白鬼

藤田 秋

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第十九章 手折られた彼岸花

19-34 獣の手綱は千切られた

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* * * * * * * *

 一真がピクリとも動かない。
 傍に行きたいのに、身体が動かない。

 朦朧とした意識の中、私は空を仰ぐ。
 間一髪だったけれど、翼君はちゃんとあの子を助けてくれたみたいだ。

 あの子に死んでもらっては困る。私とあの子の問題を、死で強制終了なんて納得がいかない。

「チマ……」
「大丈夫、なっちゃん、心配しないで……」
 そう言ってみたものの、頭がクラクラする。

 息苦しくて、足に力が入らなくて、体が怠い。なっちゃんに支えて貰わないと、碌に歩けもしないのだ。

 そんな状態ではコマちゃんも抱っこできず、降りてもらった。
 白い小太刀も握れず、今は布に包んでなっちゃんが代わりに持っていてくれる。

 わかっているつもりだったのに、やはり辛い。
 式神との『本契約』が、こんなに重いものだなんて——。

***

 翼君は下手くそな口笛を吹く。

 ——や、やっぱり奥の手隠してたのね!?——
 ——そりゃ奥の手の一つや二つ、あるもんでしょう?——
 彼は開き直って白状した。
 ならば、その奥の手を今使う時ではないか!

 ——ダーメ——
 ——何で!?——
 心でのに即答である。

 ——言ったでしょ? 千真ちゃんの命に関わんの——
 ——それが何なの! 翼君が命かけて戦ってるのに、私も命かけなくてどうするの!?——

 私だって皆の役に立たなきゃ。足を引っ張るのはもう、嫌なんだ。

 ——……。いいかい千真ちゃん、命をかける事と命を捨てる事は別モンだよ。それを見誤っちゃダメだ——
 翼君の冷静な言葉に、暴走しかけた心が少し揺らぐ。

 私のことを思って言ってくれているのは十分伝わってくるから。

 ——それは……——
 いや、此処で言いくるめられたら駄目だ。
 私は彼の主人なんだから。

 ——翼君が私が死なない程度に調整すれば良いのよ!——
 デデドン!
 此処で引いたら女が廃る!

 ——マジかよマスター!? オレのシリアス返して!——
 ——口答えは無用です! さぁ! 奥の手を! さぁさぁさぁ!!——

 もう押せ、押すんだ。私が主人だ、私が命令するんだから応えなさい!
 今急いでるんだから!

 ——……はぁ。実は燃費悪いんだよねぇオレ——
 彼の呆れ果てた声からポロリと本音のようなものが。
 ということは?

 ——オレも悠長なこと言ってる場合じゃないって理解してますよ。……で、全身の霊力を搾り取られる覚悟はある?——
 ——あります、それが私の仕事です——

 私に出来ることはこれくらいしかないから。

 ——よろしい。結構高くつくけど、本契約しちゃいますか!——

*** 

 神降ろし、してるみたい……。
 天ちゃんを神降ろしした時と並ぶくらい、身体に負担が掛かっている。

 血を代償にしたコマちゃんとの契約は負担なんて無かったのに、髪を代償にしてですらこんなに力が吸い取られるんだ。

 今の翼君は一番神に近い状態、大天狗。
 式神のランクが上がれば、当然、力の消耗も激しい。彼の言う『燃費が悪い』とはこういうことなのだ。

 あの子の獅子も神には逆らえないのか、翼君から飛び退いてしまった。今は上空に退避した主人を心配そうに眺めている。

 あとは——。

「宝月……」
 彼は白い着物を真っ赤に染め、不気味な笑みを浮かべている。

 私のことは助けてくれたけれど、一真を容赦なく痛ぶった。
 そして、先程はあの子を殺そうとした。翼君が居なかったら死んでいただろう。

 あの鬼を味方とするには、あまりにも危険だ。

「どうした小娘? その女はお前にとっても邪魔だと認識していたが」
 意図の読めない半笑いを浮かべる宝月。
 感情が、全く感じられない。無機質な笑顔だ。

「私は人の死を望まない」
「ほう、そうか。それでアタシから獲物を奪ったと?」
 彼はスゥ、と目を細めた。
 琥珀色の瞳が私を捉える。それは、静かな殺意だった。

 友好的に見えても、彼はそうではない。たまたま利害関係が一致しただけなのだ。
 私たちは、決して相容れない。そう直感した。

「あの子とは私が決着をつける。手を出さないで」
 しん、と静まり返る。
 宝月はジッと私の目を見つめ続け、私も目を逸らさずに彼を見つめ返した。

 長い、長い時間のような。そんな気がして。足の感覚も無くなってきて。
 お、大口を叩いてしまって怒らせてしまった——?

 宝月はフッと口を歪めた。

「あっはははは! 言うじゃないか! そういうのは嫌いじゃない」
 彼は腹を抱え、大笑いする。
 鬼の気分を害さなかったようでホッとしている自分がいた。

 気付かないうちに、身体中から汗が滲み出て、服が肌に貼りついてしまっている。

「ならば、アタシは高みの見物でもしていよう。退屈な余興は終いだ」
 と、宝月は身を翻す。

 ああ、頭の中の声が言ってた『気まぐれな助っ人』は本当に気まぐれらしい。

「そうそう、悪鬼に成り果てた男を救い出したのは、神凪の巫女だったようだ」
「へ?」
 彼は少しだけ振り返り、ニヤリと笑う。それは、何かのヒントなのだろうか。

「神凪千真、あんたには期待しているよ。
 宝月は別れを告げるように手をヒラヒラと振り、霧の如くふわりと消え去ってしまった。

 私を『小娘』と呼び続けていた鬼が、名前を呼んだ。それは、私を認めたってこと?
 というか何で私の名前を? 

 でも、今はそれどころじゃない。

「……ま」
 足が自然と一真の方に向く。

「チマ?」
「あっち、行きたい……早く……行きたいの」
「わかったわ」
 なっちゃんは私の我儘に嫌な顔せず、頷いてくれた。

 身体がふわりと浮かぶ。なっちゃんが私を抱き上げてくれたのだ。

 血溜まりの中心で動かない一真から、目が離せない。

「……はっ、ぁ」
 あの夜の悪夢を思い出す。
 身体が強張って、胃がきゅうと痛んだ。鼓動が速くなって、息が苦しい。

「チマ、あいつはまだ生きてるわ」
「うん……大丈夫、大丈夫」
 なっちゃんの声に力づけられ、自分に大丈夫と言い聞かせた。

 いつもは彼が大丈夫と言ってくれたけれど、今は自分で自分を鼓舞しなければ。

 一歩一歩、一真に近づく。
 彼は仰向けに倒れており、そして、
「……うっ」
「なんてこと」

 腹が割かれ、骨や内臓が露出していた。
 はみ出ているものは少しずつ体内に引き込まれており、自己治癒能力は働いているようだ。

 微かに息をしているが、不規則で危うい。

「か、かず……」
 髪が顔を覆っており、表情が見えない。
 私は手を伸ばす。

 真っ白い肌は陶器のようにつるつるとしていて、それで、体温を感じられなかった。

「ごめん、ね。私のせいで……ごめんね」
 一真は何も言わない。

「治れ……治れ……治れ……治れ……!」
 言霊に想いを乗せて。
 でも、目に見えて治癒が進んでいるわけではない。私の言葉は届いていない。

「どうしてよ! 私は助けになりたいのに……! いつも守られてばかりで、何も返せてない! 助けたいの! を助けたいの!!」

 私の叫びは虚しく響く。
 どうして私は無力なのだろうか。大切な人を傷付けてばかりで、癒すことも出来ないのか。
 なんで、どうして。

 ——プツン。

「わん!!」
 突然、コマちゃんが警戒心を剥き出しにして吠える。

「離れろ夏河!」
 翼君の緊迫した怒声と同時に、私は一真から引き剥がされた。
 一瞬のことで何がなんだかわからない。

 吹き荒れる風。
 走る閃光。

 なっちゃんに抱き寄せられ、影になって見えなかった。けれど、ぐちゃぐちゃと生々しい音がいくつか聞こえた。

「なっちゃん……どうしたの?」
 上空の翼君に目をやると、いつの間にか和弓を番えていた。
 珍しく眉間に皺を寄せ、険しい表情を浮かべている。

 彼が確保したあの子は、今は獅子の上に乗って顰めっ面をしていた。

 私はなっちゃんの背後がどうなっているのか気になって、ゆっくりと身を乗り出した。

「……!」
「油断したわ……」

 動けなかった筈の一真が立ち上がっていた。
 割かれた腹は塞がっており、露出していた骨や臓器も戻っていた。

 変わっていることは、彼の鋭い爪がなっちゃんの背中に向けられ、僅かに食い込んでいること。

 そして、それを牽制するように四肢を矢で射抜かれていることだ。
 矢は深々と刺さっており、妖気を帯びている。その矢を放ったのは翼君だろう。

 一真は串刺し状態のまま、俯いて動かない。
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