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26章 幸せへの価値観
第1話 味が忘れられなくて
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平日だが明日と明後日がお休みだと言う都築美菜さんは、整ったお顔を緩ませて冷酒をちびりと傾ける。
都築さんのお仕事は日系航空会社国内線のCAさんで、基本4日勤務の2日休みというサイクルなので、平日が休みになることが多い。
都築さんは大学進学のために煮物屋さん近くのマンションに越して来られ、そのころから煮物屋さんの常連だ。週に一度ほど、週末に来られていた。
CAさんに就職が決まり、大学卒業後に空港近くのマンションにお引越しをされたのだが、煮物屋さんのご飯が忘れられないと、月に一度こうして来てくださるのだ。仕事を終え空港から直接来られる。
都築さんのお気に入りはビールと冷酒。ビールは中瓶だと多いと小瓶で頼まれ、そのあとに冷酒を頼まれるのだ。
都築さんの本格的なアルコールデビューは煮物屋さんだ。
20歳を迎えたその日は大学の友人が祝ってくれたそうなのだが、学生街にある学生御用達の安居酒屋で飲んだブルドッグが、あまり美味しいと感じなかったそうだ。
だから次はベースを変えてジントニックを頼んでみたが、やはりそれも美味しく無かった。
そのころはまだ強い日本酒は飲めず、都築さんは結局先輩におすすめされたレモン酎ハイをちびちび飲んで過ごした。それもあまり口に合わなかった。
なので都築さんは、自分はお酒そのものが美味しいと思えないのでは無いかと思われたのだ。
その翌日、やって来た都築さんはそれまでの様に定食を注文して、残念そうに話してくださった。
「やっと大人になって、煮物屋さんで皆さんと飲むのを楽しみにしてたんですけどねぇ~」
そううなだれる都築さんに、佳鳴は「そうですねぇ」と首を傾げる。
「では都築さん、これを飲んでみませんか? サービスです」
佳鳴が置いた小さなグラスに満たされているのは、淡い黄色の液体。
「これはなんですか?」
目を丸くする都築さんに、佳鳴はにっこりと微笑む。
「試してみてください」
都築さんは目を瞬かせながら、そろりとグラスを取って口を付けた。
「……あ、美味しい」
都築さんはまたこくりとグラスを傾けた。
「これ、グレープフルーツのお酒、ですよね?」
「はい。ブルドッグです」
「ええっ? 私昨日飲んだのあまり美味しく無かったですよ?」
都築さんはぽかんと口を開け、視線は佳鳴とグラスを行ったり来たり。
「都築さんが行かれたお店、大学の近くの居酒屋さんだとおっしゃってましたよね」
「はい。学生向けの安いお店です」
「もしかしたらなんですけども、ベースのウォッカが都築さんのお口に合わなかったのかも知れません。ぶっちゃけて言いますと、業務用のお安いウォッカはどうしても味が落ちてしまうんです」
「ああ、安いから……」
都築さんは納得された様な顔になる。佳鳴は苦笑した。
「うちで使っているのは、このウォッカなんですよ」
佳鳴が出したのは、透明の瓶に赤いラベルのウォッカだ。
「癖も少なくて、カクテルを作るのにぴったりなウォッカなんです。万人向けと言いますか、いろいろな方に馴染みやすくていただきやすいんですよ」
「そうなんですかぁ。へぇ~」
感心した様な声を上げる都築さん。
「ですので、都築さんが行かれたお店よりは少しお高くなってしまうんですけども、味は保証しますので」
佳鳴が笑顔で言うと、都築さんは「はい!」と嬉しそうに声を上げた。
「これだったら美味しく飲めます! あ、でもそのお店にまた行くことになったらどうしよう。何飲もう」
都築さんが困った様に首を捻る。
「でしたら都築さん、こちらはどうですか? あ、もちろんサービスですよ」
佳鳴はまた小さなグラスを置く。透明感のある淡い琥珀色の液体だ。しゅわしゅわと底から小さな泡が上がっている。都築さんはブルドッグを飲み干し、新たなグラスを手に取る。
そっと傾けると「炭酸でさっぱりしてる。美味しいです」と口元を綻ばせた。
「店長さん、これはなんですか?」
「シャンディガフといいます。ビールがベースのカクテルなんですよ」
「へぇ、ビール!」
都築さんはまた驚いて目を見開く。
「ビールとジンジャーエールを1:1で合わせたビアカクテルです。ビールがベースでしたら、そのお店で出されている生ビールなどを使われると思いますから、安心して飲んでいただけるかも知れません。そのお店にあれば良いんですけども」
「確かあったと思います。ビールって苦いって聞くので止めたんですけど、これだったら美味しいです。今度からこれを頼みます。ビールも飲める様になりたいです」
「そう遠く無いかも知れませんよ」
「本当ですか? だったら嬉しいなぁ」
そう言ってにこにこする都築さん。佳鳴もほっとして微笑んだ。
都築さんはそうしてお酒の美味しさを知った。あっさりとしたカクテルを経て、今やビールと日本酒を嗜む様になったのだった。そこに達するまでそう月日は掛からなかった。都築さんは飲兵衛だったのだ。
都築さんは小鉢を口に運び、また冷酒をこくりと含んで満足げに相貌を崩す。
今日のメインは鮭と里芋の煮物だ。小麦粉をはたいてこんがりと焼いた鮭と里芋をこっくりと煮込み、彩りにいんげん豆。少し色味は悪くなるが一緒に煮てくったりとさせた。
お出汁を効かせ、あっさりとしたお塩仕立ての煮物に仕上げた。小麦粉と里芋のおかげで少しとろみのあるお出汁になっている。ほろっと崩れる鮭とねっとりとした里芋、くたっとさせてもなお残る歯ごたえのあるいんげん豆が、ふくよかなお出汁を絡んでほっとする一品だ。
小鉢のひとつめは大根とパプリカの酢の物。千切りにして塩もみした大根と、千切りにしてしんなりするまで茹で、しっかりと水分を搾った赤と黄色のパプリカを、酸味を抑えた合わせ酢で和えた。
しゃきしゃきとしていてさっぱりとしつつ、酸味が野菜の甘みを引き立たせている一品である。
小鉢のもうひとつはにらと桜えびの煮浸しだ。ざく切りにしたにらと桜えびをお醤油仕立てのお出汁でさっと煮た。
しゃくっとしたにらに、桜えびから出た旨味をまとったお出汁が絡み、なんとも味わい深い一品だ。
「もう、もう特にこの酢の物が冷酒とあってもうたまりません……!」
都築さんは満足げに頬を和ませて天を仰いだ。
「ふふ。ありがとうございます」
佳鳴はおかしそうにくすりと笑う。ここまで喜んでいただけたら、本当に丁寧に作った甲斐があるというものだ。
「もちろん煮物も煮浸しも美味しいです。これ煮浸し、桜えびの香ばしさが最高なんですけど。あの、お行儀が悪いと思うんですけど、お出汁飲んじゃって良いですか?」
「もちろんですよ。ぜひ味わってください」
それはとても嬉しいお申し出だ。旨味の詰まったお出汁も楽しんでいただきたい。
「ありがとうございます!」
都築さんは両手で持った小鉢を傾けて「はぁ~」と息を吐いた。
「お出汁だけでお酒飲めます~」
「ありがとうございます」
佳鳴はにっこりと微笑んだ。
都築さんのお仕事は日系航空会社国内線のCAさんで、基本4日勤務の2日休みというサイクルなので、平日が休みになることが多い。
都築さんは大学進学のために煮物屋さん近くのマンションに越して来られ、そのころから煮物屋さんの常連だ。週に一度ほど、週末に来られていた。
CAさんに就職が決まり、大学卒業後に空港近くのマンションにお引越しをされたのだが、煮物屋さんのご飯が忘れられないと、月に一度こうして来てくださるのだ。仕事を終え空港から直接来られる。
都築さんのお気に入りはビールと冷酒。ビールは中瓶だと多いと小瓶で頼まれ、そのあとに冷酒を頼まれるのだ。
都築さんの本格的なアルコールデビューは煮物屋さんだ。
20歳を迎えたその日は大学の友人が祝ってくれたそうなのだが、学生街にある学生御用達の安居酒屋で飲んだブルドッグが、あまり美味しいと感じなかったそうだ。
だから次はベースを変えてジントニックを頼んでみたが、やはりそれも美味しく無かった。
そのころはまだ強い日本酒は飲めず、都築さんは結局先輩におすすめされたレモン酎ハイをちびちび飲んで過ごした。それもあまり口に合わなかった。
なので都築さんは、自分はお酒そのものが美味しいと思えないのでは無いかと思われたのだ。
その翌日、やって来た都築さんはそれまでの様に定食を注文して、残念そうに話してくださった。
「やっと大人になって、煮物屋さんで皆さんと飲むのを楽しみにしてたんですけどねぇ~」
そううなだれる都築さんに、佳鳴は「そうですねぇ」と首を傾げる。
「では都築さん、これを飲んでみませんか? サービスです」
佳鳴が置いた小さなグラスに満たされているのは、淡い黄色の液体。
「これはなんですか?」
目を丸くする都築さんに、佳鳴はにっこりと微笑む。
「試してみてください」
都築さんは目を瞬かせながら、そろりとグラスを取って口を付けた。
「……あ、美味しい」
都築さんはまたこくりとグラスを傾けた。
「これ、グレープフルーツのお酒、ですよね?」
「はい。ブルドッグです」
「ええっ? 私昨日飲んだのあまり美味しく無かったですよ?」
都築さんはぽかんと口を開け、視線は佳鳴とグラスを行ったり来たり。
「都築さんが行かれたお店、大学の近くの居酒屋さんだとおっしゃってましたよね」
「はい。学生向けの安いお店です」
「もしかしたらなんですけども、ベースのウォッカが都築さんのお口に合わなかったのかも知れません。ぶっちゃけて言いますと、業務用のお安いウォッカはどうしても味が落ちてしまうんです」
「ああ、安いから……」
都築さんは納得された様な顔になる。佳鳴は苦笑した。
「うちで使っているのは、このウォッカなんですよ」
佳鳴が出したのは、透明の瓶に赤いラベルのウォッカだ。
「癖も少なくて、カクテルを作るのにぴったりなウォッカなんです。万人向けと言いますか、いろいろな方に馴染みやすくていただきやすいんですよ」
「そうなんですかぁ。へぇ~」
感心した様な声を上げる都築さん。
「ですので、都築さんが行かれたお店よりは少しお高くなってしまうんですけども、味は保証しますので」
佳鳴が笑顔で言うと、都築さんは「はい!」と嬉しそうに声を上げた。
「これだったら美味しく飲めます! あ、でもそのお店にまた行くことになったらどうしよう。何飲もう」
都築さんが困った様に首を捻る。
「でしたら都築さん、こちらはどうですか? あ、もちろんサービスですよ」
佳鳴はまた小さなグラスを置く。透明感のある淡い琥珀色の液体だ。しゅわしゅわと底から小さな泡が上がっている。都築さんはブルドッグを飲み干し、新たなグラスを手に取る。
そっと傾けると「炭酸でさっぱりしてる。美味しいです」と口元を綻ばせた。
「店長さん、これはなんですか?」
「シャンディガフといいます。ビールがベースのカクテルなんですよ」
「へぇ、ビール!」
都築さんはまた驚いて目を見開く。
「ビールとジンジャーエールを1:1で合わせたビアカクテルです。ビールがベースでしたら、そのお店で出されている生ビールなどを使われると思いますから、安心して飲んでいただけるかも知れません。そのお店にあれば良いんですけども」
「確かあったと思います。ビールって苦いって聞くので止めたんですけど、これだったら美味しいです。今度からこれを頼みます。ビールも飲める様になりたいです」
「そう遠く無いかも知れませんよ」
「本当ですか? だったら嬉しいなぁ」
そう言ってにこにこする都築さん。佳鳴もほっとして微笑んだ。
都築さんはそうしてお酒の美味しさを知った。あっさりとしたカクテルを経て、今やビールと日本酒を嗜む様になったのだった。そこに達するまでそう月日は掛からなかった。都築さんは飲兵衛だったのだ。
都築さんは小鉢を口に運び、また冷酒をこくりと含んで満足げに相貌を崩す。
今日のメインは鮭と里芋の煮物だ。小麦粉をはたいてこんがりと焼いた鮭と里芋をこっくりと煮込み、彩りにいんげん豆。少し色味は悪くなるが一緒に煮てくったりとさせた。
お出汁を効かせ、あっさりとしたお塩仕立ての煮物に仕上げた。小麦粉と里芋のおかげで少しとろみのあるお出汁になっている。ほろっと崩れる鮭とねっとりとした里芋、くたっとさせてもなお残る歯ごたえのあるいんげん豆が、ふくよかなお出汁を絡んでほっとする一品だ。
小鉢のひとつめは大根とパプリカの酢の物。千切りにして塩もみした大根と、千切りにしてしんなりするまで茹で、しっかりと水分を搾った赤と黄色のパプリカを、酸味を抑えた合わせ酢で和えた。
しゃきしゃきとしていてさっぱりとしつつ、酸味が野菜の甘みを引き立たせている一品である。
小鉢のもうひとつはにらと桜えびの煮浸しだ。ざく切りにしたにらと桜えびをお醤油仕立てのお出汁でさっと煮た。
しゃくっとしたにらに、桜えびから出た旨味をまとったお出汁が絡み、なんとも味わい深い一品だ。
「もう、もう特にこの酢の物が冷酒とあってもうたまりません……!」
都築さんは満足げに頬を和ませて天を仰いだ。
「ふふ。ありがとうございます」
佳鳴はおかしそうにくすりと笑う。ここまで喜んでいただけたら、本当に丁寧に作った甲斐があるというものだ。
「もちろん煮物も煮浸しも美味しいです。これ煮浸し、桜えびの香ばしさが最高なんですけど。あの、お行儀が悪いと思うんですけど、お出汁飲んじゃって良いですか?」
「もちろんですよ。ぜひ味わってください」
それはとても嬉しいお申し出だ。旨味の詰まったお出汁も楽しんでいただきたい。
「ありがとうございます!」
都築さんは両手で持った小鉢を傾けて「はぁ~」と息を吐いた。
「お出汁だけでお酒飲めます~」
「ありがとうございます」
佳鳴はにっこりと微笑んだ。
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