僕の名前は、猫将軍眠留

初山七月

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二つの宝物

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 それから僕は丸二日意識を失い、目覚めたら五月一日の朝になっていた。寮生や遠距離通学者の多い湖校は、それらの生徒達への配慮から四月三十日を特別休校日にしているので、学校は休まずにすんだ。とはいえ、貴重なゴールデンウイークの二日間を意識不明で浪費してしまったことに変わりはない。僕は少なからず落ち込んだ。
 ただ、意識を失っている最中の二つの記憶は、僕の生涯の宝物になった。今のところ、誰にも明かしていないけどね。
 
 一つ目の記憶は、夢の記憶。
 小さいころ運動音痴だった僕は翔人の訓練がまったくできず、いつも泣いてばかりいた。猫将軍家では多くの翔人が隔世遺伝的に生まれてくるので直系の父も、そして嫁いできた母も翔人ではなかったが、運動神経万能だった両親は基礎訓練程度なら難なく手本を示すことができた。そんな両親の血を強く受け継いだ妹はまるで遊ぶように訓練をこなしていたのに、僕はいつもその横で無様ぶざまとしか言いようのない姿をさらしていた。それが悔しくて、僕は訓練をボイコットするようになっていった。それは大人達を困惑させたが、母だけはそこに含まれなかった。逃げる僕を母は鬼の形相でかつぎ上げ訓練場所へ連れて行き、そして指導を施しながら、ずっと涙を流していた。流れ出る涙の量は僕の汗より多く、道場の床は母の涙でいっぱいだった。それは母が亡くなる日まで続いた。そう、僕はただの一度も、訓練で母を喜ばせたことが無かったのである。
 そのころの夢を、僕は意識を失っている間に見た。それは空中に浮かび道場を眺めているという不思議な夢だったが、そんなのお構いなしに僕は苦悶した。どうしてこんなトラウマを見せる、なぜ今更僕を苦しめると、僕は両手で顔を覆い泣いた。するとどこからか、優しい声が聞こえてきた。「お母さんの顔を見てごらん」 僕はその声に従った。するとあることに気づき驚いた。僕は訓練中、母の顔をまっすぐ見たことが、一度もなかったのである。
 空中に浮かびながら見たその顔には、記憶と同じ大粒の涙が止めどなく流れていた。けどその表情は、僕の記憶とまるで違っていた。ただの夢なのか、もうすぐ十三歳という年齢が教えてくれたのか定かでないが、その表情に僕は知った。母は、僕の不甲斐なさを嘆いていたのではなかった。母は、どうすれば良いかまったく分からない自分の不甲斐なさに、泣いていたのだ。
 運動神経万能だった母には、運動音痴の苦悩がわからなかった。運動が苦手な人へ、運動をどう教えたら良いかもわからなかった。だが、そんな自分に疑問を感じることも無かった。運動音痴の僕を、子供に持つまでは。
 母は、訓練を拒絶する僕を目の当たりにして、僕がどれほど苦悩しているかを始めて知った。そして、そんな僕にアドバイスを一つも思いつけない理由を、初めて理解した。
 ――運動が苦手な人ともっと親身に関わっていれば、この子にも上手なアドバイスができただろう。皆に真心を込めて接していたら、この子にも真心で接することができただろう。でも自分にそれはできない。なぜなら自分は、これまでたった一度も、それをしてこなかったからだ――
 母はそうやって自分を責めた。だが幾ら責めても、苦悩する僕に何もすることができなかった。母の流していた涙は、その涙だったのだ。
 けどそれは、まったく予想していなかった喜びを母にもたらした。母はある日、父に言っていた。
「私は今でも、運動神経のなさに苦しむあの子に何もしてあげられない。でも、できないという苦しみに同じ涙を流すことだけは、できるようになった。あの子が私を、そう変えてくれたのね」 
 そう言って、母は嬉しそうに笑っていた。亡くなる、一ヶ月前に。
 僕が知らなかっただけで、最後の一ヶ月間の訓練を、母は笑顔で過ごしていた。涙は流していたが、それは喜びの涙だった。僕が違うと思い込んでいただけで、母は何度も笑顔で、僕を抱きしめてくれていたのだ。
 これが僕の夢の記憶。夢ではあってもこれは僕の、一生の宝物だ。

 もう一つの記憶は夢ではない。心の中に精霊猫の水晶がやって来て、見せてくれたものだ。「今回のことを皆がどう思っているか知る、良い機会じゃ。しっかり見ておきなさい」 水晶はそう告げ、部屋の様子を映し出してくれた。
「どういう状態だろうか、眠留と末吉は」 
 祖父が眉間に皺を寄せ尋ねた。ほかの皆も固唾を飲んで水晶を見つめている。部屋は緊張一色に塗り潰されていた。
「心配ない、疲れて寝ているだけじゃ。大人なら五日ほど寝ているだろうが、二人とも元気盛りの子供ゆえ、二日もすれば目を覚ますじゃろう」
 水晶がそう答えたとたん、部屋に局地性の地震が発生した。祖父と大吉は威厳を保つのも忘れて飛び上がり、床を揺らしに揺らして踊りまくっていた。祖母と中吉も、抱き合って飛び跳ねながらワンワン泣いていた。顔を覆い身を投げ出して泣く妹の美鈴を、小吉が涙を流しながら慰めていた。僕の心に水晶が語りかけた。「皆のこの喜びは、心配の裏返しじゃ。この様子を見れば、皆がどれほどお前さん達を心配したか窺えるじゃろう。お前さん達を儂は誇りに思うが、ゆめゆめ命を粗末にするでないぞ」 僕は水晶に頷いた。それ以上、僕には何もできなかった。
「ただ一つ、副作用じみたことが起こるやもしれん」 
 うおっほん、と咳払いして水晶が言った。そのとたん皆の大騒ぎはピタリと止み、僕の部屋は再度一変して、音のない宇宙空間になった。呼吸の音すらはばかるほど全員が息を詰め、正座し、水晶に注目している。もちろん、心の中の僕も含めてだ。
「命の瀬戸際で四百圧以上の戦闘を経験した初級翔人は希に、中級翔人の技術である、生命力の追加流入を自ずと身につける事がある。戦闘を理知的に組み立て勝利した場合はその可能性が高まるゆえ、眠留と末吉は五分五分といった処じゃろう。大切な人を守るための戦いでも、あったことじゃしな」
 生命力の追加流入という言葉を僕は初めて聞いたはずなのに、それは不思議な親近感を芽生えさせた。ああ、これがそうだったのか。僕はふと、そう思った。
「その場合、技術や覚悟はまだ拙いのに、生命力追加だけは一人前という状態になる。これが慢心を呼び、成長の機会を削ぐことがままある。注意が必要じゃな」
「そんなこと私がさせません!」
 中吉が身を乗り出し大声で言い放った。そんな中吉へ、小吉が目元をほころばせる。
「姉さんはほんと、眠留のためなら身を挺するのね。眠留が白銀家のお嬢さんと仲良くなったときも、わざとあんな憎まれ口を叩くんだから。本当は、誰よりも喜んでいたのに」
「だっておまえ、浮つくボンが戦闘でとんでもない失敗をしでかすんじゃないかと、心配で心配で仕方なかったんだ。お嬢さんと仲良くなってあんなに幸せそうなボンを見ていたら、あたしゃ鬼にも蛇にも・・・」
 そうよね姉さんそうよねと、小吉が泣き崩れる中吉を慰めていた。中吉は誰よりも篤い情と熱い義侠心を持つ烈女だと祖母が常々口にしていたのに、お子様な僕はそれを全然わかっていなかったのである。中吉のためにも慢心だけは二度とすまいと、僕は誓った。
「ふむ、この件については問題なさそうじゃな。ならば残るは一つ。眠留と末吉を、誰が叱るかじゃ。心で褒めつつ鬼神の如く叱る。この役目、誰かがせねばなるまいのう」
 場がシンと静まった。僕は申し訳ない気持ちで押しつぶされそうになった。もう充分わかったから皆にこれ以上負担をかけたくありませんと水晶に訴えたが、返事はもらえなかった。すると祖母が膝の前に両手を揃え、祖父に深々と腰を折った。
「申し訳ございません、私にその役目は果たせないと思います。好きなを命懸けて守りきった男の子を、女の私がどうして叱れましょう。どうか、お許しください」
 祖父は何も答えず腕を組んだ。そんな祖父の気持ちを代弁するかのように、大吉が祖母へ向き直った。
「奥方殿、それは男も同じだ。何もかもとっぱらった素っ裸の男になって、眠留と末吉を褒めちぎりたい。それができたらどんなにいいかと、俺は心底思うよ」
 そうだな、と祖父が頬を緩めた。大吉も顔を大きくほころばせた。大吉はたまに人間に化けて、祖父と酒を飲み交わす仲だ。僕と末吉も、早くその輪に加わりたいなあ。
「わかった。その役目、儂と大吉が引き受けよう。宗家殿、よろしくお頼み申す」
「心得た。将軍家殿、お互い難儀な事よのう」
 厳めしくもどこか嬉しげな二人の様子を最後に、映像は消えていった。
 これが僕の、二つ目の宝物。
 この二つは決して忘れ得ぬ、僕の生涯の宝物なのだった。 

 そうそう、叱り役について付け加えておくことがある。大役を引き受けてくれた二人に悪かったのか良かったのか判断つかないが、僕を叱る役目は、まるで予想していなかった人がすることとなった。それは僕の妹、美鈴だった。
 僕と末吉がそろって目を覚ました五月一日の朝。ドタドタと部屋へ駆けつけた人と猫の最後に現れた美鈴は、上半身を起こす僕を見て一瞬立ち止まった。だがその直後、一直線に走ってきて、手加減抜きの張り手で僕の頬をぶっ叩いた。そして僕の胸ぐらを掴み「お兄ちゃんのバカ!」と叫ぶと、ベッドに突っ伏し、あとはひたすら泣きじゃくったのである。僕は忘れていた。美鈴は僕よりしっかり者で僕より背が高いけど、この年子の妹は、甘えたい盛りの小学二年生のとき母親を亡くしていたのだ。意識を失いベッドに横たわる僕の姿は、どれほど妹にそれを思い出させ、そして苦しめただろう。泣きじゃくる妹の肩に手を置き、美鈴ごめん、美鈴ごめんと、馬鹿みたいに繰り返すことしか僕にはできなかった。祖父が「よくわかったろう、無謀なことはするなよ」と僕の頭を優しく撫でた。末吉も申し訳なさそうに項垂れ、大吉に頭を撫でられていた。
 これが僕と末吉が二人から受けた、お叱りの全てだった。
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