男主人公たちの様子がおかしいのですが、前世を思い出した悪役令嬢は命の危機にさらされているのでそれどころではありません

あいえい

文字の大きさ
29 / 36

廃妃の呪いと死の婚姻7―5

しおりを挟む
廃妃の呪いと死の婚姻7―5

補足が必要ね、とジェネヴィエーヴは言った。白い手袋をはめた指で慎重にページをめくると、古い日記はペリリと乾いた音を立てた。
「マライアという方は15歳で亡くなった侯爵夫人の長女のことよ。死因は記録に残っていないけれど、夫人の日記によるとどうやら自殺だったようね」
 これでわかってくれたかしら、ジェネヴィエーヴが顔を上げた。アリアは蒼白な顔色で口に両手を当て、ノクターン同様に顔をこわばらせていた。ノクターンは考え込むように伏せていた目を上げるとコクリと喉を鳴らした。
「妹のヘンリエッタ嬢が口走っていたという“クレミー”とは、クレメンティーンの愛称の一つですね。ジェネヴィエーヴ様はこの人物をあの廃妃クレメンティーンだとお考えなのですか?」
「私はそうじゃないかと思っているわ」
 静かに頷いたジェネヴィエーヴに、ノクターンは問を重ねる。
「マライア嬢とエルザ嬢、そしてヘンリエッタ嬢の残した“クレメンティーン”ないし“クリミー”という謎の人物は同一人だと?」
「そうね、少なくともエルザ嬢とヘンリエッタ嬢の指す人物は“お姉様”と呼ばれる立場の人物で、死を招くほどの後悔をもたらすような状況に追い詰められていたことは確かよ」
 ノクターンは口元に片手を添えると、眉根を寄せた。
「どうしても、あのクレメンティーンと結び付けたくなります。ですが・・・」
「臆断は禁物だと?」
「はい。少なくとももっと考証が必要だと思います」
そうね、と簡単に同意したジェネヴィエーヴにノクターンが軽く目を見張る。意外なことかしら、と苦笑すると彼女は、でもそれも十分織り込み済みよと答えた。
「ナイトリー侯爵家の家譜にはクレメンティーンという名前はもちろん、愛称がクリミーたる人物も見当たらなかったわ」
 慣例として、長女や長男は父母の名前を受け継ぐことが多く、クレメンティーンも同様に母の名前を受け継いでいた。長女以外が産んだ子供の場合、初めての女の子には母親の名前を、二女以下には祖父母や著名な先祖の名前を付けることが少なくなかった。その為、本来であればクリスティーンの二女や三女は祖母や王妃になった叔母の名誉ある名前を授けられることが大いにありうる話であった。しかしクレメンティーンが夫の暗殺を企てたかどで廃妃となり、実家のオルティス公爵家が連座し取り潰されたことで、王家に憚り娘にその名を付けることはできなかった。つまり名誉ある名が忌み名と転じてしまったのである。
「確かに、廃妃の記憶が新しい時代であるほどクレメンティーンの名を避けたということは十分考え得ます」
「ええ、それに名前にも流行り廃りがあることを考慮すれば、クレメンティーンという名は近年の流行からは外れた名だと言えるわ。だから、時代が下り廃妃クレメンティーンを記憶する人々がいなくなった近頃に同じ名を持つ子女がいないことも不思議ではないわ」
 ですが、それならば、なおさらおかしなことです、とノクターンがつぶやき、アリアが首を振って同意する。
「そう考えると何故、令嬢達は馴染みのないはずの名を口にしたのでしょうか」
 アリアが首をかしげると、
「世代の異なる令嬢達が同じ名を口にしたことにこそ、意味がある、とジェネヴィエーヴ様は仰るのでしょう?」
 とノクターンがジェネヴィエーヴを見遣った。
「牽強付会にすぎるかしら?」
でもねと彼女はまだ膝の上に開いたままにしていた曾祖母の日記を再び手に取って、苦い笑みを浮かべた。
「先程のヘンリエッタとエリナーについての話はあれで終わりではないの。更に興味深いことが書かれているのよ」
 それは母親から宝石のような愛する娘とまで呼ばれたヘンリエッタの最期に関する記録だった。ジェネヴィエーヴは日記に目を落とすと、陰鬱な調子でその一節を口にした。

“主治医が神官様をお呼びするようにと仰った!心の準備をするようにと!!ああ、どうしてそんなことができるのかしら”

「夫人は初め神官を呼ぶことを拒んだわ。無理もない、愛する娘の死が近いという事実を受け入れることは容易ではなかったでしょうから。でも、翌日には意志を翻して早速神官を呼ぶことにしたと書かれている、それは何故かしら」
 ヘンリエッタがそれを望んだのだ。ヘンリエッタの夫が病床の妻を見舞うと、それまで虚空を漂うばかりであった彼女の瞳がひたりと夫を見据えた。実に数カ月ぶりのことであった。夫は驚愕し妻の手を取った。

「最期に司教様にお会いしたい」

 彼女は弱々しいが断固とした調子で言い切った。久方ぶりに正気に返ったヘンリエッタはそう告げると目を閉じた。
翌日、彼女のもとを訪れた神官は長い時間の後に寝室を出てくると、動揺を隠せない様子で、母のナイトリー侯爵夫人にお話があると告げた。ヘンリエッタから、自分からはどうしても話すことができない。どうかあなたから母に真実を伝えて欲しいと、嗚咽交じりに懇願されたという。
 一体どのような告白だったのだろうか、侯爵夫人の日記は今までにない乱れた筆跡でこう記されていた。

“この話は本当なの?全く信じることはできない。いいえ、信じたくない!ああ、でも死に瀕しているヘンリエッタがあんな嘘をいうわけがないわ。本当なの?まさか!夫も動揺している。本当に?私たちはなんという過ちを犯してしまったのだろう”

 次の記録はそれから十日余り後のものだった。

“ヘンリエッタも今では冷たい土の中でようやく永遠の安息を得られたことだろう。では、私達は?私たちは一体この先どう生きて行けばよいのだろうか。今では私達もヘンリエッタの告白を信じざるを得ないのだ。そうだ、あの娘の話は真実であった。ああ、哀れなエリナー。あの娘の罪が全て偽りだったなんてどうして信じられようか。あの娘は私達をどれほど恨んだことだろう。薄情な親、悪魔のような家族。どれほどの絶望の中で死んでいったのだろう。あんなに若くに!あんな場所で!でも、どうしてあの天使のようなヘンリエッタが一生の半分以上をエリナーを陥れるために費やしただなんて信じられる?”

「夫人は随分と苦しんだみたいね。どうしてもヘンリエッタの告白を信じられなかった様子で・・・。いいえ、信じたくなかったのでしょう。夫人もまた悪あがきだと書いているけれど、ヘンリエッタの告白を信じられなかった彼女は生前のエリナーと親交のあった女性と連絡を取ったらしいの」
そのローズという名の女性はエリナーの親友であり、最後までエリナーの潔白を信じ続けた唯一の人物だった。そのため、彼女はエリナーに対するナイトリー侯爵夫妻の仕打ちに憤慨し、エリナーが追放されるのと前後してナイトリー侯爵家とは没交渉となっていた。

  “ローズの憤りはもっともだ。彼女はエリナーの冤罪も、ヘンリエッタの偽善と私たち夫婦の欺瞞もすべて承知していたのだから。「エリナーの遺品をご覧になってはどうですか」あの言葉にどれほど羞恥を感じたことか。どうしても言えなかった。あの娘の日記も、手紙すら、全てエリナーの生前に処分してしまっただなんて”

 侯爵夫人の有様を見かねたローズはエリナーの手紙を夫人に預けた。彼女は冷たい声音でこれはほんの一部に過ぎない、彼女の苦しみは計り知れないものであったと告げた。親友に宛てたエリナーの手紙には、仲が良かったはずの妹が変貌してしまったことへの困惑から始まり、ヘンリエッタがあたかもエリナーが妹を虐待しているかのような言動を繰り返すことへの嘆き、更に両親がそれを信じ込みエリナーを悪人と深く認識するに至ったことに対する深い悲しみが綴られていた。
数年間は弁明を繰り返し、どれほど否定され拒絶されても誤解を解こうと努め続けた。だが、エリナーは絶え間ない悪意と謂れのない叱責の間で次第に疲れ果ててしまった。愛情は報われず、信頼は裏切られた。愛すべき家族は今や彼女を仇敵のように憎み、安心と幸福をもたらすはずの我が家は今では針の筵の如しであった。家族はもとより使用人たちまでもが彼女を怨み憎悪の目でみつめていた。
 とうとう彼女は全ての努力を諦めざるを得なくなった。そうして追われるように収容所のような施設に押し込められ、そこで両親からたった一通の温かい手紙すら受け取ることなく虚しくなったのだった。
 高位貴族の令嬢が享受すべき幸福を味わうこともなく散った、哀れで寂しい一生であった。

“私はすっかりエリナーを誤解してしまっていた。私は最後に何と声を掛けたかしら。そう、確か「貴女のような悪魔は生きていても仕方がない」確かにそう言ったのよ。母親の身でありながら、なんという残酷な言葉を・・・。”

 ナイトリー侯爵夫人の日記は後悔と謝罪の言葉に埋め尽くされていた。それはさながら、狂疾を患ったヘンリエッタの最期の嘆きの数々のようであった。

“どうしてヘンリエッタはあんなことをしたの?なぜエリナーをあれ程追い詰める必要があったのかしら。ヘンリエッタは「あの頃は、そうしなければならない、そうするべきなのだと信じていた」と言っていたという。まるで誰かに脅迫されているみたいだったと。ああ、そんな、まさか。今になってお義母様の言葉が胸に突き刺さる”

そこでジェネヴィエーヴは一度言葉を切ると、顔を上げて怪訝な表情を浮かべるアリアとノクターンを見た。
「唐突だと思わない?どうしてここで急に先代侯爵夫人が出てくるのかしら」
 彼女はとんとんと細い指で膝をたたくと片頬をきりりとあげて笑みをつくった。不思議よね、
「侯爵夫人は妊娠した時に義母からこう告げられそうよ。“辛いでしょうけれど分かって頂戴。それが貴女にとって最善なことなの”」

  “生まれてくるのが女の子だったら、きっぱりと諦めなさい。情を掛けてはいけません、貴女が苦しむだけよ。この家の娘は長くは生きられないの。そう決まっているのよ。呪いのようなものなのよ”

 ノクターンとアリアは押し黙りジェネヴィエーヴを見つめていた。暖炉の薪が時折パシリと乾いた音を立てて爆ぜる音だけが響く。部屋の中は暑いくらいであるのに、彼らの間に横たわっているのは凍えるような不安定な懼れだけであった。
 チリチリと舞い上がる炎にジェネヴィエーヴの横顔が照らされている。そこには色濃い疲労と怒りの色が浮かんでいた。
「ナイトリー侯爵家の娘は長く生きられないだなんて」
彼女は言いさしたまま唇を噛むと、きつく閉じていた目を薄く開けた。
「私こそが当事者だというのに・・・こんな話、たった言の端程度でも、未だかつて耳にしたことがあったかしら」
一体全体どういうことなのかしらね。フッと自嘲の笑みをこぼして、暗い瞳で呟くとジェネヴィエーヴは口を噤んだ。
 曾祖母の日記によると信じると信じざるとにかかわらず、ナイトリー侯爵家に入った女性たちは、義母から“ナイトリー侯爵家の呪い”なるものを聞かされていたという。

 ジェネヴィエーヴは今までにない怒り覚えていた。そして心の中では何度もある感情が、疑問が渦巻いていた。
――お父様は・・・
 思わず言葉があふれ出そうになる度に、ぐっと唇を噛んでそれを飲み込む。認められない、信じたくない。父はこのことを既に知っていたのではないか。爵位の継承者たる彼が家門の存続に関わる秘事を知らないなどということがありうるだろうか。
「ジェネヴィエーヴ様は恐れていらっしゃるのですね」
 静まり返った室内に、アリアの台詞がポツリと響いた。ジェネヴィエーヴは顔を覆っていた手をはずすと、疲れ切った表情で彼女を見返した。
「私は――」
 私は怒っているのよ、そう続けようとしてジェネヴィエーヴは言葉を止めた。不快気に眉を寄せると、口元に指を持っていく。
「不安そうな怯えた表情をなさっています」
 不安?怯え?一体どこにそんな感情が?
アリアの言葉に困惑した様子で顔を向けたジェネヴィエーヴにアリアは頷いた。説明を求める様に視線を彷徨わせた彼女に、ノクターンが、恐れながらと口を開く。彼はアリアもきっと自分と同じ意見だろうと前置きすると、ひたりとジェネヴィエーヴの瞳を見据えた。
「閣下がジェネヴィエーヴ様を欺くことなどありえません」
 ナイトリー侯爵が愛娘のジェネヴィエーヴを裏切ることなど決してありえない。いかなる大義が存在しようと、その一点だけは揺らぐことはない。ノクターンはそう言い切った。
 彼の言葉に大きく頷きながらアリアが両手でジェネヴィエーヴの手を包み込む。ジェネヴィエーヴは瞳を揺らすとアリアとノクターンを交互に見つめた。
「隠蔽された如何なる悪意が明らかになろうとも、閣下や私たちがジェネヴィエーヴ様に欺瞞を働くことはありません」
 未来永劫あり得ぬことです、ノクターンは頬を染め、膝に置いたこぶしを握り締めながら熱っぽく力説した。
張りつめていた緊張の糸が漸く解けていく。
 ジェネヴィエーヴの変化に気付いたアリアはちょっと笑みを浮かべると、包み込んでいた彼女の手を持ち上げると自らの頬にそっとあてがった。温かく柔らかな触感に、ジェネヴィエーヴの手先がピクリと動いた。
「私たちはジェネヴィエーヴ様を心の底からお慕いしております。ですから、ジェネヴィエーヴ様は何があってもジェネヴィエーヴ様に深い愛情を寄せる存在がいるということをお忘れにならないでください」
 真っ直ぐに視線を合わせながら恥ずかしげもなく告げられた台詞に、ジェネヴィエーヴは目を見開いた。
「そうかしら」
 虚を突かれ、思わずポロリと零れ落ちた言葉にアリアは視線を逸らすことなく、勿論ですと力強く答えた。
ジェネヴィエーヴは、ほぅっと小さく息を零すと睫毛を伏せ、上目遣いにアリアを見遣った。アリアがにっこりと笑顔を向けると、初めて目を細めて微笑んだ。
「心してくださいね。重量級の想いですよ。深い深い愛情が詰まっています。それも、侯爵閣下とノクターンと私の分で、少なくとも3人分もあるんですから」
 誇らし気なアリアの告白に、ジェネヴィエーヴはふっと噴出し、笑声を放った。本当ですよ、超重量級なんですからとなおもアリアが畳みかける。
「そうなの?ほんとうに」
何度も頷いてみせるアリアから、ノクターンに視線を移すと、彼もまた耳まで赤く染て首肯した。彼女は「そうなの」と再び呟くと、小さくため息をついた。
そうして少しの間じっと考え込んでいたが、暫くして窓の外を見遣ると「お父様のもとに参りましょう」と告げた。


 ナイトリー侯爵は邸宅からの報せを確認するとその晩は王宮の執務室で夜を明かした。一晩中消えることのない灯りのもとで黙々と書類に向き合っていたが、翌朝登庁してきた次官に決済の終了した文書の山を委ねると、さながらつむじ風の速さで愛娘の待つ邸宅へと戻って行った。
「少しでもお休みにならずともよろしかったのですか」
ジェネヴィエーヴは父親が時を置かずに書斎に迎え入れてくれたことに感謝しつつも、常に重責を担い多忙を極める彼の一時の休息の時間を奪うことを気遣った。ナイトリー侯爵は彼女と向き合って腰かけながら、問題ないと首を振り、寝不足と疲労にやつれたジェネヴィエーヴ様子に心を痛め、わざわざ伝令を寄こすほどの事態とは如何なるものかと優しく問いかけた。
そうしてジェネヴィエーヴから事の次第を聞き終えると、最古参の臣下であり信頼の置ける家令のサー・セドリックを振り返った。
あの時母が述べていた内容を覚えているかと問われたサー・セドリックは、主人の短い問いに僅かに考える様子を見せたが、直ぐにその意図を了解した。
「――大奥様は、それならばよかった、と仰せでした」
 彼の返答を受けてナイトリー侯爵はきつく眉根を寄せた。あまりに簡潔な問答に、ジェネヴィエーヴが首をかしげる。アリアとノクターンもまた主従が一体何を了解し合ったのかわからず顔を見合わせた。
「産まれたのが娘であるならば何の問題もない」
 十数年前、先代侯爵夫人は初孫の誕生に際してそう言って満足げに微笑んだ。
 ナイトリー侯爵家では長らく亡き先代の侯爵夫人の話題は禁忌となっていた。先代公爵夫人は生涯にわたって息子の一度目の結婚を認めなかった。婚姻をめぐる母子の懸隔は両者の仲に長く影を落とし、新婦が産褥に命を落とすに至っていよいよ溝は深まった。肉親の温度は消え去り、冷淡な礼節と義務感だけが両者を繋ぐ唯一の絆となった。それは侯爵夫人の死を以ってしても癒えぬ傷として息子の胸に遺されていたが、母に強制され無関心と無視のもとに迎えた後妻が愛する亡妻の遺したたった一人の娘を虐げ、娘が死の危機に瀕するに及んで、とうとうナイトリー侯爵の心は憎悪に染まった。
 それでもまだ娘が生まれる頃には母との関係をいつかは修復し、自分たち若夫婦を認め新たな家族を祝福して欲しいと希求していたから、ナイトリー侯爵としては娘の誕生の一方に接した母の反応を訝しく思ったものだった。軽々しい結婚だと最期まで許可せず、生まれてくる子どもをナイトリー侯爵家の跡継ぎとして認めないとまで言い切っていた母である。「生まれた子が跡目を継ぐべき男子ではないからよかった」そういう意味だろうか。そのように母親の意図を推量しながらも、漠然とした不安がナイトリー侯爵の胸に残り続けていた。
それは母親と顔を合わせた時に確信に変わった。母親の泰然としたどこか満足げな様子を目前にして、ナイトリー侯爵の不快感は際限まで高まった。母は最期まで真意を語ろうとはしなかったが、それが今このような形で判明するこになるとは。十数年来の謎がとうとう解明されたのだ。
だがよりにもよって、ジェネヴィエーヴの口から「娘でよかった」という言葉が真に示すところを知ることになろうとは。ナイトリー侯爵はいよいよ険しく顔をしかめ、白くなるほど拳をきつく握りしめた。
 ジェネヴィエーヴは父の様子に、やはりそうであったかと目を伏せた。予想はしていたものの、胸にじくじくとした痛みが広がり苦い感情がこみ上げてきた。
 でも、堪えられぬ程ではない。祖母から誕生を望まれず、ましてや遠くない未来に訪れるであろう無惨な死を祝われていたという事実は、心に傷を負うことを避けるべくもなかった。それでもジェネヴィエーヴは彼女の心が確かな愛情で護られていることを感じていた。
今や彼女の膝に置かれた両手にはアリアの手が重ねられていた。左隣に腰掛けたノクターンもまた気遣わし気に彼女を見つめている。二人はピタリと寄り添い、さながら寒風から雛鳥を守ろうとする親鳥のようであった。
そして目の前には心痛に顔を歪めている父親の姿があった。ナイトリー侯爵の様子は彼がこの事実を今まで知らなかったことを如実に表していた。
「ご存じなかったのですね」
 娘の問いかけに苦し気に頷いたナイトリー侯爵に、ジェネヴィエーヴは安堵の息をついた。ナイトリー侯爵が明らかにされた秘密に苦しみ心を乱しているのは明白だった。彼は心底苦しんでいた。そしてその事実こそが深い悲しみと絶望から彼女の心を護る堤となっていた。ナイトリー侯爵の苦痛は全てジェネヴィエーヴに対する愛情ゆえであり、彼女もまたそれを確信していた。皮肉なことに打ちのめされる父親を前にして、それ故にジェネヴィエーヴは父の愛情の深さを心に刻み込んだ。
このような悲惨な事実を知った瞬間に、彼女は微笑みさえ浮かべていた。今や彼女は愛情という大いなる手によって、悪意から守られているのだ。呪いという残忍な真実ですら彼女の心を脅かすことはできなかった。もし仮に将来ジェネヴィエーヴが不幸な呪いによる不安に押しつぶされそうな瞬間が訪れようとも、この守護者がきっと彼女に寄り添いその懼れ凍える心を守ってくれることだろう。彼女は確信していた。そしてそのような自分の変化に驚き、同時に限りない喜びを感じていた。

こうなっては今この時、最も苦痛に心を痛めていたのはナイトリー侯爵であった。ジェネヴィエーヴの言が確かならば、いや疑うべくもないことであるが、彼の母はナイトリー侯爵家に生まれる娘たちの辿る残酷な運命を承知していたことは間違いない。家門の秘事は代々のナイトリー侯爵夫人からその時代の夫人へと、口伝で継承されていた。それにも拘らず、母は全て承知の上で口を噤み続けていたのだ、とナイトリー侯爵はきつく奥歯を噛みしめた。
――敢えて私に告げなかったのだ!!家門の後継者であり、娘の父親たるこの自分に!
母親の感情に任せた恣意的な秘密の隠蔽により、愛娘のために自分はどれほどの時間を浪費してきたのだろう。そのように彼は肩を震わせていたが、このような評価は先代侯爵夫人にとっては酷なものであったかもしれない。彼女は意図的に事実を隠ぺいしたが、決して悪辣な人物ではなかった。多分に権威主義で家門の名誉に拘泥するきらいがあったことは確かだが、もし彼女がただのナイトリー夫人でありさえすればこのような冷酷な判断を下すことはなかっただろう。ナイトリー侯爵母子はお互いを理解することを拒み続けた。そこにこの親子の哀しみがあった。
 話を戻すが、ジェネヴィエーヴの想像していた通り、仮にナイトリー侯爵がこの秘密を一端でも母親から耳にする機会を得ていたとすれば、彼は必ずそれを打ち破ろうと手を尽くしたことだろう。彼にとって今やジェネヴィエーヴこそが唯一血を分けた家族であり、愛する妻の残した愛し子であった。だからそこ、先代侯爵夫人は息子にその事実を告げなかったのだ。
 ナイトリー侯爵はジェネヴィエーヴが先程まで腰かけていたソファを見つめたままで、家令に記録を用意するように命じた。家令が首を垂れきびすを返そうとした時、ナイトリー侯爵はふと視線を上げて振り返らぬままに問いかけた。
「確か、あの女に母上が何か言っていなかったか」
 吐き捨てる様な言葉に家令がハッと動きを止めた。“あの女”つまりグローリアは一時、前侯爵夫人の意向でアクランドから継室に収められた人物であり、ジェネヴィエーヴを虐待した張本人である。これまでナイトリー侯爵が彼女の名を口にすることは絶えてなく、葬られたに等しい話題の一つであった。
「恐れながら」
 家令の返答にナイトリー侯爵は一層眉間の皺を深くした。
 過去、ナイトリー侯爵はグローリアを妻として遇したことは一度たりとしてなかった。式場にさえ彼は姿を現さなかったから、新婦としての面子をつぶされたグローリアは荒れ狂いあわや破談となりかけたところをなんとか先代侯爵夫人が取り持ったのである。彼女にとっては瑕疵一つない名門の娘こそが第一の目的であった。
結婚後も別居を貫き本邸に寄り付かず冷淡な無関心を貫くナイトリー侯爵にグローリアは怒り、幾度となくその感情を爆発させたが、その度に義母となった先代侯爵夫人が彼女の心を宥めた。
 ナイトリー侯爵は母の思い通りになるつもりは毛頭なくグローリアへの態度を改めることを意とすることも微塵もなかった。没交渉を貫くことこそ彼の本意であったが、防衛心と大いなる嫌悪感から母の言動を監視させていた。ナイトリー侯爵の住まう別邸から、先代侯爵夫人とグローリアのいる本邸へのスパイを取りまとめていたのが家令のサー・セドリックであった。
 グローリアは本邸に寄り付かない夫に焦りを感じていた。ジェネヴィエーヴを疎ましく思っており、危機感と共に何度も義母に零していたようである。
「その度に亡き大奥様は、男の子さえ産めば万事解決する。娘が問題になることはあり得ぬのだから捨て置くようにと仰でした」
 なおもグローリアが食い下がり、仮に自分が今後子を産んだとして、それが娘であったならばジェネヴィエーヴが障碍となりうると怒り交じりに述べると、先代侯爵夫人は「ありえない、無意味な問いはやめるように」とぴしゃりと言ってそれ以上は口を噤んだという。
「報告を受けた際は後ろ盾の盤石な子と、そうでない場合を比較しているのかと解釈しておりました」
当時は、アクランド公爵家の母を持つ子と、亡命貴族の母親もつジェネヴィエーヴ、彼女の立場の脆弱さを指摘した台詞だと解釈した。無理もない、家令を非難することはできなかった。真実が明らかになった今では、長年ナイトリー侯爵家の家政を取りまとめてきた先代侯爵夫人が一枚も二枚も上手であったことが分かる。彼女は敢えて誤解を招く言葉を選び、意図的に情報を制御していたのだ。
深謝する家令によいと僅かに手を振ると、ナイトリー侯爵は立ち上がって執務机へと向かった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

大根令嬢の雑学無双、王弟殿下を添えて。~ 前世を思い出したので、許婚をほったらかして人助けしまくります!!

古森真朝
恋愛
気弱な伯爵令嬢のカレンは、自分勝手な婚約者レナートに振り回されていた。耐え続けていたある日、舞踏会で何者かに突き飛ばされ、階段から落ちてしまう。 その傷が元で儚く……なるかと思いきや。衝撃で前世を思い出したカレンは一転、かの『ド根性大根』みたいな超・ポジティブ人間になっていた。 『モラハラ婚約者の思惑なんぞ知るか!! 今度こそ好きなことやって、目いっぱい幸せに長生きするんだから!!!』 昔ひたすら読書に耽って身に着けた『雑学』を武器に、うっかり採れ過ぎた作物や、開墾しようとすると不幸に見舞われる土地、不治の病にかかった王族、等々の問題をどんどん解決。 領地の内外で心強い友人が出来たり、いつの間にかものすごく有名になっていたり、何かと協力してくれる王弟ヴィクトルから好意を寄せられたり(注:気付いてない)する中、温かい家族と共に仕事に励んでいく。 一方、前世から因縁のある人々もまた、こちらに転生していて――

ゲーム未登場の性格最悪な悪役令嬢に転生したら推しの妻だったので、人生の恩人である推しには離婚して私以外と結婚してもらいます!

クナリ
ファンタジー
江藤樹里は、かつて画家になることを夢見ていた二十七歳の女性。 ある日気がつくと、彼女は大好きな乙女ゲームであるハイグランド・シンフォニーの世界へ転生していた。 しかし彼女が転生したのは、ヘビーユーザーであるはずの自分さえ知らない、ユーフィニアという女性。 ユーフィニアがどこの誰なのかが分からないまま戸惑う樹里の前に、ユーフィニアに仕えているメイドや、樹里がゲーム内で最も推しているキャラであり、どん底にいたときの自分の心を救ってくれたリルベオラスらが現れる。 そして樹里は、絶世の美貌を持ちながらもハイグラの世界では稀代の悪女とされているユーフィニアの実情を知っていく。 国政にまで影響をもたらすほどの悪名を持つユーフィニアを、最愛の恩人であるリルベオラスの妻でいさせるわけにはいかない。 樹里は、ゲーム未登場ながら圧倒的なアクの強さを持つユーフィニアをリルベオラスから引き離すべく、離婚を目指して動き始めた。

転生ヒロインは悪役令嬢(♂)を攻略したい!!

弥生 真由
恋愛
 何事にも全力投球!猪突猛進であだ名は“うり坊”の女子高生、交通事故で死んだと思ったら、ドはまりしていた乙女ゲームのヒロインになっちゃった! せっかく購入から二日で全クリしちゃうくらい大好きな乙女ゲームの世界に来たんだから、ゲーム内で唯一攻略出来なかった悪役令嬢の親友を目指します!!  ……しかしなんと言うことでしょう、彼女が攻略したがっている悪役令嬢は本当は男だったのです! ※と、言うわけで百合じゃなくNLの完全コメディです!ご容赦ください^^;

捨てられ侯爵令嬢ですが、逃亡先で息子と幸せに過ごしていますので、邪魔しないでください。

蒼月柚希
恋愛
公爵様の呪いは解かれました。 これで、貴方も私も自由です。 ……だから、もういいですよね? 私も、自由にして……。 5年後。 私は、ある事情から生まれ育った祖国を離れ、 親切な冒険者パーティーと、その地を治める辺境伯様のご家族に守られながら、 今日も幸せに子育てをしています。 だから貴方も勝手に、お幸せになってくださいね。 私のことは忘れて……。 これは、すれ違いの末に離れ離れになった夫婦の物語。 再会したとき、二人が選ぶのは「離婚」か、それとも「再構築」か。 妻を一途に想い続ける夫と、 その想いを一ミリも知らない妻。 ――攻防戦の幕が、いま上がる。

なりゆきで妻になった割に大事にされている……と思ったら溺愛されてた

たぬきち25番
恋愛
男爵家の三女イリスに転生した七海は、貴族の夜会で相手を見つけることができずに女官になった。 女官として認められ、夜会を仕切る部署に配属された。 そして今回、既婚者しか入れない夜会の責任者を任せられた。 夜会当日、伯爵家のリカルドがどうしても公爵に会う必要があるので夜会会場に入れてほしいと懇願された。 だが、会場に入るためには結婚をしている必要があり……? ※本当に申し訳ないです、感想の返信できないかもしれません…… ※他サイト様にも掲載始めました!

転生しましたが悪役令嬢な気がするんですけど⁉︎

水月華
恋愛
ヘンリエッタ・スタンホープは8歳の時に前世の記憶を思い出す。最初は混乱したが、じきに貴族生活に順応し始める。・・・が、ある時気づく。 もしかして‘’私‘’って悪役令嬢ポジションでは?整った容姿。申し分ない身分。・・・だけなら疑わなかったが、ある時ふと言われたのである。「昔のヘンリエッタは我儘だったのにこんなに立派になって」と。 振り返れば記憶が戻る前は嫌いな食べ物が出ると癇癪を起こし、着たいドレスがないと癇癪を起こし…。私めっちゃ性格悪かった!! え?記憶戻らなかったらそのままだった=悪役令嬢!?いやいや確かに前世では転生して悪役令嬢とか流行ってたけどまさか自分が!? でもヘンリエッタ・スタンホープなんて知らないし、私どうすればいいのー!? と、とにかく攻略対象者候補たちには必要以上に近づかない様にしよう! 前世の記憶のせいで恋愛なんて面倒くさいし、政略結婚じゃないなら出来れば避けたい! だからこっちに熱い眼差しを送らないで! 答えられないんです! これは悪役令嬢(?)の侯爵令嬢があるかもしれない破滅フラグを手探りで回避しようとするお話。 または前世の記憶から臆病になっている彼女が再び大切な人を見つけるお話。 小説家になろうでも投稿してます。 こちらは全話投稿してますので、先を読みたいと思ってくださればそちらからもよろしくお願いします。

記憶を失くして転生しました…転生先は悪役令嬢?

ねこママ
恋愛
「いいかげんにしないかっ!」 バシッ!! わたくしは咄嗟に、フリード様の腕に抱き付くメリンダ様を引き離さなければと手を伸ばしてしまい…頬を叩かれてバランスを崩し倒れこみ、壁に頭を強く打ち付け意識を失いました。 目が覚めると知らない部屋、豪華な寝台に…近付いてくるのはメイド? 何故髪が緑なの? 最後の記憶は私に向かって来る車のライト…交通事故? ここは何処? 家族? 友人? 誰も思い出せない…… 前世を思い出したセレンディアだが、事故の衝撃で記憶を失くしていた…… 前世の自分を含む人物の記憶だけが消えているようです。 転生した先の記憶すら全く無く、頭に浮かぶものと違い過ぎる世界観に戸惑っていると……?

悪役令嬢ですが、ヒロインの恋を応援していたら婚約者に執着されています

窓辺ミナミ
ファンタジー
悪役令嬢の リディア・メイトランド に転生した私。 シナリオ通りなら、死ぬ運命。 だけど、ヒロインと騎士のストーリーが神エピソード! そのスチルを生で見たい! 騎士エンドを見学するべく、ヒロインの恋を応援します! というわけで、私、悪役やりません! 来たるその日の為に、シナリオを改変し努力を重ねる日々。 あれれ、婚約者が何故か甘く見つめてきます……! 気付けば婚約者の王太子から溺愛されて……。 悪役令嬢だったはずのリディアと、彼女を愛してやまない執着系王子クリストファーの甘い恋物語。はじまりはじまり!

処理中です...