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第2部 悲劇を越えた先へ

25話

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 新妻の演技に恥ずかしがっていたエミリアも、お腹いっぱい美味しいものを食べ、新しい服を調達した頃にはいつも通りの様子に戻っていた。ほっとした反面、サミュエルの危機感は増すばかりである。

「じゃあ、また後でな」
「ええ、ゆっくり浸かってきてください」

 女湯へ向かうエミリアを見送り、湧いてくる煩悩を殺すために頬を叩く。

 ——しっかりしろ、俺。

 とりあえず中に入ったら水を浴びようと心に決めて、男場の入り口をくぐった。

 ノリクの浴場は華美な王都の浴場と比べて質実剛健な内装ではあるが、その分、動線もしっかりと考えられていて十分なスペースがある。脱衣所を抜けた先にはまず洗い場があり、さらにその先に数十人が一度に入れそうなほどの大浴場が広がっていた。

 右手側の少し奥まった場所には蒸気が噴き出る高温浴室があって、近くに備え付けられた水風呂と交互に入るのが伝統的な入浴方法だ。

 しかし、サミュエルは高温浴室が苦手だった。暑いわ息苦しいわで長居できないし、その後に水風呂に浸かるのも理解できなかった。怯むサミュエルの横で、気持ちよさそうに入浴を繰り返すロドリゴを奇異の目で見ていたことを思い出す。

 ——明日になったら会えるんだな。

 少ししんみりした気持ちになったが、頭を振って気持ちを切り替える。とりあえずは今日の夜を乗り越えねばならない。念の為にしっかりと体を洗い、意を決して水風呂に向かう。

 ロドリゴと変わらない年頃の男たちが浸かっている隙間から手を入れてみると、夏とは思えないぐらい冷たかった。地下深くから組み上げているのかもしれない。ここに潜れば、さぞかし頭も冷えるだろう。

 そっと足を差し入れようとしたとき、背後から「お兄さん、ちょっと」という声がかかった。背後を振り返ると、そこには、いかにも近所の住民ですというような純朴そうな中年男性が佇んでいた。

「あんた王国式の浴場は初めてかい? 先に高温浴室に入るんだよ」
「あ、いや、初めてじゃないんですけど、ちょっと苦手で」
「何言ってるんだい。浴場と言えば高温浴室、高温浴室と言えば水風呂だよ。ほら、こっち来な。あまり暑くない場所を教えてあげるから」

 よくわからない理屈を捲し立てられ、連行されるように高温浴室に案内される。言われるまま大理石の椅子に腰掛けるが、嫌になるほど暑い。どうもサミュエルと男の間では暑さの認識に差があるようだ。

 熱気から守るために頭に布を被せて項垂れるサミュエルに、隣に座った男が機嫌良さそうに声をかけてきた。

「な? そんなに暑くないだろ? ええと……騎士さんかな? いい体してるねぇ」
「いえ、ただの農夫です。鍬を振るうからがっしりして見えるだけで、てんで弱いですよ」
「そうなのかい。人は見かけによらないねぇ。故郷では何を作ってるんだい?」
「小麦ですね。収穫が終わって余裕ができたので、旅に出たんです」
「もう八月も中旬だからねぇ。種まき前の心の洗濯ってわけかい」

 男はうんうんとわけ知り顔で頷き、嘘と汗に塗れたサミュエルを労ってくれた。

「小麦といえば、フランチェスカが出荷を止めたせいで価格が高騰してるってねぇ。王様が備蓄を解放して少しずつ状況はマシになってきてるみたいだけど、急にどうしたんだろうね」

 ぴくり、と肩が反応した。冷静さを保ちながら、男に続きをうながす。

「フランチェスカに不穏な動きでも?」
「行商人から聞いた話だと、何でも最近、盛んにミケーレとやりとりしてるらしいよ。噂通り、また戦争でもふっかけるつもりなのかね」
「まさか。もうふっかける土地も残っていないでしょう。王国軍にかなうわけもなし」
「それもそうか。南部は全部王領になっちゃったもんねぇ。ここも王領だから他所のことは言えないけど、あれだけしっかり自治を保ってたのに、何だか勿体無い気もするよね」

 男の言葉に曖昧に返事をし、サミュエルは布の影に隠れて口元を緩ませた。どうやら、ミゲルとマッテオの交渉は進んでいるようだ。フランチェスカの領主が女だということも漏れていなさそうだし、今のところは上々と言える。

「俺、もうそろそろ……」
「ああ、ごめんごめん。顔が真っ赤になっちゃったね。今なら気持ちよく水風呂に入れると思うよ。ノリクをゆっくり楽しんで行ってね」

 愛想のいい笑みを浮かべる男に頭を下げ、水風呂に向かう。限界までほてった体に染み渡る冷水は、確かに気持ちよかった。





「……さっきの親父、もう八月中旬って言ってたな」

 宿に戻る短い道を歩きながら、フランチェスカを出てからの日数を数える。未来の開戦日までにはまだ日があるが、あまり悠長にしているわけにもいかない。

「あ……」

 指を折っていたサミュエルの動きが止まる。

 ——今日、誕生日だ。

 それどころじゃなかったので、すっかり忘れていた。去年は王都、未来ではフランチェスカ、そして今はノリクにいる。

 ——まさか、こんなことになるとはなぁ。

 予想もしていなかった数奇な人生に、サミュエルは大きく息をついた。

「お帰り。奥さん、もう戻ってるよ。早く行ってやんな」

 含みのある視線を向けてくる宿屋の店主に引き攣った笑みを返し、二階に上がる。エミリアはまだ起きてくれているようだ。扉の隙間から、微かにランプの明かりが漏れ出ている。

 自然と高まる緊張を誤魔化すように深呼吸し、扉をノックする。中から「はい」と答える声に「俺です」と返すと、ととっと床を走る音がして、すぐに扉が開いた。

「お帰り、サミュエル。ゆっくり入れたか?」
「おかげさまで。エミリアはどうでした?」
「久しぶりに生き返った心地だよ。やっぱりお風呂は最高だな」

 部屋の中に入り、鍵をかける。これでもう、この中は二人だけの空間だ。

 それを知ってか知らずか、エミリアはベッドに腰を掛けた。窓からほのかに差し込むマーケットの明かりが、下ろした赤毛に反射して綺麗だ。店主が気を利かせて貸してくれた、体の線がわかる薄い寝巻きも破壊力が凄い。

 どくどくとうるさい心臓に気づかないふりをしながら、サミュエルは彼女の向かいの椅子に腰掛けた。手を伸ばしてもギリギリ届かない距離。これが、今の二人に許された距離だ。

「入浴客からフランチェスカの様子を聞きました。ミゲルさんたちがミケーレと交渉を始めたみたいですね」
「うん、私も浴場のおばさまたちから聞いた。領主が女だってことも広がってないみたいだ」
「まあ、まず領主が女だとは思わないですからね。旅立ちのときも女性の姿でしたし、傍目からだと、派手に新婚旅行に送り出しているように見えるでしょう」

 それに、領民たちは口が裂けてもエミリアの秘密を口にしたりはしないだろう。同じことを考えていたのか、サミュエルと目が合ったエミリアがにこっと微笑んだ。

「いよいよ明日だな」
「ええ、戦争を止めましょう。そして、揃ってフランチェスカに帰るんです」
「ロドリゴ卿には苦労をかけてしまうな……。彼は私を受け入れてくれるだろうか」
「大丈夫ですよ。親父はあなたの名付け親なんですから。友人の娘を見捨てるような真似はしません。未来でもそうでした」

 そう言うと、エミリアはふっと切なそうな顔をした。サミュエルが過去のフランチェスカを知らないように、彼女もサミュエルが知る未来を知らない。同じ寂しさをエミリアも感じているのだろうか。

 ふいに、部屋の中に沈黙が降りる。

 この沈黙は、まずい。下手に動くと理性の留め金が外れそうだ。身じろぎもできずにじっとしていると、同じく、じっとしていたエミリアが口を開いた。

「……そろそろ、寝るか?」
「え、あー……お先にどうぞ。俺はもうちょっと後で……」
「そんなこと言って、床で寝るつもりなんだろう。駄目だぞ。ご両親に再会する前に、そんなことはさせられない」

 さすが、鋭い。しかし、今はそれを発揮しないで欲しい。

「いや、駄目ですって。ミゲルさんたちに殺されてしまいます」
「殺されるようなことをするつもりか?」
「あの、だって、その……俺だって男ですし」

 組んだ指をもじもじと動かす。あれだけ冷水に浸かったのが嘘みたいに、手のひらは汗ばんでいた。

 一滴たりとも酒を飲んでいないのに、悪酔いしているかのように頭がくらくらする。熱い頬を隠そうと下を向くと、ベッドの上から小さく息を吸い込む音がした。

「いいよ」

 ハッと顔を上げる。薄暗い部屋の中、エミリアがまっすぐにサミュエルを見つめていた。

 揺るぎのない、真剣な眼差し。まるで縫い止められたように目を離せない。

「お前ならいい」

 ぎ、と音を立ててベッドから腰を上げたエミリアが近寄ってくる。

 ——まずい。本当にまずい。

 頭の中で警鐘が鳴る。今すぐ椅子を立って部屋を出て行くべきだ。しかし、体は全く動かなかった。

「未来の私はお前に何も伝えなかったか?」
「いや、それは、その」
「もうわかってるんだろう。私がなぜ、暗殺者と知りながらお前を従者にしたのか」

 目の前に立つエミリアは、まるでお伽話に登場する女神や精霊のようだった。

 薄暗い中でも浮かび上がる白い頬、細い首筋、すらりとした華奢な体。そのどれもが魅力的だ。洗いたての髪から、ふわりと花のような香りが漂ってくる。

 腰を引こうとして、ガタンと椅子が鳴った。逃げる構えを見せたサミュエルを繋ぎ止めるように、きゅっと両手を握りしめられ、一気に体温が上昇する。

 やめてくれ、と叫びたかった。頼むからこれ以上、誘惑するような真似はしないで欲しい。

「一目惚れだったんだ、サミュエル。私はお前が好きなんだよ。一人の男として想ってる」

 エミリアの小さな手が、手のひらから頬に移る。ゆっくりと顔を近づけられ、ぐらりと心が揺らぐのを感じた。

 頭の中に据え膳という単語がちらつく。

 しかし、唇が触れ合う寸前、目の前にミゲルたちの顔がよぎり、恐ろしいほどの自制心でエミリアの肩を押し留めた。

「あなたの気持ちは本当に嬉しい。俺も同じ気持ちです。でも、今は駄目だ。あなたを大事に思う人たちの信頼を裏切るわけにはいかない。せめて無事に王都を出るまでは、俺に手を出させないでくれ」

 祈るような気持ちで懇願する。情けないほどに、両手が震えていた。恐ろしくてエミリアの顔が見れない。そんなサミュエルをエミリアはじっと見下ろしていたが、やがて諦めたようにふうっと息をついた。

「……わかった。でも、床で寝るのはなしだ。でないと、私がロドリゴ卿とソフィア様に顔向けできないからな」

 手のひらからエミリアの肩の感触が消え、ほっと胸を撫で下ろす。恐る恐る顔を上げたときには、エミリアはもうベッドに潜り込んでこちらに背を向けていた。

「どうした? 早くこい。私は壁を向いているから安心していいぞ」

 ちっとも安心できないが、いつまでも押し問答をしていても仕方ないので、そっとベッドに近づく。上から見下ろすエミリアの体はとても小さい。抱き損ねたことを一瞬悔やむ気持ちが湧いたが、これで良かったんだと言い聞かせて、そっと布団をめくった。

「じゃあ……失礼します」

 きっ、とベッドが鳴り、エミリアの肩がぴくりと跳ねた。しかし、彼女はそれを誤魔化すように背中を丸めると、サミュエルの体温から逃れるように壁に身を寄せた。

 一つとはいえ、それなりに広いおかげで、背中が触れるか触れないかという距離を保っていられる。真ん中に剣でも置けば良かったと思いながら、サミュエルはそっとため息をついた。

「……とんだ誕生日になったな」
「えっ、お前、今日誕生日だったのか?」

 つい口に出てしまった。身を起こしたエミリアがこちらを伺う気配がする。己の迂闊さに内心歯噛みしながら、背中越しに「あー……そうです」と彼女に答える。とてもじゃないが、真正面から向かい合う勇気はなかった。

「すみません。隠そうとしてたわけじゃなくて、言い出すタイミングが……」
「……未来の私はお前に何か贈ったか?」
「ええ、ワインとチーズで祝ってもらいました。でも、本当にお気になさらず。そんな状況じゃないことはわかってますし」

 やけに未来のエミリアのことを気にするなと思ったが、別に隠すことでもないので正直に話す。エミリアはじっと黙っていたが、何を思ったのか、こちらに近寄り、身をかがめる気配がした。

 嫌な予感がする。これ以上、彼女を自由にさせてはいけない。

「ちょっと、壁を向いてるから安心していいんじゃなかったんですか。動かないでくださ……」

 制止するサミュエルの口を塞ぐように、唇に何か柔らかいものが重なった。それがエミリアの唇だと気づいた時には、顔を真っ赤にした彼女がリップ音をたてて体を離したところだった。

「誕生日おめでとう。……おやすみ」

 囁くように祝福され、サミュエルは両手で顔を覆い隠した。

 ——ちっともわかってない!

 やっぱり眠れない予感はあたっていたのだ。背中越しに伝わるエミリアの体温を感じながら、サミュエルは大きなため息をついた。
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