白鬼

藤田 秋

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第十七章 触れぬ指先

17-3 彼岸花に囲まれて

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* * * * * * * *

「珀弥君、ジェニファー映ってる!」
「……ん? ああ、本当だ」

 天ちゃんが真さんに連れて行かれてから、珀弥君は上の空。
 表情がごっそりと抜け落ち、じっと虚空を見つめている。

 テレビ番組に大好きなペンギンのマスコットが出て来ても、反応がワンテンポ遅れた。
 リアクションもなんとなく薄い。

「どうしたの? 具合でも悪い?」
「ううん、そんなこと無いよ。ちょっと考え事してて」
 珀弥君は首を振り、曖昧に笑った。

「それなら良いんだけど……」
「心配させたみたいでごめんね」
「珀弥君が何とも無いなら、それで良いんだよ」
 どうやら私の杞憂に終わったようで、胸を撫で下ろした。
 でも、様子がどことなくおかしいのは確かだ。注意して見ていよう。

 珀弥君は会話が終わると、また上の空になり、虚ろな目で何処か遠くを眺めていた。

***

 洗濯や掃除などの家事は、いつも二人で交代しながら分担している。今日は私が洗濯で、珀弥君は掃除だ。

 この家の人は大体和服を着ているため、手洗いが多い。だから洗濯機で回す量は意外と少なかったりする。

 洗濯が大変だと思えば、掃除も大変だ。この神社はとにかく広いから。洗濯が早く終わると、いつも掃除を手伝いに行く。

 今日もまた洗濯物を干し終わり、掃除を手伝いに行こうとしていた。

「おっそうじーおっそうじーここーめっちゃひろーいー」
 即席の歌を歌いつつ、箒を持って珀弥君を探す。

 家の中も広いのに、外も掃除するなんて大変だなぁ。私が来る前は珀弥君が一人でやってたんだもの、凄いなぁ。

 紅葉し始めた木々を眺め、私は歩く。
 表には居ないのかな? 綺麗に掃除してあるし、ここはやらなくていいか。
 珀弥君は何処にいるのかなぁ。

「あっ」
 今度は裏庭へと回ってみると、奥に珀弥君の後ろ姿が見えた。

「おーい! 珀弥くーん!」
 と大声を張り上げる。
 しかし、聞こえていないのか、彼は振り向いてくれない。そのまま裏庭の奥へと足を進めている。

「珀弥くーん!」
 私は声を掛けながら、走って追いかける。でも、彼は待ってくれない。

「あれ? 聞こえないのかなぁ」
 走っても、私の足の速さではなかなか距離を縮められない。
 珀弥君も珀弥君で、ぼーっとしながらも歩む速度は結構速いのだ。くっ、これが脚の長さリーチの差なのか……!

「珀弥君!」
 めげずに走る。彼はいつの間にか、裏庭の最深部にまで行っていた。

 その先は森になっており、裏庭から一本の細い道が伸びている。
 私はその道に入ったことが無いから、先に何があるのかわからない。

 珀弥君はその細道へと足を踏み入れていた。

「珀弥君……」
 細道の入り口まで来て足を止めた。

 無数に生える木々を分けるように伸びる道は舗装されておらず、石や木の根が赤い土から覗いている。

 天気が良いのにも関わらず、薄暗くて奥が見えない。
 多分、先の方でゆらゆらと揺れる影は珀弥君だろう。

 サァっと風が髪を撫でた。風は細道に吸い込まれるように吹き、私を誘っているようだ。

 一歩踏み出した。
 私が入ってはいけないような気がして、身体がこわばる。
 でも、様子のおかしい珀弥君を放って置くことなんて出来ない。

 地面に飛び出した天然のトラップを避けつつ、彼を追うのだった。

***

 真っ直ぐ進んでいた珀弥君が、急に右に方向転換した。
 一本道だと思って油断していたということもあり、彼の姿が見えなくなって恐ろしく動揺した。

 このままでは見失ってしまう!
 急いで珀弥君が曲がったと思しき所まで駆けた。

「ほわっ!」
 石やら根っこやらのトラップばかりの道と運動音痴の私。適当に足を引っ掛けて転んでしまうなんて、最早お約束である。

 ズササと地面に前のめりに倒れた。持っていた箒が手を離れる。

「いたた……」
 膝や手を擦ってしまったようで、ヒリヒリと痛み、生理的な涙が目に溜まった。

 この久しい痛み。
 普段は珀弥君が俊敏な動きでガードしてくれたから、暫く転んだことなんて無かった。
 いつも、守られてるんだ。そう実感する。

 ゆっくりと起き上がり、服に着いた土をはたき落とした。
 辺りを見回しても、誰も居ない。あっさりと見失ってしまった。

「あー……」
 どうしよう。横道が見当たらない。
 あと、手のひらと膝小僧が痛い。それは私が転んでしまったのが悪いのだが。

 でも、ここまできて引き返すのは嫌だ。適当に入っちゃおう。
 思い立ったら即行動。私は落とした箒を拾い、木々の間に足を踏み入れ、道無き道を歩き始めた。

 木の枝が邪魔するように伸び、蔦の蔓も這っていて、足を進めるごとに掠ったり絡んでくる。
 箒が邪魔だ、置いていけば良かった。

 思うように進まない。やはり無謀なことはするものじゃないな。と後悔しても仕方が無いから、意地でも進む。

 箒で枝を払い、虫を払い、蛇を払い、少しずつ進んで行く。どこに向かっているかはわからない。

 珀弥君はこっちに曲がって行ったんだから、方向は間違ってはいないはずなのだが……。

「あれ?」 
 もっと彷徨うのではないかと危惧していたが、目に飛び込む一面の赤でその不安も消し飛んだ。

「すごい……彼岸花」
 辺りに広がる鮮やかな赤は、彼岸花の色であった。
 私は木々をすり抜け、彼岸花の群生に近寄った。

 彼岸花よく墓場に生えているせいで、不吉なイメージがある。
 しかし、放射状に広がる赤い花そのものは、華やかでとても綺麗なのだ。

 数本一緒に生えているのは見たことがあるが、辺り一面を覆い尽くすほどの量は初めて見た。なかなか圧巻である。

 ふと、彼岸花畑に細い道が伸びていることに気付いた。
 彼岸花が人一人分のスペースを取って綺麗に分かれているのだ。

 目でその道を辿ると、追いかけていた人物がこちらに背を向けて佇んでいた。

「珀……」
 と言いかけて、口をつぐんだ。

 今の彼は近づき難い雰囲気をまとっているからだ。
 静かに、一人だけで完結した世界の中に居るような……。下手に声を掛けられない。

 どうしよう、と立ち尽くしてしまう。とりあえず、彼の大きな背中を遠巻きに眺めた。

 珀弥君はじっとして、動く気配も無い。時折吹く風が、彼の黒い髪を舞い上げた。

「……千真……さん」
 風に乗って、落ち着いた声が私の耳に届く。

 いつの間にか、彼はこちらを振り返っていた。
 困惑顔であったがそれも一瞬で、いつものように優しい笑顔で『どうしたの?』と尋ねてきた。

「珀弥君」
 今は近付くことを許されている。そう確信し、一歩前に踏み出した。

 一歩一歩、彼岸花の間を通り抜けて進む。
 珀弥君に近付くにつれ、彼が見ていたものの全容が見えてきた。

 あれは、墓石だ。赤い彼岸花に囲まれた灰色は妙に浮き出ており、存在感がある。

「ごめん、勝手についてきちゃって」
「構わないよ」
 私は珀弥君の傍に立つ。
 彼は怒る様子もなく、朗らかに私を許してくれた。彼の背後にある石には、『黎藤家奥津城』と刻まれている。

「……僕の家族が眠ってるんだ」
 私の不躾な視線に気付いたのか、珀弥君は穏やかに一言添えた。

 僕の家族。
 私がたまに口にしている『家族』とは違う。血の繋がった本当の家族だ。

 私は部外者。それが、このようなところに無断で立ち入っている。

「っ……本当にごめん」
「千真さんは良いんだよ。だから気にしないで?」
 珀弥君のあまりの優しさに居た堪れなくなり、私は俯いてしまった。
 様子のおかしい彼を心配して来たのに、私がフォローされてどうするのだ。

 黙りこくっていると、突然、珀弥君がこんな事を言い出した。
「……手を、合わせてやってくれないかな?」

「へ?」
「えーっと、別に深い意味は無いんだけど……」
 キョトンとする私に、珀弥君は苦笑する。
 いや、お墓の前で手を合わせない理由なんて無いよね。

 私は慌てて手を合わせ、お墓に向かって深く一礼した。
 ここには珀弥君のご家族が眠っているんだ。しっかり挨拶しなきゃ。

 初めまして、神凪千真と申します。息子さんのご好意で神社に居候しております。
 珀弥君は優しくて、面倒見の良い人で、いつもお世話になっています。
 でも、時々無茶をするのでそれが心配です。

 厚かましいことは承知の上ですが、どうか彼に不幸が訪れないよう、見守ってください。

 頭を上げ、手を下げる。どうか安らかに眠って欲しいな。

「……ありがとう」
 珀弥君は嬉しそうに、優しく微笑んだ。

 私は何故か幽霊が見える。珀弥君の近くに居れば、より濃く、より鮮明にその姿を視界に捉えることができる。

 だからこそわかる。此処には誰もいない。

 この世に留まらず、あの世に行ってしまっているのだろう。こうして挨拶しても、言葉は届かないと思う。

 珀弥君もそれはわかっているのだろう。
 それでも、お墓の前で祈ることはやめられなかった。

 彼は、どんな気持ちで此処に居るのだろう。

「人は身体と魂、どっちが本体なんだろうね」
 珀弥君がぽつりとこぼした。

 身体であったものは、此処に眠っている。しかし、魂はもう居ない。
 人を人と為すものは、どちらなのだろう。

 いや、どちらか片方を選ぶのが正解なのかどうかさえわからない。

「私はよくわからないかな」
「そう」
 珀弥君は短く返事をすると、空を見上げる。

「僕もわからないや」
 その呟きは虚空に溶け込み、静かに消えた。

 彼の翡翠色の瞳は微かに揺れていた。
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