上 下
15 / 49
第1部 フランチェスカの日々

15話

しおりを挟む
 十年前、カルロが即位して間もなくの頃、一人の男がエンリコを訪ねてきた。顔に斜めの傷跡がある不気味な男だ。男はカルロの使いだと言い、王国の地盤を確固たるものにするため、南部を統一したいという話を持ちかけた。

 今まで王家が自治を認めた土地を、王自らが取り上げれば反発を生む。だからフランチェスカにその代わりを務めてもらいたいと、懇々と語った。

 当然、エンリコは断った。たとえ王でもそんな非道は許されないと、逆に懇々と説得して引き上げさせた。

 しかしその数日後、フランチェスカ南西部に位置していた小さな村が、武装したならず者に襲われたという一報が入った。

 騎士団を率いて急いで向かうと、村は焼け爛れ、地面には哀れな犠牲者が幾重にも倒れ伏していた。かろうじて息があった者の話から、ならず者は武装したサリカ人だとわかった。

 確かに、長い歴史の中で、サリカとは度々小競り合いを起こしていた。しかし、先々代の結んだ協定で平和が訪れていたはずだった。

 ――まさか。

 いきり立つ騎士たちの声を聞いたエンリコは気づいた。これはカルロからの警告、そして罠なのだと。

 サリカはカルロと手を組んだ。報復に出れば王国軍が待ち受けているはずだ。それを避けたところで、他の村や町が襲われ続けるだろう。

 ――要求を飲まない限り、フランチェスカは潰される。

 国王軍の兵力はフランチェスカの十倍だ。とてもかなうわけがない。しかし、だからといってみすみす戦争の火種をばら撒くわけにもいかない。

 煩悶するエンリコの元に、また例の男が近づいてきた。男は身構えるエンリコに、こう囁く。

『お前たちは何もしなくていい』『ただ口を噤んでいるだけでいい』

 フランチェスカの旗印と紋章入りの貫頭衣、そして武具さえ渡せば、後は全てこちらで片付けると男は言った。

『大事な騎士たちの手を汚さず、フランチェスカを守ることができるぞ』

 そうしてエンリコは、フランチェスカのために悪役の汚名を着ることを選んだ。戸惑う騎士たちの声も、領民たちの声にも耳を塞いで。

「カルロはサリカ側にも似たような話を持ちかけていたんだ。自治を守りたければ、他の所領を犠牲にしろと。そしてサリカはそれに乗った。自ら引き金を引くとも知らずに」
「……そんな」 

 声が震えていた。とても信じられない話だった。ずっと憎んでいた仇が、本当の仇ではなかったと、どうして思うだろう。あまつさえ、サミュエルは近衛騎士としてずっと守ってきたのだ。本当の仇であるカルロのことを。

「それじゃあ……サリカの土地を襲撃したのは」
「フランチェスカ騎士団に扮した王国軍だよ。一気に攻め込まれて、サリカはさぞかし慌てただろう。相手が偽物だとは思わなかっただろうし、予定では王国軍がすぐに救援に来て、返り討ちにするはずだったからな」

 しかし、実際に来たのは全滅する直前。騙されたと知ったときには全て遅かったのだ。泣く泣く自治の返還に応じた領主は、戦後のどさくさで殺されてしまった。そして、土地を失ったサリカ人は散り散りになった。フランチェスカへの憎しみを残して。

「でも、その……エンリコ様の姿を目撃したものがいると」
「そいつは青い目だったか?」

 グッと喉がつまる。相手は兜を被っていたし、サミュエルが見たのは後ろ姿だった。瞳も、顔も、確認できていない。

「父上に似た体格の男はいくらでもいる。そいつに、カルロは自分の金髪で作ったカツラを被せたんだ。その上から兜を被れば、多少不自然でも気づかれない。即位式の絵を見たが、その頃のカルロの髪は、ちょうど父上と同じぐらいの長さだった」

 サミュエルはカルロの即位当時の姿は知らない。しかしロドリゴから、カルロが度々髪型を変えているという話は聞いていた。成人して近衛騎士として働くことになったとき、カルロの髪は長かった。そしてそれを切ったのは――昨年末だ。

「そうまでしてフランチェスカを悪役に仕立てたのは、一番都合が良かったからだろう」

 エミリアが唸るように言う。

 フランチェスカは、南部の中では一番大きく、力もある上に、サリカや他の土地のようにアウグスト一世に反発して自治を選んだわけじゃない。

 共犯者としてなら理想的だが、敵にまわせば面倒だ。それに、黒髪はサリカ人以外にもいる。

「戦場で互いを認識するには、紋章や容姿に頼るしかない。父上の長い金髪は、さぞかし戦場に映えるだろうからな!」
「では、五年後の挙兵も……」
「もちろん、王国軍の偽装だよ。領境を侵したというのはデタラメだ。理由なく襲えば、さすがに貴族たちや世論が黙っちゃいない。南部を統一するまでは、フランチェスカには健在でいてもらわなければいけないからな」

 そこで言葉を切ったエミリアが、嘲笑うように息をハッと吐き捨て、顔を歪めた。

「五年も空いたのは、サリカの戦後処理に時間がかかったのと、髪が伸びるのを待っていたからだろう」

 ――激しい戦争だったから、カツラが駄目になったのか。

 込み上げる怒りに、ギリ、と歯軋りをする。そんなサミュエルにエミリアは一瞬悲しい瞳を向けると、振り絞るように言葉を続けた。

「でも、そこで父上は気づいたんだ。南部が全て王領になれば、次はフランチェスカかもしれないと」

 二度目の挙兵で、エンリコは南部の土地を奪おうとしていると見做された。今さら違うと声を上げたところで、誰も信じない。証拠も全て王国軍の手の中にある。

 フランチェスカを悪役に仕立てれば、公爵領に攻め入る大義名分が立つ。もう一つの公爵領であるファウスティナにも圧力をかけられる。

 カルロの本当の目的は、この国の統一だった。南部はただの取っ掛かりに過ぎない。カルロは最初からフランチェスカも潰すつもりだったのだ。

「次のヨシュナンを落とすまで、どうしてさらに五年もかけたのかはわからない。すぐに事を起こせば怪しまれると思ったのかもしれない。でも、こちらには好都合だった。その間に、エミリオに領主の仕事を引き継ぐことができたから」

 孤児院で、後を引き継ぐ前からエミリオはエンリコの仕事を手伝っていたと言っていた。それは全て、未来を見据えてのことだったのだ。

「父上は、ヨシュナンが攻め込まれたときに戦場に乗り込み、偽装の証拠を取り戻して、カルロの欺瞞を白日の元に晒そうとした。でも……」

 力及ばず、殺されてしまった。そのときのことを思い出したのだろう。唇を噛んだエミリアが、ぶるりと体を震わせた。

「年が明けて私たちが出迎えたのは、父上と騎士たちの物言わぬ体だった。ひどい戦場だったと聞いたよ。多くの人間が死んだ……マリアンナの夫や息子も……。父上の姿を見てしまったヨシュナン人も、サリカと同じく、口封じにほとんど殺された」

 その後は怒涛のような日々が過ぎた。犠牲者たちを弔い、怒りに我を忘れる騎士たちを宥め、そして悲しみに沈む領民たちのために、精力的に内政に務めた。

 前もってエンリコから仕事を引き継いでいたといえども、まだ成人したばかりの身だ。エミリアと入れ替わりながらとはいえ、領主の仕事は膨大で、病弱のエミリオには日々を乗り越えるだけで精一杯だった。それでもミゲルたちの助けもあって、領内は徐々に落ち着いてきた。

 しかし、代替わりしたところで、カルロがこのまま見逃してくれるとは思えなかった。だからエミリオは先手を打ってカルロに手紙を送った。

「自治を返還する。その代わりに領民たちの待遇は現状通りを保証してくれと」
「えっ……」
「それが一番いいと思ったんだ。守るべきは領民たちの命と土地だ。言えば反対されると思ったから、騎士や領民たちには内緒で二人で決めた」

 その結果は、今の状況を見れば明らかだった。カルロはエミリオの手紙を突っぱねたのだ。 

「甘い措置を取れば南部が納得しないと言われたよ。彼らの鬱憤を晴らすため、土地も財産も奪い、領民たちは殺すとな」

 目の前が真っ暗になった。フランチェスカを悪役に仕立て上げたのはカルロだ。

 ――それなのに、よくもそんな。

「私たちにはもう後がないと知った。そして気づいたんだ。父上が死んでもフランチェスカは悪役なのだと印象付けるため、今度は偽装した騎士団に王領を襲わせるつもりなのだと」
「……だから小麦の出荷を止めると決めたんですか? カルロに大義名分を与えるために?」

 エミリアが静かに頷いた。どう足掻いても攻め込まれる未来は変わらない。ならば少しでも犠牲を減らそうとしたのだろう。

「それに、そうすれば小麦の収穫が終わるまでは攻めてこないと思ったからな。備蓄を奪えば一石二鳥だろ? 結果として、地震で伸びたが……」

 地震を僥倖だと言ったのは猶予ができたからだ。そんな事情も知らず、あの一言でエミリアを悪人だと疑った自分が恥ずかしい。

「後は騎士や領民たちに全てを話し、領地を去らせるつもりだった。私たちさえ残れば、戦争には決着がつく。さすがに領民たちを一人ずつ探し出して殺しはしないだろう。王領となっても、ほとぼりが冷めればまた戻ってこられるかもしれない。でも、その矢先にエミリオが……」

 エミリアの目に涙が浮かび、声がつまった。

「エミリオは最期の息を引き取る瞬間までフランチェスカを愛していた。私と同じはしばみ色の瞳が光を失い、握りしめた手から力が抜けたとき、私はエミリオの遺志を継ぐと決めたんだ」

 そしてエミリアは小麦の出荷を止めるとカルロに手紙を出し、領民たちに真実を打ち明けるため視察に出かけた。

 ――だから俺に暗殺を命じたのか。

 フランチェスカを潰す舞台は整った。エミリアを殺してしまえば思うままに蹂躙できる。

 サミュエルが王都を出たときは、まだ小麦についての噂は出まわっていなかったから、その後で広めたのだろう。フランチェスカがまた戦争を仕掛けるつもりなのだと。

「……ですが、誰もフランチェスカを去らなかったのですね」
「しこたま怒られたよ。我々を舐めるなと。領主を殺され、悪役の汚名を着せられ、その上、あなたまで見捨てて、土地を奪われるのを黙って見ているつもりはないとな」

 言葉が出なかった。領民たちが明るかったのも、代替わりしたばかりのエミリアを慕っていたのも、非道を働いたのはエンリコなのだと割り切っていたからではない。全てを承知の上で、エミリアと運命を共にすると決めたからだ。

 ――コリンたちもか?

 子供たちの笑顔が目に浮かぶ。あんな小さな体で、フランチェスカを守る覚悟を固めていたというのか。

 ――そんなことって。

「……本当に戦うつもりなんですか」
「そうだ。そのために、これからフランチェスカ領内の領民たちが全てここに集まってくる。向こうは大軍を率いているから、進むのに時間がかかるはずだ。それに、ドナテロ……クノーブルの町長が時間稼ぎをしてくれる。彼らには抵抗せずに王国軍を受け入れろと言ってある」

 王都からここまでは遠い。食料の補給もいる。王国軍は歓待を受け入れるだろう。カルロが潰したいのは、あくまでフランチェスカ本体――つまりエミリアのいるここだからだ。

 ――無茶だ。

 正気の沙汰ではなかった。カルロの思惑通り、フランチェスカは滅ぼすべき悪だと見なされている。周辺の所領も全て王都側につくだろう。それが全て動員されるとなれば、戦力差は十倍ではきかないはずだ。物量も天と地ほどの差が開いている。

「かなうわけない! あなたもさっき言ったでしょう! 一瞬で潰される!」
「わかっている! だが、やるしかないんだ! 領民たちを守るには、籠城してこちらに有利な条件を引き出すしかない! ただ蹂躙されるのを黙って受け入れるわけにはいかないんだ!」

 全身で叫び、エミリアはサミュエルの手を振り払った。はしばみ色の瞳から涙がこぼれ、部屋の中に散っていく。今、サミュエルの目の前にいるのはあどけない少女ではない。

 脈々と流れる想いをその血に宿した、れっきとしたフランチェスカ公爵だった。

「全てこのために準備してきたんだ! 父上が、エミリオが、守ってきたものを今度は私が守るんだ!」

 その場にサミュエルを残し、エミリアは部屋を飛び出して行った。城下では通達を受けて籠城戦の準備に入った領民たちの怒号が轟いている。

 エミリアの体温が残る手のひらに視線を落として呆然としていると、廊下を走る足音がこちらに近づいてきた。

「サミュエル様!」

 開け放したままだった扉からテオが顔を出した。マッテオから通達を聞いたのだろう。さすがに慌てているのか、偽名ではなく本名で呼んでいる。テオはサミュエルに駆け寄ると「聞きました?」と問いかけてきた。

「聞いた」
「俺たちの素性は?」
「そっちは言えてない。言う前に進軍の一報が入った。それより、テオ。今からでも遅くない。お前だけでも王都に帰ってくれ」

 朝と同じことをもう一度言う。しかし、朝とはすでに状況が変わってしまった。アヴァンティーノを頼ることも、呼び寄せることも、もうできない。テオを死なせるわけにはいかなかった。

「あのね、さっきも言ったでしょ。俺はあなたの従者なんですから、最後までお供しますよ」
「でも……」
「はいはい、ぐずぐずしない。さあ、行きますよ。やることいっぱいあるんですからね!」

 優しく背中を叩かれ、部屋を後にする。前を行くテオの背中で跳ねる栗毛を見て、なぜか無性に涙が溢れた。
しおりを挟む

処理中です...