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第一章 第一節

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怒りはこの日から脊髄を巡る。


 私の名前はセキラだ。大切な親友から、今は亡き親友から貰った名前だ。私が如何なる姿であろうとも、声であろうとも、匂いであろうとも、温度であろうとも……他の誰でもない私だ。私は私であり続けている。
 ただ、今は、呼吸もできない暗闇の中を彷徨う孤独な魂。霊魂となって、空を歩くばかり。



 シュペルの体を触ろうとする。すり抜ける、そして弾かれる。
 彼女は生存を許されなかったからか、だから弾かれたのだろうか。
 苦しい。息ができない。早く息ができるように、何か受肉しなければ…… あった。

 服を着ている少女の死体。シュペルとは大違いで、ふっくらとした頬に、腹に、胸に、腕に、尻に、足に。本当にこの世界はくだらない。何故服を着る少女に、脂肪をつけることが許されたのか。何故シュペルには脂肪を着ることさえ許されなかったのか。誰かの苦しみを受容する、この世界とは欠陥─穴ぼこの紛い物ではないだろうか。思考が落ち行くと共に、あまりの苦しさに耐えられなかった。

 私は服を着る少女になった。

 肉を除けばシュペルと同じくらいの体格だった。肉体の重みが、動きを鈍らせるように感じた。無理もなかった。あの痩せた愛おしい体とは別れを告げてきたからだ。
 この肉体も立てるだろうか。立ったところで支えられるか。思案と共に立ち上がり、周りの状況を確認する。

 泣き止む少女達と大きな女、男、少年の群れ。私が起き上がったのを、祝福するようにこちらに向かう少女。彼女は手を広げて、今の私の、私の体の方へ向かう。
 私に近づいて、羽交い締めをしようとした。瞬間、逃げた。周りの人間どもは驚いていた。私はただ、シュペルに祝福がなくて、服を着た奴らに祝福があるような、この状況がただ気持ち悪かった。理由はそれだけだった。
 シュペルの時は、そんな接し方しなかったのに。服を着るという立場だけで、そんなことができるんだ?少しだけ、シュペルが死んでよかった、と思った私の、鈍重な気持ちは捨て置いて。

 殴りかかろうと思った、けれど身体が重くて動かせない。ただ羽交い締めを交わした状態で、驚いている腕の主を、次はどうあしらおうか考えていた。
 しかし、流石は富豪の脳。シュペルの栄養のない脳よりも、遥かに考えが遠く、早い。言葉を発するための器官の使い方。肉体の動かし方の説明書を、この人間は知っていたようだ。少しずつ解読して、学ぶしかない。
 この状況を打破するために一つ、芝居を打つことにした。記憶を失った人間、という設定にすればいい。触るにこの体は、片足が折れていて、その出血の衝撃で死んだらしい。そうであるならば、記憶ぐらい失っていたとしても何の不足はない。
 私は誰?と問う。答えは既に知っているはずだ。

「私は誰って、いやだなぁ、冗談はよしてよ、クレイフェンちゃん」
 あの私を羽交い締めにしようとした人間が冗談めかして言うのだ。その隣にいる、この肉体……呼び名からしてクレイフェン嬢か?その母親が言うには、

「まずは輸血をしてあげて。それから、ゆっくり休ませてあげて。話したり抱きしめたりする暇はないのよ、早く!」

 そういえばそうだった。

 クレイフェンは大量の習い事を抱えた、7歳程度の女子であった。その歳にもかかわらず、異様なほどに忙しく、時には貧困になりたいとさえ思ってしまうほどだった。その疲労からか、近づいてくる車に気づけず、そして車の主人自身、歩道で立ったままぼーっとしていたクレイフェンに気づかなかった。結局、クレイフェンは車と衝突し、片足を轢かれた。当地の刑法では、車自身の過失になるのだ。車は何も悪くなくて、こんなけったいな服なんか着ている奴の方が絶対悪だろうと私は思った……が、仮にもそういう社会に属した手前、そういう不祥事を引き起こす話題は口に出すべきで無いと悟ったし、今言ってしまえば全て、寸劇のようになってしまう。
 というより。このクレイフェンが死んで、それから私が乗り移って、その間にさほど時間は経っていないはずだ。間のない演技がどうしても、寸劇らしく見せてしまうという面はあったが、今となっては仕方あるまい、と思った。

 私が私自身の肉体に関して思いを馳せている間、どうも外ではいろいろな現象が起こっていたらしい。気がつくと、そこは清潔な空間であった。血液の匂いがする。隣に、私に差し込まれる誰かの血が置かれている。こういう時、いいや、いつだってそうだ、富裕層の毎日は、どうあがいても貧困層には手に入れられないような毎日なんだと。百の世代を超えてもなお埋められないような差の中に、知らない間にいたのだと。こういう時、この世界が嫌になる。

 シュペルの時は、医療行為すらしなかったのに。

 それから私は、この肉体の母親に連れられて、相談室に連れて行かれる。私は「記憶を失ったクレイフェン」を演じなければならない。しかし母親は、何を思ったのか、辛かった思い出を相談してみて、と言ってきたのだ。山ほどある、しかしその山の中には、クレイフェンが背負っている、鈍い音の思い出とは全く関係のない記憶しかない。
 相談の場に臨むのだが、私が言葉を発さなければ、相手も何も言わない。もしこの相手が、母親に記録を渡してたりしなければ、黙秘する行為を選び、情報を守れるのだ。
 沈黙の中、もう一時間が経とうとしていた。

 ふと相手が……相談相手の柔らかな口が開いた。

「クレイフェン……いいや、セキラちゃん。ここでは何でも言っていいんだよ……」

 そう言って、彼女は私を抱きかかえる。
 この柔らかい羽交い締めの前に、私は無力だった。年代の女子が、父親からの抱っこを求めるような、不可解な魅力だけが、私をここに括り付けて、離さなかった。恐ろしかった、そして同時に、求めていた私自身が怖かった。

「セキラちゃん。私にはなんでも話していいんだよ。
あなたの生い立ちの話、あなたのお友達の話…… あなたの、すべて。」

 どうして、私が『セキラ』である、と知っている?
 この問いを投げかけたところで、私の存在に関して否定しないという事実は証明されてしまう。私は「記憶を失ったクレイフェン」を演じなければいけないわけで、『セキラ』としての私の存在は、シュペルしか知り得ないはずなわけで、そのシュペルさえこの世にはいないわけで、ならば、私の存在を仮定する、お前は何者だ?
 こうして親切にしてくれる割には、シュペルには何もしないんだ?
 結局、金だけで動いているわけなんだ?

「あのね、セキラちゃん。
お金の話はちょっと、言いづらいけどね、どんな人でも、来てくれさえすれば、お話だって聞けるし、お茶だって出してあげるから。
……こんな話より、もっと、セキラちゃんの色んな部分が知りたい。」

 お前が相談相手としてあてがわれたことは知っている。その上で、どうして私がクレイフェンでないと見抜けたのか。根拠はどこにある?

「私がこんな事情話すと、変な子だって、怒られちゃうかな?
“見える”の。あなたの存在。クレイフェンじゃない。セキラちゃんの存在……あなたの、クレイフェンのお母さんだって、セキラちゃんの存在に気づけていなかった。もう演技する必要なんてないよ。少なくとも、私の腕の中ではね」
 私の話し方に比べて、相談相手の落ち着きようが際立って聞こえて来た。急に大人気なくなった。彼女は、この私の、理解されないような人生の中において、信頼できると言っていいのだろうか?



 二時間が経った。少しだけ親密に、秘密を隠し持たせた気分になった。
 相談相手の名前は、セレラーシュ。そしてこの相談室自体の名前は、フェアラカへ=ティエセフィネ。覚えておこう、と心の真ん中に置いておいた。
 肉体の母親の前では娘のふりをする、その二重生活の支えになると思ったから。
 そして、これからも、その肉を騙るのなら──いいや、もしくは、私が生き続けるというのなら、彼女が生きている限りは……

 クレイフェンとしての生活をし始めて、長い時間が経った。およそ同い年と思われる、友達の股から血が流れ出るぐらいには。少し大人ぶりたい同い年の、友達が香水を纏い始めるくらいには。けれど私には、一度もなかった。それもそうだろう、既にこの体は死んでいるのだから。
 けれど私は、流れ出ているふりをしてその場をしのいでいた。シュペルが生きていたら、もしくはもう少し豊かな生活だったら、血が流れ出るくらいの余裕はあったのだろうか。
 血の流れ出る状況といえば、腹部の痛みを訴える女子もいるそうだ。確か─シュペルの母親は、最期は全く流れ出なかったそうだ。結局は、出産という行為も、富裕層の特権なのかと思ったりもした。ならばこの世のどこから貧困が来るものか?
 この体にはそういった物事を考えるだけの余裕はあったらしい、そして今の私なら、この社会を変えるぐらいの計画を練る、反逆もできるだろう。けれど、まだ勉強が足りなかった。この勉強をするために、私はクレイフェンのふりをしていた。
 確か、セレラーシュとの面会が毎月一回なので、最初の年から計算して、既に50と22回近く通った計算になる。悟った通り、セレラーシュと話す時だけは、素の私でいられた。この場所だけが、私にとって真実だった。

 さて、この体が富裕層の女子であるという原因は、つまりは男子が寄って来る結果に繋がる。実際、7回くらいは言い寄られ、そのうちの7回は断った。口実は、この年代の女子としてあり得る「許嫁がいるから」で通した。
 真実である。この群地の、私が住んでいるこの地区の税務官。通称「税取りのラヴァッセ」。シュペルが生きていたときに、その親たちが愚痴を漏らし続けていた相手だ。正直憎い気持ちはあった。けれどクレイフェンのふりをするなら、ときには売女になるくらい、しなければならない。と思った。

 噂には聞いていた。しかし、外聞まで劣悪とは予想できなかった。予々より、性格が悪いのは織り込み済みであった、間接的でなくとも、シュペルの両親を殺した相手だ。それに対して、私は許嫁として会わなければならない─反吐が出る。
 反吐を通り越して、体の中の内臓が全て口から出そうな気分であった。あらゆる種類の体液を撒き散らして死のうとさえ思うくらいに。そうしなかったのは、この私の意識の発覚から明らかである。

 税取りのラヴァッセ。姓まで覚える気は無い。結婚したらこいつの籍に入るのだろうが、どちらにせよ覚える気は起きなかった。50と3年を生きてなお独身、彼女もいない。地位を求めてくる女は数十人いれど、そのほとんどが金だけを求めていた。この富裕層にしては小汚い大男は、純粋な愛を求めていたようだ。これまで付き合わされた金目当ての女どもの話を聞くに思ったことは一つ。



 お前だって、そうなんだろ?
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