白鬼

藤田 秋

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第五章 春の氷人形

5-8 幽霊少女の決断(1)

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「これからどうするか、決めるのはあんただ」
 黎藤君はそれだけ言って、私に背を向けた。彼の白くて長い綺麗な髪が、歩調に合わせてゆらゆらと揺れる。

「わたしは……」

***

 暫くして、お父さんが会社から帰ってきた。
 シルバーの車はわたしの亡骸を通り過ぎると、急ブレーキで止まる。運転席のドアが開き、お父さんが転がり落ちるように出てきた。

「どうした、志乃しの! 志乃!!」
 躓きつつ、わたしの亡骸に駆け寄るお父さん。

「おい、志乃、起きろ」
 と、わたしの肩を揺らす。亡骸は虚空を見つめたまま、なされるがまま揺れるだけ。

「何でこんなに冷たいんだ? 氷みたいじゃないか……」
 わたしの肩に置かれた手が、ずるずると落ちていく。

「なぁ、返事してくれよ、志乃……」
 お父さんの声はどんどん弱々しくなっていった。

 そして、頬を涙が伝うのが見えた。
 あぁ、目の前が霞んできた。不思議だな、幽霊も涙を流せるんだ。

 ごめんなさい、お父さん。お父さんを一人にさせちゃうなんて、最低だよ……わたし。
 ごめんなさい、お母さんの代わりに家事をやるって決めたのに、できなくなっちゃったね。
 ごめんなさい、ごめんなさい……。

 育ててくれて、ありがとう。何もお返しできなくて、ごめんなさい。

 その後、わたしの亡骸は警察に運搬され、お父さんも事情聴取に連れて行かれた。残されたのは、わたしの思念だけ。

「帰ろう」
 誰も聞いていないし、聞こえない。本当の意味で独り言だ。

****

 あの時を思い出す。

 朝、家を出て杉林を歩いていたとき、女の人に遭った。道の端、速度規制の標識の隣に、ひっそりと佇んでいたのだ。全身白くて、綺麗な人だった。

 だけれど、怖かった。わたしは避けるように足早に進んだが、ずっと杉林は終わらなかった。出口は見えるのに、景色が変わらないのだ。

 さすがにおかしいと思って立ち止まり、後ろを振り向いた。道の端に、女の人が見えた。
 有り得ない。随分歩いた筈だから、女の人が見えるはず無いんだ。

 あの人が移動してきたの? それにしては、立っている位置が変わっている様には見えない。
 決定的なのは、彼女が標識の隣に立っていることだ。あれは杉林の中に一つしか無いのだから。

『……何で……?』
 進んでいないのは、わたし?

『嘘、嘘だ』
 わたしは弾かれたように走り出した。
 出口の方へ、一心不乱に。だけれど、走っても走っても一向に近づく気配がない。

『どうして……?』
 わたしはその場に座り込んでしまう。

『教えてあげましょうか?』
『ひっ』
 女の人は、いつの間にかわたしの目の前にいた。足音は聞こえなかったのに、何で前にいるの?

『追いかけっこをしましょう?』



 ずっと、ずっと、わたしは逃げた。

 そんなわたしを弄ぶように、女の人は突然消え、突然姿を現すのを繰り返した。
 その度、わたしは悲鳴を上げて転びかける。

 今は何時だろうか。もう、とっくに授業は始まってる筈だよね……。
 また、女の人が目の前に。わたしは急停止して引き返す。

 いつまで、続くのだろうか。
 先の見えない道を、わたしはひたすら走り続けるのであった。

****

 昼間のことを思い出している間に、家に着いてしまった。
 無意識に門を擦り抜けていることに気付く。幽霊だから、壁も通り抜けられるんだ。

「ただいま」
 私の声に返事をしてくれる人なんて、誰も居ない。

 玄関の鏡が目に入ったが、わたしのことは写していなかった。
 玄関近くの階段を上がり、自分の部屋に入る。

「……」
 何も変わってない、質素な部屋。

 読みかけの本がベッドの上に置いてあった。最近読み始めたミステリーの文庫本だ。丁度、謎解きに差し掛かるシーンだったっけ。
 今は、続きを読む気がしない。

 ベッドにうつ伏せに倒れこんだ。手足を投げ出し、枕に顔を埋める。あ、触ろうと思えば触れるんだ。
 もういい……疲れた。わたしは目蓋を下ろし、意識を閉ざした。



 眠る、という行為で合っているだろうか。それをして何時間か経ち、目が覚めた。

 ファンシーなキャラクターのデザインが施されている壁掛け時計は、六時頃を示していた。カーテンの間から差す光で、今が朝だと判断できた。

 いつもなら朝食を作っている時間だ。お父さんのごはん、どうするんだろう。わたしが作らなきゃ駄目なのに。

 下に降りても人の気配はない。お父さんの部屋を覗いても、いない。帰ってきてないのかな。
 今日の朝ごはんの心配はしなくて済んだ。

 じゃあ、今度はわたし自身の心配事。学校に行くか、行かないか。

 変な校長先生、どことは言わないけど薄い先生、変わった制服。新しい友達もできて、楽しくなってきて……。
 入学したばかりなのに、すぐ終わりなんて淋しい。学校に行きたい。

 いつのまにか、わたしは通学路を歩いていた。誰にも気付かれない。それは淋しいし、怖いし、嫌なこと他ならない。

 いつもより時間を掛け、辿り着いた学校。今日もアンバランスな世界観がシュールだ。……ん?

「アレクサンドラアゲハ」
「は、は……ハンムラビ法典……を作ったバビロニアの王ハンムラビ!」

「千真さん、それアリですか?」
「アリの方向でお願いします、珀弥君」
 あれは黎藤君と神凪さんだ。

 しりとりをやっているのかな? 最初から仲が良いよね、あの二人。同じクラスのため、二人についていくように教室に向かう。

「イルカさん……あ、タンマ、今の無し!」
「イルカに敬称を付ける意味あったのかな?」
 神凪さんは結構抜けているところがある。

 席の近くの男子が、神凪さんはアホさが可愛いと盛り上がっていたが、何だかわかった気がした。

 そしてやっぱり……昨日の黎藤君と、今の黎藤君は同一人物に思えない。
 今は威圧感が無い代わりに、柔らかい雰囲気を纏っている。彼は何者なのだろう。

「荷物持つよ?」
「いや、今日は頑張る!」
 教室までの長い階段。神凪さん大丈夫かな? 凄く辛そう。

「地球は何故重力がある。要らぬ! 空を自由に飛びたいなァ!」

「重力が無ければ大気圏は形成されず、生物が住める環境は生まれない。重力は地球を地球たらしめる一つの要素であり、無ければ大体の生物は死にます。大気圏の有無以前に、重力が無ければ皆宇宙空間に吹っ飛ばされて、結局死にます」

「すみません先生」
「珀弥です」
 この二人、いつもこんな会話してるのかな……。

 やっと教室に着き、わたしは自分の席に向かった。

「おはよー!」
 その際、ドアの方向に突進して行く雨ヶ谷さんとすれ違った。足は大丈夫なんだね、よかった。
 目が合ったような気がしたけど、きっと気のせいだ。

 席に着くが、気付く人は誰もいない。わかってはいたけれど、精神的にきついものがある。

「しぃちゃんから返事あった?」
「無かった。どうしたんだろうね……」
 近くの席から聞こえる会話。最近仲良くなった、サヤちゃんと真奈美ちゃんだ。連絡してくれたんだ……。

「はい、どいてどいて」
 薄井先生が教室に入ってきて、皆はぞろぞろと席に着いた。
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