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武蔵と小次郎の稽古

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 武蔵と小次郎は普段から人目のつかない沢庵のいる寺で会うことが多かった。
 佐々木小次郎は小倉藩剣技指南役、宮本武蔵も剣豪として知られていたので立場上あまり公の場で会うことはあまりなかった。
 二人の稽古も沢庵が居候している寺で余人に知られることなくできた。
 が、その稽古は二人にとって普段の剣の稽古より難しかった。

 「小次郎さま、何をしてるんですか?」

 そう言われ心外だと言わんばかりに阿国のほうを忠明が見た。

 「何とはなんだ。武蔵がちっとも現れないので苛々してうろついているのだ」

 腕を組みそれらしき動きをしていた忠明が阿国に目を剥いた。
 出番を待つ武蔵は櫂を立てて仁王立ちをして二人のやり取りを見ている。

 「うろついてる?苛々している?まったくそのようには見えません。まるで好きな女郎が現れないのを苛々している助兵衛親父ですよ」

 「なんだと?」

 阿国の気風のいいダメ出しに武蔵も肩で思わず笑った。

 「さすが典膳の嫁と言ったところか」

 袴姿の阿国が颯爽と忠明の前に立ったと思ったら、すごい勢いで歩き出した。
 かと思いきやすぐに踵を返し「ええい!武蔵はまだかぁ!」と、怒りを吐き出した。
 阿国の芝居の気迫に肩で笑っていた武蔵も己が呼ばれた感覚を覚えた。
 忠明も阿国がしたように勢いをつけて歩いて行ったり来たりを繰り返した。

 「速過ぎます」

 「なに?」

 「なにをしてるのかよくわかりません。剣豪の体捌きじゃないんですよ」

 「なにが違うというのだ?」

 「人が苛々してるというのを見せなければなりません。もっとのっしのっし歩いてください」

 「のっしのっし?こうか?」

 「肩をいからせて、こんな感じに」

 阿国が握り拳を下げ肩をいからせて見せた。

 「こうか」
 
 忠明も言われたとおりにやる。

 「こんなに肩を上げては剣など抜けんぞ」

 「はい、じゃ武蔵。船が到着。登場」

 「お、おう」

 櫂を握り、普通に小次郎の前にやってきた。

 「武蔵!なにやってるの!」

 「なに?」

 「これから決闘するんでしょ?船を降りた瞬間から小次郎との戦いが始まってるの。自分にとって有利な地の利をまず取るでしょ」

 武蔵はハッとした。
 一刀流継承の決闘で典膳に地の利を取られたことが脳裏を横切った。
 
 「小次郎!待ちに待った武蔵が現れたんだからぼーっとしない!武蔵に向かってく!」 
 
 「そうか」

 武蔵が小次郎と間合いを結ぼうと走る。
 小次郎も武蔵に向かって走り、物干竿を抜いて正眼に構えた。
 武蔵は櫂を自然に下ろした下段に構えた。

 「お!櫂の構えがいかにも武蔵っぽいね」

 武蔵本人に対して武蔵っぽいというのもおかしな表現だ。

 「小次郎!正眼じゃなくて八相に構えて」

 「八相か」

 小次郎が八相に構えた。

 「違う!」

 「違う?違うとはどういうことだ?」

 「あのね。陸から船島の決闘を見てるんだからさ。もっと大きく八相に構えないとわからないでしょ。実戦じゃないの。芝居なんだから」

 そう。実戦でなくあくまで八百長の芝居だ。
 小次郎は八相に握った柄を頭の上まで上げて構えた。

 「そうそう。大きく、大きく構えてぇ。で、大きく大げさに振る!はい、斬り合ってぇ!」

 やりにくい。剣豪二人はそう思った。
 
 「どうする?」

 武蔵が聞いた。小次郎を亡き者にする試合である。
 小次郎がどうしたいかをごく当たり前に聞いた。
 
 「そうだな。俺が苛立って攻める。燕返しを捌いてから後の先で討ち取ってくれ」

 「わかった」

 小次郎が大げさに斬りかかり、大げさに下から燕返しで斬り上げた。
 武蔵はそれを大げさに背を反らせてかわし大げさに櫂で小次郎の頭部へ打ち込むふりをした。
 
 「よし!じゃもう一度!別の燕返しのかわし方見せて」

 こうして阿国の演出で武蔵と小次郎は何度も決闘の呼吸を合わせ芝居の腕を上げていった。


 慶長十七年(1612年)五月十三日
 ついに船島で佐々木小次郎と宮本武蔵の試合は行われた。(序章参照)
 そして、打ち合わせどおり佐々木小次郎が倒れた。
 すべてがあっという間に終わり、武蔵は船に向かう際、小次郎に言った。

 「また会おうぞ」

 武蔵は船に乗り込んで去って行った。
 岸では村上吉之丞もその試合を見ていた。
 少年は当然、佐々木小次郎が勝つものと信じていたが小次郎は武蔵の一撃に倒れた。
 吉之丞は憧れの剣豪が負ける姿を目にし大八車で運ばれてゆく佐々木小次郎の死体を涙で見送り、しばらく泣き続けたという。
 忠明は佐々木小次郎を自ら亡き者にし本来の自分に戻った忠明は仲間と共に江戸へ戻った。
 そしてその三年後、徳川幕府は豊臣家を滅ぼす戦いを起こす。
 大阪夏の陣である。
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