江津レイクタウン

真田宗治

文字の大きさ
2 / 39

第2話 来栖真子は血を流す

しおりを挟む
 大型犬が牙を剥き、泰十郎たいじゅうろうを襲う。

「こいつ!」

 泰十郎たいじゅうろうが苦痛混じりの怒りを発する。左腕を噛まれていた。犬は食らい付いたまま激しく頭を左右に振り、肉を噛み切ろうとしている。私は走りながら、犬を逃がしてしまった自分を責めた。だが次の瞬間、泰十郎は、ぐっと右手で犬の口元を掴む。しかも何故か、上顎と下顎を締め付けるように握っている。そんなことをすれば余計に牙が食い込んでしまのに、泰十郎はお構いなしだった。泰十郎は「シッ」と息吹を発っし、気合と共に力づくで腕を引き抜いた。
 悲鳴を上げたのは犬の方だった。同時に、白い物が弾け飛ぶ。犬の牙が折れ、地面に転がった。
 私は仰天して立ち止まる。
 泰十郎は、犬を離さずに持ち上げて、そのままぐるぐる振り回しまくる。犬の身体が伸びきるようなジャイアントスイングから一度地面に叩きつけ、バウンドした勢いを利用して高々と犬を振り上げて……強かに地面に叩き付ける。

「なんかぬしゃ!」

 泰十郎は、更に憤怒の下段突きを放つ。拳が犬の腹部に突き刺さり、犬は、きゃん、と悲鳴を上げる。それでも泰十郎の怒りは収まらない。彼は大型犬に馬乗りになると、可愛そうになるぐらい殴りつけた。

「やめなさい! もう充分だけん。死んだら可哀そうでしょう」

 私は慌てて制止する。

「人ば襲った犬だけん、容赦したらいかん!」

 泰十郎はまるで聞く耳を持たなかった。完全に、頭に血が昇っている。あまりの怒り様に、流石の私も少し怖くなった。
 泰十郎を止められない。悟った私は、迷わず警察に電話をかけた。

 ★

 暫くして、警官が湖にやってきた。
 警官は事情を聴くために、犬ごと泰十郎を連れて行った。念の為に定義さだよしを同行させたから、警察に捕まることはないだろう。だが、口頭による注意ぐらいは受ける筈だ。なんなら半日ぐらい拘留されたらいい。泰十郎は、もう少し自制心を学ぶべきなのだ。

 私は泰十郎達を見送って、橋桁はしげたの、女性の許へと戻った。
 彼女は、まだ少女に覆いかぶさって震えていた。

「大丈夫。大丈夫だよ。絶対に守ってあげるからね」

 繰り返し言う女性の肩に、触れる。
 びくりと、華奢な肩が震えた。暫しの沈黙の後、彼女は恐る恐る顔を上げる。目が合うと、彼女は少し恥ずかしそうに眼を伏せる。
 驚く程、美しい顔立ちだった。
 長い黒髪には艶があり、そこから覗く眉は僅かに下がり気味で、少し気が弱そうな印象だ。大きな瞳は午後の光を湛え、目じりには小さな泣き黒子。色白で華奢きゃしゃな体躯はファッションモデルを思わせる。私は、これまで何人もの美人に出会ったが、彼女程美しい人に出会ったことはなかった。同性の私から見ても極めて魅力的な容貌であり、なんというか、とても儚い印象を受けた。一目見た瞬間に、女として強い敗北感を覚えたのだが、もう、次元が違い過ぎて悔しいとも思わなかった。

「あの、その、犬は」

 女が言う。

「あ。ああ、ごめんなさい。貴女があんまり美人だったけん。それに、凄く勇気があるね。私だったら一人で立ち向かったかどうか分からんよ」

 私は、照れ隠し交じりに手を差し出した。

「私は、東城とうじょう里子さとこ。貴女は?」
「く、来栖くるす真子まこ……です」

 私と握手を交わし、真子さんは言う。震える声までもが、美しかった。
 真子さんの腕から血液が伝い、私の右手に到達する。どうやら、犬と戦って怪我をしたらしい。

「怪我しとるたい」
「あ、だ、大丈夫です。その……こういうのは慣れてますから」
「は? 意味が解らんけど。兎に角、家に来なっせ。近くだけん」
「……きなっせ?」

 真子さんの顔に疑問が浮かぶ。
 熊本弁を理解していない。旅行者だろうか?

「家に来るたい。これなら解る?」
「え、あ、はい。解りますけど、この子が、まだ」

 と、真子さんは女の子に目をやった。
 見ると、女の子は失禁していた。年齢は七、八歳ぐらいだろうか? どうであれ、この子も放ってはおけない。女の子の周囲には、真子さんの鞄の中身が散らばっていた。犬を相手に鞄を振り回したせいだろう。
 仕方なく、私は散らばったあれこれを拾い集めた。

 ★

 私は江津湖から三分程の距離を歩き、女の子と真子まこさんを連れて自宅へと戻った。家はちいさな二階建てで、町の名は江津えづ町という。
 真子さんを居間へと通し、腕の傷をオキシドールで消毒して、絆創膏ばんそうこうを貼ってやる。怪我は出血量の割には浅く、軽症だった。女の子は、失禁こそしたが無傷だった。真子さんは、見たところ武術の心得もないのに、それでもたった一人で猛犬に立ち向かい、女の子を守り抜いたのだ。
 私は女の子をお風呂に入れて、着替えとお菓子を与えた。すると、やっと女の子が笑顔を浮かべてくれた。

「お姉ちゃん、ありがとう」
「ううん。お礼なら真子さんに言ってあげて。この人は武器も持たず、あの犬から貴女を守り抜いたんだけん。凄いよね」

 私が言うと、女の子は真子さんに向き直り、再びペコりと頭を下げる。すると真子さんは顔を赤くして、言葉に詰まる。そんな挙動不審な様子までもが、やけに可愛らしかった。
 詳しく話を聞くと、女の子と真子さんとは初対面だった。女の子は、すぐ近くの県営団地に住んでいるとのことである。江津湖で友達と遊んでいたら突然、野良犬に襲われたらしい。だが、噛みつかれる寸前で、通りかかった真子さんに救われた。女の子の友達は、皆、驚いて逃げ去ったそうだ。

「怖かったね。でも、もう大丈夫だけん」

 私は女の子の頭を撫でてやる。安心したせいなのか、女の子の眼に再び涙が浮かぶ。無理もない。私もこの子ぐらいの頃は臆病で、随分と泣き虫だった。
 間もなく、女の子は沢山のお菓子を抱え、上機嫌で帰宅していった。

 ★

 私は熱い紅茶を入れて、テーブル越しに真子さんと向き合った。真子さんは少々、くたびれている風だった。口を開く元気もなさそうだ。だがそれ以前に、彼女の様子はとてもよそよそしい感じがした。
 私から、話題を振ってみるか。

「観光?」
「え? あ、はい。そんなところです」

 と、真子さんは目を逸らす。
 やはり、妙におどおどしている。何か隠し事がある、というよりも、人と話すのが得意ではないらしい。

「本当に?」

 じっと、真子さんの目を見つめて言ってみる。
 真子さんは私の視線に耐えられず、じわりと眼を伏せた。

「鞄の中身、身分証も保険証も入ってなかったけど。観光用のパンフレットや冊子も入ってなかったよ。写真とか薬の瓶とか、何かの小説の外表紙とか、そんな物ばかり」
「それは……その」
「言葉があれだけん、地元の人じゃないよね。でも、観光にしては少し変じゃない? たった一人であんな大型犬に立ち向かっていくなんて、命が惜しくないみたい」

 私は思わず、繰り返し質問を浴びせてしまった。これでは尋問してるみたいだ。一方、真子さんは顔を上げず、返事もしない。

「ま、いいけどね。でも、せっかく熊本に来たなら、楽しんでいきなっせ。熊本城とか阿蘇山にはもう行った?」
「いいえ。まだ」
「え? じゃあ、ラーメンとか馬刺しは食べた?」
「いいえ。それも……まだ」
「は? じゃあ、なんばしよったと?」
「なんばしよった?」
「ああ、何をしていたの? 何処だったら行ったことがある?」
「あ、天草なら。その……私の先祖が天草の出身だと聞いたことがあるので、教会を見に行ったんです。でも、親戚もいないので、こっちの様子を見に」
「こっちにも縁が?」
「はい。昔の友人がこの近くの出身で。江津湖については何度か聞いたことがあったので、どんなところかと思って」
「ふうん。江津湖に眼をつけるなんて、中々の通ね」

 と、私は暫し思案する。
 真子さんの表情を見た感じ、嘘はなさそうだ。

「じゃあ、ラーメン食べに行かん?」
「え? 今からですか」
「うん。お腹すいとらん?」
「そういえば、少し」

 色白の顔に、照れた微笑が浮かぶ。私はなんだか嬉しくなった。何故だか無性に、真子さんに、私が好きな熊本の風景や食べ物を教えてやりたい。そんな欲求に駆られたのだ。
 私は早速腰を上げ、自動車の鍵をポケットに放り込む。その途端にお腹が鳴った。


しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い

青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。 神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。 もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。 生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。 過去世と同じ轍を踏みたくない……

つまらない妃と呼ばれた日

柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。 舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。 さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。 リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。 ――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。

🥕おしどり夫婦として12年間の結婚生活を過ごしてきたが一波乱あり、妻は夫を誰かに譲りたくなるのだった。

設楽理沙
ライト文芸
2026.1.4 73話見直した際、瑛士の台詞《本音/懺悔》を加筆しました。😇 ☘ 累計ポイント/ 200万pt 超えました。ありがとうございます。 ―― 備忘録 ――    第8回ライト文芸大賞では大賞2位ではじまり2位で終了。  最高 57,392 pt      〃     24h/pt-1位ではじまり2位で終了。  最高 89,034 pt                    ◇ ◇ ◇ ◇ 紳士的でいつだって私や私の両親にやさしくしてくれる 素敵な旦那さま・・だと思ってきたのに。 隠された夫の一面を知った日から、眞奈の苦悩が 始まる。 苦しくて、悲しくてもののすごく惨めで・・ 消えてしまいたいと思う眞奈は小さな子供のように 大きな声で泣いた。 泣きながらも、よろけながらも、気がつけば 大地をしっかりと踏みしめていた。 そう、立ち止まってなんていられない。 ☆-★-☆-★+☆-★-☆-★+☆-★-☆-★ 2025.4.19☑~

愛人を選んだ夫を捨てたら、元婚約者の公爵に捕まりました

由香
恋愛
伯爵夫人リュシエンヌは、夫が公然と愛人を囲う結婚生活を送っていた。 尽くしても感謝されず、妻としての役割だけを求められる日々。 けれど彼女は、泣きわめくことも縋ることもなく、静かに離婚を選ぶ。 そうして“捨てられた妻”になったはずの彼女の前に現れたのは、かつて婚約していた元婚約者――冷静沈着で有能な公爵セドリックだった。 再会とともに始まるのは、彼女の価値を正しく理解し、決して手放さない男による溺愛の日々。 一方、彼女を失った元夫は、妻が担っていたすべてを失い、社会的にも転落していく。 “尽くすだけの妻”から、“選ばれ、守られる女性”へ。 静かに離婚しただけなのに、 なぜか元婚約者の公爵に捕まりました。

物置部屋に追いやられた伯爵令嬢ですが、公爵様に見初められて人生逆転しました〜妹の引き立て役だったのに、今では社交界の花と呼ばれています〜

丸顔ちゃん。
恋愛
伯爵家の令嬢セレナは、実母の死後、継母と義妹に虐げられて育った。 与えられた部屋は使用人以下の物置、食事は残飯、服はボロ。 専属侍女も与えられず、家の運営や帳簿管理まで押し付けられ、 失敗すれば鞭打ち――それが彼女の日常だった。 そんなある日、世間体のためだけに同行させられた夜会で、 セレナは公爵家の跡取りレオンと出会う。 「あなたの瞳は、こんな場所に閉じ込めていいものではない」 彼はセレナの知性と静かな強さに一瞬で心を奪われ、 彼女の境遇を知ると激怒し、家族の前で堂々と求婚する。 嫁ぎ先の公爵家で、セレナは初めて“人として扱われ”、 広い部屋、美味しい食事、優しい侍女たちに囲まれ、 独学で身につけた知識を活かして家の運営でも大活躍。 栄養と愛情を取り戻したセレナは、 誰もが振り返るほどの美しさを開花させ、 社交界で注目される存在となる。 一方、セレナを失った伯爵家は、 彼女の能力なしでは立ち行かず、 ゆっくりと没落していくのだった――。 虐げられた令嬢が、公爵の愛と自分の才能で幸せを掴む逆転物語。

【完結】冷酷伯爵ディートリヒは、去った妻を取り戻せない

くろねこ
恋愛
名門伯爵家に政略結婚で嫁いだ、正妻エレノア・リーヴェルト。夫である伯爵ディートリヒ・フォン・アイゼンヴァルトは、 軍務と義務を最優先し、彼女に関心を向けることはなかった。 言葉も、視線も、愛情も与えられない日々。それでも伯爵夫人として尽くし続けたエレノアは、ある一言をきっかけに、静かに伯爵家を去る決意をする。 ――そして初めて、夫は気づく。 自分がどれほど多くのものを、彼女から与えられていたのかを。 一方、エレノアは新たな地でその才覚と人柄を評価され、 「必要とされる存在」として歩き始めていた。 去った妻を想い、今さら後悔する冷酷伯爵。前を向いて生きる正妻令嬢。 これは、失ってから愛に気づいた男と、 二度と戻らないかもしれない夫婦の物語。 ――今さら、遅いのです。

三年の想いは小瓶の中に

月山 歩
恋愛
結婚三周年の記念日だと、邸の者達がお膳立てしてくれた二人だけのお祝いなのに、その中心で一人夫が帰らない現実を受け入れる。もう彼を諦める潮時かもしれない。だったらこれからは自分の人生を大切にしよう。アレシアは離縁も覚悟し、邸を出る。 ※こちらの作品は契約上、内容の変更は不可であることを、ご理解ください。

里帰りをしていたら離婚届が送られてきたので今から様子を見に行ってきます

結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
<離婚届?納得いかないので今から内密に帰ります> 政略結婚で2年もの間「白い結婚」を続ける最中、妹の出産祝いで里帰りしていると突然届いた離婚届。あまりに理不尽で到底受け入れられないので内緒で帰ってみた結果・・・? ※「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています

処理中です...