117 / 122
30章 それぞれの距離感
第3話 まさかの出来事
しおりを挟む
翌日の土曜日。煮物屋さんはいつもの様に18時に開店した。
今日のメインは海老とお揚げと蓮根と椎茸の煮物である。彩りは塩茹でしたちんげん菜で添えた。
お揚げと椎茸から出る旨味がお出汁に滲み、具材をまとめ上げる。蓮根は乱切りにしたことで表面積が広くなり、特徴的な穴にもお出汁が絡んで、しゃくっとした歯ごたえの中に滋味が広がる。
椎茸にもしっかりと含められ、噛むとじわりと旨味が滲み出る。臭みをしっかりと拭い、ぷりっと仕上がった海老もその味わいをまとっていて、口の中で風味とともに弾けるのだ。
小鉢のひとつはめんまの海苔和えである。めんまは水煮のものを用意した。それに中華スープをベースとした味を含ませる。みりんやお醤油なども使い、仕上げにごま油をまとわせた。
そのめんまを海苔と和えるのだ。コンロで炙って香ばしくなった海苔をばりばりとちぎり、めんまに加えてしっかりと絡まる様に混ぜる。
味の沁みた歯ごたえの良いめんまにまとうごま油の風味と、ほのかに磯が香る海苔が良く合うのだ。
小鉢のもうひとつはブロッコリのタルタル和えだ。
タルタルソースは自家製である。潰した茹で卵にみじん切りにしたたくあんを合わせ、マヨネーズと少量の辛子を混ぜ合わせる。それを蒸したブロッコリと和えるのである。
程よい甘みと酸味を兼ね備えたタルタルがブロッコリを包み込み、その爽やかさを引き立てるのだ。
「今日も美味しいわ~」
門又さんがブロッコリを口に放り込み、じっくりと味わう。おなじみの麦焼酎の水割りを傾けた。
「本当にねぇ~。週末の煮物屋さんのこの特別感って何なのかしらねぇ~」
榊さんもくい、とハイボールを口に含んだ。
長らく煮物屋さんの常連さんでいてくださるおふたりは、生ビールを導入してからも1杯目の飲み物を変えられなかった。麦焼酎とウィスキーの銘柄こそ日によって違うが、根っからお好きなのだろう。
今日は山形さんが来られていなかった。最近ではすっかりとトリオの様になっていたのだが、急ぎの仕事があるとのことで、来られたとしても少し遅い時間になりそうだということだ。
まだ開店して間も無いので、お客さまは門又さんと榊さんのおふたりだった。なので佳鳴と千隼にも余裕がある。おふたりと世間話などをしながら、片付けなどのできることをした。
やがて少しずつ席も埋まって行く。ほとんどは地元にお住まいの常連さんだ。
初めてのお客さまが来られたのは、まだ席に空きがある時だった。ドアからいちばん近いところが空いていたので、そのお客さまはそこに腰を下ろした。
若い男性だった。清潔感のある身なりをされている。背はすらりと高かった。かなり細身で「ひょろり」と言う表現がぴったりである。
「いらっしゃいませ」
対応したのは千隼だった。おしぼりをお渡しし、この煮物屋さんの注文方法をお伝えする。
佳鳴は他のお客さまとお話をしていたので、そちらは千隼に任せた。
しかし間も無く、がしゃーん! と何かが壊れる様な派手な音が店内に響いた。
その瞬間、程よく騒がしかった店内に静寂が満ちた。皆さんの視線がさまよい、やがて背面の食器棚にもたれ、左の頬を押さえて呆然とする千隼と、立ち上がって拳を突き付ける男性の元に集まった。
佳鳴は一瞬何が起こったのかわからなかった。だがその様子を見て、千隼がお客さまに殴られたのだと把握した。
「千隼!?」
佳鳴が悲鳴に似た声を上げ、客席からも「きゃあ!」「ハヤさん!」と声が上がると、男性は走って店を出て行った。佳鳴は慌てて千隼に駆け寄る。
「どうしたの? 何があったの?」
何か失礼でもあったのだろうか。だが千隼がお客さまに手を出させるほどの粗相をするとは思えない。そんな間も無かったはずだ。
千隼は「判らない」とぽつりと漏らす。
「本当にいきなりだったんだ。辰野さんの紹介で来たって言って、俺にここの店員かって聞いて来たからそうだって。で、毎週金曜日に会ってるかって言うから、そうだって答えたら殴られた」
「どういうことなのかしら」
「本当に判らない。何なんだろう。辰野さんの話が出てたから、関わりがあるのかも知れないけど」
佳鳴も千隼も戸惑うしか無い。自分たちに危害を加えられる心当たりは全く無かった。
「店長さん、ハヤさん、警察呼ぶ?」
門又さんが腰を浮かせてスマートフォンを振る。警察への届けは必要だろう。だが辰野さんが関係あるのかも知れないとのことだし、ここに警察官が来ると他のお客さまを巻き込んでしまう。迷惑を掛けてしまうことはできない。
「いえ、後で交番に行こうと思います。お騒がせしてしまって申し訳無いです」
「ううん、それよりハヤさん大丈夫なの?」
「痛みがありますけど、まぁ何とか」
千隼は苦笑しながらそう言うが、頬の筋肉が動いて痛みが出たのか「つ」と顔をしかめた。
「千隼、病院に行っておいで。今日は土曜日だから、深夜外来やってるところ」
「市民病院だったらやってるかな。ちょっと調べて行って来る。診断書書いてもらわないとな」
「うん。これ、一応暴行事件だからね」
「そう言葉にすると重いな」
千隼は苦笑いを浮かべると姿勢を正した。
「皆さま申し訳ありません。少し外します」
千隼が客席に頭を下げる。
「大丈夫だから」
「ちゃんと診てもらって治療してもらって」
「ありがとうございます。じゃあ姉ちゃん行って来る」
「行ってらっしゃい。気を付けて」
千隼が客席に頭を下げながら出て行くと、どこからともなく「はぁ~」と大きな溜め息が漏れた。
「びっくりしたぁ。一体何があったの?」
門又さんの言葉に、佳鳴も「さぁ……。本当に判らなくて」と首を傾げるしか無かった。不安はあったがそれをお客さまに気取られるわけにはいかない。佳鳴は笑みを浮かべた。
「それよりご迷惑をお掛けしてしまって申し訳ありません。皆さまにお飲み物1杯ずつサービスさせていただきますので」
「良いわよ、そんなの。気にしないで」
「そうよぉ~」
門又さんと榊さんがおっしゃると、他のお客さまからもご辞退のお声が上がる。
「いいえ、せめてもの気持ちですので」
佳鳴は言いながらペンを取り、お客さまそれぞれの伝票からいちばん高い飲み物1杯分に打ち消し線を引いた。
今日のメインは海老とお揚げと蓮根と椎茸の煮物である。彩りは塩茹でしたちんげん菜で添えた。
お揚げと椎茸から出る旨味がお出汁に滲み、具材をまとめ上げる。蓮根は乱切りにしたことで表面積が広くなり、特徴的な穴にもお出汁が絡んで、しゃくっとした歯ごたえの中に滋味が広がる。
椎茸にもしっかりと含められ、噛むとじわりと旨味が滲み出る。臭みをしっかりと拭い、ぷりっと仕上がった海老もその味わいをまとっていて、口の中で風味とともに弾けるのだ。
小鉢のひとつはめんまの海苔和えである。めんまは水煮のものを用意した。それに中華スープをベースとした味を含ませる。みりんやお醤油なども使い、仕上げにごま油をまとわせた。
そのめんまを海苔と和えるのだ。コンロで炙って香ばしくなった海苔をばりばりとちぎり、めんまに加えてしっかりと絡まる様に混ぜる。
味の沁みた歯ごたえの良いめんまにまとうごま油の風味と、ほのかに磯が香る海苔が良く合うのだ。
小鉢のもうひとつはブロッコリのタルタル和えだ。
タルタルソースは自家製である。潰した茹で卵にみじん切りにしたたくあんを合わせ、マヨネーズと少量の辛子を混ぜ合わせる。それを蒸したブロッコリと和えるのである。
程よい甘みと酸味を兼ね備えたタルタルがブロッコリを包み込み、その爽やかさを引き立てるのだ。
「今日も美味しいわ~」
門又さんがブロッコリを口に放り込み、じっくりと味わう。おなじみの麦焼酎の水割りを傾けた。
「本当にねぇ~。週末の煮物屋さんのこの特別感って何なのかしらねぇ~」
榊さんもくい、とハイボールを口に含んだ。
長らく煮物屋さんの常連さんでいてくださるおふたりは、生ビールを導入してからも1杯目の飲み物を変えられなかった。麦焼酎とウィスキーの銘柄こそ日によって違うが、根っからお好きなのだろう。
今日は山形さんが来られていなかった。最近ではすっかりとトリオの様になっていたのだが、急ぎの仕事があるとのことで、来られたとしても少し遅い時間になりそうだということだ。
まだ開店して間も無いので、お客さまは門又さんと榊さんのおふたりだった。なので佳鳴と千隼にも余裕がある。おふたりと世間話などをしながら、片付けなどのできることをした。
やがて少しずつ席も埋まって行く。ほとんどは地元にお住まいの常連さんだ。
初めてのお客さまが来られたのは、まだ席に空きがある時だった。ドアからいちばん近いところが空いていたので、そのお客さまはそこに腰を下ろした。
若い男性だった。清潔感のある身なりをされている。背はすらりと高かった。かなり細身で「ひょろり」と言う表現がぴったりである。
「いらっしゃいませ」
対応したのは千隼だった。おしぼりをお渡しし、この煮物屋さんの注文方法をお伝えする。
佳鳴は他のお客さまとお話をしていたので、そちらは千隼に任せた。
しかし間も無く、がしゃーん! と何かが壊れる様な派手な音が店内に響いた。
その瞬間、程よく騒がしかった店内に静寂が満ちた。皆さんの視線がさまよい、やがて背面の食器棚にもたれ、左の頬を押さえて呆然とする千隼と、立ち上がって拳を突き付ける男性の元に集まった。
佳鳴は一瞬何が起こったのかわからなかった。だがその様子を見て、千隼がお客さまに殴られたのだと把握した。
「千隼!?」
佳鳴が悲鳴に似た声を上げ、客席からも「きゃあ!」「ハヤさん!」と声が上がると、男性は走って店を出て行った。佳鳴は慌てて千隼に駆け寄る。
「どうしたの? 何があったの?」
何か失礼でもあったのだろうか。だが千隼がお客さまに手を出させるほどの粗相をするとは思えない。そんな間も無かったはずだ。
千隼は「判らない」とぽつりと漏らす。
「本当にいきなりだったんだ。辰野さんの紹介で来たって言って、俺にここの店員かって聞いて来たからそうだって。で、毎週金曜日に会ってるかって言うから、そうだって答えたら殴られた」
「どういうことなのかしら」
「本当に判らない。何なんだろう。辰野さんの話が出てたから、関わりがあるのかも知れないけど」
佳鳴も千隼も戸惑うしか無い。自分たちに危害を加えられる心当たりは全く無かった。
「店長さん、ハヤさん、警察呼ぶ?」
門又さんが腰を浮かせてスマートフォンを振る。警察への届けは必要だろう。だが辰野さんが関係あるのかも知れないとのことだし、ここに警察官が来ると他のお客さまを巻き込んでしまう。迷惑を掛けてしまうことはできない。
「いえ、後で交番に行こうと思います。お騒がせしてしまって申し訳無いです」
「ううん、それよりハヤさん大丈夫なの?」
「痛みがありますけど、まぁ何とか」
千隼は苦笑しながらそう言うが、頬の筋肉が動いて痛みが出たのか「つ」と顔をしかめた。
「千隼、病院に行っておいで。今日は土曜日だから、深夜外来やってるところ」
「市民病院だったらやってるかな。ちょっと調べて行って来る。診断書書いてもらわないとな」
「うん。これ、一応暴行事件だからね」
「そう言葉にすると重いな」
千隼は苦笑いを浮かべると姿勢を正した。
「皆さま申し訳ありません。少し外します」
千隼が客席に頭を下げる。
「大丈夫だから」
「ちゃんと診てもらって治療してもらって」
「ありがとうございます。じゃあ姉ちゃん行って来る」
「行ってらっしゃい。気を付けて」
千隼が客席に頭を下げながら出て行くと、どこからともなく「はぁ~」と大きな溜め息が漏れた。
「びっくりしたぁ。一体何があったの?」
門又さんの言葉に、佳鳴も「さぁ……。本当に判らなくて」と首を傾げるしか無かった。不安はあったがそれをお客さまに気取られるわけにはいかない。佳鳴は笑みを浮かべた。
「それよりご迷惑をお掛けしてしまって申し訳ありません。皆さまにお飲み物1杯ずつサービスさせていただきますので」
「良いわよ、そんなの。気にしないで」
「そうよぉ~」
門又さんと榊さんがおっしゃると、他のお客さまからもご辞退のお声が上がる。
「いいえ、せめてもの気持ちですので」
佳鳴は言いながらペンを取り、お客さまそれぞれの伝票からいちばん高い飲み物1杯分に打ち消し線を引いた。
10
あなたにおすすめの小説
伝説のS級おじさん、俺の「匂い」がないと発狂して国を滅ぼすらしいい
マンスーン
BL
ギルドの事務職員・三上薫は、ある日、ギルドロビーで発作を起こしかけていた英雄ガルド・ベルンシュタインから抱きしめられ、首筋を猛烈に吸引。「見つけた……俺の酸素……!」と叫び、離れなくなってしまう。
最強おじさん(変態)×ギルドの事務職員(平凡)
世界観が現代日本、異世界ごちゃ混ぜ設定になっております。
私と子供より、夫は幼馴染とその子供のほうが大切でした。
小野 まい
恋愛
結婚記念日のディナーに夫のオスカーは現れない。
「マリアが熱を出したらしい」
駆けつけた先で、オスカーがマリアと息子カイルと楽しげに食事をする姿を妻のエリザが目撃する。
「また裏切られた……」
いつも幼馴染を優先するオスカーに、エリザの不満は限界に達していた。
「あなたは家族よりも幼馴染のほうが大事なのね」
離婚する気持ちが固まっていく。
五年後、元夫の後悔が遅すぎる。~娘が「パパ」と呼びそうで困ってます~
放浪人
恋愛
「君との婚姻は無効だ。実家へ帰るがいい」
大聖堂の冷たい石畳の上で、辺境伯ロルフから突然「婚姻は最初から無かった」と宣告された子爵家次女のエリシア。実家にも見放され、身重の体で王都の旧市街へ追放された彼女は、絶望のどん底で愛娘クララを出産する。
生き抜くために針と糸を握ったエリシアは、持ち前の技術で不思議な力を持つ「祝布(しゅくふ)」を織り上げる職人として立ち上がる。施しではなく「仕事」として正当な対価を払い、決して土足で踏み込んでこない救恤院の監督官リュシアンの温かい優しさに触れエリシアは少しずつ人間らしい心と笑顔を取り戻していった。
しかし五年後。辺境を襲った疫病を救うための緊急要請を通じ、エリシアは冷酷だった元夫ロルフと再会してしまう。しかも隣にいる娘の青い瞳は彼と瓜二つだった。
「すまない。私は父としての責任を果たす」
かつての合理主義の塊だった元夫は、自らの過ちを深く悔い、家の権益を捨ててでも母子を守る「強固な盾」になろうとする。娘のクララもまた、危機から救ってくれた彼を「パパ」と呼び始めてしまい……。
だが、どんなに後悔されても、どんなに身を挺して守られても、一度完全に壊された関係が元に戻ることは絶対にない。エリシアが真の伴侶として選ぶのは、凍えた心を溶かし、温かい日常を共に歩んでくれたリュシアンただ一人だった。
これは、全てを奪われた一人の女性が母として力強く成長し誰にも脅かされることのない「本物の家族」と「静かで確かな幸福」を自分の手で選び取るまでの物語。
「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある
柴田はつみ
恋愛
妃の席を踏みにじったのは令嬢——けれど妃の心を折ったのは、夫のたった一言だった
王太子妃リディアの唯一の安らぎは、王太子アーヴィンと交わす午後の茶会。だが新しく王宮に出入りする伯爵令嬢ミレーユは、妃の席に先に座り、殿下を私的に呼び、距離感のない振る舞いを重ねる。
リディアは王宮の礼節としてその場で正す——正しいはずだった。けれど夫は「リディア、そこまで言わなくても……」と、妃を止めた。
「わかりました。あなたには、がっかりです」
微笑んで去ったその日から、夫婦の茶会は終わる。沈黙の王宮で、言葉を失った王太子は、初めて“追う”ことを選ぶが——遅すぎた。
つまらない妃と呼ばれた日
柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。
舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。
さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。
リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。
――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる