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廃妃の呪いと死の婚姻9―1
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廃妃の呪いと死の婚姻9―1
愛しいエディ
そう始められた手紙の端々からは、宛て人に対する書き手の愛情が感じられた。健やかに過ごしているか、歴代の国王とその御代における主な事績はもうすっかり覚えてしまったのか、愛らしいポニーには何という名前を付けてあげたのかというような、何でもない穏やかな日常を髣髴とさせる内容が書き連ねられていた。あまり乳母やじいやを困らせてはいけませんよとたしなめる部分には、相手は幼い男の子なのだろう。腕白なの年頃の少年と、めったに会うことができない年の離れた近縁の婦人、そんな関係性がうかがえた。
静寂の中、壁に掛けられたその手紙を見つめるジェネヴィエーヴに、一座の視線が集まっていた。彼女は片側から灼けるような視線を感じながら、敢えて沈黙を保っていたが、やがて僅かに苦笑の入り混じった表情を浮かべた。
フェラーズ家の者達は私に何を言わせたいのだろうか。世故に疎く、社交の駆け引きなど無縁の人生を送ってきた彼女には彼らの求めることが分からなかった。ただ、どこか込みあがってくる苦い思いを吐露することで、彼女は答えたが、それが果たして彼らの期待するに適っていたかどうか。彼等の内の一人はギクリと肩をふるわせ、また一人は彼女を食い入るように見つめた。
「これは姉妹から弟に宛てられた手紙ですね」
ジェネヴィエーヴの静かながら断定する口調に部屋の空気が痙攣した。
「何故、そうお考えになったのかうかがってもよろしいでしょうか」
心なし緊張を帯びたケイ・フェラーズの言葉に、ジェネヴィエーヴは小さく頷くと、思わし気に首を少し傾げて、そっと指先を額縁に近づけた。
「古い手紙です。流麗な書体ですが、古めかしい文体に、所々に現在とは異なる綴りが散見されます。これを考察するには十年二十年といった単位ではなく、それ以上の年月を遡る必要があるでしょう。これほど丁寧に額装されていますから、直接触れることは叶いませんが、よくよく観察してみると、紙自体も現代我々が用いているものに比較して、非常に分厚く、ゴワゴワとしていて端端には繊維のようなものを見て取ることができます」
「ありふれた手紙です。筆跡も、そう特徴があるわけではありません」
「多くの人々にとってはミスター・フェラーズの仰る通りでしょう」
しかし、と尚も言いつのろうとする彼の機先を制するように、ジェネヴィエーヴは言葉を重ねた。
「しかしながら、私にとっては非常に特別な品です。これと同じものを、つまり同様の素材と品質の紙を用いた全く同じ書き手の筆と思われる書簡を、屋敷の・・・書庫で目にしたことがあります」
ミスター・フェラーズはハッと息を殺した。
「この筆跡を私が見間違えるはずがありません」
ジェネヴィエーヴはきっぱりと首を振った。
「何年もの間、来る日も来る日も見つめ続けてきた人の手紙です」
共に育った双子の姉妹であるクリスティーンだけは水茎の流れが非常に似通ってはいたが、筆の運びや特徴的な綴りの特徴が決定的に異なっていた。王室に入るに当たり、生来の癖を徹底的に矯正したのだろう。クレメンティーンの筆跡は気品がありながらも流麗で、しかし妹のものと比較してより型に嵌った印象を覚えた。それに引き換えクリスティーンのものはというと、彼女の筆跡には個性的な美しさがあり、それを誇るようなところがあった。後半生の筆致は見るに堪えない荒寥としたものであったが、若き日の伸びやかな文体には確かに彼女の自負と才能が現れていた。
「ここに」
ジェネヴィエーヴは額の下方にそっと指を滑らせた。触れるかどうかというギリギリのところで手を止めると、「きっとこの後には署名が続いていたはずです」と言い、言葉を切った。
ゴクリとケイ・フェラーズの喉が鳴る。
「なんと続くとお考えですか」
半ば囁くような問いに、ジェネヴィエーヴは彼の目をしっかりと見返して告げた。
「『クレメンティーン』と記されていたはずです。これは王妃であった彼女の手紙に違いありません」
恥辱に満ちた廃妃としての彼女ではなく、高貴な燦然たる敬称を以って彼女を呼んだ彼女の意図に彼らならばきっと気付くだろう。彼女は静かに微笑んだ。
フェラーズ家の居間には、奇妙な緊張が漂っていた。ジェネヴィエーヴの両脇にピタリと寄り添ったアリアとノクターンの表情もどこか。
「どのようなおつもりか、お聴きしてもよろしいでしょうか」
お話しくださいますね、有無を言わさぬ口調でジェネヴィエーヴは彼らを見つめた。ケイ・フェラーズは重々しく頷くと、彼女を試すような真似をした非礼を、彼は家族を代表して謝罪した。眉を顰めたアリアが口を開こうとしたが、ジェネヴィエーヴがそれを制した。ケイ・フェラーズは彼女の配慮に重ねて礼を述べ、壁から外した件の手紙をテーブルに広げてみせた。手紙の下からは二枚目の手紙が現れたが、末尾にはジェネヴィエーヴが指摘したその人の署名が記されていた。
「なぜこの書簡を我が家が所有しているのかご不審だと思います」
「さあ、御父君の遺した収集物だと仰るのであれば、我々としては納得せざるを得ません。ですが、そうではないのでしょう?」
「――はい」
もはやケイ・フェラーズは緊張を隠すことはできなくなっていた。慎重に言葉を選ぶ様は普段の彼とは遠く隔たっていて、これから展開される話題がいかに彼ら一家にとって重要な事柄であるかを証明していた。
「この手紙は、代々当主に伝わってきたものの一つです」
彼は、代々、というところをあえて強調してみせた。
「随分と古いもののようです。さぞかし大切なものなのでしょうね」
「仰る通りです」
「それほど大切なものを拝見する機会をわざわざ設けてくださった、ご厚意をどのように受け止めるべきでしょうか」
彼等の訪問に合わせて敢えて珍奇な品を開陳してみせた、その意図は何か。
「爵位すら持たず、ようやく中流階級の体裁を保っているような我が家が所有するには身に余るものだとお考えになっても不思議ではありません」
「そうですね。不思議です。なぜ、このような迂遠な方法を採ったのか疑問に思います」
出来ることでしたら、私達の間柄ですもっと率直に話してくれると嬉しいと彼女は告げた。
「高貴な身分の姉から宛てられた手紙が弟の子孫に伝わったとしても、それは全く自然な成り行きに思われます。ですから、遠い従妹の訪問にこのような場を設けてくださったことに、感謝こそすれ、不審に思うなどありえぬことです」
「既に確信をもっていらっしゃるのですね」
彼女の台詞にフェラーズ一家の顔つきが変わった。抑え切れぬ興奮を何とか面に出さずにしようとするあまり、彼等は青ざめてすら見えた。
ケイ・フェラーズは絞り出すようにようやく口にしたが、様々な感情が彼の胸に去来し渦巻き形を結ぶことはなかった。
「奇跡的に残っていた資料から推測したのです」
ジェネヴィエーヴは彼の疑問と不安を和らげたい一心で慎重に言葉を続けた。どうすれば彼から真実をを引き出すことが出来るのだろうか。
後になって思い返すと、この時のジェネヴィエーヴは人生で初めて経験する、非常時にあって、これまでにない精神的な昂ぶりと、抑圧された疲労に無自覚ながら影響されていたのだろう。イライラと左手の指でもう片方の人差し指をギュッと握りしめた。
「容易く口の端に乗せることはできません。双方にとって、対外的に慎むべき事柄でしょう」
繊細(デリケート)な話題ですから。そう彼女が口にすると、ケイ・フェラーズの顔に影が差しが、瞬く間に消え去っていった。彼の傍に腰かけていたミス・フェラーズの面もちも硬くこわばった様だった。不審にジェネヴィエーヴが眉を顰めるよりも早く、ミスター・フェラーズが
「確かに、微妙(デリケート)な、問題です」
と、どこか痛みを堪えるような苦い笑みを浮かべながら口にした。
そんな息子の腕にフェラーズ夫人がそっと触れると、彼はビクッと肩を震わせ、眼差しを下げた。固く唇を閉じたフェラーズ夫人は何事か訴えるかのような表情を浮かべていた。
確かに、今この瞬間、何らかの逆鱗に触れたことをジェネヴィエーヴは悟った。
常に柔和な彼の初めて見せる表情に、彼が初めて素顔を見せようとしていることを彼女は感じた。俄かに場を覆った剣呑な雰囲気に、ノクターンとアリアが身をこわばらせ、我知らずジェネヴィエーヴを守るように僅かに身を乗り出した。
「殿下はご存じなのでしょうか。つまり、我々の家の事情を」
フェラーズ一家は遡れば誅滅せられた叛徒の末裔であり、それを意図的に隠匿して、大胆なことに王子の教育を担おうとするこの妄動は、王室を欺く行為と言わずして何と言おうか。
蒼白な彼らを前にして、ジェネヴィエーヴは否、と首を横に振った。
「ことこの事柄に関して殿下にお話ししたことは未だ一度たりともありません。そして今後も私の口から語られることはないでしょう」
いずれ時宜を得た時に、彼から告げるべきことである。ジェネヴィエーヴの目から見ても、彼らの間には身分を超えた尊敬や、ある種友情のようなものがあると感じていた。彼らが求めない限り、それに水を差すような行為は僭越以外の何物でもない。
「これまでの研究や我が家への援助についても――」
ケイ・フェラーズの言葉は形にならず、徐々に萎んでいった。彼の顔色の暗さは苦衷に満ちたその心情を語っていた。
「この状況では、そう感じるのもむべからぬことでしょう。しかし、底意があってのものではありません」
「断言なさるのですね」
信じていただくほかありませんが、とジェネヴィエーヴは前置きした。
「我が家とそちらの御家の関係性は、貴方に目を向ける契機はなりましたが、研究を後押ししたいと思ったのは純粋な関心からです」
そもそも、と、ジェネヴィエーヴは淡々と続けた。
「仮にこれまでの厚意が同情から発したものであったとしたら、それは上辺ばかりの金銭的な援助に留まったはずです。私には無価値なことに割くことのできる余裕など与えられていません」
薄い笑みを浮かべると、それはこの二人が証明してくれるでしょうと言って、彼女はアリアとノクターンに視線を向けた。
「あのナイトリー侯爵の一人娘が幼い頃から病弱で、日常生活すらままならないことは、公然の事実ですから」
一年の内に彼女の思い通りになる時間がどれだけ限られていることか。数え上げるまでもなかった。一日部屋の外で過ごせた日があれば、その後数日はベッドから頭を上げることはできない。ジェネヴィエーヴの日常は総じてそのようなものだった。午前中は健やかに過ごせたとしても、夕食の時間には病を発しているといった有様なのだ。その上、近頃は夢の中でもまんじりとできない夜を過ごしている。
「ここ数年はひどいものです。枕に頭が触れていない時間が一日の内にどれほどあったでしょうか。食堂で食事をしたことなど、ひと月に両手の指に余る程です」
ミスター・フェラーズもご存知でしょう?皮肉気にそう指摘すると、虚を突かれたケイ・フェラーズは言葉もなく瞬きを繰り返した。
「私にとって健やかな時間とは浪費すべからざるものなのです。外出などその最たるもの。余暇等ございませんから、私が直接出向いたり、顔を合わせながらお話を伺ったりすることは非常に稀なことなのです。私にとって貴重で価値のある事だと判断できなければ、決して私は貴重な時を浪費することなどなかったでしょう」
彼女は言葉を止めることができなかった。ふっ、と自嘲するように僅かな笑みが片頬に浮かぶ。だがこれだけはどうしても理解してもらわねばならなかった。彼女は一呼吸置くと、ミスター・フェラーズには度々お会いいたしましたと口にした。
「私の記憶の限りにおいて、あなたは殿下に次いで多くの時間を過ごした方です」
健康が優れず、高位貴族令嬢としての社交すら制限せざるを得ない状況下で、婚約者であるクラレンスには及ばぬまでも、家族を除いて、最も多く会う機会を設けた相手である。それはとりもなおさず、彼女の彼への厚意が彼の研究に対する純粋な興味関心と、浅からぬ尊敬に裏打ちされたものであることを示していた。
ミスター・フェラーズの頬は徐々に生気を取り戻していった。彼は赤く染まった顔を手で口元を覆うと、羞恥と感謝に瞳を揺らした。
「大変な無礼を申しました。申し訳ございません」
どうか非礼をお許しください。深く首を垂れた彼が、椅子から降りて膝をつこうとするのを、ジェネヴィエーヴは手で制した。
「ご理解くださればよろしいのです。私もいささか感情的になりました」
彼が席に戻った機会を捉えて、アリアが極めて穏やかな口調で、フェラーズ夫人と呼び掛けた。彼女はじっと口を閉じたままジェネヴィエーヴとミスター・フェラーズとのやり取りを聞いていたが、徐々に熱を帯びていくやり取りの途中で、そっとジェネヴィエーヴの手に自らの手を重ねていた。
「よろしければ、お茶のお代わりを戴けませんか」
彼女の言葉にフェラーズ夫人はハッと顔を上げた。
「えぇ、あら、これは気が付きませんで申し訳ありません。すぐに準備いたします」
青ざめた顔で、ハラハラしながら息子のやり取りを見つめていたフェラーズ夫人は、ほっと息をつくと娘を伴って席を立った。
彼女たちが扉から出て行くのを見送ると、アリアは両手でジェネヴィエーヴの手を包み込むと、眉根を下げた。
「指先が冷えてしまいましたね」
自分が思っていた以上に緊張していたのだろう、ジェネヴィエーヴはアリアの手の温かさに目を細めた。
「こちらをお使いください」
どこから取り出したのか、ノクターンがサッと温かなブランケットを拡げてジェネヴィエーヴの膝に掛けた。
「あら、大丈夫よ。そこまでしなくても」
苦笑するジェネヴィエーヴにノクターンは、いけませんと眉を顰めてみせた。
「ご自分でも仰っていたではありませんか。ジェネヴィエーヴさまの体調は秋の空の様に移り変わるのだと」
「暖炉に薪を足しましょう」
ミスター・フェラーズまでが再び席を立って、暖炉の前でかがみこんだ。
ノクターンは彼の横で、熱した火箸で炎を掻き立てていたが、ジェネヴィエーヴの視線に気づくとほほ笑んで、ミスター・フェラーズに向かって火の粉を遮る衝立をもう少しずらしてくれと頼んだ。
「それにしても、家の大きさに比べて人手が足りないのではないかい?お茶の用意も夫人手ずからしていただいているようだし」
「ノクターン」
彼らしからぬ、随分と家庭の事情に踏み込んだ質問をするものだと目を見開いて名を呼ぶと、ノクターンはクスリと意味ありげな笑みを浮かべた。
「馬車で通りかかった耕作地はこの家の所有地だろう。畑や庭園には大勢の小作人や庭師たちが作業していたのに、家の中には極端に人が少ない、というよりも全く気配すら感じないことが気になってね。これだけの規模の家屋敷ならば、当然相応のメイドなり従僕なりがいるはずなのに」
不躾なミスター・フェラーズは気分を害した様子もなく困ったように頷いた。
「ああ、その通りです。できる限り家の中では使用人を雇わないようにしているんですよ。勿論、炊事場などは別ですけれどね」
配慮が行き届かないところがあったでしょうが、どうかお許しください、と彼はジェネヴィエーヴに向かって頭を下げた。
「とんでもない。とても快適に過ごすことができていますわ。それに、お家それぞれのご事情がおありですものね?」
「そうおっしゃっていただけると幸いです。実はこれは我が家の規則の一つなのです」
「メイドや従僕を雇わないことが?」
「はい。『家の中で雇うこと』に限ってですが」
おかしな規則でしょう、とほほ笑んだ。
「我が家の祖先は子孫に家庭内に他人を入れることを禁じてきました。特に寝室や居間、書斎への入室は決して許すべきではないと固く決められてます」
「それは・・・」
ジェネヴィエーヴとアリアは顔を見合わせた。
「このほかにも、大規模なパーティーを開いてはいけませんし、来客も必要最低限に限るようにと定められています」
「家の外への出入りはいいけれど、内へ招き入れることを極端に恐れているといった風だね」
ノクターンが顎に手を当てながらが指摘すると、ミスター・フェラーズはその通りだと頷いた。
「随分と用心深い」
苦笑する相手に、ミスター・フェラーズは首を振った。
「そうせざるを得なかったのだと思います」
「ふうん。ではフェラーズ君、僕が言えたことではないが、初対面の頃、なかなか打ち解けてくれないものだから、君とは近づきになるまでには随分骨が折れたものだ。それも先祖代々のいいつけだったのかな」
親しみのこもった揶揄いの言葉に、ミスター・フェラーズはそれは面目ないと眉尻を下げた。そうして、ミスター・フェラーズが初めて穏やかな笑声を上げたとき、フェラーズ夫人とミス・フェラーズがお茶と温かな焼き菓子を持って姿を現した。
愛しいエディ
そう始められた手紙の端々からは、宛て人に対する書き手の愛情が感じられた。健やかに過ごしているか、歴代の国王とその御代における主な事績はもうすっかり覚えてしまったのか、愛らしいポニーには何という名前を付けてあげたのかというような、何でもない穏やかな日常を髣髴とさせる内容が書き連ねられていた。あまり乳母やじいやを困らせてはいけませんよとたしなめる部分には、相手は幼い男の子なのだろう。腕白なの年頃の少年と、めったに会うことができない年の離れた近縁の婦人、そんな関係性がうかがえた。
静寂の中、壁に掛けられたその手紙を見つめるジェネヴィエーヴに、一座の視線が集まっていた。彼女は片側から灼けるような視線を感じながら、敢えて沈黙を保っていたが、やがて僅かに苦笑の入り混じった表情を浮かべた。
フェラーズ家の者達は私に何を言わせたいのだろうか。世故に疎く、社交の駆け引きなど無縁の人生を送ってきた彼女には彼らの求めることが分からなかった。ただ、どこか込みあがってくる苦い思いを吐露することで、彼女は答えたが、それが果たして彼らの期待するに適っていたかどうか。彼等の内の一人はギクリと肩をふるわせ、また一人は彼女を食い入るように見つめた。
「これは姉妹から弟に宛てられた手紙ですね」
ジェネヴィエーヴの静かながら断定する口調に部屋の空気が痙攣した。
「何故、そうお考えになったのかうかがってもよろしいでしょうか」
心なし緊張を帯びたケイ・フェラーズの言葉に、ジェネヴィエーヴは小さく頷くと、思わし気に首を少し傾げて、そっと指先を額縁に近づけた。
「古い手紙です。流麗な書体ですが、古めかしい文体に、所々に現在とは異なる綴りが散見されます。これを考察するには十年二十年といった単位ではなく、それ以上の年月を遡る必要があるでしょう。これほど丁寧に額装されていますから、直接触れることは叶いませんが、よくよく観察してみると、紙自体も現代我々が用いているものに比較して、非常に分厚く、ゴワゴワとしていて端端には繊維のようなものを見て取ることができます」
「ありふれた手紙です。筆跡も、そう特徴があるわけではありません」
「多くの人々にとってはミスター・フェラーズの仰る通りでしょう」
しかし、と尚も言いつのろうとする彼の機先を制するように、ジェネヴィエーヴは言葉を重ねた。
「しかしながら、私にとっては非常に特別な品です。これと同じものを、つまり同様の素材と品質の紙を用いた全く同じ書き手の筆と思われる書簡を、屋敷の・・・書庫で目にしたことがあります」
ミスター・フェラーズはハッと息を殺した。
「この筆跡を私が見間違えるはずがありません」
ジェネヴィエーヴはきっぱりと首を振った。
「何年もの間、来る日も来る日も見つめ続けてきた人の手紙です」
共に育った双子の姉妹であるクリスティーンだけは水茎の流れが非常に似通ってはいたが、筆の運びや特徴的な綴りの特徴が決定的に異なっていた。王室に入るに当たり、生来の癖を徹底的に矯正したのだろう。クレメンティーンの筆跡は気品がありながらも流麗で、しかし妹のものと比較してより型に嵌った印象を覚えた。それに引き換えクリスティーンのものはというと、彼女の筆跡には個性的な美しさがあり、それを誇るようなところがあった。後半生の筆致は見るに堪えない荒寥としたものであったが、若き日の伸びやかな文体には確かに彼女の自負と才能が現れていた。
「ここに」
ジェネヴィエーヴは額の下方にそっと指を滑らせた。触れるかどうかというギリギリのところで手を止めると、「きっとこの後には署名が続いていたはずです」と言い、言葉を切った。
ゴクリとケイ・フェラーズの喉が鳴る。
「なんと続くとお考えですか」
半ば囁くような問いに、ジェネヴィエーヴは彼の目をしっかりと見返して告げた。
「『クレメンティーン』と記されていたはずです。これは王妃であった彼女の手紙に違いありません」
恥辱に満ちた廃妃としての彼女ではなく、高貴な燦然たる敬称を以って彼女を呼んだ彼女の意図に彼らならばきっと気付くだろう。彼女は静かに微笑んだ。
フェラーズ家の居間には、奇妙な緊張が漂っていた。ジェネヴィエーヴの両脇にピタリと寄り添ったアリアとノクターンの表情もどこか。
「どのようなおつもりか、お聴きしてもよろしいでしょうか」
お話しくださいますね、有無を言わさぬ口調でジェネヴィエーヴは彼らを見つめた。ケイ・フェラーズは重々しく頷くと、彼女を試すような真似をした非礼を、彼は家族を代表して謝罪した。眉を顰めたアリアが口を開こうとしたが、ジェネヴィエーヴがそれを制した。ケイ・フェラーズは彼女の配慮に重ねて礼を述べ、壁から外した件の手紙をテーブルに広げてみせた。手紙の下からは二枚目の手紙が現れたが、末尾にはジェネヴィエーヴが指摘したその人の署名が記されていた。
「なぜこの書簡を我が家が所有しているのかご不審だと思います」
「さあ、御父君の遺した収集物だと仰るのであれば、我々としては納得せざるを得ません。ですが、そうではないのでしょう?」
「――はい」
もはやケイ・フェラーズは緊張を隠すことはできなくなっていた。慎重に言葉を選ぶ様は普段の彼とは遠く隔たっていて、これから展開される話題がいかに彼ら一家にとって重要な事柄であるかを証明していた。
「この手紙は、代々当主に伝わってきたものの一つです」
彼は、代々、というところをあえて強調してみせた。
「随分と古いもののようです。さぞかし大切なものなのでしょうね」
「仰る通りです」
「それほど大切なものを拝見する機会をわざわざ設けてくださった、ご厚意をどのように受け止めるべきでしょうか」
彼等の訪問に合わせて敢えて珍奇な品を開陳してみせた、その意図は何か。
「爵位すら持たず、ようやく中流階級の体裁を保っているような我が家が所有するには身に余るものだとお考えになっても不思議ではありません」
「そうですね。不思議です。なぜ、このような迂遠な方法を採ったのか疑問に思います」
出来ることでしたら、私達の間柄ですもっと率直に話してくれると嬉しいと彼女は告げた。
「高貴な身分の姉から宛てられた手紙が弟の子孫に伝わったとしても、それは全く自然な成り行きに思われます。ですから、遠い従妹の訪問にこのような場を設けてくださったことに、感謝こそすれ、不審に思うなどありえぬことです」
「既に確信をもっていらっしゃるのですね」
彼女の台詞にフェラーズ一家の顔つきが変わった。抑え切れぬ興奮を何とか面に出さずにしようとするあまり、彼等は青ざめてすら見えた。
ケイ・フェラーズは絞り出すようにようやく口にしたが、様々な感情が彼の胸に去来し渦巻き形を結ぶことはなかった。
「奇跡的に残っていた資料から推測したのです」
ジェネヴィエーヴは彼の疑問と不安を和らげたい一心で慎重に言葉を続けた。どうすれば彼から真実をを引き出すことが出来るのだろうか。
後になって思い返すと、この時のジェネヴィエーヴは人生で初めて経験する、非常時にあって、これまでにない精神的な昂ぶりと、抑圧された疲労に無自覚ながら影響されていたのだろう。イライラと左手の指でもう片方の人差し指をギュッと握りしめた。
「容易く口の端に乗せることはできません。双方にとって、対外的に慎むべき事柄でしょう」
繊細(デリケート)な話題ですから。そう彼女が口にすると、ケイ・フェラーズの顔に影が差しが、瞬く間に消え去っていった。彼の傍に腰かけていたミス・フェラーズの面もちも硬くこわばった様だった。不審にジェネヴィエーヴが眉を顰めるよりも早く、ミスター・フェラーズが
「確かに、微妙(デリケート)な、問題です」
と、どこか痛みを堪えるような苦い笑みを浮かべながら口にした。
そんな息子の腕にフェラーズ夫人がそっと触れると、彼はビクッと肩を震わせ、眼差しを下げた。固く唇を閉じたフェラーズ夫人は何事か訴えるかのような表情を浮かべていた。
確かに、今この瞬間、何らかの逆鱗に触れたことをジェネヴィエーヴは悟った。
常に柔和な彼の初めて見せる表情に、彼が初めて素顔を見せようとしていることを彼女は感じた。俄かに場を覆った剣呑な雰囲気に、ノクターンとアリアが身をこわばらせ、我知らずジェネヴィエーヴを守るように僅かに身を乗り出した。
「殿下はご存じなのでしょうか。つまり、我々の家の事情を」
フェラーズ一家は遡れば誅滅せられた叛徒の末裔であり、それを意図的に隠匿して、大胆なことに王子の教育を担おうとするこの妄動は、王室を欺く行為と言わずして何と言おうか。
蒼白な彼らを前にして、ジェネヴィエーヴは否、と首を横に振った。
「ことこの事柄に関して殿下にお話ししたことは未だ一度たりともありません。そして今後も私の口から語られることはないでしょう」
いずれ時宜を得た時に、彼から告げるべきことである。ジェネヴィエーヴの目から見ても、彼らの間には身分を超えた尊敬や、ある種友情のようなものがあると感じていた。彼らが求めない限り、それに水を差すような行為は僭越以外の何物でもない。
「これまでの研究や我が家への援助についても――」
ケイ・フェラーズの言葉は形にならず、徐々に萎んでいった。彼の顔色の暗さは苦衷に満ちたその心情を語っていた。
「この状況では、そう感じるのもむべからぬことでしょう。しかし、底意があってのものではありません」
「断言なさるのですね」
信じていただくほかありませんが、とジェネヴィエーヴは前置きした。
「我が家とそちらの御家の関係性は、貴方に目を向ける契機はなりましたが、研究を後押ししたいと思ったのは純粋な関心からです」
そもそも、と、ジェネヴィエーヴは淡々と続けた。
「仮にこれまでの厚意が同情から発したものであったとしたら、それは上辺ばかりの金銭的な援助に留まったはずです。私には無価値なことに割くことのできる余裕など与えられていません」
薄い笑みを浮かべると、それはこの二人が証明してくれるでしょうと言って、彼女はアリアとノクターンに視線を向けた。
「あのナイトリー侯爵の一人娘が幼い頃から病弱で、日常生活すらままならないことは、公然の事実ですから」
一年の内に彼女の思い通りになる時間がどれだけ限られていることか。数え上げるまでもなかった。一日部屋の外で過ごせた日があれば、その後数日はベッドから頭を上げることはできない。ジェネヴィエーヴの日常は総じてそのようなものだった。午前中は健やかに過ごせたとしても、夕食の時間には病を発しているといった有様なのだ。その上、近頃は夢の中でもまんじりとできない夜を過ごしている。
「ここ数年はひどいものです。枕に頭が触れていない時間が一日の内にどれほどあったでしょうか。食堂で食事をしたことなど、ひと月に両手の指に余る程です」
ミスター・フェラーズもご存知でしょう?皮肉気にそう指摘すると、虚を突かれたケイ・フェラーズは言葉もなく瞬きを繰り返した。
「私にとって健やかな時間とは浪費すべからざるものなのです。外出などその最たるもの。余暇等ございませんから、私が直接出向いたり、顔を合わせながらお話を伺ったりすることは非常に稀なことなのです。私にとって貴重で価値のある事だと判断できなければ、決して私は貴重な時を浪費することなどなかったでしょう」
彼女は言葉を止めることができなかった。ふっ、と自嘲するように僅かな笑みが片頬に浮かぶ。だがこれだけはどうしても理解してもらわねばならなかった。彼女は一呼吸置くと、ミスター・フェラーズには度々お会いいたしましたと口にした。
「私の記憶の限りにおいて、あなたは殿下に次いで多くの時間を過ごした方です」
健康が優れず、高位貴族令嬢としての社交すら制限せざるを得ない状況下で、婚約者であるクラレンスには及ばぬまでも、家族を除いて、最も多く会う機会を設けた相手である。それはとりもなおさず、彼女の彼への厚意が彼の研究に対する純粋な興味関心と、浅からぬ尊敬に裏打ちされたものであることを示していた。
ミスター・フェラーズの頬は徐々に生気を取り戻していった。彼は赤く染まった顔を手で口元を覆うと、羞恥と感謝に瞳を揺らした。
「大変な無礼を申しました。申し訳ございません」
どうか非礼をお許しください。深く首を垂れた彼が、椅子から降りて膝をつこうとするのを、ジェネヴィエーヴは手で制した。
「ご理解くださればよろしいのです。私もいささか感情的になりました」
彼が席に戻った機会を捉えて、アリアが極めて穏やかな口調で、フェラーズ夫人と呼び掛けた。彼女はじっと口を閉じたままジェネヴィエーヴとミスター・フェラーズとのやり取りを聞いていたが、徐々に熱を帯びていくやり取りの途中で、そっとジェネヴィエーヴの手に自らの手を重ねていた。
「よろしければ、お茶のお代わりを戴けませんか」
彼女の言葉にフェラーズ夫人はハッと顔を上げた。
「えぇ、あら、これは気が付きませんで申し訳ありません。すぐに準備いたします」
青ざめた顔で、ハラハラしながら息子のやり取りを見つめていたフェラーズ夫人は、ほっと息をつくと娘を伴って席を立った。
彼女たちが扉から出て行くのを見送ると、アリアは両手でジェネヴィエーヴの手を包み込むと、眉根を下げた。
「指先が冷えてしまいましたね」
自分が思っていた以上に緊張していたのだろう、ジェネヴィエーヴはアリアの手の温かさに目を細めた。
「こちらをお使いください」
どこから取り出したのか、ノクターンがサッと温かなブランケットを拡げてジェネヴィエーヴの膝に掛けた。
「あら、大丈夫よ。そこまでしなくても」
苦笑するジェネヴィエーヴにノクターンは、いけませんと眉を顰めてみせた。
「ご自分でも仰っていたではありませんか。ジェネヴィエーヴさまの体調は秋の空の様に移り変わるのだと」
「暖炉に薪を足しましょう」
ミスター・フェラーズまでが再び席を立って、暖炉の前でかがみこんだ。
ノクターンは彼の横で、熱した火箸で炎を掻き立てていたが、ジェネヴィエーヴの視線に気づくとほほ笑んで、ミスター・フェラーズに向かって火の粉を遮る衝立をもう少しずらしてくれと頼んだ。
「それにしても、家の大きさに比べて人手が足りないのではないかい?お茶の用意も夫人手ずからしていただいているようだし」
「ノクターン」
彼らしからぬ、随分と家庭の事情に踏み込んだ質問をするものだと目を見開いて名を呼ぶと、ノクターンはクスリと意味ありげな笑みを浮かべた。
「馬車で通りかかった耕作地はこの家の所有地だろう。畑や庭園には大勢の小作人や庭師たちが作業していたのに、家の中には極端に人が少ない、というよりも全く気配すら感じないことが気になってね。これだけの規模の家屋敷ならば、当然相応のメイドなり従僕なりがいるはずなのに」
不躾なミスター・フェラーズは気分を害した様子もなく困ったように頷いた。
「ああ、その通りです。できる限り家の中では使用人を雇わないようにしているんですよ。勿論、炊事場などは別ですけれどね」
配慮が行き届かないところがあったでしょうが、どうかお許しください、と彼はジェネヴィエーヴに向かって頭を下げた。
「とんでもない。とても快適に過ごすことができていますわ。それに、お家それぞれのご事情がおありですものね?」
「そうおっしゃっていただけると幸いです。実はこれは我が家の規則の一つなのです」
「メイドや従僕を雇わないことが?」
「はい。『家の中で雇うこと』に限ってですが」
おかしな規則でしょう、とほほ笑んだ。
「我が家の祖先は子孫に家庭内に他人を入れることを禁じてきました。特に寝室や居間、書斎への入室は決して許すべきではないと固く決められてます」
「それは・・・」
ジェネヴィエーヴとアリアは顔を見合わせた。
「このほかにも、大規模なパーティーを開いてはいけませんし、来客も必要最低限に限るようにと定められています」
「家の外への出入りはいいけれど、内へ招き入れることを極端に恐れているといった風だね」
ノクターンが顎に手を当てながらが指摘すると、ミスター・フェラーズはその通りだと頷いた。
「随分と用心深い」
苦笑する相手に、ミスター・フェラーズは首を振った。
「そうせざるを得なかったのだと思います」
「ふうん。ではフェラーズ君、僕が言えたことではないが、初対面の頃、なかなか打ち解けてくれないものだから、君とは近づきになるまでには随分骨が折れたものだ。それも先祖代々のいいつけだったのかな」
親しみのこもった揶揄いの言葉に、ミスター・フェラーズはそれは面目ないと眉尻を下げた。そうして、ミスター・フェラーズが初めて穏やかな笑声を上げたとき、フェラーズ夫人とミス・フェラーズがお茶と温かな焼き菓子を持って姿を現した。
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