32 / 37
本編
第二十四話 鋏を掲げて襲来
しおりを挟む
今日の夕餉当番は大福だ。彼特有の量の味噌で作る、煮込みの良い香りが、台所から漂ってくる。
縁側では、斑とシロが佇んでいる。ぼんやりと明るい、ほとんど円に近い月を見上げつつ、シロから、ぽつりと言い出した。
「私、明日、初めて満月を見られます」
斑は、ちらとシロの旋毛へと目を向ける。
「正確には、ずっと小さい頃は見ていたかもしれません。でも、いつからか右目が赤く光っておかしいので、満月の日は、墓守りの手伝いを早く切り上げて、夕暮れ前には家の中に隠れていました。村の人から石を投げつけられないように、両親が守ってくれたんです」
シロは毛先を軽くいじった。五月に入ってすぐ、ちゃんと確認と承諾の後、斑の手で整えられた。やはり力を持て余す以上、短い方が良いという理由だ。
「満月を見られないのは寂しいけれど、両親が私の為に、仕事を早く終わらせてくれるから、ちょっと嬉しい日でもあったんです。昼間からお父ちゃんと釣りに出かけたし、夜にはお母ちゃんが髪の毛を整えてくれて……」楽しかったな、と顔を綻ばせて締める。
「もう、二百年以上前の話になるが」
今度は、シロの温かな思い出に耳を傾けていた斑が、ゆっくりと口を開いた。
「私が初めて側に置いた白児は、大吉という名の男だった」
斑は、意外そうに見上げてきたシロの視線と目を合わせ、それから月へと向いて語り出す。
「私が現世の町をふらついていた時、お前とそう変わらない年頃の彼に出会った。彼は浮浪児だった。幼い頃、野犬に左手を食われ、使い物にならないからと、親に捨てられたらしい。以来、手無しを逆手に取り、相手を油断させ、上手くスリをやって生き延びていたそうだ。事実、私の腰巾着を彼に奪われたのが、私達の出会いのきっかけだからな。無論、取り返してやったが」
返り討ちにしたとか、警官に突き出したとか、見捨てたとか、そんなオチが待っているとは思わなかったが、シロは一応問いかける。
「そんな出会いで……一緒に暮らしたんですか?」
「そうだ」
「哀れ、だったからですか」
斑の再びの首肯は、嫌味なくらいに自然で素直だった。
「彼は呪力の無い人間だったから、私の中途半端な〈擬人〉に全く気付かなかった。その上、お前と同じように、常世や妖怪など作り話だと思っていた。共に暮らしてからも、隙あらば私の私物を悪戯で盗む、ふざけた男だった。毎度飽きもせず、げらげら笑うのだから、癪に障ったよ。だが、ある日、万屋に連れていってやった時、カセ鳥が〈本性〉を晒している最中に出会した途端、大層腰を抜かしてね。あの大吉の間抜け面を拝めたのは、全く愉快だった」
目元の隈取りが柔らかく緩むのを、シロは不思議と見惚れた。
斑の口調は常々平淡だが、無口というわけではない。なのに、いつもどこか掴み所が無く、会話に肝心なものが足りないと思わせることが多かった。それは、ありのままの気持ちだ。受け手が戸惑う程の善意ばかりで、その真意が曖昧で、歯痒くなるばかりだった。
だが、今の斑は、自分自身の思い出を語っている。悪友をおちょくるように、偲ぶように。そこには深い懐古がある。心を直で視た時よりも、シロにとっては近しく感じる。これこそが、生者の言葉だ。
「最初に私は己を妖だと明かしたが、奴は〈死者ノ國〉へと旅立つ日まで、ついぞ信じてくれなかった。当然だ、私は彼の前でも〈本性〉を晒さなかったのだから」妖としての本来の姿に対する嫌忌が、平淡を装う口調から、漏れている。
〈本性〉について口が重い斑が、初めて自らそれについて触れたので、シロは密かに驚いた。彼の前でも――つまり、自分はおろか、大福すら知らないということだろう。
斑は、珍しい言及したことを流すように続ける。
「大吉は、桜よりも梅が好きだった。桜は見栄えだけだが、梅は食い物にも酒にもなるから、と。そして、たまには裏の梅の下で月見に興じたよ。彼手製の、塩っぱい梅干しを肴にしながら」
シロは、はっとした。朝の食卓によく並ぶ、副菜の梅干しが思い浮かんだ。初めて食べた時から塩っぱくて、大福曰く「旦那様は梅干しを浸けることばっかしだ」。
「……私にとっての白児とは、そういう、存在だった」
複雑な感情の一つ一つを繋げたり、解いたり、手探りを繰り返している。そんな斑の様子が見て取れた。
白児――シロは、改めて、その呼び名を咀嚼し、ようやく理解した。
しばらくして、仄かに温かい静寂に浸っていた二人を呼び覚ます幼い声が、家の奥から聞こえた。
「旦那様ー! 夕餉の支度が出来ましたー! シロ、運ぶの手伝えー!」
斑が、ふっと息を漏らす。
「行こうか。大福の作る牛筋の味噌煮込みは、唐辛子が効いていて美味い。腹が減ったな」
帯を軽く撫でて歩き出す斑にシロは従う――が、その歩みは三歩目で終わった。どんと斑の大きな背にぶつかり、よろめいたところで腰を抱かれ、転ぶことは無かったものの、様子がおかしいのは変わらない。すぐに斑は縁側から下りていき、だだっ広い庭へと立つ。シロは自然と後を追っていた。
「……結界が、破られる」それは独白か、シロに聞かせる小声か、分からない。
シロも、ぴり、と奇妙な震えを肌で感じた。歌天と楽助の来訪の時は違う、異質な何かが迫りくる――
目の前の、何も無いはずの宙に、亀裂が走った。びりびり、びりびりと、何枚も重ねた厚紙の束を引き裂くような、重い音が鳴り響く。
瞬間――亀裂の隙間から、鬼火の鎌が飛んできた!
シロの顔面の寸前、斑が袖を振り、それを薙ぎ払った。
「旦那様!? 一体どうなさったンで――」
異変を感じ取ったらしい大福の、慌てた足音が聞こえてくる。しかし、来させるわけにはいかない。彼の精神を蝕む邪気は癒されても、深い所での傷は永遠に残っている。
「こちらに来るな、大福! 自室に戻れ!」〈門〉を開けて逃がす猶予が無く、そう指示するしかなかった。
聞き慣れない主人の怒声に、大福は思い切り両肩を跳ね上がらせた。何事か分からず、しかし逆らえるはずもなく、そそくさと階段を駆け上がる。
歪んだ空間から、鋏のような両手が割って入ってきた。まるで、建付けの悪い戸を抉じ開けるような、重々しい動き。そして次には、これまた鋏のような嘴から、落武者のような頭までを、ぐいぐいと突っ込んでくる。
隔たれた透明な壁があるかのように、侵入してくる部位は見えるのに、それに連なるはずの部位が見えない。その異様な光景も、やがて侵入者の無理矢理な抉じ開けにより、明らかに妖怪である全体像が分かった。
侵入者――髪切りの二又の足が、ずんと地面を踏んだ。
「こんな山奥に年代物の〈守護結界〉が張られていたとは。結界によって封じられている存在を認知しなければ気付けない……面倒な術だ」
フンと鼻で笑い、斑を見る。その眼差しは侮辱に満ちているが、奥には潜む高揚もあった。
「鎌共の粗相を慈悲深く見逃してくれたそうだな。おかげで面白いニオイを嗅げた。それで探してみたら……まさか本当に、滅んだとされる〈神宿り〉がおるとは。しかも犬憑き、お前まで。てっきり狐狸の頭に食い殺されたかと思っていたわ」口振りから、かつての斑の所業を知っている風だとシロは察する。
結界の破れ目から、ひょいと入り込んでくる鎌鼬の三人組。〈本性〉を晒しているが、斑は、確実に「ニオイ」で分かる。ぎり、と握り拳を作る。あの時、情けをかけて見逃した、情けをかけてしまった、あいつらだ。悪びれず、にやにやと嫌な笑い顔を向けてくる。
髪切りは、嘴の奥から、細長く滑った舌を出した。
「結界は強固だが、好物の残り香を辿ることなど、この俺には容易い。その上独特なニオイだ。一度嗅げば見失うものか」
「御託は結構。ここは私の領地だ。今すぐ立ち去れ、髪切り」
「まあ、分かり切ったご挨拶だな。……では手土産に、それの髪を食わせろ」顎でしゃくる先は当然シロだ。
「ふざけるな」
「貴様こそふざけているではないか。たらふく〈神宿り〉を食ったくせに、まだ食い足りんから手元に置いているのだろう? 悪食の狗め」と、羨望と侮辱の語調で言い放つ。
鎌鼬のうちの一人が得意げに口を開いた。
「お頭、聞いて下さい。お礼申し上げたい方がいるんです、俺達」
「ほう?」
「ここまでお頭を連れてこられたのは、俺達の手柄じゃない。元はと言えば、俺達が嗅ぎつけたのは、すねこすりのニオイでしたからねえ」
鎌鼬の一人が、すんと鼻を鳴らした。その仕草だけで大福が見つかってしまうのは、恐らくそう遅くない。二階の自室で既に事態を理解しているであろう大福は、膝を抱えて震えているかもしれない。それを見つけた鎌鼬は、今度こそ容赦無く餌とする。それは、それだけは――もう、シロは、許せなかった。
「許せない」という心の中の響きで、斑よりも先にシロの体が動いた。
「私の髪がそんなに欲しいの!? この〈神宿り〉の髪が!?」
待て、という斑の制止は無意味だった。
芝生を踏みしだき、髪を掴んで見せつけ、ずんずんと前に出てくる。わざとらしい煽りだと髪切りは思った。しかし、面白い。鎌鼬のままごとに興味は無く、「ニオイ」を持ち帰った時点で用済みだ。酒の肴にもならない、どこかに隠れているらしいすねこすりよりも、自ら歩み寄ってきてくれた据え膳を蔑ろにするのは、むしろ無礼というものだ。
「ああ、欲しい」
白髪交じりの長い毛が、しゅるしゅるとシロの両の手首を掴み、ぐんっと引っ張った。抵抗の術など知らないシロは、簡単に拘束されてしまう。しかし、その表情には恐れではなく、どうにか気を逸らせたという誇りが表れている。
密着した〈神宿り〉の頭部から、夕菜油を掻き分けて、それよりもずっと芳醇な香りが漂ってきた。髪切りは、思わず生唾を飲み込む。
嘴を髪へと滑らした時、紺青の火の玉が髪切りの足元を目掛けて飛んできた――隈取りの歪みで苛立ちを表す斑が、髪切りを見据え、手の平から鬼火を再び浮かばせる。
「飼い主が許してくれないとは、困ったな」髪切りは肩を竦めてみせる。
斑の放つ青い光点は四方八方へと飛び散る。一つは空へ、一つは地へ、一つは髪切りへと向かうが、鋏で弾かれてしまう。
「乱雑な技だ。腕が鈍ったか、犬憑き。現世にいた頃などは、地に這いつくばりながら口から怨嗟の鬼火を吐き、無作為に辺りを燃やしていたそうだが、その頃の再現か?」
挑発に乗らないようにと努める斑のことなど構わず、髪切りは嘴を歪ませて続ける。
「〈神宿り〉と言えば、肉は甘露の対極のように不味いくせに、内側を流れる体液は呪力に満ちている。穢れの浄化の作用があるそうだ。それを活かして万病に効く口噛み酒なんかも造っていた。きっと口吸いでもすれば滾るだろうなあ……」
隈取りが、明らかに吊り上がる。これもまた分かりやすい挑発だ。しかし、斑の目付きには、どんどん隠せない怒りが映る。自分が侮辱されるよりもずっと苛立たしく、これを聞かされるシロが不憫だ。そんな風に扱うつもりなど無いと、最初から言っていたというのに。
そう、最初から――斑にとって〈神宿り〉は、シロという存在は、救いだったのだ。
左手から放たれた、一段と盛る青い炎が、再び弾こうとした髪切りの手を、じゅうっと焦がした。
「そう怒るな。俺の興味は髪だけだ。お前の所有物を汚しはしない」
「違う。この子は所有物などではない。……私の白児だ!」
響き渡る宣告。大きな鬼火を放とうと、斑は手に力を込める。
髪切りは、ひっひと意地悪く笑った。自身の髪を纏わせたシロを前に突き出し、盾として使う。
「傷を負わせるつもりなら、止めてやれ。邪気が混ざれば肉どころか呪力まで不味くなるらしいからな」
斑は、奥歯を噛み締めながら手を緩めた。
一方シロは、斑から受け取った、帯に仕舞っていた櫛を取り出し、絡みつく乾いた髪の隙間に差していた。しかし、びくともしない。以前のように、〈守刀〉として扱えない。あの盛る炎が宿らない。
「何をもぞもぞとやっている? 俺の髪は麻縄よりもしぶといぞ」
シロの呪力が不安定で逆に良かったと、斑は密かに胸を撫で下ろす。一人前の〈守刀〉が出来ていれば、それこそ髪切りは脅威を受けて本気になり、櫛を持つ腕を切り落としただろう。だが、髪切りは櫛の存在に気付かず、ただ弱々しい抵抗をしているだけだと見過ごした。
睨み合いが続く中、髪切りの目付きが怪訝の色に変わる。
「何故〈本性〉を現さない?」
ぴくりと、垂れ耳が揺れる。
「犬面に愛着があるからか? 変化を解く術すら鈍ったからか? 俺なんぞ〈擬人〉で勝てると舐めているからか? それとも――」
「黙れ」狼の唸りのような低い声で、ぴしゃりと押さえつける。
斑は、それ以上を見透かされたくなかった。
縁側では、斑とシロが佇んでいる。ぼんやりと明るい、ほとんど円に近い月を見上げつつ、シロから、ぽつりと言い出した。
「私、明日、初めて満月を見られます」
斑は、ちらとシロの旋毛へと目を向ける。
「正確には、ずっと小さい頃は見ていたかもしれません。でも、いつからか右目が赤く光っておかしいので、満月の日は、墓守りの手伝いを早く切り上げて、夕暮れ前には家の中に隠れていました。村の人から石を投げつけられないように、両親が守ってくれたんです」
シロは毛先を軽くいじった。五月に入ってすぐ、ちゃんと確認と承諾の後、斑の手で整えられた。やはり力を持て余す以上、短い方が良いという理由だ。
「満月を見られないのは寂しいけれど、両親が私の為に、仕事を早く終わらせてくれるから、ちょっと嬉しい日でもあったんです。昼間からお父ちゃんと釣りに出かけたし、夜にはお母ちゃんが髪の毛を整えてくれて……」楽しかったな、と顔を綻ばせて締める。
「もう、二百年以上前の話になるが」
今度は、シロの温かな思い出に耳を傾けていた斑が、ゆっくりと口を開いた。
「私が初めて側に置いた白児は、大吉という名の男だった」
斑は、意外そうに見上げてきたシロの視線と目を合わせ、それから月へと向いて語り出す。
「私が現世の町をふらついていた時、お前とそう変わらない年頃の彼に出会った。彼は浮浪児だった。幼い頃、野犬に左手を食われ、使い物にならないからと、親に捨てられたらしい。以来、手無しを逆手に取り、相手を油断させ、上手くスリをやって生き延びていたそうだ。事実、私の腰巾着を彼に奪われたのが、私達の出会いのきっかけだからな。無論、取り返してやったが」
返り討ちにしたとか、警官に突き出したとか、見捨てたとか、そんなオチが待っているとは思わなかったが、シロは一応問いかける。
「そんな出会いで……一緒に暮らしたんですか?」
「そうだ」
「哀れ、だったからですか」
斑の再びの首肯は、嫌味なくらいに自然で素直だった。
「彼は呪力の無い人間だったから、私の中途半端な〈擬人〉に全く気付かなかった。その上、お前と同じように、常世や妖怪など作り話だと思っていた。共に暮らしてからも、隙あらば私の私物を悪戯で盗む、ふざけた男だった。毎度飽きもせず、げらげら笑うのだから、癪に障ったよ。だが、ある日、万屋に連れていってやった時、カセ鳥が〈本性〉を晒している最中に出会した途端、大層腰を抜かしてね。あの大吉の間抜け面を拝めたのは、全く愉快だった」
目元の隈取りが柔らかく緩むのを、シロは不思議と見惚れた。
斑の口調は常々平淡だが、無口というわけではない。なのに、いつもどこか掴み所が無く、会話に肝心なものが足りないと思わせることが多かった。それは、ありのままの気持ちだ。受け手が戸惑う程の善意ばかりで、その真意が曖昧で、歯痒くなるばかりだった。
だが、今の斑は、自分自身の思い出を語っている。悪友をおちょくるように、偲ぶように。そこには深い懐古がある。心を直で視た時よりも、シロにとっては近しく感じる。これこそが、生者の言葉だ。
「最初に私は己を妖だと明かしたが、奴は〈死者ノ國〉へと旅立つ日まで、ついぞ信じてくれなかった。当然だ、私は彼の前でも〈本性〉を晒さなかったのだから」妖としての本来の姿に対する嫌忌が、平淡を装う口調から、漏れている。
〈本性〉について口が重い斑が、初めて自らそれについて触れたので、シロは密かに驚いた。彼の前でも――つまり、自分はおろか、大福すら知らないということだろう。
斑は、珍しい言及したことを流すように続ける。
「大吉は、桜よりも梅が好きだった。桜は見栄えだけだが、梅は食い物にも酒にもなるから、と。そして、たまには裏の梅の下で月見に興じたよ。彼手製の、塩っぱい梅干しを肴にしながら」
シロは、はっとした。朝の食卓によく並ぶ、副菜の梅干しが思い浮かんだ。初めて食べた時から塩っぱくて、大福曰く「旦那様は梅干しを浸けることばっかしだ」。
「……私にとっての白児とは、そういう、存在だった」
複雑な感情の一つ一つを繋げたり、解いたり、手探りを繰り返している。そんな斑の様子が見て取れた。
白児――シロは、改めて、その呼び名を咀嚼し、ようやく理解した。
しばらくして、仄かに温かい静寂に浸っていた二人を呼び覚ます幼い声が、家の奥から聞こえた。
「旦那様ー! 夕餉の支度が出来ましたー! シロ、運ぶの手伝えー!」
斑が、ふっと息を漏らす。
「行こうか。大福の作る牛筋の味噌煮込みは、唐辛子が効いていて美味い。腹が減ったな」
帯を軽く撫でて歩き出す斑にシロは従う――が、その歩みは三歩目で終わった。どんと斑の大きな背にぶつかり、よろめいたところで腰を抱かれ、転ぶことは無かったものの、様子がおかしいのは変わらない。すぐに斑は縁側から下りていき、だだっ広い庭へと立つ。シロは自然と後を追っていた。
「……結界が、破られる」それは独白か、シロに聞かせる小声か、分からない。
シロも、ぴり、と奇妙な震えを肌で感じた。歌天と楽助の来訪の時は違う、異質な何かが迫りくる――
目の前の、何も無いはずの宙に、亀裂が走った。びりびり、びりびりと、何枚も重ねた厚紙の束を引き裂くような、重い音が鳴り響く。
瞬間――亀裂の隙間から、鬼火の鎌が飛んできた!
シロの顔面の寸前、斑が袖を振り、それを薙ぎ払った。
「旦那様!? 一体どうなさったンで――」
異変を感じ取ったらしい大福の、慌てた足音が聞こえてくる。しかし、来させるわけにはいかない。彼の精神を蝕む邪気は癒されても、深い所での傷は永遠に残っている。
「こちらに来るな、大福! 自室に戻れ!」〈門〉を開けて逃がす猶予が無く、そう指示するしかなかった。
聞き慣れない主人の怒声に、大福は思い切り両肩を跳ね上がらせた。何事か分からず、しかし逆らえるはずもなく、そそくさと階段を駆け上がる。
歪んだ空間から、鋏のような両手が割って入ってきた。まるで、建付けの悪い戸を抉じ開けるような、重々しい動き。そして次には、これまた鋏のような嘴から、落武者のような頭までを、ぐいぐいと突っ込んでくる。
隔たれた透明な壁があるかのように、侵入してくる部位は見えるのに、それに連なるはずの部位が見えない。その異様な光景も、やがて侵入者の無理矢理な抉じ開けにより、明らかに妖怪である全体像が分かった。
侵入者――髪切りの二又の足が、ずんと地面を踏んだ。
「こんな山奥に年代物の〈守護結界〉が張られていたとは。結界によって封じられている存在を認知しなければ気付けない……面倒な術だ」
フンと鼻で笑い、斑を見る。その眼差しは侮辱に満ちているが、奥には潜む高揚もあった。
「鎌共の粗相を慈悲深く見逃してくれたそうだな。おかげで面白いニオイを嗅げた。それで探してみたら……まさか本当に、滅んだとされる〈神宿り〉がおるとは。しかも犬憑き、お前まで。てっきり狐狸の頭に食い殺されたかと思っていたわ」口振りから、かつての斑の所業を知っている風だとシロは察する。
結界の破れ目から、ひょいと入り込んでくる鎌鼬の三人組。〈本性〉を晒しているが、斑は、確実に「ニオイ」で分かる。ぎり、と握り拳を作る。あの時、情けをかけて見逃した、情けをかけてしまった、あいつらだ。悪びれず、にやにやと嫌な笑い顔を向けてくる。
髪切りは、嘴の奥から、細長く滑った舌を出した。
「結界は強固だが、好物の残り香を辿ることなど、この俺には容易い。その上独特なニオイだ。一度嗅げば見失うものか」
「御託は結構。ここは私の領地だ。今すぐ立ち去れ、髪切り」
「まあ、分かり切ったご挨拶だな。……では手土産に、それの髪を食わせろ」顎でしゃくる先は当然シロだ。
「ふざけるな」
「貴様こそふざけているではないか。たらふく〈神宿り〉を食ったくせに、まだ食い足りんから手元に置いているのだろう? 悪食の狗め」と、羨望と侮辱の語調で言い放つ。
鎌鼬のうちの一人が得意げに口を開いた。
「お頭、聞いて下さい。お礼申し上げたい方がいるんです、俺達」
「ほう?」
「ここまでお頭を連れてこられたのは、俺達の手柄じゃない。元はと言えば、俺達が嗅ぎつけたのは、すねこすりのニオイでしたからねえ」
鎌鼬の一人が、すんと鼻を鳴らした。その仕草だけで大福が見つかってしまうのは、恐らくそう遅くない。二階の自室で既に事態を理解しているであろう大福は、膝を抱えて震えているかもしれない。それを見つけた鎌鼬は、今度こそ容赦無く餌とする。それは、それだけは――もう、シロは、許せなかった。
「許せない」という心の中の響きで、斑よりも先にシロの体が動いた。
「私の髪がそんなに欲しいの!? この〈神宿り〉の髪が!?」
待て、という斑の制止は無意味だった。
芝生を踏みしだき、髪を掴んで見せつけ、ずんずんと前に出てくる。わざとらしい煽りだと髪切りは思った。しかし、面白い。鎌鼬のままごとに興味は無く、「ニオイ」を持ち帰った時点で用済みだ。酒の肴にもならない、どこかに隠れているらしいすねこすりよりも、自ら歩み寄ってきてくれた据え膳を蔑ろにするのは、むしろ無礼というものだ。
「ああ、欲しい」
白髪交じりの長い毛が、しゅるしゅるとシロの両の手首を掴み、ぐんっと引っ張った。抵抗の術など知らないシロは、簡単に拘束されてしまう。しかし、その表情には恐れではなく、どうにか気を逸らせたという誇りが表れている。
密着した〈神宿り〉の頭部から、夕菜油を掻き分けて、それよりもずっと芳醇な香りが漂ってきた。髪切りは、思わず生唾を飲み込む。
嘴を髪へと滑らした時、紺青の火の玉が髪切りの足元を目掛けて飛んできた――隈取りの歪みで苛立ちを表す斑が、髪切りを見据え、手の平から鬼火を再び浮かばせる。
「飼い主が許してくれないとは、困ったな」髪切りは肩を竦めてみせる。
斑の放つ青い光点は四方八方へと飛び散る。一つは空へ、一つは地へ、一つは髪切りへと向かうが、鋏で弾かれてしまう。
「乱雑な技だ。腕が鈍ったか、犬憑き。現世にいた頃などは、地に這いつくばりながら口から怨嗟の鬼火を吐き、無作為に辺りを燃やしていたそうだが、その頃の再現か?」
挑発に乗らないようにと努める斑のことなど構わず、髪切りは嘴を歪ませて続ける。
「〈神宿り〉と言えば、肉は甘露の対極のように不味いくせに、内側を流れる体液は呪力に満ちている。穢れの浄化の作用があるそうだ。それを活かして万病に効く口噛み酒なんかも造っていた。きっと口吸いでもすれば滾るだろうなあ……」
隈取りが、明らかに吊り上がる。これもまた分かりやすい挑発だ。しかし、斑の目付きには、どんどん隠せない怒りが映る。自分が侮辱されるよりもずっと苛立たしく、これを聞かされるシロが不憫だ。そんな風に扱うつもりなど無いと、最初から言っていたというのに。
そう、最初から――斑にとって〈神宿り〉は、シロという存在は、救いだったのだ。
左手から放たれた、一段と盛る青い炎が、再び弾こうとした髪切りの手を、じゅうっと焦がした。
「そう怒るな。俺の興味は髪だけだ。お前の所有物を汚しはしない」
「違う。この子は所有物などではない。……私の白児だ!」
響き渡る宣告。大きな鬼火を放とうと、斑は手に力を込める。
髪切りは、ひっひと意地悪く笑った。自身の髪を纏わせたシロを前に突き出し、盾として使う。
「傷を負わせるつもりなら、止めてやれ。邪気が混ざれば肉どころか呪力まで不味くなるらしいからな」
斑は、奥歯を噛み締めながら手を緩めた。
一方シロは、斑から受け取った、帯に仕舞っていた櫛を取り出し、絡みつく乾いた髪の隙間に差していた。しかし、びくともしない。以前のように、〈守刀〉として扱えない。あの盛る炎が宿らない。
「何をもぞもぞとやっている? 俺の髪は麻縄よりもしぶといぞ」
シロの呪力が不安定で逆に良かったと、斑は密かに胸を撫で下ろす。一人前の〈守刀〉が出来ていれば、それこそ髪切りは脅威を受けて本気になり、櫛を持つ腕を切り落としただろう。だが、髪切りは櫛の存在に気付かず、ただ弱々しい抵抗をしているだけだと見過ごした。
睨み合いが続く中、髪切りの目付きが怪訝の色に変わる。
「何故〈本性〉を現さない?」
ぴくりと、垂れ耳が揺れる。
「犬面に愛着があるからか? 変化を解く術すら鈍ったからか? 俺なんぞ〈擬人〉で勝てると舐めているからか? それとも――」
「黙れ」狼の唸りのような低い声で、ぴしゃりと押さえつける。
斑は、それ以上を見透かされたくなかった。
0
あなたにおすすめの小説
敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています
藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。
結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。
聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。
侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。
※全11話 2万字程度の話です。
帰国した王子の受難
ユウキ
恋愛
庶子である第二王子は、立場や情勢やら諸々を鑑みて早々に隣国へと無期限遊学に出た。そうして年月が経ち、そろそろ兄(第一王子)が立太子する頃かと、感慨深く想っていた頃に突然届いた帰還命令。
取り急ぎ舞い戻った祖国で見たのは、修羅場であった。
子持ち愛妻家の極悪上司にアタックしてもいいですか?天国の奥様には申し訳ないですが
霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
胸がきゅんと、甘い音を立てる。
相手は、妻子持ちだというのに。
入社して配属一日目。
直属の上司で教育係だって紹介された人は、酷く人相の悪い人でした。
中高大と女子校育ちで男性慣れしてない私にとって、それだけでも恐怖なのに。
彼はちかよんなオーラバリバリで、仕事の質問すらする隙がない。
それでもどうにか仕事をこなしていたがとうとう、大きなミスを犯してしまう。
「俺が、悪いのか」
人のせいにするのかと叱責されるのかと思った。
けれど。
「俺の顔と、理由があって避け気味なせいだよな、すまん」
あやまってくれた彼に、胸がきゅんと甘い音を立てる。
相手は、妻子持ちなのに。
星谷桐子
22歳
システム開発会社営業事務
中高大女子校育ちで、ちょっぴり男性が苦手
自分の非はちゃんと認める子
頑張り屋さん
×
京塚大介
32歳
システム開発会社営業事務 主任
ツンツンあたまで目つき悪い
態度もでかくて人に恐怖を与えがち
5歳の娘にデレデレな愛妻家
いまでも亡くなった妻を愛している
私は京塚主任を、好きになってもいいのかな……?
処刑された勇者は二度目の人生で復讐を選ぶ
シロタカズキ
ファンタジー
──勇者は、すべてを裏切られ、処刑された。
だが、彼の魂は復讐の炎と共に蘇る──。
かつて魔王を討ち、人類を救った勇者 レオン・アルヴァレス。
だが、彼を待っていたのは称賛ではなく、 王族・貴族・元仲間たちによる裏切りと処刑だった。
「力が強すぎる」という理由で異端者として断罪され、広場で公開処刑されるレオン。
国民は歓喜し、王は満足げに笑い、かつての仲間たちは目を背ける。
そして、勇者は 死んだ。
──はずだった。
十年後。
王国は繁栄の影で腐敗し、裏切り者たちは安穏とした日々を送っていた。
しかし、そんな彼らの前に死んだはずの勇者が現れる。
「よくもまあ、のうのうと生きていられたものだな」
これは、英雄ではなくなった男の復讐譚。
彼を裏切った王族、貴族、そしてかつての仲間たちを絶望の淵に叩き落とすための第二の人生が、いま始まる──。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~
菱沼あゆ
キャラ文芸
突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。
あまりさんののっぴきならない事情
菱沼あゆ
キャラ文芸
強引に見合い結婚させられそうになって家出し、憧れのカフェでバイトを始めた、あまり。
充実した日々を送っていた彼女の前に、驚くような美形の客、犬塚海里《いぬづか かいり》が現れた。
「何故、こんなところに居る? 南条あまり」
「……嫌な人と結婚させられそうになって、家を出たからです」
「それ、俺だろ」
そーですね……。
カフェ店員となったお嬢様、あまりと常連客となった元見合い相手、海里の日常。
つまらなかった乙女ゲームに転生しちゃったので、サクッと終わらすことにしました
蒼羽咲
ファンタジー
つまらなかった乙女ゲームに転生⁈
絵に惚れ込み、一目惚れキャラのためにハードまで買ったが内容が超つまらなかった残念な乙女ゲームに転生してしまった。
絵は超好みだ。内容はご都合主義の聖女なお花畑主人公。攻略イケメンも顔は良いがちょろい対象ばかり。てこたぁ逆にめちゃくちゃ住み心地のいい場所になるのでは⁈と気づき、テンションが一気に上がる!!
聖女など面倒な事はする気はない!サクッと攻略終わらせてぐーたら生活をGETするぞ!
ご都合主義ならチョロい!と、野望を胸に動き出す!!
+++++
・重複投稿・土曜配信 (たま~に水曜…不定期更新)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる