白鬼

藤田 秋

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第十二章 二人の千真

12-1 胸騒ぎ

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『珀弥君、珀弥君!!』
 私の腕の中では、珀弥君が血を流してぐったりしていた。
 呼吸も速く、苦しそうだ。激しく咳き込み、口から血を吐き、また咳き込む。もう見てられない。

『珀弥君、逃げようよ』
『大、丈夫……下がって……』
 彼は辛そうに起き上がり、目の前に立ちはだかる化け物たちを睨みつけた。

 ボロボロな身体は不安定で、今にも倒れそうだ。折れているのか、腕が力無くぶらぶらと揺れている。肘の辺りからは白いものが覗いていた。

『駄目! 本当に死んじゃうよ!!』
 私は彼の背中にすがりついて、制止しようとするが……。

『大丈夫だよ……僕はそう簡単に死ねないから』
 と、自嘲的な笑みを浮かべるのだ。

***

「ふぁっ……」
 見上げた先には見慣れた天井。でも私の部屋のものではない。
 慌てて隣を確認すると、白い子犬の腹に顔を埋めている巨人が横たわっていた。ズルい!

「珀弥君! コマちゃんのもふもふを独り占めするなんてズルいよ!」
「む……」
 珀弥君は寝ぼけ眼でこちらを一瞥すると、私の頭を撫でた。そして再びコマちゃんをもふもふし始める。コマちゃんは満更でもない顔をしていた。可愛い。

「もう!」
 私は珀弥君の背中に乗り、彼の寝間着をぎゅっと握った。服の上からは分からないが、背中は筋肉でごつごつと盛り上がっている。
 彼の背中は広くて安心するんだ。

「……どうしたの?」
 珀弥君はコマちゃんをもふもふする手を止めた。小さな子を安心させるような穏やかな声音だ。

「何となく」
「そう」
 それ以上、彼は何も聞いてこなかった。必要以上に聞いてこないのは助かる。

 一瞬、珀弥君の自嘲的な笑みが脳裏をよぎった。夢の中で見たものだ。
 あの時の彼はあまりにも自暴自棄で、今にも壊れそうな儚さを持っていた。
 ぼろぼろになって、崩れて、消えてしまうのでは。そんな恐怖感が私を支配した。

 でも、この背中は夢とは違うよね?

「珀弥君はどこか遠くに行かないよね?」
「ん? どうして?」

「何となく」
「またですか」
 珀弥君が軽く笑い、背中に微かな振動が伝わってきた。

「お望みなら、僕はどこへも行きませんよ」
 珀弥君の穏やかな声に安心して、私は彼の背中に顔を埋めた。

 何となく、予想はできていた。彼なら私の我が儘を聞いてくれると、傍にいてくれると。答え合わせをして気が抜けたような、そんな気分。

「じゃあ、行かないでください」
「はいはい、わかりましたよ」
 珀弥君は苦笑いしながら承諾してくれた。
 しかし、どこか違和感があった。漠然としていてよくわからないが、違和感がそこに存在するのだ。

 何だろう。気のせいかもしれない。
 でも、珀弥君が嘘をついているような、そんな気がして、また不安になった。



「おや、これは大変なのです」
 朝の支度中、天ちゃんが珀弥君の顔をまじまじと見ていた。珀弥君はギョッとしながら、ネクタイを整える手を止めた。

「どうしたの? 天ちゃん」
「いやはや……珀弥に受難の相が見えるのですよ」
「朝っぱらから死刑宣告しないでくれる?」
 珀弥君は心底嫌そうな顔をして頭を掻いた。寝癖で跳ねている髪が、更にくしゃくしゃになる。

「珀蓮の予言はよく当たるからのう……残念じゃな!」
 そりゃあ珀弥君も苦い顔をするわけだ。狐珱君の笑顔に悪意を感じる。
 死刑宣告というレベルまで悪いのは、かなり心配になるのだが。

「そういうことですから、より一層気を引き締めて、今日という日をお過ごしくださいな」
「はいはい」
 珀弥君はため息をつき、ネクタイを整えた。続いて襟をピシリと正す。うん、制服をしっかり着る人はかっこいい。

「それと、千真様……」
 天ちゃんは声を落とし、私に話し掛けてきた。ひそひそ話をするようなそれと一緒だ。
 珀弥君をチラチラと気にしているということは、彼に聞かれると都合が悪いことなのだろう。

「折り入って頼みがあるのですが」
「頼み?」

***

「千真ちゃん! ボール行ったよ!」
「お、おぅおぅう!?」
 今は体育の時間。女子はバレーボール、男子はバスケットボールをやっている最中であります。

 私は迫り来るボールに手を当て、勢い良く相手コートに返した。
 と思ったが、ボールは仕切りのネットをうまい具合にすり抜け、男子コートの方へと跳んでいってしまった。

「うおーっ! やっちまった!!」
「もぉ~何やってんの~!」
「ごめんなさいぃ!」
 私はチームメイトに平謝りし、男子コートにボールを取りに向かった。

「珀弥! ダンク決めちゃえ!」
「断る」
 丁度、珀弥君が翼君からパスを貰い、シュートをするところだった。

 フリースローラインより右側の位置から垂直にジャンプし、手首のスナップを利かせながらボールを放つ。左手は添えるだけ。
 ボールは回転しながら放物線を描き、リングを擦りもせずに通っていった。

「すごい……」
 珀弥君、スポーツ出来たんだ……引きこもりなのに。

「……はっ」
 見てる場合じゃない。ちゃっちゃとボールを拾ってこなきゃ。

 どこかなぁ。キョロキョロと辺りを見回すと……あった。コートの隅っこに転がっていた。
 丁度、男子は反対側のゴールの方に行ったから、今なら取れそう。

「お邪魔しまーす」
 一言断り、ボールへと駆け寄る。ひょいと白い球を拾い上げると、女子コートに戻ろうと足を向けた。

 ——キィ……——

「チマっちゃーん!」
「ちさなですー!」
 この呼び名が微妙に広まり始めている。大体なっちゃんの所為だ。
 急かされた訳だし、早く戻らなきゃ。

 ——ギイィ——

「今行くよーっ!」
 また、コートの隅を駆ける。

 ——ガシャン——

 三歩程で、何かを踏んだ感触がした。靴ひもだ。ほつれていたのかっ!

「おおぉっ!!」
 そのまま前のめりに倒れる私。ヤバい! 顔面から、顔面から行っちゃう!

「きゃああああ!」
「危ない!!」
 女子の皆が私を見て黄色い悲鳴を上げている。何だ、照れるじゃないか。って、無駄にボケてどうする。

「能天気だなぁ」
 やけに落ち着いた声が聞こえ、私は二本の細長い腕に抱きすくめられた。

 そのコンマ一秒後、凄まじい音が響き渡る。何か鉄の塊が落ちたような、重量感のある音だ。
 私は顔面をぶつけていたであろう位置から、三メートル程離れたところに倒れていた。

「怪我は無い?」
 私の上に覆い被さっているのは珀弥君だ。片手は腰、もう一方は頭を押さえ、私を庇ってくれている。

「だ、大丈夫」
「良かった……」
 珀弥君は安堵したように息をつくと、私からゆっくりと離れた。

「神凪、黎藤! 大丈夫か!?」
 体育の先生が血相を変えて走ってきた。他の皆も騒々とこちらを見ている。

「彼女も僕も無事です」
「お前は無事じゃないだろ! 血が出てるぞ!?」
「げっ」
 慌てて珀弥君の脚を確認すると、ふくらはぎ辺りからジャージが縦に裂け、白い肌に赤い血が滴っていた。傷は深そうだ。

「……えっ」
 そして、珀弥君の足のすぐ傍には、体育館の天井に設置されている筈の水銀灯が落ちていた。

 先程の悲鳴は水銀灯が落ちてきたからだろう。この体育館は見た目は奇麗だけど、老朽化が進んでいるのだろうか。まさか、こんな近くに落ちてくるなんて……。

 その後、他の照明も落下の危険性があるため、体育は中止となった。



 そして私は今、珀弥君の付き添いで保健室に来ていた。彼は保健医の先生に包帯を巻かれている。

「女の子を庇って怪我するなんて、あなたもオトコねぇ」
「そうですか?」
「謙遜しちゃって。命懸けで女の子を守る男の子ってステキよ?」
 先生はクスクスと笑う。オトナの色気が漂う笑みだ。綺麗な顔をしており、すらりとした脚を組んでいる。

「ははっ……アリガトウゴザイマス」
「緊張してるの? 可愛いわねぇ」
 頬に手を添えられ、珀弥君は表情を強張らせる。それもそうだろう。この保健医は、男性なのだから。

「貴方みたいなウブな子は、食べちゃいたいわ」
「こっ、コマリマスッ」
 珀弥君の声は、半ば悲鳴に近いものだ。彼は涙目で私に視線を送ってきた。助けを求めている!

「先生ッ! 珀弥君の傷はどうなんですか!?」
 私は二人の間に割り込み、珀弥君の壁になった。

「もう、イイトコだったのに」
 先生は整った眉を寄せた。美形だから様になるのが困る。

「傷は思ったより浅いわ。すぐに治ると思う」
 彼は少し不機嫌そうだ。
 珀弥君の出血量から判断してかなりざっくり行ったかと思っていたけれど、意外とそうでもなかったんだね。

「……良かったです」
「でも、一応病院で見てもらって、診断書を持ってきて頂戴。治療費は学校で負担するから」
「わっ、わかりました」
 珀弥君は裏声で返事をした。あの時のかっこいい彼はどこへ行ったのか。

 保健室から出てくると、珀弥君は明後日の方向を見ながら一言。

「怖かった……」
 彼の目は死んでいた。
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