『淫鬼ミステリーシリーズ』

露木阿乱

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妻帯不可の禁足地の淫鬼「.淤血(おけつ)」

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第一章 胎動

 禁足地を知っているだろうか。

  足を踏み入れては、ダメな場所だ。これにはいくつかのタイプがある。他人の所有地の場合で、離島などが多い。宗教的な場所の場合、女人禁制などがそうだ。最も不思議なのは、いつの間にか、理由が分からずタブーになった場所だ。歴史的な意味のある場所だと考えられるが、今ではその理由にたどり着く術はない。

 私の住む村にも、ずっと昔から、特定の人たち以外は禁足の場所があった。特定の人といっても、特別な人ではない。もち回りで、その場所を管理する人たちだ。伸びすぎた草を刈ったり、得体の知れない浮浪者が住み着かないように監視する。地域の管理地と言ってもいい。管理の担当は、七年ごとにやってくる。引き継ぎの際に言われたことがあった。

「一人で行くこと。奥さんを連れて行かないこと」

 その理由を聞いたが、

「昔から、そうなっているから」

 としか、答えてくれなかった。私は、納得できなかったが、仕方なくその際は、了解したような素振りをした。三年目のことだった。私は言いつけを無視し、妻を連れて禁足地に入った。これまでに何もなかったのだ。女性が入れないなど、今の時代に、と馬鹿にしていた。
  妻を伴ったのには理由があった。その場所には、水晶の鉱山跡があって、その辺りには、水晶がとれるのだ。折角、禁足地を管理する役になったのだから、役得として妻や子供たちに、水晶をプレゼントしたいと考えていた。  妻も喜んでついてきた。まず、目立つ場所の草刈りや雑木の処理をして、水晶鉱山跡入り口にある平らな場所で、シートを出して昼食をとることにした。 
 食事を摂ると、私は、温かい日差しのせいもあって、いつの間にか眠ってしまっていた。 
 三十分ほど眠っただろうか、目覚めると妻がいなかった。呼んでも声は返ってこなかった。妻が鉱山の中に入ったのではないか、と考え、私も携帯電話のライトを頼りに、坑道に足を踏み入れた。妻を呼んだが返事はない。しばらく行くと、人の気配のようなものを感じて、その方向にライトを当てた。驚いた。少し先に妻が倒れていたのだ。急いで駆け寄り、妻を抱き起こした。妻は意識が朦朧としている状態だった。抱き抱えて外まで連れ出し、シートの上に寝かせ落ち着かた。
  意識が鮮明になった時、「中で誰かに襲われた」。妻は、震えながら、そう告白した。驚いて、妻の着衣を調べたが、そのような痕跡はとどこにもなかった。

「酸素不足で、意識が朦朧としたんじゃないか」

 そう考えた。狭い坑道だ。あり得ることだった。あの暗く狭い坑道に居住している者がいるはずがなかった。  その日は、そのまま帰宅することになった。妻を伴ったことを何となく後悔していた。
  ある日のことだった。法事で親戚の家を訪れた。その家の老人に尋ねてみた。

「あそこには、なぜ家内を連れて行ってはいけないのか」

 老人は、笑いながら答えた。

「あそこには山の神が住んでいて、連れ合いを連れて行くと嫉妬して、旦那を寝かせて、奥さんを犯すという言い伝えがある。迷信だよ。多分、奥さん連れでは、いちゃついて仕事をしない若い者がいたのだろう」

 しばらくして、仕事から戻ると、妻から子供ができたとの報告を聞いた。禁足地に行った日から、日数はピッタリ当てはまる。まさかと思い、何とかその考えを打ち消した。私と妻の間には、あの日の前後に交渉があり、妊娠しても不思議はなかった。しかし、妻とは長い間、子供ができなかった。嬉しかったが、心のどこかで何かを恐れている自分を感じていた。

第二章 変容

 妻の妊娠は、生活に新たな彩りをもたらしたが、同時に、禁足地での出来事が心の奥底に重くのしかかっていた。妻は、日を追うごとに変わっていった。以前は控えめで、どこか遠慮がちだった彼女が、信じられないほど奔放になったのだ。 
 それは、性的な欲求に顕著に現れた。夜ごと、妻は私を求める。その瞳はどこか虚ろで、まるで何かに突き動かされているようだった。以前の優しい行為とは違い、そこには獲物を貪るような野獣的な飢えが潜んでいた。彼女の指先が私の身体を這うたびに、ゾクリとした戦慄が走る。これは本当に私の愛する妻なのだろうか?
 そう自問するたび、心臓が凍る思いがした。
  ある晩、寝室の暗闇の中、妻は唐突に私を押し倒した。

 「欲しいの……。全部、欲しい……」

  そう囁く声は、妻のものではあったが、その奥に別の存在が潜んでいるような、おぞましい響きがあった。彼女の吐く息が熱く、甘く、全身の毛穴から魂を吸い上げられるような官能と恐怖が同時に襲いかかってきた。私は身動き一つ取れず、ただその熱に焼かれることしかできなかった。
  妊娠によって女性の体が変化し、性欲が増すことがあるのは知っていた。だが、妻の変化はそれとは明らかに異質だった。どこか、人間離れした、根源的な衝動に支配されているように見えた。それはまるで、禁足地の坑道に満ちていた、古く澱んだ空気のようだった。
  私は、あの場所で一体何が起こったのか、突き止めずにはいられなくなった。法事で会った老人の言葉が脳裏に蘇る。

「山の神が、奥さんを犯すという言い伝えがある」

 ただの迷信だと思っていたが、今の妻を見て、それは単なる言い伝えではないと確信した。
 私は、図書館で村の歴史書や民俗学の資料を読み漁った。禁足地のこと、水晶鉱山のことを調べていくうちに、一つの古びた文献を見つけた。それは、この村の開拓以前から伝わる、禁足地に棲む"何か"についての記述だった。
  曰く、その土地の澱んだ気と人の欲が凝り固まり、形を成したものがいる。それは山に棲む神ではなく、*

*「淤血(おけつ)」**

 という、地の奥深くから湧き出る、不浄で淫らな性の塊だという。水晶は、その淫らな気を浄化し、封じ込めるためのものだった。だからこそ、その鉱山は神聖視される一方、不浄なものとして禁足地とされたのだ。
  そして、その淤血は、人の最も根源的な欲望、性欲を糧とする。特に、若く純粋な女性の「気」を好む。その女性に憑依し、その性欲を歪んだ形で増幅させ、相手の男性から精気を吸い取るのだと記されていた。

 私が連れて行った妻は、その淤血に狙われたのだ。そして、あの日に妻が告白した「誰かに襲われた」という言葉。それは、淤血が妻の精神を支配し、肉体を使って私に襲いかかった姿だったのだろうか。私は、背筋が凍りつく思いだった。

第三章 支配

 淤血の存在を知ってから、妻の言動は全て、私の知る妻のものではないように見えた。彼女の身体は、胎内の新しい生命のために膨らんでいくが、その表情はどこか空虚で、その瞳の奥には、私を嘲笑うかのような光が宿っていた。
  夜の営みは、もはや恐怖だった。それは愛の行為ではなく、性的な捕食行為に他ならなかった。妻の身体は、これまで知っていた以上にしなやかに、そして淫靡にうねる。その体温は常に熱く、私を誘う仕草は、熟練した娼婦のようだった。

 「あなたの全部が欲しいの。もっと…」

  妻の唇から発せられる言葉は、甘く、官能的だったが、それは明らかに私の妻が使う言葉ではなかった。その声は、深淵から響くような、複数の声が重なったような異様さを帯びていた。私は、自分の妻が、得体の知れない淫鬼の傀儡になっているのを肌で感じ、絶望した。 
 ある時、妻は私の上にまたがり、虚ろな目で私を見下ろした。彼女の膨らんだ腹部が、まるで別個の意志を持っているかのように、私の胸に触れた。

 「この子が生まれるの。私の…いえ、私たちの、新しい子…」 

 その言葉を聞いて、私は全身から力が抜けていくのを感じた。妻は、すでに自分自身を失い、完全に淤血に支配されている。胎内の子供は、私の種でありながら、同時にあの淫鬼の気も吸い上げて、育っている。それは、人間と淫鬼の混血であり、私と妻の関係をねじ曲げ、破壊するために生まれた存在なのだ。
  私の理性は、このおぞましい真実から逃れようと叫んでいた。だが、私の身体は、妻…いや、淤血に支配された妻の肉体が放つ、甘美で毒のような匂いに逆らえず、本能的な欲望に引きずり込まれていく。
  私は、愛する妻を救うこともできず、ただ淫鬼の欲望を満たすための道具と化していた。彼女の身体が放つ熱に、私の精気は吸い尽くされ、魂までが絡めとられていく。それは快楽であり、同時に究極の苦痛だった。  そして、その日の夜。妻は激しい痙攣を起こし、出産が始まった。

第四章 誕生

 予定日よりはるかに早い出産だった。私は慌てて救急車を呼び、病院へ向かった。病院に着くと、すぐに分娩室へ運ばれた。私は外で待つことしかできなかった。
  分娩室から聞こえてくるのは、妻の悲鳴にも似た、獣のような唸り声だった。その声は、人間のものとは思えず、まるで何かが、妻の肉体を引き裂いて出てこようとしているかのようだった。
  時間が永遠にも感じられた。そして、突然、全ての音が止んだ。静寂が訪れる。私は恐る恐る分娩室の扉を開け、中を覗き込んだ。  ベッドの上には、ぐったりと横たわる妻と、その隣に、看護師に抱き上げられた赤ん坊がいた。 

「男の子ですよ、おめでとうございます」 

 看護師が微笑みながら、赤ん坊を私に見せた。
  私は恐る恐る赤ん坊を抱き上げた。見慣れた赤ん坊の顔だった。ただ、どこか違う。肌は透けるように白く、光を浴びると、まるで水晶のようにかすかに輝いて見えた。その瞳は、深淵の闇を湛え、私をじっと見つめている。そして、その瞳の奥には、私の知る妻の面影はどこにもなく、代わりに、あの淫鬼、淤血の悍ましい輝きが宿っていた。
  その赤ん坊が、私の指を小さな手で握りしめた。その掌から、ゾクリとするほどの熱が伝わってくる。その熱は、単なる体温ではない。私の全身の精気を、魂を、根こそぎ吸い上げようとする、根源的な飢えに満ちた熱だった。 
 私は、自分が何者と交わり、何を産み落としてしまったのかを悟った。あの禁足地で、淤血は私の妻の肉体を借りて、私に子を成したのだ。私はただ、その淫鬼が新しい器、つまりこの子に宿るまでの、一時の養分として利用されたに過ぎなかったのだ。 
  妻は、空っぽの抜け殻になっていた。その魂は、あの日の坑道で、淫鬼に吸い尽くされてしまったのだろう。そして、私は今、その淫鬼の新たな器を抱きかかえている。 
 私と妻の間に生まれたこの子。しかし、その内には、あの悍ましい欲望が渦巻いている。この子は、これからこの村の、いや、この世界の、新たな淫鬼として育っていくのだろうか。
  私は、生まれたばかりの我が子…淫鬼の分身の顔を、じっと見つめ続けた。その口元は、微かに微笑んでいるようにも見え、その表情は、私を、そして世界を、永遠に呪うかのような、淫らな光を宿していた。
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