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心の一法

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 小幡のすぐそばを商人に扮した柳生の間者が財布を拾うふりをして渡した。

 「落ちましたよ」

 「ああ、これはかたじけない」

 小幡は財布を受け取ると席を立ち、外へ出て財布の中の書状を確認した。

 「あとは島津からお声がかかるのを待つのみだな」

 普段は周囲を十分警戒している小幡だったが倭寇が壊滅したこと、忠明が生還したこと、そしてこの任務も最終段階に差し掛かっていることで気がゆるんでいた。
 料亭ののれんをくぐって戻る小幡を見ている影があった。
 小幡が席に戻ると、沢庵はふと何かの異変を感じとった。
 小幡にまとわりついたわずかな「敵の視線」を読み取った。
 ただの殺意や敵意はすぐに消える一瞬のものだ。
 だが沢庵が感じ取ったのはこれから起こることへ向けた「抑えた敵意」だった。
 そしてその沢庵の表情を修行時代、忠明は何度か見たことがあった。
 それは敵が近づいてくるときの一刀斎の顔だ。
 忠明は少しうれしくなった。

 …師匠が懐かしい顔をしておられる。

 そして当然というように沢庵と忠明は目くばせをし敵を認識していることを確認した。
 忠明は言った。

 「さて。阿国、小幡殿と先に宿に帰っててくれ」

 「先に?なんで?」

 「少し沢庵殿と話をしたい。小幡殿、阿国を頼む」

 その言葉で小幡もなにかあると感づいた。

 「では先に戻ってます」

 円頭腕に説明をしようと見ると「オレ、オマエトイル」
 
 円頭腕はなにかあるとわかっているようだ。
 小幡は阿国を裏口から連れ出した。
 そこで阿国もなにかあると気づいたが今さら驚くことでもなかった。
 忠明が負けるわけがないのだから。
 表口から忠明と沢庵そして円頭腕が出てきた。
 あえて人通りに少ない暗い道を歩いた。
 すると暗闇から一人の男がゆっくりと近づいてきた。
 民族衣装に身を包んだ隼人の者だ。
 表情かなにも読み取れない殺気のない男だ。
 見慣れない着物。
 沢庵が言った。

 「こやつだ。こやつが小幡殿を斬ろうとした心の一法の使い手」

 「こいつが隼人の者…」

 円頭腕が後ろの帯に馬手差しにしていたチンクエディアを取り出し革の鞘を捨てると、そのまま隼人の者に突っ込んで行った。

 「円頭腕!やめろ」

 隼人の者は焦ることなく剣を取り出し、その峰に手を置いて向けた。

 円頭腕は突然何かに足を取られてるかのように速さが落ち、動きがゆっくりとなったと思ったらそのまま動けなくなった。

 「C'est quoi ca?」(なんだこれは?)

 隼人の者が剣を円頭腕に振り上げると、何かが飛んできて隼人の者はそれを剣で弾くしかなかった。
 忠明の投げた苦無だ。
 
 「それが心の一法か」

 苦無はもうない。
 忠明も剣を抜いて構えた。
 しかしその瞬間、身体が固まった。

 身体が動かない!

 忠明は経験したことのない技に動揺した。

 斬られる…動かなければ、俺は斬られる!

 必死に身体を動かそうとするが、動こうとすればするほど身体は固まってゆく。

 「典膳!戦うな!抗うでない!」

 沢庵がかつての弟子に言葉をかけた。

 …戦わない…抗わない…

 忠明はかつての師匠の言葉に従った。

 「倭寇の島で唱えたのなら、今一度唱えるのだ」

 そうだ…南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経…

 忠明は必死に心の中で唱えた。

 「そして慕うのだ。お慕わしいと唱えるのだ」

 慕う…?南無妙法蓮華経…南無妙法蓮華経…

 切っ先が下がり、忠明の内側から暖かい感覚が広がっていき、己の生命力が、全身に染みてゆくように広がるのを感じずにはいられなかった。

 生命とは…このようにあたたかいものなのか?

 あたたかく…清く…心が洗われる、いや全身に力がみなぎってくる…

 そして敵の術が、広がる己の生命力の熱で溶けてゆく…

 忠明の目に生命力がみなぎってくることに隼人の者は気づいた。
 隼人の者はまずいと思ったのか、忠明に斬りかかった。
 というよりはまるで鉈で薪でも切るかのように。
 忠明からすればそれこそ斬るという技とはいえない動きだった。
 下から隼人の者の腕を斬り上げ、そのまま鎖骨から袈裟に斬った。
 隼人の者は忠明を見つめたまま地に伏せた。
 近づくと、隼人の者は虫の息で何か言おうとしている。
 言い残すことがあるのかと忠明は耳を傾けた。

 「…釣れ…相手の目を…心を釣り上げろ」

 「相手の目、心を釣り上げる?それがおぬしの術か?」

 「お前…心…強い…お前、これ…できる…」

 そういうと隼人の者は息絶えた。
 沢庵は隼人の者のために合掌して冥福を祈った。
 この斬り合いを物陰から見ていた伊集院の手の者が静かに立ち去った。

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