狗神と白児

青木

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本編

第二十六話 戦果

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 視界は闇だ。
 ずきずきと、鼓動に合わせて背中が酷く痛む。重苦しい滑りぬめに纏わりつかれているようだ。
(これ、なに?)
 口の中が、血の味がする。おかしい。鶏を丸ごと飲み込んだとしたら、こんな感じなのだろうか――きっと全く場違いなのに、シロは、そんなことをぼんやりと考えた。
(すごく、苦しい。それに、からだがあつい。だれかが怒ってる。だれかのために怒ってる。私の髪、たべた。こんな姿、いや。私、こわい。こわい? 私が? わたし……わたしは……貴方は……)
 ――自分達の心が混濁し、共鳴している。
 斑の怒りはシロ自身の怒りだ。そして、斑がシロを想う怒りでもある。
(もし、私が力を使いこなせるなら、こんな風に大福さんを助けたかったな)
 シロは、何も映らない世界で、生々しい果し合いを思い描く。
 研がれた牙で食らいつき、鋭い爪で皮膚を抉り、紺青に盛る鬼火で焦がす。四つ足で大地を蹴立て、巨躯を震わせながら大立ち回りを演じる。高ぶる呪力を爆発させる強烈な解放感――それらを、シロは、自分のことのように感じ取っていた。
 頭上のどこかで、大きな鋏が振り飌される気がした。
(こいつを、やっつけたい)
 命を弄ぶ鋏なんか、開いて襲ってくる前に、思い切り咥え込んで押し退けてやればいい。例え口の中が切れようとも。
 立ち向かえば立ち向かう程、毛皮が一筋刈られ、シロの肌も削られていく。
 だが、それでも構わない。
(いいですよ。私、耐えますから)
 その想いは、確実に斑へと届いていた。



  ◆◆◆



 今、森の中では、妖怪同士が本気の取っ組み合いをしている。ドンッ、ドンッと地響きが伝わり、バキッ、バキッと枝葉は折れ、恐怖する鳥は激しく羽ばたいて逃げ出す。
 築いた〈守護結界〉の中、正史は懐紙に息を吹き込んで式神を繰り出した。
「とりあえず父さんに伝令を送る。疾風丸、往け!」
 懐紙だったものが体躯の立派な鷲と化し、すっかり暗くなった空の彼方を飛んでいった。
 静乃は、仰向けに転がしたシロへと、誤魔化しにしかならない癒しの呪詛を唱えていた。血を流す傷はどうにか塞げても、人の身で深い所まで受けた、妖の邪気の傷を癒すには、もう清めの水や呪詛だけでは足りない。
 やがて、詠唱の為に呪力を費やすだけ無駄となり、二人が額の脂汗を拭い切れなくなった頃、からからに干乾びた唇を開いたのは、静乃だった。
「あの狗神に理性はあるの?」
 二つ世の歴史。〈呪術師〉という身分と職務。妖の生態。座学では多くを学んだが、特に狗神にまつわる教えは、水上家にとって重要だった。何せ、かつて犬憑きの左手に勾玉の刺青を施して封じたのは、水上家の先祖だった為、幾年経とうとも切れぬ縁があるのだから。
 初対面の斑に対して抱いていた静乃の警戒心は、〈呪術師〉として正しかった。
 静乃の問いに、正史は素直に答えた。
「分からない」
 シロの頬に、腕に、足に、新たな傷が刻まれていく。
「でも……あると信じるしかない」
 重傷者を放って戦況を確かめられるわけがない。だが、シロの様子を見るに、頭や胸といった、致命的な部分に傷は生まれない。つまりそれは、斑が血盟の影響を意識して攻撃を避けていると察せられる。
 狗神が、どちらの生き死にを重んじているのか。その答えを知る者は、その想いの真意を知る者は、血盟を結ぶ二人だけなのだ。



   ◆◆◆



 やがて、長い長い取っ組み合いの末、上を陣取った妖怪は、傷だらけの黒い犬だった。
 枝葉が散らばる地面へと捻じ伏せ、組み敷いた敵は既に無抵抗だ。しかし、殺意の目で射抜くのを止めない。
「痛い痛い、助けてくれえ。……なんてな。どうだ、気紛れに見逃してくれんか?」
「一度目の情けもかけてはやらぬと、言ったはずだ」興奮と疲労の熱を孕む呼吸は、酷く荒い。
「少しは冗談に付き合え。つまらん狗っころだ」
 髪切りは、興醒めの台詞に冷笑した後、おや、と首を傾げた。斬った覚えが無い箇所、斑の背後から邪気が溢れて漂っていることに気付いたのだ。
「狗神よ、何故背中に傷を負っている?」
「これから死ぬお前に話す義理など無い」
 斑の口辺からは、涎に塗れた鬼火が漏れ、乾いた髪や萎れた触覚を濡らし、焦がしていく。その邪気を含む自身の焦げ臭さに、顔面が全て包まれた頃、おかしいことを考えついたように、髪切りは口角を上げた。
「まさか……あの〈神宿り〉と血盟を結んだのか?」
 唸りを抑えられない、それが斑の答えと見て「酔狂な奴だ!」と目を引ん剥く。
「〈神宿り〉を食らうどころか魂まで飼い殺しとは、お見逸れした。お前の成し遂げる所業を見届けたかったぞ。しかし、まあ、そろそろ〈死者ノ國〉に逝く時か。次は俺も〈神宿り〉として生まれ変わってみたいものだ。そうすれば髪も口噛み酒も好き放題楽しめる。ははは……」
 死に際の嘲笑いを遮ったのは、衝動的な刃の牙。首を斬られ、髪切りは最期を遂げた。
 斑は、その死体に、反射的に食らいつこうとした――そんな自分を恐れた。心の奥底で、自分ではない誰かの限界そうな痛みを感じた為、既の所で我に返ることが出来た。
(私は……僕は……ぼくは……やっぱり、むかしと、おなじ……)
 とぼとぼと、踵を返した。



  ◆◆◆



 熱にうなされる間に見る、曖昧模糊あいまいもこな夢から覚めたような心地のまま、シロの瞼は重く、緩やかに開いた。
 正史の剣幕は凄まじく、必死な呼びかけをぶつけた。
「シロちゃん! 意識はある!?」
 とても心許無い、こくりと頷く仕草があった。
 シロの生命を手放させまいと、静乃が気休めに過ぎない癒しの呪詛を再開し、正史は呼びかけを強くする。
「今、君は邪気塗れだ。人が妖から邪気を食らうと深手になる。もう禊では足りないし、僕らの治癒の呪いまじなだけじゃ現状維持が限界なんだ。だけど〈呪術師〉の応援を呼んだから手立てはある。そのまま気力を振り絞って、意識を保って!」
 こくりと、また弱々しい頷き。それでも生者の証だ。
「シロ! シロー!」
 悲鳴にも似た大福の声も近くなる。〈本性〉の姿で駆け寄ってきた。
 ――不意に、がさがさと茂みが大きく鳴った。
 一番に音の方へと顔を傾けたのはシロだった。
「まだら、さん?」
 その名に、全員の視線が集まる。
 邪気を漂わせる、大きな黒い犬の影が茂みから覗いていた。
 突き刺さる呪術師兄妹からの視線に込められているものは、畏怖と警戒。遠巻きからは、慕い続けてくれた従者の、隠せない恐怖に満ちた視線。
 その中で唯一、シロの瞳だけが、はっきりしていない。そのぼやける瞳で、斑を探している。
 黒犬は狼狽し、弁明の為に前に進もうか、敵意は無いと示す為に下がろうか、足を迷わせ、結局選んだのは、茂る森の奥深くへと逃げ出すことだった。
 その斑の後を追う暇など無く、優先順位は未だ邪気に侵されて苦しむシロが一番である。
「兄さん、次はどうすればいいの!?」
「今なら、火伏ひぶせ家か風巻かざまき家が本部にいるかもしれない。静乃も式神でそっちに伝令を――」
「ま、まって、ください」
 慌ただしい兄妹のやり取りの合間に、息も絶え絶えにシロが割って入る。
「大福さんに、言って。わたしの、へや、わきづくえの引き出し……。はなのさんから、飴、もらいました。じゃき、ぬける……たぶん……」
 途切れながらも伝わる言葉に、正史と静乃は目を丸くした。
 〈呪術師〉であれば、それには心当たりがある。〈万年桜〉の番人こと女郎蜘蛛が認めた者にだけ授ける、毒の浄化の極みとされる〈桜飴〉は、とても貴重なものだ。甘露以上に幻として扱われる〈桜飴〉の存在は知られていても、実際に拝める機会は滅多に無い。
「大福さん、シロちゃんの部屋から飴を持ってきて下さい! 〈桜飴〉のことでしょう!」
 正史から大声で言いつけられた大福は、我に返った。そして、シロを死なせるものかという一心で、急いで言う通りにした。走って家へと戻り、包みを咥えて持ってきた。
 そして、受け取った正史は飴の一つを取り出し、青白い唇を無理に開けて奥へと押し込む。
「何故、これを?」
 正史は、シロへと視線を落としたまま問いかける。
「この前、〈万年桜〉に行ったンだ。オイラはあんまし覚えてねーけど。オイラが鎌鼬に傷を負わされて、邪気祓いの為に……」
「……後日、その辺りの事情も教えてもらえれば助かります」
 正史は溜め息を吐いた。把握出来ていない騒動に関する怒りと呆れよりも、目前でシロの体から見る見るうちに邪気が消えていく、神聖な光景への感嘆が勝った。正史も静乃も、〈桜飴〉の効力を見るのは初めてで、普段は似ていない顔立ちなのに、緊迫感から解放された後の驚きの色は、ほとんど同じだった。
 シロは、自分の内側を蝕む不気味な蟠りわだかまが、ぼとりぼとりと剥がれ落ちていくのを感じた。毒気が抜ける――正しく、そのような表現が相応しい、大きな脱力感に苛まれた。
「……私の邪気が消えたってことは、きっと斑さんも、大丈夫、だよね……?」
 そこでシロは気を失った。
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