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第2部 悲劇を越えた先へ

29話

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 鮮やかな緋色の絨毯が敷かれた長い廊下を、しずしずと進む。目の前には久しぶりに男装に身を包んだエミリアが、背筋をまっすぐに伸ばして堂々と歩みを進めていた。

 それを胡乱な目で見据えているのは、等間隔に配置された近衛騎士たちだ。彼らは揃って渋面を浮かべ、前を通り過ぎていくエミリアにあからさまな舌打ちをぶつけている。

 その中には見知った顔も何人かいたが、サミュエルに気づいた様子はない。それどころか絡みつくような関心を向けられ、その好色な視線にぞわりと背筋を震わせた。

 サミュエルが身にまとっているのは、エミリアの礼服と合わせた深い青色のドレス。そしてその裾からのぞく、淡い黄色のハイヒールだ。

 歩く度にさらさらと揺れる髪も、シルヴィオ御用達の店で調達した特注品のカツラである。正体を隠して潜り込むため、サミュエルはエミリアの侍女に化けていた。

 この三日間、エミリアとサミュエルはシルヴィオの指導のもと、王城に乗り込むために必要な礼儀作法や立ち居振る舞いを徹底的に叩き込まれた。

 おかげで、エミリアは海千山千の貴族たちとも渡り合える貴公子に、サミュエルはどこに出しても恥ずかしくない淑女になった。

 ロドリゴは約束通り、王都や近隣の所領に居を構える貴族たちに片っ端から声をかけ、フランチェスカ公爵のお披露目会の段取りを整えた。

 最初は渋っていた貴族たちも、ロドリゴが名付け親であるという事実を明かすと、みんな揃って首を縦に振った。

 名付け親になるということは、実親にもしものことがあれば後見人になるという表明でもある。両親を亡くしたエミリアにとって、今やロドリゴは彼女の親に等しかった。

 カルロも今日の業務が終わり次第、会場に合流する手筈になっている。この廊下の突き当たりにある扉の向こうでは、上は侯爵、下は男爵まで、なみいる貴族が勢揃いしているはずだ。

「そこで待て。合図をするまで動くな」

 ここまで二人を先導した騎士が、横柄な口調でエミリアを制止した。よく見るとサミュエルと仲の悪い、いけすかない同期である。彼は華美な彫刻が刻まれた扉を二度ノックすると、高らかにフランチェスカ公爵の訪れを告げた。

 内側から静かに扉が開き、中の喧騒が一気に押し寄せてくる。作法に則り、広場側の扉の脇にいた騎士が、もう一度フランチェスカ公爵の訪れを告げる。

 同期にうながされて中に進むエミリアに続いて、サミュエルも扉をくぐる。同期は余程女に飢えているのか、さりげなく触れようとしてきたので、すれ違いざまにヒールの踵で足を踏みつけてやった。

 広間の中に入ってまず目についたのは、貴族たちの煌びやかな衣装と、その顔に張り付いた笑顔だった。男は嘲りに歪んだ口元を酒で隠し、女は艶やかな含み笑いを扇子で隠している。

 ここには様々な年代の様々な地位のものが、それぞれの思惑に従って集まっている。そんな彼らに共通しているのは、隠しきれない好奇心と敵愾心に塗れた瞳だ。南部を荒らしまわる悪役のご尊顔を拝見しようと、みんなこぞってエミリアに奇異な視線を注いでいた。

 もしものときの退路を確認するため、サミュエルは広間の中にさりげなく視線を走らせた。広間は奥に長い長方形状で、広さの割に出入り口は一つしかない。

 向かって左手側には大きなガラス窓が等間隔に嵌め込まれ、その向こうは青々とした緑の茂る中庭が広がっている。

 右手側の壁際にあるのは、数えきれないほどの料理と酒が載ったテーブルだ。そして天井には、それ一つでフランチェスカのひと月分の予算を賄えそうな豪華なシャンデリアがいくつも吊り下げられており、その艶やかな輝きで会場に華を添えていた。

 そして、広間の奥の一段高くなったスペースでは、空の玉座が主人の訪れを待っていた。

 ロドリゴはまだここに来ていない。彼は主賓を確実に会場に連れてくるために、朝からずっとカルロのそばについている。なので、それまでエミリアは孤軍奮闘するしかない。

 ロドリゴは好きにかませと言っていたが、今まで社交の場に出たことのないエミリアにどこまでできるのか、サミュエルも、そしてエミリア自身もわからなかった。

「会場の皆様。本日は私の名付け親、ロドリゴ卿の招きに応じ、お集まりいただきまして誠にありがとうございます」

 貴族たちの視線をものともせず、広場の中央に進み出たエミリアが、よく通る声を張り上げた。

 ソフィアの手によって磨き上げられたエミリアは、シャンデリアの明かりを一身に浴び、まるでお伽話から抜け出てきた騎士や王子のような輝きに満ちていた。

「私はエンリコの息子、エミリオ・デッラ・フランチェスカと申します。王家の血を引く新しきフランチェスカ公爵として、皆様にご挨拶する機会をいただき、感謝の念に堪えません」

 公爵位であること、そして王家に連なる血筋であるということを真っ先に強調しろとシルヴィオは言っていた。

 貴族社会は絶対の縦社会である。カルロが不在の今、エミリアを越える爵位のものはここに存在しない。これで、迂闊にも彼女を真正面から蔑もうとする輩の牽制にはなっただろう。

「つきましては、王都の皆様のより素晴らしい繁栄と発展を祈念いたしまして、この度の祝宴を設けさせていただきました。ささやかではございますが、国王陛下がお出ましになられるまでのほんのひととき、どうぞお楽しみください」

 普段なら絶対にしない仰々しい仕草で胸に手を当て、エミリアは周囲の貴族たちに最敬礼を示した。

 若輩者といえど、公爵位に頭を下げられて悪い気はしない。最初に感じた嫌な視線も、今や感心な若者を見る目に変わっていた。

 エミリアの言葉を合図に、集まっていた貴族たちがめいめい広間の中に散らばり始めた。何しろ王都の主要な貴族たちが一同に介しているのだ。この機を逃してはならないと、みんな交流に余念がない。

 公の場では、身分が上のものから下のものに声をかけるのがマナーである。それを嫌というほど叩き込まれたエミリアは、こちらを伺う貴族たちにここぞとばかりに話しかけた。とにかく出席者の心を掴んで反戦派に転ばせろと、ロドリゴからも薫陶を受けている。

 エミリアはその優しげな甘いマスクと優雅な身のこなしで、慎み深い奥方から可憐なご令嬢までやや節操なしに虜にし、傍に佇む男たちには、娘や妹の伴侶にしたいと思わせる程度には愛想を振りまいた。

 中にはサミュエルに熱い視線を向けるものもいたが、エミリアが軽くいなしてくれた。サミュエルはテオのように器用に声を変えられないので、極力喋るなと言われている。逆にそれがミステリアスな雰囲気を生み、より熱を孕んだ視線を集める結果になったのは頭が痛い話であるが。

「公爵の侍女はその……サリカ人ですよね? なぜ、おそばに置いておられるのですか?」
「ベアトリーチェと申します。父の犯した過ちのせいでうまく話せなくなり、その罪滅ぼしのために城で働いてもらっています。こう見えて腕も立つんですよ」
「ベアトリーチェ? 失礼ですが、あなたのお母様も……」
「ええ、同じ名前です。母は私を産んですぐに亡くなったため、私は母の顔を知らず育ちました。ですが、せめて存在だけでも近くに感じたいと……」
「あら。私ったらそうとは知らず不躾なことを。どうかお忘れくださいましね。こんなに立派にお育ちになられて、亡くなられたお母様もさぞやお喜びになることでしょう」

 自分にも同じ年頃の息子がいるのか、エミリアに質問を投げかけた伯爵夫人の目が潤んだ。こうして母親には母性本能をくすぐり、父親には地位と権力を見せつけることで、エミリアは次々と貴族たちを懐柔していった。

 そんな中、抜け目ない目つきをした小太りの男が近寄ってきた。よくロドリゴが狸ジジイと罵っていた御仁である。

 彼はロドリゴと並ぶ侯爵位で、建国から宰相を輩出し続ける家系として国の一翼を担う、バルテロ・デ・サバティーニだ。

「これはこれは、サバティーニ閣下。閣下のご高名はかねがね聞き及んでおリます。この度は私のような若輩者のために足を運んでいただき、誠にありがとうございます」

 大物の登場に、腰を折ったエミリアの口元が微かに緩んだ。バルテロを反戦派に転ばせることができたら、こちらの計画は大きく前進する。

 内心はらはらしているサミュエルを尻目に、獲物を見定めたエミリアの瞳が強く光った。

「公爵位のあなたの方が身分は上でしょう。謙遜もいきすぎると慇懃無礼と取られますよ」
「恐れ入ります。何しろ田舎者なもので、王都の慣習には疎いのですよ。いつ粗相をしでかさないかと、気が気でありません」
「そうでしょうか。実に堂々としているように見受けられましたが。さすが、勇猛果敢なエンリコ卿のご子息ですな。南部の土地など、瞬く間に奪い返してしまわれるのでは?」

 エミリアを甘く見ているのか、狸ジジイと言われる割には、なかなかのストレートを放ってくる。しかし、エミリアはにっこりと微笑み返すと、少し演技がかった調子で肩をすくめた。

「まさか。私は愚かな父と同じ轍を踏むつもりはありません。今回の件につきましても、何とか皆様の誤解を解きたいと、名付け親であるロドリコ卿にお縋りした次第で」

 そう言ってエミリアは、周囲で二人のやりとりを見守っている貴族たちにも微笑みかけた。あくまで南部を荒らしまわったのは父親であるエンリコで、自分とは違うと印象付けるためだった。

 バルテロは笑みを崩さない彼女を一筋縄ではいかない相手だと判断したのか、肉づきのいい顎を撫でながら、こちらも演技がかった調子で首を傾げた。

「誤解、さて本当に誤解なのでしょうかな。先だって、フランチェスカが小麦の出荷を差し止めたせいで、小麦の値段が高騰してしまいました。心無いものの間では、フランチェスカが戦争の準備をしているともっぱらの噂ですよ。最近では隣国のミケーレとも頻繁にやり取りをされているとか」
「出荷を止めたのは、お恥ずかしくも出来が悪かったからです。赤かび病をご存知ですか? 小麦に菌がまわり、収穫量や品質を著しく低下させ、毒を発生させるのです。私が領主として頼りないせいで領民たちが適切な処置を行うことができず、みすみす蔓延させてしまいました。あんなものを王都の皆様のお口に入れるわけにいきませんし、粗悪品を出荷したとなれば我がフランチェスカの評判にも傷がつきます」

 バルテロがグッと言葉をつまらせた。ロクに地方に赴かない王都のお貴族様に、赤かび病のなんたるかが詳しくわかるはずもない。

 あえて毒という単語を使うことで、口に入れてはいけないものなのだという先入観も与えられる。小麦の件は必ず突っ込まれると予想して、あらかじめ回答を用意しておいたのだ。

 何も反論できないのを見て、エミリアはバルテロに一歩近づくと、その顔を見上げるように体を寄せた。そして、数ある奥方とご令嬢を虜にした魅惑の微笑みを浮かべ、畳み掛けるように言葉を続ける。

「ミケーレとの交流も小麦の損失を埋めるために始めたことです。これを機に他国とも手を取り合っていきたいと思っています。幸い、我が領地にはミケーレから流れてきたものが多くおりますし、私の母はケルティーナの出身でした。販路を拡張するにはうってつけでしょう?」
「ケルティーナ……あの南洋の群島諸国の?」
「ええ。祖父母とは今も手紙で頻繁にやり取りをしているんですよ。孫の私が可愛くて仕方がないようです」

 他国とも太いパイプがあることをさりげなく匂わせる。サバティーニ家は元々貿易業から成り上がった貴族だった。

 この国では貴族が商売をすることは認められており、現当主のサバティーニも、手広く家業を続けていると聞いている。積極的な外交を好まないミケーレやケルティーナとの販路は、それこそ喉から手が出るほど欲しいはずだ。

「どうでしょう? 販路はあれど、私は商売については素人です。閣下のような聡明な方に手綱を取っていただけると、大変ありがたいのですが。決して損はさせないと思います」

 エミリアを見つめるバルテロの目が、宰相から商人の目に変わった。カルロとフランチェスカのどちらについた方が得をするのか頭の中で勘定しているのだろう。

 もう少しで落ちると確信したエミリアが、懐から小さな紙片を取り出してバルテロに差し出した。

「ご覧ください。最近ケルティーナで開発された製紙技術を使い、植物から作られた紙です。これからは羊皮紙ではなく、この紙が主流になる。私の販路を使えば、市場に先んじて手に入れることができますよ」

 彼女の持つ紙片はケルティーナから取り寄せたものではなく、アヴァンティーノ邸の書庫に保管されていた本から切り取ったものだ。

 エミリアは本にナイフを入れることを最後まで抵抗していたが、サミュエルたちの必死の説得の末にようやく折れた。その甲斐あって、先ほどからバルテロの目は差し出された紙に縫い止められている。

「もう一度お尋ねいたします。私と手を組みませんか? 王都の明るい未来を、あなたに作り上げていただきたい」

 そう言って、エミリアは右手をバルテロに差し出した。肉に埋もれた太い首から、ごくりと唾を飲み込む音がする。

 そして、バルテロがエミリアの手を取ろうとした瞬間、広間の扉が開き、その脇に控えていた騎士の高らかな声が響き渡った。

「国王陛下のおなりです!」

 周囲のざわめきが小さくなる。視線が集中する先に、見事な金髪と青い目を持つ男が、感情の読めない微笑みを浮かべて佇んでいた。

 純白の布地に金色の刺繍と飾り紐があしらわれた儀礼服を着込み、赤いマントを身に纏うカルロは、まさに王者とも言える威風堂々たる姿で、その場にいるものを圧倒する存在感を放っていた。

 羨望、嫉妬、畏怖、敬意、それら様々な感情が込められた視線など目に入っていないかのように、静寂が訪れた広間の中を、踵を響かせながらゆったりと歩いていく。

 傍のエミリアが、玉座に向かうカルロの姿をじっと見つめている。そして、それを見据えるサミュエルの目も、鋭い光を放っていた。
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