられても、一切の感情の揺らめきを感じさせない無感動、無関心で不透明なジェネヴィエーヴの人柄はいつまで経っても彼には受容することのできない問題だった。ジェネヴィエーヴの気怠げで、深淵を湛えたような瞳に射竦められると、ヒューバードは耐えがたい居心地の悪さを感じるのであった。
「わたくしは参らねばなりません」
無関心、無感動、それこそがジェネヴィエーヴを評す代名詞ではなかったのか。それなのに、どうしたことだろう。クラレンスの言葉に頑なな調子で訴えている彼女の必死な様は。今の彼女は到底普段のジェネヴィエーヴからは想像できないような、切実な感情に溢れていた。
結局、折れたのはクラレンスの方だった。明らかに具合の悪い彼女を行かせて気を揉むよりも、彼女に同行することを選んだのだ。ここではクラレンスの付き添いでしかないヒューバートに否やはなかった。それでも、常ならぬ様子のジェネヴィエーヴに馬車を譲って、騎馬に跨る彼の心情は、穏やかならぬものだった。一体彼女に何が起こっているのだろうか。
驚いたのはそれだけではなかった。目的地に到着した後も、ジェネヴィエーヴの不審な挙動は続いた。何かを探すようにふらふらと馬車を降りたかと思うと、突然暗がりを指さして、あちらの方向に暴漢に襲われた若い婦人がいるはずだと訴えたのである。
身分ある彼女であればこそ、そうでなければまるで狂女と謗られても仕方ない言動だった。しかし、ジェネヴィエーヴの瞳は確信に満ちており、神経を病んだ者のそれではなかった。
果たして、クラレンスの命を受けて向かった先には、ジェネヴィエーヴの言葉通りの光景が広がっていた。驚愕に固まるよりも先に、騎士としての本能が勝って身体が動き、不審な男を取り押さえると、襲われていた若い女性を救出した。
「ミス・フェラーズ!」
蒼白な顔色で駆け寄ってきたジェネヴィエーヴは、確信に満ちた口調で呼んだ。彼女はこの女性と顔見知りなのか、なぜ侯爵令嬢である彼女が明らかに平民であるこの女性と知己なのだろうか、いやそもそも何故ジェネヴィエーヴは女性が危機に陥っていることを知り得たのだろうか。眼前の女性の救助に当たりながらも、胸に渦巻く疑念が次々と噴出してくるのを彼は押しとどめることはできなかった。
それはクラレンスも同様で、兄のミスター・フェラーズの所属する研究所にミス・フェラーズを搬送してからも、じっともの言いたげな眼差しでジェネヴィエーヴを見つめていた。本来であればすぐにでも問い詰めたいところであるが、場所柄それもできず、何よりもジェネヴィエーヴがそれをさせなかった。今や彼女の不調は誰の目にも明らかだった。
高熱に潤んだ瞳、その周りを青黒い隈が縁取っている。もともと、透き通るような皓い肌をしているが、今の彼女は青白い炎を思わせる病的な皓さだった。本人は無自覚なのだろう、身体はふらふらと小さく左右に揺れており、いつ倒れてしまうのではないかとみていてハラハラさせられた。先程ちらりと扉の蔭からのぞいて目にした彼女は、軽くクラレンスに寄り掛かってはいるものの、ぐっと地に足を踏みしめ強い意志を感じさせる瞳でこちらを見つめていた。
なにがジェネヴィエーヴをここまでさせるのだろうか。ヒューバートは彼女からこれほどの強烈な自我を感じたことはなかった。
――自分は今まで彼女を見誤っていたのだろうか。
この疑問こそが、彼の中で結ばれたジェネヴィエーヴの像が毀れた証拠だった。
ヒューバードは自意識の強い人物で、一度こうと決めた決定を覆すことはほとんどなかった。彼は大人の悪意の中で育ったために、他者の悪感情にひどく敏感だった。彼の唯一の保護者たる母親でさえ彼の真の理解者になることはできなかったから、そんな中で幼いクラレンスだけが、彼に底意のない純粋な好意と信頼を寄せてくれたただ一人の拠りどころだった。片親しかいない者同士、一種の親和感もあったのかもしれない。ヒューバードの世界には長らくクラレンスしかいなかった。血縁関係のある幼い第3王子を護る盾となり剣となろう、彼がそう心に誓ったのも自然な流れかもしれない。
いつしかヒューバードは彼とクラレンスを取り巻く有象無象達を、享楽的な人好きのする笑顔で包み隠した冷徹な眼差しで観察するのが習慣となった。彼自身、そうした自身の性向を、意地の悪い批判者だと言って軽蔑していたが、それは醜悪な悪意の刃から幾度となく彼らを救ってくれた。
だからこそ、本来であれば強力な後ろ立てとなりうる、ナイトリー侯爵家とクラレンスの縁組に諸手を挙げて賛成するどころか、違和感を覚えたのかもしれない。強引にクラレンスの婚約者となったジェネヴィエーヴの仄暗い感情に、ヒューバードは言葉では言い表せない忌避感を抱いた。
クラレンスにとってジェネヴィエーヴは害悪である。それは長らくヒューバードの中で動かしがたい決定事項となっていた。しかし、ここにきて急速にその確信が揺らぎ始めていた。いや、疑い始めた時点で、既に確信は覆されたといってもよいのかもしれない。ただ、彼がそれを受け入れがたかっただけである。
「ジェネヴィエーヴ様!」
アリアとよく似た面差しの美しい青年がジェネヴィエーヴに駈け寄る。
ラトクリフ兄弟
彼らの存在こそが、ヒューバードが自身の判断に疑念を抱いた契機だった。アリアとノクターンの姉弟はどこからどう見ても善良の塊だった。特に光の乙女として稀有な力を有するアリアは、存在自体が善なる魂の保持者であることの明確な証左であった。聖なる魔力は善なる魂にしか宿らない。ノクターンはというと、アリアの陽光を思わせる暖かさには欠けるものの、月光の清らかさ清流の爽やかさを感じさせる青年だった。
そんな彼らが何故ジェネヴィエーヴのような女に盲目的な愛情と、絶対的な信頼を寄せているのだろうか。たまたま彼らと共にいるジェネヴィエーヴを見かけて、ヒューバードはギクリと肩を震わせた。久方ぶりに目にしたジェネヴィエーヴはまるで人が違ったかのような雰囲気を纏っていた。彼は目を疑った。彼の確信は揺らごうとしていた。
だからクラレンスが次第にジェネヴィエーヴに心惹かれているのが明らかであるにも拘らず、ヒューバードは強く反対することができなかったのかもしれない。クラレンスもまた、信頼する彼が強硬な態度を示さなかったことで、徐々にその思慕の情を露わにしていった。
「それでも、私がおりましたらこのようなご面倒は起こり得ないことでしたから。全て私の責任です。御寛大なお心でお許しいただけますと幸いです」
絵画の天使の如き極上の微笑みを浮かべながら慇懃に答えるノクターンと、婚約者の手を奪われて苦々しげな様子のクラレンスを眺めながら、彼らの恋路は一体どのような結末を辿るのだろうかとヒューバードはぼんやりとそんなことを考えていた。当事者たるジェネヴィエーヴはというと、相変わらず何を考えているのやらさっぱり分からなかった。今も昔もヒューバードにとってジェネヴィエーヴは不可解な存在だった。以前の様に、仄暗い悪意を靄で覆い隠しているような不気味さは鳴りを潜めているものの、彼女の感情の所在は薄い膜を隔てた様にうかがい知ることができなかった。
「ノートン卿、お話は済みまして?ミス・フェラーズのご様子はいかがですか」
彼女からそう問いかけられて、ヒューバードはハッと我に返った。いつものように愛想のよい笑みを張り付けて、もう大丈夫だと告げるとジェネヴィエーヴは安堵のため息をついた。僅かに微笑みさえ浮かべる彼女の様子に、ヒューバードは居心地の悪さを感じた。彼はかつて、これほど感情を顕わにする彼女を見たことがなかった。彼の前にいるのはいつもの上品な笑みを浮かべる物憂げな貴女ではなかった。彼の確信は今や風前の灯火だった。
そして、無数にひび割れた彼のジェネヴィエーヴに対する確信は、鮮やかな血を吐きながらゆっくりと倒れてゆく彼女を見つめながら、粉々に砕け散ったのだった。
それからはまた大変な騒ぎだった。王国の最重臣であるナイトリー侯爵の一人娘が吐血して意識不明となったのだから当然といえば当然だった。だが、流石に幼い頃から王族として薫陶を受けてきたクラレンスの対応は冷静だった。内心はどうあれ、素早くローブを脱いでジェネヴィエーヴに掛けやり、飛び散った血痕を覆い隠した。緘口令を敷き、適切な命令を発すると、浮き立ちかけた一同の気を静め、各々の役割を思い出させた。幸いその場を目にした者は片手で足りるほどの数しかいなかった。
アリアの持たせた薬も大いに役に立った。その上、ノクターンは常々アリアからジェネヴィエーヴの看病の様子を聞いていた上、彼自身も長患いの母親の看護で培った経験があった。彼は薬を飲ませるのに手間取るクラレンスから水薬を受け取ると、慣れた手つきでジェネヴィエーヴに薬を飲ませた。
アリアが書いた注記通り薬を服用させるとジェネヴィエーヴの呼吸は目に見えて安定していった。そこで、彼らは彼女を慎重に馬車に乗せると、一路ナイトリー侯爵邸へと馬車を飛ばしたのであった。
到着した一行を迎えたナイトリー侯爵邸一同の連携は流石というしかなかった。連絡を受けたナイトリー邸は、意識不明のジェネヴィエーヴを迎え入れるために臨戦態勢に入っていた。速やかにナイトリー侯爵とアリアのいる王城へ急使が発せられ、準備万端ジェネヴィエーヴを受け入れる態勢は整っていた。彼らはジェネヴィエーヴが3歳を迎えて以降、病弱な彼女の健康と安楽を第一義としていたから、クラレンスたちが口を挟む間もないほどの緊密で適切な連携プレーを見せてくれた。
そして、恐らくナイトリー侯爵が動いたのだろう、遣いが王城に到着してから一刻もしないうちに、アリアがナイトリー侯爵邸へ帰邸した。彼女はクラレンスとヒューバードに礼を述べると、一陣の風の様にジェネヴィエーヴの部屋へと駆けていった。
馬を休ませる暫しの間、クラレンスとヒューバードはナイトリー侯爵邸に留まっていたものの、ここで彼らにできることはもうないと判断し、また見舞いに伺うと告げると王城へと戻って行ったのだった。
一体、今日はなんという日なのだろうか。ヒューバート・ノートンはもう何度目とも分からぬため息をついた。驚愕の連続だったというべきか。
端を開いたのはアリア・ラトクリフの嘆願だった。
近衛騎士団に籍を置くヒューバートは王妃の容態が急変したことで、治療に当たっていた全ての関係者たちが王宮内に軟禁状態に置かれたことは耳にしていた。だが、切羽詰まった様子のアリア・ラトクリフが、自分に駈け寄ってきた時には面食らったものだった。
「どうか、お力をお貸しくださいノートン卿」
彼女はヒューバートに深々と頭を下げて懇願した。頬を青ざめさせながら、声を震わせる彼女を何とか宥めると、何事かと好奇の視線を向ける周囲の騎士たちの目を避けて、あまり人の近寄らない庭園の一角へと向かった。ここは彼のとっておきの場所であったが、彼が誰かをこの秘密の隠れ家に連れてきたのはこれが初めてだった。
「こちらにおかけください。少しは落ち着きましたか?」
水の枯れた噴水の淵に腰かけると、アリアはようやく自分の大胆な行動が恥ずかしくなったのか、僅かに頬を染めて頷いた。
「申し訳ございません。ノートン卿にご迷惑をおかけしてしまって」
ヒューバードにとって若い令嬢達が訪ねてくることなど日常茶飯事のことだったし、同僚の騎士たちもまた、ああいつものことかと心得ていたから、たいして困ってはいなかったのだが、羞恥に頬を染める初心なアリアの様子に、悪戯心をくすぐられた彼は敢えて困惑した態で目を伏せた。
「そうですね。練武場の近くでしたので、あんな風に若いご婦人から取りすがられるのは、なんというか・・・同僚たちの目が痛かったですね」
意地悪な彼の言葉にアリアはの頬がますます赤く染まった。
「そんなつもりはなかったのですが、本当に申し訳ございません」
両手で顔を覆って謝罪を繰り返すアリアに、思わず頬が緩んでしまいそうになるのを何とか堪えながら、ヒューバードは気がかりだといった風な声音を作った。
「顔を上げてください。私は気にしていませんから、ご安心を。それほどのことがあったのでしょう。差し支えなければ、お話伺ってもよろしいでしょうか?」
ヒューバードが問いかけると、アリアはようやく顔を上げてコクリと頷いた。
「王妃様の件はもうご存知でしょうか」
彼がわずかに頷くと、アリアは眉根を寄せた。
「王妃様のご容体が急に悪化した原因が判明するまでは、治療に当たった者たちは王宮から出ることを禁じられています。そのため私も王宮に留まらなければならないのです。本来であれば、本日は日暮れ前にナイトリー侯爵邸に戻らねばなりませんでした。ですが、事情が事情ですのでそれも叶いません。そこで、ご無理は重々承知の上で申し上げますが、どうかノートン卿にお力をお貸しいただきたいのです」
真剣なまなざしで懇願するアリアにヒューバードは困惑の表情を浮かべた。
「それは、ミス・ラトクリフの頼みとあれば、私でお力になれることでしたら叶えて差し上げたいのですが、一体どのようなことでしょう」
どんな無理難題を突き付けられるのかとヒューバードはコクリと喉を震わせた。
「クラレンス殿下にお取り次ぎ願えませんでしょうか。お従兄弟であるノートン卿であれば、事前の申請がなくとも殿下に拝謁することが叶うのではございませんか?ご無礼を申し上げていることは承知の上ですが、どうか、どうかお願い申し上げます。ジェネヴィエーヴ様のお命にかかわることなのです。ナイトリー侯爵閣下にご連絡申し上げることもできず、今、おすがりできるのは殿下ただ御一人なのです。どうか、ジェネヴィエーヴ様のお為にお力をお貸しください。この通りでございます」
アリアは地面に膝をつくと、両手を胸の前で組んで深く頭を下げた。慌てたのはヒューバードである。
「これは!お立ちください、ミス・ラトクリフ。そんな風になさらないで。さあ、こちらへ、そう、座って。もう少し詳しくお話し願えますか。一体、ナイトリー嬢のお命に関わるとは穏やかではありませんね」
彼はアリアをなんとか再び噴水の淵に座らせると、彼女の前に膝をついて真剣な表情で彼女を見つめた。
そうして、アリアは訥々と話し始めた。ジェネヴィエーヴが新しい治療を始めたばかりであること、それは激しい副反応を伴うが、どのような症状が起こりうるのか予想が難しいこと。ナイトリー侯爵邸から来た伝令によると、ジェネヴィエーヴにはすでに副反応と思しき症状が出始めており、不都合なことに侯爵邸に準備してきた処方では不足があること、出来る限り早急に適切な薬を処方し直す必要があることなどを、慎重に言葉を選びながら説明した。
「別の薬というと、ミス・ラトクリフではないと用意できない類のものだと考えてよろしいのでしょうか」
アリアは光の魔力を持つ稀有な存在である。それを念頭に、ヒューバードはナイトリー侯爵邸では用意することができない、つまりアリアの魔力に由来する治療薬であると推測した。
「はい、その通りです」
彼女は手提げから布で丁寧に包まれた小瓶を取り出した。
「私の魔力を込めてあります。服用に際しては留意点も多く、本来であれば私自身がジェネヴィエーヴ様のご容体を確認した上で、用法を見定めたいのですが、それは叶いません」
次善策として、これをクラレンスとヒューバードに託したいとアリアは訴えた。彼女が取り出した小瓶にはトロリとしたはちみつ色の液体が入っている。
「こちらをお預かりしても構いませんか。殿下にお見せしながら説明させてください」
ヒューバートが訊ねると、アリアは表情をあかるくして力強く頷き、手提げからメモ用紙を取り出した。
「勿論お持ちくださって結構です。それと、これが詳しい服用方法になります」
彼女から渡されたメモに目を通しながら、何度か頷くと、
「少しお時間を戴くかと思いますが、必ず殿下にお伝えしましょう」
彼はアリアから託された小瓶とメモを丁寧に布に包み直した。
「何卒、宜しくお願い申し上げます」
アリアが立ち上がって再び深く頭を下げると、ヒューバードもまた
「またご連絡いたします。待機室でお待ちください」
と言って立ちあがった。
クラレンスへの面会の要請はいつものようににすんなりとはいかなかった。クラレンスは嫡母である王妃を案じて、他の王子や王女たちと共に控えの間に詰めている必要があった。それでも一刻も経たずに面会がかなったのは、やはりヒューバードに対するクラレンスの信頼の重さを表していると言えるだろう。
このような時に一体何事かと事情を問うたクラレンスは、ヒューバードの話を耳にして顔を青ざめさせた。
「ジェネヴィエーヴ嬢の容態はそんなに悪かったのか。その大変な時にミス・ラトクリフを傍から引きはがすようなことを・・・」
予想通りの反応であったが、これではいつまでたっても埒が明かないと判断したヒューバードはクラレンスの悔恨の言葉を遮って、話を進めるた。
「ご存知の通りミス・ラトクリフは身動きが取れないだろう。彼女からこの水薬をナイトリー嬢に届けて欲しいと頼まれたんだ。王宮から何かを持ち出すのは煩雑な手続きがいるし、その点王子であるクリスなら比較的容易だろう。婚約者と言う立場もあるし。問題は王妃様のお加減によっては君も外出が厳しいってことだが」
ヒューバードが腕を組んで悩ましげな声を出すと、顔を覆っていたクラレンスは、ああそれならと顔を上げた。
「恐らく大丈夫だろう」
彼の台詞にヒューバードはおやと首をかしげた。
「王妃様の容態が急変したのはミス・ラトクリフが登城する少し前のことだ。状況的にミス・ラトクリフが王妃様の容態の悪化に直接関係していないことは明らかだ。それに、他でもない彼女の力で王妃様の容態が落ち着いたのだから、彼女を返すことは許可できずとも、願いをかなえることは難しくないだろう」
クラレンスに面会を申し込む際、侍従から王妃は少し前に危機を脱したと耳打ちされたが、それに寄与したのがアリアであったという。王宮付き魔術師や神官たちですら太刀打ちできないほどの強大な光の魔力を持つ彼女に注目する者は、これまではほんの一握りでしかなかった。しかし、今回彼女が証明した能力は、彼女の価値をぐっと高めるものだった。多くの者たちが彼女の値打ちに気付き始めている。今後、彼女を利用しようと考える輩も出てくるだろう。
それでも彼女がナイトリー侯爵の庇護下にある内は、彼女に危害を加えようとする愚か者は現れないに違いない。一人娘を溺愛しているナイトリー侯爵は、その一人娘が愛し、信頼を寄せている人物を蔑ろにすることは決してあるまい。特に、アリアが病弱なジェネヴィエーヴの健康に決定的に関与しているならばなおさら彼女を手放すことはあり得ない。そういった意味で、アリアは最も堅牢で信頼できる権力の保護下にあるといえた。彼女を蔑ろにする者も、悪意を持って彼女を利用しようと考える者も、彼女に近づくことすらできないだろうから。
そうして、ヒューバードの当初の予想に反して、彼とクラレンスは日が傾き始める頃には、王宮を出てナイトリー邸に向かう馬車に収まっていた。しかし、順調だったのはここまでだった。これならば遅いディナーには帰宅できるかもしれないというヒューバードの淡い期待は、見事に裏切られたのだった。それも、訪問の目的であったジェネヴィエーヴの突拍子もない言動によって。
ヒューバードにとってジェネヴィエーヴの印象はそうよいものではなかった。幼い頃の彼女のクラレンスに対する執着は度を越しており、ヒューバードは一時などは嫌悪に近い感情を抱いていたものだったが、ここ数年はどんな心情の変化があったのだろう、彼女の極端な言動はすっかり鳴りを潜めてしまっていた。一体誰が今の彼女のを見て、歪んだ愛着ゆえにクラレンスに固執しているなどと思うだろうか。
過去の偏見をすっかり取り除いてみるジェネヴィエーヴは、物憂げで柔弱な令嬢そのものであった。生まれもった気品と類まれな美貌を備え、王子の婚約者に相応しい教養と知性を身に着けており、彼女は身分、権力、財産、美貌を兼ね備えた完璧な貴婦人であった。噂に聞く彼女はどちらかと言うと淡白な人柄で、金や人、権力には全く興味を示さなかった。その中で、クラレンスに対する過去の執着だけが異質だったといえよう。
ともかく、ヒューバードにとってジェネヴィエーヴは理解しがたい少女だった。生い立ちゆえに、多少性根の歪んでいる彼にとって、理解の範疇を超えた彼女のような人物は忌避すべき対象であった。
その点、アリアなどは情に篤く多感で、たとえ押し殺そうとしてもその多彩な感情があふれ出てしまうのが魅力の根源であったから、本人にどれほど嫌われていようともヒューバードにとってアリアのような人柄を持つ人物は、好ましい相手であった。
一方で、どれほど直截な悪意や冷笑を浴びせられても、一切の感情の揺らめきを感じさせない無感動、無関心で不透明なジェネヴィエーヴの人柄はいつまで経っても彼には受容することのできない問題だった。ジェネヴィエーヴの気怠げで、深淵を湛えたような瞳に射竦められると、ヒューバードは耐えがたい居心地の悪さを感じるのであった。
「わたくしは参らねばなりません」
無関心、無感動、それこそがジェネヴィエーヴを評す代名詞ではなかったのか。それなのに、どうしたことだろう。クラレンスの言葉に頑なな調子で訴えている彼女の必死な様は。今の彼女は到底普段のジェネヴィエーヴからは想像できないような、切実な感情に溢れていた。
結局、折れたのはクラレンスの方だった。明らかに具合の悪い彼女を行かせて気を揉むよりも、彼女に同行することを選んだのだ。ここではクラレンスの付き添いでしかないヒューバートに否やはなかった。それでも、常ならぬ様子のジェネヴィエーヴに馬車を譲って、騎馬に跨る彼の心情は、穏やかならぬものだった。一体彼女に何が起こっているのだろうか。
驚いたのはそれだけではなかった。目的地に到着した後も、ジェネヴィエーヴの不審な挙動は続いた。何かを探すようにふらふらと馬車を降りたかと思うと、突然暗がりを指さして、あちらの方向に暴漢に襲われた若い婦人がいるはずだと訴えたのである。
身分ある彼女であればこそ、そうでなければまるで狂女と謗られても仕方ない言動だった。しかし、ジェネヴィエーヴの瞳は確信に満ちており、神経を病んだ者のそれではなかった。
果たして、クラレンスの命を受けて向かった先には、ジェネヴィエーヴの言葉通りの光景が広がっていた。驚愕に固まるよりも先に、騎士としての本能が勝って身体が動き、不審な男を取り押さえると、襲われていた若い女性を救出した。
「ミス・フェラーズ!」
蒼白な顔色で駆け寄ってきたジェネヴィエーヴは、確信に満ちた口調で呼んだ。彼女はこの女性と顔見知りなのか、なぜ侯爵令嬢である彼女が明らかに平民であるこの女性と知己なのだろうか、いやそもそも何故ジェネヴィエーヴは女性が危機に陥っていることを知り得たのだろうか。眼前の女性の救助に当たりながらも、胸に渦巻く疑念が次々と噴出してくるのを彼は押しとどめることはできなかった。
それはクラレンスも同様で、兄のミスター・フェラーズの所属する研究所にミス・フェラーズを搬送してからも、じっともの言いたげな眼差しでジェネヴィエーヴを見つめていた。本来であればすぐにでも問い詰めたいところであるが、場所柄それもできず、何よりもジェネヴィエーヴがそれをさせなかった。今や彼女の不調は誰の目にも明らかだった。
高熱に潤んだ瞳、その周りを青黒い隈が縁取っている。もともと、透き通るような皓い肌をしているが、今の彼女は青白い炎を思わせる病的な皓さだった。本人は無自覚なのだろう、身体はふらふらと小さく左右に揺れており、いつ倒れてしまうのではないかとみていてハラハラさせられた。先程ちらりと扉の蔭からのぞいて目にした彼女は、軽くクラレンスに寄り掛かってはいるものの、ぐっと地に足を踏みしめ強い意志を感じさせる瞳でこちらを見つめていた。
なにがジェネヴィエーヴをここまでさせるのだろうか。ヒューバートは彼女からこれほどの強烈な自我を感じたことはなかった。
――自分は今まで彼女を見誤っていたのだろうか。
この疑問こそが、彼の中で結ばれたジェネヴィエーヴの像が毀れた証拠だった。
ヒューバードは自意識の強い人物で、一度こうと決めた決定を覆すことはほとんどなかった。彼は大人の悪意の中で育ったために、他者の悪感情にひどく敏感だった。彼の唯一の保護者たる母親でさえ彼の真の理解者になることはできなかったから、そんな中で幼いクラレンスだけが、彼に底意のない純粋な好意と信頼を寄せてくれたただ一人の拠りどころだった。片親しかいない者同士、一種の親和感もあったのかもしれない。ヒューバードの世界には長らくクラレンスしかいなかった。血縁関係のある幼い第3王子を護る盾となり剣となろう、彼がそう心に誓ったのも自然な流れかもしれない。
いつしかヒューバードは彼とクラレンスを取り巻く有象無象達を、享楽的な人好きのする笑顔で包み隠した冷徹な眼差しで観察するのが習慣となった。彼自身、そうした自身の性向を、意地の悪い批判者だと言って軽蔑していたが、それは醜悪な悪意の刃から幾度となく彼らを救ってくれた。
だからこそ、本来であれば強力な後ろ立てとなりうる、ナイトリー侯爵家とクラレンスの縁組に諸手を挙げて賛成するどころか、違和感を覚えたのかもしれない。強引にクラレンスの婚約者となったジェネヴィエーヴの仄暗い感情に、ヒューバードは言葉では言い表せない忌避感を抱いた。
クラレンスにとってジェネヴィエーヴは害悪である。それは長らくヒューバードの中で動かしがたい決定事項となっていた。しかし、ここにきて急速にその確信が揺らぎ始めていた。いや、疑い始めた時点で、既に確信は覆されたといってもよいのかもしれない。ただ、彼がそれを受け入れがたかっただけである。
「ジェネヴィエーヴ様!」
アリアとよく似た面差しの美しい青年がジェネヴィエーヴに駈け寄る。
ラトクリフ兄弟
彼らの存在こそが、ヒューバードが自身の判断に疑念を抱いた契機だった。アリアとノクターンの姉弟はどこからどう見ても善良の塊だった。特に光の乙女として稀有な力を有するアリアは、存在自体が善なる魂の保持者であることの明確な証左であった。聖なる魔力は善なる魂にしか宿らない。ノクターンはというと、アリアの陽光を思わせる暖かさには欠けるものの、月光の清らかさ清流の爽やかさを感じさせる青年だった。
そんな彼らが何故ジェネヴィエーヴのような女に盲目的な愛情と、絶対的な信頼を寄せているのだろうか。たまたま彼らと共にいるジェネヴィエーヴを見かけて、ヒューバードはギクリと肩を震わせた。久方ぶりに目にしたジェネヴィエーヴはまるで人が違ったかのような雰囲気を纏っていた。彼は目を疑った。彼の確信は揺らごうとしていた。
だからクラレンスが次第にジェネヴィエーヴに心惹かれているのが明らかであるにも拘らず、ヒューバードは強く反対することができなかったのかもしれない。クラレンスもまた、信頼する彼が強硬な態度を示さなかったことで、徐々にその思慕の情を露わにしていった。
「それでも、私がおりましたらこのようなご面倒は起こり得ないことでしたから。全て私の責任です。御寛大なお心でお許しいただけますと幸いです」
絵画の天使の如き極上の微笑みを浮かべながら慇懃に答えるノクターンと、婚約者の手を奪われて苦々しげな様子のクラレンスを眺めながら、彼らの恋路は一体どのような結末を辿るのだろうかとヒューバードはぼんやりとそんなことを考えていた。当事者たるジェネヴィエーヴはというと、相変わらず何を考えているのやらさっぱり分からなかった。今も昔もヒューバードにとってジェネヴィエーヴは不可解な存在だった。以前の様に、仄暗い悪意を靄で覆い隠しているような不気味さは鳴りを潜めているものの、彼女の感情の所在は薄い膜を隔てた様にうかがい知ることができなかった。
「ノートン卿、お話は済みまして?ミス・フェラーズのご様子はいかがですか」
彼女からそう問いかけられて、ヒューバードはハッと我に返った。いつものように愛想のよい笑みを張り付けて、もう大丈夫だと告げるとジェネヴィエーヴは安堵のため息をついた。僅かに微笑みさえ浮かべる彼女の様子に、ヒューバードは居心地の悪さを感じた。彼はかつて、これほど感情を顕わにする彼女を見たことがなかった。彼の前にいるのはいつもの上品な笑みを浮かべる物憂げな貴女ではなかった。彼の確信は今や風前の灯火だった。
そして、無数にひび割れた彼のジェネヴィエーヴに対する確信は、鮮やかな血を吐きながらゆっくりと倒れてゆく彼女を見つめながら、粉々に砕け散ったのだった。
それからはまた大変な騒ぎだった。王国の最重臣であるナイトリー侯爵の一人娘が吐血して意識不明となったのだから当然といえば当然だった。だが、流石に幼い頃から王族として薫陶を受けてきたクラレンスの対応は冷静だった。内心はどうあれ、素早くローブを脱いでジェネヴィエーヴに掛けやり、飛び散った血痕を覆い隠した。緘口令を敷き、適切な命令を発すると、浮き立ちかけた一同の気を静め、各々の役割を思い出させた。幸いその場を目にした者は片手で足りるほどの数しかいなかった。
アリアの持たせた薬も大いに役に立った。その上、ノクターンは常々アリアからジェネヴィエーヴの看病の様子を聞いていた上、彼自身も長患いの母親の看護で培った経験があった。彼は薬を飲ませるのに手間取るクラレンスから水薬を受け取ると、慣れた手つきでジェネヴィエーヴに薬を飲ませた。
アリアが書いた注記通り薬を服用させるとジェネヴィエーヴの呼吸は目に見えて安定していった。そこで、彼らは彼女を慎重に馬車に乗せると、一路ナイトリー侯爵邸へと馬車を飛ばしたのであった。
到着した一行を迎えたナイトリー侯爵邸一同の連携は流石というしかなかった。連絡を受けたナイトリー邸は、意識不明のジェネヴィエーヴを迎え入れるために臨戦態勢に入っていた。速やかにナイトリー侯爵とアリアのいる王城へ急使が発せられ、準備万端ジェネヴィエーヴを受け入れる態勢は整っていた。彼らはジェネヴィエーヴが3歳を迎えて以降、病弱な彼女の健康と安楽を第一義としていたから、クラレンスたちが口を挟む間もないほどの緊密で適切な連携プレーを見せてくれた。
そして、恐らくナイトリー侯爵が動いたのだろう、遣いが王城に到着してから一刻もしないうちに、アリアがナイトリー侯爵邸へ帰邸した。彼女はクラレンスとヒューバードに礼を述べると、一陣の風の様にジェネヴィエーヴの部屋へと駆けていった。
馬を休ませる暫しの間、クラレンスとヒューバードはナイトリー侯爵邸に留まっていたものの、ここで彼らにできることはもうないと判断し、また見舞いに伺うと告げると王城へと戻って行ったのだった。
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