上 下
91 / 134

宮本武蔵

しおりを挟む
 その日の夜は満月だった。
 新免道場の看板が掲げられた道場では、木枠の窓から差す月のわずかな光を頼りに稽古をする者がいた。
 縄で縛った薪がいくつも吊るされ、それらを激しく木刀で打つことで予期せぬ方向へ飛んでいっては戻ってくる。
 八方から飛んでくる薪を二本の木刀で打ち弾き、また避ける。
 戸口にそれを見ている者がいた。
 新免無二斎は二刀流の稽古をする息子に言った。

 「佐々木小次郎なる者、その技は神技に近い。倭寇、島津の抜刀隊をたったひとりで倒したという。おぬしの技など到底及ばん。近寄るでないぞ。これは殿からの言いつけである」

 息子は身をかがめて転げて薪の嵐から抜け出した。
 立ち上がって父親の無二斎を睨んだ。

 「俺も多人数相手の経験はある!」

 父親はその言葉を想定していたかのようにつけ打加えた。

 「そのあたりの輩を数人相手にするのとは次元が違う。おぬしがどこでどういう修行したか知らぬが。おぬしの二刀流など通用する相手ではない」

 「…」

 「あの者、佐々木小次郎に近寄るでない。よいな」

 武蔵は踵を返す父親を睨んだまま立ち尽くした。

 翌日
 佐々木小次郎は阿国と小倉の街を見て歩いた。
 ひとつ下ろしの髷に派手な肩衣、そして腰の長剣は誰もが釘付けとなった。

 「派手なお侍だな」

 「なにを言ってるんだ。あれは佐々木小次郎だよ」

 「島津で大暴れしてたらしいぜ」

 「今度はめでたく小倉藩の剣技指南役になったそうだ」

 街中を歩けば周囲の声が聞こえてくるがそれは島津で慣れてしまった。

 阿国は飴屋を見つけた。

 「ねえ小次郎様。わたし三官飴食べてみたい」

 「いらっしゃいませ」

 「どれ、ふたつもらうぞ」

 と、壺のふたを開け飴をふたつ取り出してひとつを阿国にあげた。
 それを嬉しそうにほうばった阿国が思いついた。

 「おいしいね。沢庵さんのおみやげに持っていってあげようよ」

 「そうだな」

 忠明もそうだが沢庵も甘いものが嫌いではなかった。

 「これを壺ごとくれ」

 土産用に風呂敷で手で下げられるよう包んでもらい、二人は飴屋を出た。
 道中、背後から忠明は気配を感じていた。

 異様な気配だ…

 しかしすぐに襲ってくるような殺気もない。

 こちらの様子を見て勝負を挑もうとしてる輩といったところか…

 ならばこのまま寺へ行けば広い場所もある、そこでこの者も名乗ってくるであろう。

 そのまま忠明と阿国は沢庵が滞在している寺へ到着した。
 沢庵が作務衣姿で二人を迎えた。

 「おお!小次郎殿に阿国。よく来たな」

 「はい。沢庵さんお土産」

 阿国が先ほど買った三官飴を渡した。

 「すまんのう。このようなことをしてもらって。後でみなで食べるとしよう」

 沢庵は忠明の後方で木陰に身を潜めている者にも声をかけた。

 「そこの御仁も一緒にどうじゃ?ずっと二人をつけてきて疲れておろう。甘いものがほしくないかね?」

 さすが元剣聖沢庵である。

 忠明がおもむろに振り向いた。
 木陰から異様な風体の男が、木剣を二本持って現れた。
 よれよれの着物、汚れた袴、髪も髭も手入れなどしていない。
 どう見ても小次郎と試合をして名を上げたい者だと忠明は思った。
 阿国も忠明と共に島津を生き抜いた女である。風体くらいで驚かない。
 しかし男が名乗った名を聞いて驚くことになる。

 「拙者、宮本武蔵と申す。佐々木小次郎殿とお見受けした…」

 「宮本武蔵だって?」

 目を見開いて思わず叫んだのは阿国だ。
 武蔵のうわさはかなり前から聞いていた。
 武蔵の見世物も演じたほどである。

 「ええええ~、本物の武蔵ってこんなんなんだ…」

 「宮本武蔵…おぬしが?」

 忠明もその名を知っていたので武蔵の歩き、姿勢、腕力をざっと見極めた。
 見極められるほどの剛力が着物の袖を通してもわかった。
 
 間違いなく手練れ…

 倭寇の六人衆以来だ…

 そして近づいてくる武蔵を見ているうちに忠明は目を疑った。

 宮本武蔵、よく見ると見覚えのある顔だ。

 なにか懐かしいこの顔は…

 「おぬし…善鬼か!」

 そういわれ武蔵の足が止まった。

 「ぬ?」

 善鬼と呼ばれ驚いたのは武蔵の方だ。
 武蔵もまた首を前に伸ばして小次郎をまじまじと見つめた。

 「典膳?神子上典膳か!」

 二人のやり取りを見て今度は沢庵が眉間にしわを寄せた。

 「善鬼だと?」

 沢庵もまじまじと武蔵を見る。
 自分の過去の名を呼ぶ坊主を武蔵も見た。
 そこにはかつての師匠、伊藤一刀斎がいるではないか。
 驚愕して目を剥いたのは武蔵だ。

 「一刀斎…先生?」

 三人の驚きについていけてないのは阿国。

 「え?どういうこと?」

 阿国は見知らぬ浪人と忠明、沢庵の再会?を見つめた。
 沢庵はうっすら涙目で手を大きくやった。

 「ほれ、こっちへ来い!どうした!」

 どうしたもこうしたも善鬼に一刀流の極意書を継承させなかった伊藤一刀斎だ。
 来いと言われても近づきにくい。

 忠明が武蔵に静かに近づいた。

 「善鬼…懐かしい…こっちへ来て話そうではないか」

 その顔はかつての弟弟子の顔になっていた。
 それを見ると武蔵、いや善鬼も弟弟子に誘われるままについて行った。
 
 「これは功徳じゃのう。まさか小倉で善鬼に会うとはのう」

 沢庵は、子供のようにはしゃぎ気味だ。
 武蔵、いや善鬼にとって気まずい相手が二人も揃っているところへわざわざ来てしまった。

 こんなことなら父、無二斎の言うことを聞いておいてもよかったかもしれん…

 そんなことをちらりと考えながら沢庵に案内されるまま部屋へ上がった。
 一刀流継承者を決める試合で負けた神子上典膳と、その師匠の伊藤一刀斎、その二人が目の前にいる。

 だが俺もあの時の俺ではない…

 楽しそうに茶を入れる坊主を見て武蔵は思った。

 これのどこが剣聖伊藤一刀斎なんだ?

 そして忠明を見た。
 その全身に漂う抑えた静かな闘気、己よりも大きな者の影を感じた。

 どれほどの修羅場をくぐってきたのだ?…

 斬った者達の空気を感じる…。

 倭寇や抜刀隊をひとりで斬ったというが嘘ではなさそうだ
  
 「ほれ、みなで三官飴を食べようぞ」

 沢庵はただただ、嬉しかった。
 かつての弟子が二人共揃った。
 仏の功徳だ。
 善鬼もこんな無邪気に喜ぶ一刀斎など見たことがなかった。

 この人も歳をとって丸くなったのか。

 いや、出家したのか…

 沢庵が武蔵の前にお茶を置いた。
 武蔵の背筋が伸びた。

 あの一刀斎が自分に茶を入れている…。

 緊張と警戒が心を覆う。
 盆でも投げつけてきてもおかしくないと思ったが、沢庵はただ無邪気に茶を配っただけだった。

 隙だらけに見えて隙がないように見える。

 阿国が三官飴の壺を開けて皿に分けた。

 「懐かしいなぁ。善鬼!あれからどうしてた?」

 忠明が友のように聞いた。

 「各地を放浪し、道場破りなどをして…小倉に戻ってきた」

 「つまり忠明さまの兄弟子だったけど一刀流を、相伝できなかった人?」

 阿国は遠慮がない。

 「む…今は二天一流、二刀流の剣で身を立てている」

 茶を忠明の前に置いた沢庵が武蔵を見た。

 「そうか。二刀流というのは一刀流へのあてつけか!わっはっはっはっは。おぬしらしいのう」

 「いや…そういうわけでは…剣は片手で使えるのなら、二刀を以って最善を尽くすのが兵法と悟ったんだ」

 「まだ恨んでおるのか」

 「いえ…」

 忠明は武蔵の噂を思い出した。

 「そういえば吉岡清十郎を倒したそうだな。それは聞いたぞ」

 「おう。清十郎!倒したぞ」

 かつての弟弟子に腕前を自慢した己を思い出し、一瞬気分が良くなった。
 典膳はよく自分を慕ってくれた。

 「ほう。吉岡清十郎をな…」

 先ほどの無邪気な笑顔とはうって変わって、沢庵の目が一刀斎の目に戻った。

 この目だ。

 あのすべてを見透かしたような一刀斎の目。

 この視線を破って俺は剣を振ることだけを考えていたものだ…

 「どのようにして倒したのだ?」

 武蔵は、肚に意識を置いてまっすぐに元剣聖の目を見て言った。

 「二天一流、二刀流にて清十郎を倒しました」

 実際には、具合が悪いと籠の中から伝え、確認しようと近づいてきた清十郎を騙し討ちにした。

 「清十郎は、出家したと聞いたがおぬしの二刀流に敗れたからか?」

 「…はい。そのように思っております!」

 「嘘を申すな」

 「!」
しおりを挟む

処理中です...